救出
雷鳴巨猫は明らかに怒り狂っていた。毛皮を裂かれた傷の痛みにあえぎ、鋭い犬歯をむき出しにして咆哮を上げている。口元からはだらだらとよだれが滴り、体を動かすたびに銀色をした毛先が黒い毛皮の上に幻のようなさざ波を描きだした。
盾を持っていないポーリンを攻撃にさらすわけにはいかない――僕は猫の左側面に回り込むと、こちらを狙った前足の一振りを盾で逸らし、そのまま脇腹へと滑り込んだ。
反対側の足はポーリンを狙って、じゃれつくように振り回されている。彼女はどうにかそれを避け、猫の集中を乱してくれていた。僕は前足から繰り出される重い連撃に耐えながら、曽祖父の剣を深々と突き刺し、すぐに引き抜いて跳びすさった。
――ンギャルオオオオゥ!!!
肝をつぶすような恐ろしいうなり声が上がる。 猫は体をひねって床を転がり、その勢いでポーリンが跳ね飛ばされた。すぐ立ち上がったところを見ると、幸いけがはなさそうだ。
「くっそう!! 剣が折れちまったよ!!」
彼女が悲痛な声を上げた。右手の短剣は鍔元から先の刀身が丸ごときれいさっぱり、どこかへ消し飛んでいる。
「下がって! 今のは致命傷になったはずだ!!」
刺したのは猫の脇の下。すぐに動きを止められる傷ではないが、あの深さなら重要器官に届いたはず。再び立ち上がった雷鳴巨猫から距離をとる――ガラン、と音がして足元になにかが転がった。
目を疑った。僕の盾はその三分の一ほどが切断されていたのだ。 その瞬間、鋭い痛みとともに左上腕から血が噴き出した。巨大猫の爪は最後の一撃で盾を断ち割り、僕の腕まで達していたらしかった。
「ぐっ……」
盾がなかったら腕を失うところだ。だが幸い、まだ動かせる。
僕は痛みに耐えて、小さくなった盾をかざし、剣を突きの形に構えた。その時、ニーナの声が響いた。
「二人とも下がって! 私もそろそろ限界だけど、これで決めるわ」
「ニーナ!?」
「下がって、早く!!」
ニーナが杖を向けた先には、『棘の杭』で生成した凶悪な鉄の逆茂木がそのまま残っていた。それを対象に、新たな詠唱が始まる。
「歪曲せよ」
結句とともに、棘をはやした鉄塊が不可視の手でへし曲げられ、その反動で跳ねた――猫にあたって巻き付くように変形し、拘束する。
魔法には詳しくないが、これほどの力を金属に及ぼし、意のままに制御するというのは、相当な力量を要するのではないか?
雷鳴巨猫は動きを封じられ、苦しげにうなりながら次第に弱っていく――床に滴り続ける血液は、僕が与えた刺し傷からのものだ。猫が断末魔のけいれんとともに最後の息を吐き、ほぼ同時に鉄棘の檻も消え失せた。
敷石の上に杖が転がり、ニーナががっくりとその場に膝をついてへたり込んだ。
* * * * * * *
幸い、僕の傷はごく浅かった。胴着の袖を切り取り、フォッギィの食堂からもらってきた酒で傷口を洗う。エリンハイドが神聖呪文で治療してくれたあとは、痛みもほとんど消えていた。
ニーナは先ほどの戦闘で魔力を使い切ってしまっていて、あとは地上に戻って休むしかないという。
「もっと条件の整った場所なら、ご先祖が編み出した方法で回復できるんだけど……ここでは無理ね」
彼女の母方の血統には、大昔に既存の魔法体系を書き換えるほどの研究を残した魔法学の大家がいたのだという話だった。その方法に従えば、屋外でのごく短い休息でも、大地や清流、聖地などの持つ力から魔力を補充できるという。
ポーリンが扉の前に陣取って、レバーを戻すためにあちこち弄りまわしている。どうも、単に押し上げれば開くというものではないらしい。傷の治療を済ませた僕は彼女を手伝った。
「ああ、助かるよ。一人じゃ操作できないんだ……あたしがこっちの留め金を押さえるから、その間にレバーを上げてくれる?」
「こうかな……」
「そんな感じ! いくよ、せえ……のっ!!」
号令をかけてタイミングを合わせ、レバーを押し上げる。ガラガラと歯車がかみ合う音が響き、固く閉じあわされていた扉が緩んだのが感じられた。取っ手に手をかけて引くと、驚くほど簡単に開く。
扉が開き切る前に、内側から無精髭の伸びた甲冑姿の男が僕の腕の中に倒れこんできた。
「助か……った……」
「ジェイク!!」
押し倒されるように座り込んで、彼の肩を抱きかかえた。間違いない、ジェイコブだ。
「テオか……君が来てくれるとはな……」
「て、手紙を読んでさ……ついた早々このニ……間に合って……よかっ……」
嗚咽がこみあげてきて、うまくしゃべれない。二年ぶりに見た友の顔は記憶にあるものより少し骨ばって青白く、無精髭のせいでひどく老け込んで見えた。
「そんなに泣くな……俺はまだ……生きてる。すまんが、水をくれ……あと、何か……」
「食べる物、ね?」
そうい言いながらニーナが横へやってきた。水の入った革製の水筒をジェイコブに手渡し、何か焼き菓子のようなものを持って、彼が水を飲み終わるのを待った。
「ニーナさん……ああ、貴女だったのか。テオを――」
言いかけたまま、ジェイコブは水をむさぼるように飲み、つづけてその焼き菓子を頬張った。複数のハーブの匂いが強く立ち込める。
「……変な味だ」
「……秘伝のハーブクッキーよ。甘いものが欲しい時にはお勧めしないけど、精がつくから」
ニーナの甲斐甲斐しい様子に胸のどこかがチクリと痛む気がした。いや、これが当然なのだ。だってジェイコブも彼女の『お客』なのだから。
食べてしばらくすると、ジェイコブは目に見えて元気を取り戻した。だがここは早急に引き返すにしくはない――ニーナも僕の意見に賛同してくれた。
「ええ。雷鳴巨猫は倒したけど、おそらくこの『宝物庫』はどこか別の次元とつながってる。そうでなければエサもないこんな地下に、あれがいたはずがないもの。ぐずぐずしてると、次が来るわ」
今襲われたら今度はニーナの魔法はなし。まったく恐ろしい話だ。ここを漁るのは並大抵の苦労ではすみそうにない。
ポーリンがカイルの死骸から鞘に収まったままの短剣をかすめとり、僕はさっきの金銅製の文箱を回収した。箱は中身がぎっしり詰まっているようでひどく重く、階段のところではエリンハイドにも手伝ってもらった。
フォッギィの食堂に顔を出してジェイコブの無事を知らせると、僕たちはそのまま鉄の箱で索道をとって返し、地上を目指した。




