『梯子』のまずは一段目
ニーナの申し出はひどく魅力的に感じられた。僕は男で、長い一人旅の後で、スカートと長靴の間に覗くニーナの膝は白く美しかった。
しかし、その時はどう返事することもためらわれた。鉄の箱はそろそろ斜坑の終端に差し掛かっているらしく、前方の窓の向こうに、いくつものランプに照らされた薄明るい広間があるのが見えてきたからだ。
「ああ、着いちゃったか……残念だったわね」
「いや、別にいい。今はジェイクのことが先だろ」
「今は」
ニーナが噴き出す様に笑った。
「ちょっ……失言だよ、忘れてくれ」
まったく。これでは『あとでぜひ』と言ってるようなものではないか。だが、失言ならニーナだって――時間があったら本当にここでひと仕事するつもりだったのだろうか?
しばらくすると、箱は終端に到着したらしく、ズシンと重い音をたてて停止した。
ニーナの生暖かい視線に困り果てながら箱を降りると、前方の明かりの中に数名の神官服の姿が浮かび上がった。
中の一人が前に進み出る。
「お待ちしておりました。私は地母神の術士、エリンハイド。あなた方にお供いたしましょう」
その瞬間、僕は驚くべきことに気が付いた。神官たちの中で一番上背のあるその人物は、人間ではないようなのだ。
地母神の神官に共通の長く伸ばした髪は、地母神の女性性を象徴する意匠そのまま。だが彼はその頭の両脇に、斜め上方へと延びる長く尖った耳をそなえていた。おまけにその皮膚は幽鬼のように青白い――
「エルフ……!?」
「ただのエルフじゃないわ。ダークエルフの中でも『青色種』と呼ばれる少数民族よ……初めて見た」
ニーナの声さえ少し上ずっているのが分かった。よほど珍しいものなのだ。
「おっしゃる通り、私は深き森の民です……と言っても、母の代からこの街におりますがね。あなた方のことは先ほど助祭様からうかがいました」
エルフの神官は軽く会釈すると、僕たちに向かって右手を差し出した。
「戦いは不得手ですが、癒しの術を使えます。必ずお役に立つでしょう」
* * * * * * *
最初の広間を抜けると、その先はアーチ形の天井が続く石造りの歩廊になっていた。あたりは光源の分からないぼんやりとした光に照らされ、壁には結露した水滴が幾筋も垂れて複雑な濃淡の模様を織り出している。
その水は通路の脇にある細い側溝へと導かれ、進行方向へと流れている。つまり、この歩廊はやや傾斜をつけて作られているのだ。
帰り道はいくらか余分に疲れるかもしれない――陰険なしつらえではないか。
歩廊の奥、突き当たりの部屋は大まかに半円形になっていて、奥の円弧状になった壁には、都合六つの穴が開いていた。側溝の水は集められてその奥へ流れ込み、ずっと深い場所でさらさらと小さな滝のような音を立てていた。
「ここからは階段の一つを選んで降りることになります。すべて別の区画につながっていて、降りた先の様子は全く違う……ただし、ハリントン様がここしばらく通っておられたのは」
エリンハイドはそう言いながら、右から二番目の階段ホールを指さした。
「こちらから降りるルートですね」
僕はその斜め下へ延びる闇の奥を覗き込んだ。ここから見る限り階段ホールはどれも同じように見える。ジェイコブの所在につながる手掛かりは今のところこのエルフだけだ。
「降りたとして……何日くらいかかるだろうか」
「どうでしょうね。ハリントンさんはいつも二日程度で帰ってきてたし……まあ、どんなに運がよくても半日、普通に考えて三日。最悪なら永遠ってとこよ。それでも行くしかないわね」
ニーナが角灯に火をともしてくれた。それを左手に掲げ、足元を確かめながら慎重に一段一段降りていく。水気があるせいか、あたりの空気は次第にずっしりとした湿り気を伴って冷えて来た。
「いやな寒さだな……それに、湿気のせいか息が詰まるような感じがする」
「降りたら食事にしましょうか。保存がきいて栄養のあるものを買ってあるわ」
そういえば食事の準備はしていない――慌てたとはいえ、あまりにうかつだ。腰のポーチをあさっても、旅の途中で買った固焼きパンと干し肉の残りが少しあるだけだった。
「すまない、お相伴に与れるかな……?」
「喜んで」
そんな話をしていると、最後尾にいたエリンハイドが口をはさんできた。
「食事ですか。それなら、いい場所へご案内しますよ。この下は探索が始まった初期のころに踏破されてましてね。ちょっとした食堂くらいならあるんです」
「店が? そりゃありがたいけど、その人たち、まさかずっと地下にいるのかな」
「その辺が、よくわからないんですがね……まあ、彼らも厳密な意味での『人間』でないので。あと、食堂へ行けば我々が掴んでいない情報も手に入るかもしれません」
「それは、ぜひ期待したいところね」
ニーナが真顔でうなずく――それをはっきりと見ることができたのは、階段ホールの闇を抜けたせいだった。
先ほどの歩廊からは見通せなかったが、そこはもやがかかる程に湿気をおびた天上の高い空間で、床にも壁にも、青みがかった色のタイルが敷き詰められていた。
ちょうど、有名なアポリニスの公衆浴場をとてつもなく大きくしたような具合だ。
全体の三分の一ほどを占めるのはこれもタイル張りの広々としたプールか濠のようなもの。その巨大な水槽には、上層階から流れ込んだものも含まれているであろうよどんだ水がたたえられていた。水面に映ってゆらめく見たこともない白色の光――
それは、タイル張りの天井から幾条もぶら下がった植物性のツルに、ある種の柑橘類のように密集して輝いていた。
「初めての方には珍しいでしょうね。ヒカリヅタと呼ばれているようなのですが、光源が何なのかはよく分かりません。あの光る球を切り取って開いてみてもそれらしい器官がないんです。地上から太陽の光をここまで導いている、と考える者もいますが……地上部分を探しても、それらしい植物はどこにも見当たらない」
そう言いながら、彼は水槽の縁に沿って延びる舗道を進んでいった。時折すれ違うフードをかぶった人影は、どれも人間の身長の半分くらい。最初は子供かと思ったが、服の袖口から覗く手指は、カエルの肌のようにてらてらとぬめり光って、明らかに人間とは違っている。
よどんだ水槽のずっと奥の方でバシャッと大きな水音が上がり、キイキイと哀れっぽい小さな悲鳴が幾重にもこだました。なにか得体のしれないものがあそこにいる。
「ここです。『フォッギィの宿』」
通路に向かってほっぺたを膨らませたように突き出た、奇妙な形の壁に、僕には読めない言葉で書かれた看板が掛けられていた。中にはヒカリヅタとは別の、オレンジ色の暖かい光が見えた。




