足元は突然崩れ去る
「アナスタシア様、お待たせしました――あれ?」
いつもの場所に、馬車がなかった。僕はあたりを見回して思わず首を傾げた。
(おかしいなあ。場所を間違えたか……?)
そんなはずはない。
ハンブロール子爵家令嬢アナスタシア・エナメイルは、いつもここで馬車に乗ったまま僕を待ってくれていて――僕は警護役を兼ねて乗り込み、学院に着いたら先に降りて彼女を講堂までエスコートする。それが、ここ一年半ばかりの毎朝の日課になっている。
ここはマンスフェル王国の次代を担う貴族子弟が勉学と鍛錬に励む、モーゼス候記念王立学院――その寄宿舎正門前だ。この時間ともなればすでに朝の早い学友たちがちらほらと姿を見せはじめている。
彼ら、彼女らはそれぞれ自分の家の――場合によっては自分自身の――紋章をつけた瀟洒な四輪馬車をあつらえていて、学院までの道中、飾り立てたその壮麗さを競い合うのだ。
残念ながら僕――テオドール・シュヴァリエには、そんな贅沢はとうていできない。
わがドゥ・シュヴァリエ家は、ひい爺さんがうかつにも立てたささやかな武功のおかげで、シュヴァリエなどという面倒くさい家名を代々受け継ぐことになっただけの、歴史の浅い下級貴族だ。そして僕はその三男坊だ。
一応男爵位はあるがそいつは一番上の兄が継ぐことになっている。僕が個人的に使える資産などこれっぽっちもない。
だが幸いにもハンブロール子爵は、僕のことを次女の婿にと望んでくれた。
おかげで僕はこの王立学院で武芸と軍学、貴族にふさわしい作法などを学ぶことができるし、経済的にも少なからぬ援助を受けている――実家にまで。
これほどの引き立てと優遇がある上に、アナスタシアは学院でも指折りの美貌と才知をうたわれる、まばゆいばかりの美少女なのだ。
未だ触れることを許されない天上の果実ではあるが、彼女の全ては近い将来僕のものになる――そう信じていられることの、なんと幸福であることか。
「やあ、テオドール! お前がそこに立ってるのを見るなんて、珍しいな。アナスタシア嬢の馬車はまだなのか?」
一期先輩にあたるロドニー・エバーグリント卿がにこやかに声をかけてきた。裕福な伯爵家の次男で、家督の相続権こそないが豪放な性格とずっしり重い財布、そしてそれを惜しみなく活用する気前の良さを身につけている男だ。
たぶん将来は大将軍か外交官として、彼を慕う部下に支えられて勲功を上げ、名を成すのだろう。できれば僕もそのかたわらで働ければ、と思うのだが――
「まだみたいなんですよ。すみません、先に行っててください」
「そうか。まあ、なにか事情があるんだろう……ああ、昼飯は付き合えるな? 講義が済んだらモーゼス侯の銅像前で落ち合おう」
「はい、いつもお目をかけてくださって、ありがとうございます!」
立場は大きく違うものの、どちらも相続にあぶれる者同士ということか。彼は僕のことを何かと気にかけてくれるし、親しい仲間内の集まりにも誘ってくれる。
そんなときにはかかる費用も向こうで負担してくれるのが暗黙の了解になっていた。申し訳ないと思う気持ちもあるが、身の丈以上の見栄も張れず、むず痒いところではある。
「そういえばさ、テオドール……」
馬車のステップに足を掛けたエバーグリント卿が、ふいに声をひそめて何事か言いかけた。
「なんです?」
彼は少し迷った後、先をつづけた。
「先月から入った新入生、クロード・ル・ベルって知ってるか?」
「へ? ル・ベルって……確かエッシーの侯爵家でしたっけ」
エッシーと言えば、王国の東部。この学院とは王都をはさんでほぼ真反対に位置する、広大で肥沃な土地だ。
「そうだ。その侯爵家の若様が、最近アナスタシア嬢のところに毎日花を持ってくるそうでな」
「花を……そうなんですか」
少し落ち着かない気分になった。両家の親同士が決めたことだから、彼女の許嫁として僕の立場が揺らぐことはそうそうないはずだ。
だが、母上はよく僕に言っていた。
――女のところに花など携えて足しげく訪れるような男というのは、えてして図々しくて強引で、おまけにいつまでたっても一つ所に落ち着かない、ろくでもないものなのですよ――
てっきり、若い時の父上のことを、冗談半分にくさしての言葉だと思っていたのだが。
「お前の立場としては何かとものも言いにくいんだろうが、その……気をつけた方がいいかもな」
卿は馬車の上からそう言い残して学院へ向かい、僕はもう一度頭を下げてこの得がたい先輩を見送った。
それから十分。待てど暮らせどアナスタシアの馬車は現れない。始業三十分前を告げる鐘が学院の方角から響いたとき、僕はようやく真相をつかんだ。
彼女はまだ来ないのではない。もう行ってしまったのだ。
そろそろ日差しが厳しくなり始める花房月の午前半ば。学院までの道を、僕は汗だくになって駆ける羽目になった。
だが、これはまだこの悲惨な一日の、ほんの始まりに過ぎなかった。