今夜のねぐらと熱い風呂
「そういえばテオドール。こっちでの住みかはもう決まっているのか?」
すずらん亭の看板を見上げながら、ジェイコブがそう尋ねた。
「まだだよ。実はその……着くなりニーナさんの部屋をノックしちゃってさ。それでいろいろ事情を聞いて直接迷宮へ来ることになったんだ」
「……考えてみれば、テオドールはまだこの街に着いたあと、一睡もしてないはずよね。若いってすごいわ」
しみじみと感心したようにニーナが言う。こちらとしてはいきなり化粧で美人に大変身した娼婦に圧倒され、ドギマギするままに迷宮へ飛び込んでしまったわけだが。正直、疲れるどころの騒ぎではなかった。
フォッギィの店であのニンニクたっぷりのステーキを食べていなかったら、今頃ぶっ倒れていたかもしれない。
そういういきさつだったか、とジェイコブが大笑いする。エリンハイドの治療を受け、ニーナ特製のハーブクッキーを食べたとはいえ、彼はこちらがあっけにとられるくらい元気を取り戻していた。僕とは年季が違う、ということなのだろうか。
――へー、ここがハリントンさんの下宿なんだ、へー。
ポーリンはしきりにうなずきながら、すずらん亭の周りの路地や空き地を覗き込んでいた。
「決めた! あたしもここに引っ越すわ。大家さんに紹介してくれない?」
ジェイコブの二の腕に絡みつくようにして、ポーリンがそんなことを言い始める。ジェイコブ自身はともかく、女盗賊の方は彼の生活に踏み込む気満々らしい。
それを見ているうちに、僕もはたと気づいた。
そうだ。ここに住めれば。
うん。ここならジェイコブとすぐ連絡が取れるし、何をするにも一緒に出掛けられる。おまけに――
「いい考えだね。僕もここに住みたい――空き部屋があればだけど。ぜひ、僕のことも大家さんに紹介してくれないかな」
「ええ!?」
僕とジェイコブとポーリンを見比べながら固まったニーナの顔は、だがどこか楽しそうにも見えた。
* * * * * * *
すずらん亭の主は、真っ白になった頭を品よく結い上げた、背が高く迫力のある老婦人だった。
一階にある彼女の居室をノックすると、この大家のばあさんは頭にカーチフを載せた『家事百般、お取込中』といった感じの姿で出てきて、ニーナをピシピシとしかりつけた。
「なんて臭いだろうね、全くこの子は!! 迷宮に行くなら行くで、もっと荒事向きの服で行けばよかっただろうに……わかってるんだよ、その臭いにはハリントンさんの服でおなじみなんだからね。お風呂を沸かしてあげるからさっさとお入り、服も洗っといてあげるから!」
「あ、あの、メイスンさん……」
まくしたてられてニーナがのけぞる。これはなかなかの見ものだとも思えたが、ここで流されてたまるものか。
「あの、初めまして。僕はジェイコブの同郷で、テオドール・シュヴァリエって言います。部屋が空いてたら、僕もここに宿をとりたいんですが……」
「へえ」
メイスンさんは鼻の上にツルなし眼鏡をひっかけると、しげしげと僕を見て――そして、顔をしかめた。
「あんたも迷宮へいってきたのかい? ……ああ、もう、臭いがそこら中に移るんじゃないかね……あんたらも全員まとめて面倒見るから、お風呂に入んなさい。バスローブを出してあげるから上がったらそれに着替えな、財布や貴重品は自分でしっかり見といておくれ」
一同をにらみまわしながら再びまくしたてると、メイスンさんは最後に僕の方をもう一度見た。
「部屋ならまあ、空いてるよ。二階の一番奥の角部屋だ、いいね? 宿代は週に一ソレイユ、食事はできるだけ自分で賄ってもらうけど、どうしても必要な時はお言い。別料金で作ってあげるからね、だれでも忙しい時ってのはあるもんさ」
「メイスンさんは本業が洗濯屋なんだ。ニーナさんのお母さんに教わって、ちょっとした魔法を心得てるそうでな」
「ああ……それで、あのひどい臭いの服もわざわざ洗ってくれるんだね」
風呂の順番を待つ間、僕はジェイコブと一緒に二階の廊下に腰を下ろして話していた。臭いのひどくしみ込んだ一番外側の胴着やらなんやらは、すでにメイスンさんに預けてあった。
ポーリンはすでに風呂を済ませ、出してもらったバスローブをつけて自分の部屋に引っ込んでいた――そう、すずらん亭は今日、新たに二人の入居者を迎えたのだった。
「洗濯代は取られるけどな、彼女に任せておけば、手入れの難しい服でも心配ない。そういやお前……襟のそれ、レース飾り」
ジェイコブが僕のシャツの襟を指さした。そこには前にニーナにも指摘された、アナスタシア手製のレース飾り――婚約のしるしが縫い付けられている。
「ああ、これ……いろいろあってさ。これを呉れたご令嬢との婚約は、もうなかったことになってるんだ。でも、ちぎって捨てるのも何となくはばかられてね……」
「そうか。そりゃ惜しいことをしたなあ……まあ、丁寧に外して大事にとっとけよ。俺なんか、そんな声がかかったこともないぞ」
彼はそう言って、ちょっとうらやましそうな顔をすると僕の肩をどやしつけた。そのしぐさが昔のままで、ちょっと涙が出そうになった。
「……そういえばジェイコブ、自分のこと『俺』っていうようになったんだね」
「うん……もともとそんなに上品ぶるような柄でもなかったし、この街じゃ荒くれを装うのも自衛のうちさ……ここまでだって、この箱を抱えてひやひやし通しだったんだ」
「苦労したみたいだねえ……」
タランツァを出るときにはジェイコブへの羨望だけが先に立っていたのだが、いざ自分でも体験し、こうやって彼の話を聞いてみると迷宮で稼ぐ暮らしもそう楽ではなさそうだ。だが、もう後へは引けないのだった。
そうしていると、階下への階段へ通じるドアから声がかかった。路地から直接上がれる階段があるので、普段は家主の安全のために向こう側からかんぬきをかけてあるドアだという。だが今日は僕たちを風呂に入れるために、臨時的に開け放ってあるのだ。
――そら、今度は男衆の番だよ、どっちか下りてきな!
「テオ、お前先に入れ。俺はその……何せ三日間宝物庫で不自由してるからな。体がだいぶ汚れてる。 ……ああ、良いからほら、とっとと行ってこい! 荷物と武具は見といてやるから」
わかった、と答えて僕は階段を降りた。
降りたところからは折り返すように廊下が伸びていて、一番手前のドアは、どうやらメイスンさんの仕事部屋、つまり洗濯場らしい。作業をしながらぶつぶつと愚痴を言う声が聞こえた。
――やれやれ、見た目はどうってことないのに、ほんとにひどい臭いだこと。
それに繰り返し水をそそぐような音と、洗濯板で汚れをもみだすゴシゴシという反復音。
「テオドールです……えっと、風呂場はどっちです?」
――二つ奥のドアだよ――
「ありがとうございます!」
言われたドアのところへ行き、飛びつくようにノブに手を掛けた。何せ長旅の後だ。あちこち痒かったり蒸れていたり、一度入浴を意識してしまうともう辛抱たまらない。
廊下まで伝わってくる熱気と湿り気から察するに、タランツァでもおなじみだった勇者シェイワースゆかりの『王宮式』か、北方名物の蒸し風呂だろう。
――あ、ちょいとお待ちよ!!
メイスンさんの慌てたような声が聞こえたが、その時にはすでに遅く、僕は風呂場のドアを勢いよく外側へ開いていた。
「! いやぁああああああっ!?」
白いバスローブの袖に腕を通しかけた中途半端な姿勢で、胸をあらわにしたニーナがこちらを向いて立っていた。
化粧はすっかり落としていて、膝丈のバスローブ以外は何も身に着けていない――すっぴんで、すっぽんぽんだった。




