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驚嘆はいまだ尽きず

「ごっ……ごめんッ! 違うんだ、これはその……」


 手で顔を覆いながらも、つい指の隙間から見て――見えてしまう、彼女の形のいい二つのふくらみ。


 意外なことに、ニーナは化粧を落としていても美しかった。初対面の時は赤く充血して古くなった魚のようだった目元も、今はすっきりと澄み渡っている。

 何となくむくんで見えた顔も今は湯上りの上気した肌の色。鼻の周りの濃いそばかすさえ、むしろ親しみやすく魅力的に見えた。


 つまり、あの時のだらしなく荒んだありさまは、深酒や寝不足の結果の一時的なもので、たぶん、もともとの造作は――


湯桶が飛んできて頭上をかすめた。


「いいから、早く出ていって!」


「はっ、はい!!」


 我に返って慌てて回れ右、転げるように廊下に戻る。ドア越しにニーナの声が響いた。


 ――テオドール……どこまで見たの?


(全部見えちゃった……)


 濡れて輝く赤毛から、卵とバターをたっぷり入れたパン生地のような黄金色の肌、髪よりも少し濃い色の、柔らかそうな――だがそんなことを真っ正直に答えられるわけがない!


「ちょ、ちょっとだけ……! おっぱいは、み、見え……!」


 風呂場へのドアに背中をつけて呼吸を整えていると、顔をしかめたメイスンさんがやってた。


「あーあーもう、せっかちな子だね、まったく……風呂場はって聞かれてそのまま答えたあたしも悪いんだけどねえ。先に入った人が着替えて出てくるまで、そこの真ん中の部屋で待つようになってるんだよ。そこで肌着も洗濯かごに入れておいて、タオルとバスローブをもって、中にあるドアから廊下に出ずに風呂場へいくようになってるのさ……説明が終わるまで待っててほしかったね?」


「す、すみません」


 穏やかな口調で畳みかけられると恐縮する以外どうしようもない。確かにこの廊下にはドアが三つある。そういう間取りだったのか。


「あの子はね、あんな稼業をしてるけどべつにふしだらってわけじゃあない。もともと由緒ある魔術師の家柄だし、この街に来る前はちゃんとしたところのお嬢さんだったんだよ。侮っていい加減な付き合いをしたら、あたしが承知しないからね?」


「は、はい」


 ……それはいい加減でない付き合いなら許す、ということなのだろうか。そもそも高級娼婦との『いい加減でない付き合い』とは、どうすればいいのだ。

 ともあれ僕は順番待ち用の部屋に押し込められ、ドア越しにニーナが階段の方へ向かう音を聞いたあと、ようやく浴室へ入ることができた。


 ごく初級の魔法で『増光』されたろうそくのまばゆい光に照らされながら体を洗い、タイル張りの大きな湯船に身をしずめた――この三百年ですっかり普及した『王宮式』の風呂だ――小ぢんまりとしているけれど。ふと迷宮で歩き回った『ニュート』たちの街が連想された。


 お湯の温かさが全身に染みわたり、旅の疲れが抜けていく。エスティナに来るまでの道はずいぶん険しいところもあった。おまけに着くなり迷宮へ向かい、魔獣相手の大立ち回り。学院での教練で体を鍛えていなかったら、とっくにぶっ倒れていただろう。こんなことになってしまったが、やはりハンブロール子爵は僕の恩人だ。


 次第に意識がぼんやりしてくる。ああ、そういばさっきまでこの湯には――


 僕の体に白い腕が絡みつき、いとも優しく僕を湯の底へいざなった。白くやわらかな体が僕の上に覆いかぶさる。ああ、アナスタシアじゃないか。なんだ、結局君もこんなところまで来てくれたのか。いや待って結婚するまではお互いに清い体で。


 無言のままアナスタシアが僕の口をふさいだ。そして鼻も――鼻も? 


 温かなアナスタシアが鼻と口から流れれこんdぐるるるrrrrr


「ぶはっばばっごぼげほげほっ!?」


 危ない、寝てた! これはアナスタシアじゃない、お湯だ! それもニーナだしの良く出た……あ、いやポーリンも入ってたから合わせ仕立ていや違う、そうじゃない。


 結局、入った時よりむしろ疲れを覚えながら、僕は風呂場を後にした。この分だと今夜はいろいろ寝苦しいことになりそうで、思いやられる。



        * * * * * * *



 着替えを済ませた僕たちは、エスティナの中でもいくらかこぎれいな区画に向かった。枯れかけたバラが絡みついたアーチをくぐり、鉄柵に囲まれた敷地に入る。


 そこはニーナの馴染みの古美術商、キッシェンベルクが構えている別邸で、普段は人がおらず、大きな商談に伴う接待や密会の時だけ本宅の使用人を伴ってきて使うという、なんとも贅沢な場所らしかった。


「運がよかったわ。夕方まで取引先との会食があって、料理人もメイドもみんなまだ残ってたんですって」


「……そりゃあ。やれやれ、使用人は大変だろうなあ」


「大丈夫。キッシェンベルクさんとは母の代から付き合いがあるし、今日は例の金細工のインク壜一そろいを売る、商談も兼ねてるから」


 メイスンさんのところの従業員を使いに出したか、或いは伝心の指輪でも使ったか、そんなところだろうか。なんにしてもニーナの持つ、つてというか情報網は大したもののようだ。


 身ぐるみ一切を洗濯に出してしまって、僕は仕方なくジェイコブのお古を借りて着ていた。彼の方がわずかに体が大きいので、肩回りや袖丈はごくゆったりしていた。

 珍しいのは脚衣で、それは見慣れた長靴下(ショス)と違って、厚手の生地で作られかかとのあたりまで届く、ゆったりしたものだった。なんでも異国の遊牧民族から取り入れたデザインらしい。


「これはいいねえ、気に入ったよ。動きやすくて蒸れない」


 それに、何かのはずみで不都合な状態に陥っていてもはた目にはそうとわかりにくい。その、ええと、あからさまな言いかたは避けたいが要するにそういう話だ。この先きっとそういう窮地にたくさん陥る気がするのだ。だって初日からさっきみたいな始末なんだから。


「テオもお気に召したか。うん、これを作った服屋にあとで頼みに行こう」


 そんな話をしながら、キッシェンベルク別邸の小さな客間の一つに陣取ってくつろいだ。ポーリンは庶民の出らしく、ニーナから借りた服がなじんでいない。しきりにあたりを見回しては呆然とため息をついていた。


 そこへ、上品だが抜け目のなさそうな雰囲気を漂わせた、中肉中背の初老の男がやってきた。この人が古美術商のキッシェンベルク氏だろう。彼は頭に載せた鉢型のフェルト帽をとって胸の前に抱え、うやうやしく僕たちに挨拶をした。


「ニーナお嬢様、ご機嫌よろしゅう。そして皆様にははじめてお目にかかります。古美術商のキッシェンベルクと申します」


 彼は一歩進み出ると、ニーナの椅子の前にひざまずき、まるで貴婦人にするようにその手を取って口づけた。そしてテーブルの前に立つと、使用人に捧げ持たせたケースから、精緻な細工の施された一組の拡大鏡を取り出した。


「まずは早速、御持ち込みの品を拝見いたしましょう」


 ニーナはあのインク壜のセットを、入っていた金銅製の文箱ごとここに持参していた。キッシェンベルク氏は拡大鏡でそれらを舐めるように見回すと、満足げな溜息をついた。


「いや、たいしたものだ……この箱も簡素ながらしっかりした造り。いつもながらお見事な目利きですな、素晴らしい品です」


「あら。箱もいる? それは安そうだから、自分の手回り品入れようと思ってたんだけど」


「ははは。ニーナお嬢様にはかないませんなあ。いや、その箱も内貼りを取り換えて磨けば、一そろいの品として売れますよ。とりあえずこちらは手付です、買い手が付きましたら残りをお渡ししましょう。この売買契約書にサインをお願いします」


 たった今取引したものよりはぐっと安物のインクとペンが用意され、ニーナは書類の隅から隅まで確認したうえで三通の写しにサインをした。巻いた羊皮紙を帯で留め、赤い蝋燭を垂らして印章指輪を押し付ける。


「お引き受け価格はあなた様の値付けの通り、百二十ソレイユとしてありますが……高く売れた場合はそれに応じてそちらの取り分も色を付けましょう」


「それは助かるわね」


「これで契約は成立です。ではよい晩餐を」


 キッシェンベルク氏は嬉しそうに礼を述べて部屋を出た。テーブルには金貨の入った小さな革袋が残され、それには五十ソレイユが収められていた。


 やがて食前酒が運ばれてくる。僕とジェイコブは顔を見合わせて苦笑いした。何を言いたいかはよくわかる。

 こんな本格的な『晩餐(ディナー)』となると、僕はアナスタシアのお伴で別荘へ行った時くらいしか経験がないし、ジェイコブの方はもっと機会が乏しかったはずなのだ。まったく、僕らは貴族と言っても名ばかりの田舎紳士二人組だった。


「どうしたの、二人とも……まあいいわ、乾杯と行きましょう。ハリントンさんの生還と、テオドールとの再会を祝し……新しいパーティーの結成を祝して」


「うん。あと、テオの初めての冒険がいい収入になったことを祝して」


 ――乾杯!!


 いい酒だった。何かの花で香りをつけた軽い味わいの果実酒だ。


 食事は実のところややコースを省略してあって、前菜とスープの後には、パンの盛り合わせと、いきなり丸焼きにした子羊が大皿で運ばれてきた。食べる分だけを切り分け、それぞれの皿に盛りつける役目は僕が務めた。

 下げられる肉の皿を見てポーリンが名残惜しそうな顔をしたが、取り分けた量だけでも大変なものだ。


「たくさん食べてね。手の込んだものを少し食べるより、今夜はこのくらいどっしりしたものを、騒ぎながら食べるのがいいかと思って」


「うん、賛成だな」


 ジェイコブが大きなゴブレットに赤ワインをなみなみと満たしてそういった。


「これもいい酒だな。あの商人はきちんとした商売をしているようだ」


 それにしても、出会ってからというものニーナには驚かされてばかりだ。こんな別邸を構えた商人と付き合いがあって、鑑定の目利きに信用があって、その上に魔法の心得もある。


 そういえば、聖堂前の露店でも、彼女のことを『シェルテムショックのお嬢ちゃん』と一目置いた呼び方をしていた。あれも多分、彼女の母親が残した遺産としての声望なのだろう。


 そして――魔法は確かにこの世界に存在していて、僕たちも日々多大な影響を受けている。だが昔に比べればそれを操る人間はずっと少なく、知識としてもなじみの薄いものになっている。この街にもどうやら魔術師のギルドといったようなものはないらしい。


 つまり、ニーナのような人材は極めて貴重なのだ。


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