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あたらしくうつくしいことば  作者: 石川博品
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第4章 あたらしいひみつ


 留学のことを知って、わたしは三宅を仰ぎ見るようになった。


 わたしたちの学校は小中高と一貫で、その間、外に出ることがない。高校を卒業するといきなり外の世界に放りだされる。小学校のとき書かされた「将来の夢」なんてかなわなくて、ありきたりの現実に絡めとられていく。


 そんな中で三宅は、わたしたちのかんがえる外の世界のさらに外、海の向こうに行くのだという。わたしたちが限界だと思っていたものを彼女ははるかに越えていく。見ていると、わたしも何かいままでの自分にできなかったことができるような気がした。




 週が明けて、わたしと三宅は昼食のため学食に向かっていた。


 梓もいっしょで、くだらないことをはなしながら廊下を歩く。仮にわたしと三宅だけで歩いていたとしても、恋や進路のことは話題にしなかっただろう。昼間の学校では常に人の目がある。


 小さなからだがわたしたちのあいだに割りこんできた。三宅の袖をくいくいっとひっぱる。


「先輩――」


 北村恵美は水玉模様の布で包んだ小さな箱を掲げた。「お弁当作ってきたんです。いっしょに食べませんか?」


 そのことばをわたしは彼女の肩越しに見ていた。北村恵美は三宅だけを見つめていて、そばにいるわたしや梓のことなど目に入らぬ様子だった。


「えっ……?」


 三宅は目を丸くして恵美を見、それからわたしに視線をよこした。「えっと――」


「行ってきなよ」


 わたしはうなずいた。


「ごめんね」


 なぜか三宅はあやまって、恵美とともに去っていった。


 遠ざかっていく凸凹コンビの背中を梓がじっと見ていた。


「あのリアクション……アポなし弁当だね。重たいなあ」


「そうね」


「あれは恋人にされると重たい行為ランキング第1位ね。ちなみに第2位は『相手の名前のタトゥーを入れる』でした」


「2位でそれって相当だな」


 何やら騒がしい気配を感じてわたしはふりかえった。


 いつの間にか廊下は人でいっぱいになっていた。彼女たちの視線は一点に集まっている。


 泉千尋がち~様軍団の軍団員たちに見おくられながらわたしたちの方に歩いてくる。


 近くで見ると彼女はやっぱり背が高くて凛々しくて、軍団員の目は怖いけれどわたしは見とれてしまった。


「木之瀬さん――」


 手が胸をかすめる距離で彼女はいう。


「は、はい……」


「三宅には気をつけた方がいい」


「え? それはどういう……」


 泉さんは何も答えず、意味ありげなほほえみだけ浮かべてわたしたちを追いこしていった。軍団員たちもそれに続き、この場に満ちていた騒がしさは消える。あとには空っぽの廊下とわたしたちふたりだけが残された。


「何だあいつ。未知の強豪キャラか」


 梓がごみを投げすてるような手つきでいう。


「あの人もなあ……」


 泉さんは、ことばがわかってみると、その見た目からわたしが勝手に想像したキャラどおりの人だった。それに幻惑されてわたしは彼女のことばについて深くかんがえずにしまった。




 下校のときにも北村恵美はすがたをあらわした。


「先輩、いっしょに帰りましょう」


 小さな手をいじらしいほどに大きく振っていう。


 わたしの同級生たちは、3年生の教室に堂々と入ってきた下級生にぎょっとした様子だった。


 三宅が帰り支度の手を止めてわたしに目を向ける。


「紗雪もいっしょに帰ろう」


「わたしはいいよ。おふたりでどうぞ」


 むかしから独占欲がすくない方で、ともだちが別の友達と遊んでいても嫌な気持ちになったりはしない。


 ふたりが行ってしまってから、梓に肩を叩かれた。


「ねえ、もしやあのふたり両想い?」


「それいま気づく?」


 わたしは恵美のことを思いうかべていた。去り際に見せたあの子の表情――勝ち誇ったようなあざけるような目つき。どういうことなのかはわからない。


 すぐそばの席の泉千尋はなぜか得意げな顔でわたしを見ている。これも意味がわからない。


 人間と人間のややこしい関係にわたしははまりこんでいた。明け透けで遠慮会釈のないやりとりに慣れきっていたわたしにはそれがめんどくさくてたまらなかった。めんどくさすぎてもう小説のネタにしようというかんがえすら湧いてこないほどだった。


 同級生たちは帰り支度をしながら友人とだらだらおしゃべりしている。わたしはそれもめんどくさいと思った。




 三宅とはよくいっしょに帰っていたけれど、北村恵美の登場でその機会はなくなった。


 わたしは放課後また図書室にこもるようになっていた。


 やっぱりわたしはひとりで書架のあいだをさまよっている方がいい。三宅とべったりで2ヶ月近くすごしたのは結局、新学期の浮ついたこころが引きおこした事故のようなものだったのだ。そういうものは長続きしない。


 その日は午後から天気が崩れた。


 雨が降ると、もとより暗い図書室の奥がいっそう暗くなって、本たちの作りだす谷間を歩く孤独がより深くなる気がする。


 わたしは平安時代を舞台にした小説なんてどうだろうと思い、その資料をさがしていた。


 ある女流歌人の伝記を書架からひっぱりだそうとしたとき、絵巻物に出てくる女性みたいに白くたおやかな手がわたしのそれにそっと重ねられた。


 わたしはおどろいて悲鳴をあげた。うちの学校でなければ聞きつけて誰か飛んできていたことだろう。


 三宅がわたしの手を握りながらいたずらっぽく笑っていた。


「びっくりしたあ……」


 わたしがいうと、彼女はいっそう大きく笑う。


「ごめんね」


「何やってんの?」


「傘ないから」


 わたしはふりかえって窓の方を見た。外の雨は6時間目が終わったときより強くなっている。


「北村恵美は? あの子、傘持ってないの?」


「知らない」


「えっ?」


 不意に三宅が冷たい顔になったのでわたしはすこし面食らった。


「傘がないっていうのは嘘」


「は?」


「本当は紗雪とふたりきりになりたかったの」


「そうなの? まあいいけどさ。脅かすのはナシでしょ」


 わたしがいうと、三宅は「ごめんごめん」とたいして済まないとも思っていなさそうな顔でいう。


「とりあえず座ろっか」


 わたしはさっきびっくりして取りおとした本を床から拾いあげ、閲覧テーブルの方に向かおうとした。


 背中に柔らかいものが伸しかかってきた。細いけれど力強いものがわたしのからだに巻きつき、腕を押さえこむ。


 尖っているのにふわふわしたものがわたしのうなじに押しつけられた。その先が割れて、ぬめぬめしたものが肌を這う。


 それは首を離れてわたしの耳に食いついた。甘く歯を立て、耳の裏を舐める。やがて頬に吸いつき、何度も口づける。


「いやいやいや! 待って待って!」


 わたしは三宅の腕の中で暴れた。手から本が落ち、また床に転がる。


「いきなり何だよ!」


 三宅が意外と大きな乳房をわたしの背中に押しつけたまま、手をわたしの胸の前に持ってくる。


「わたし、あなたが好きなの」


「はあ?」


 肩越しに突きだされた手によることばは、ふつうの会話を裏から見ているようなもので、日本語でいえば鏡文字と同じだが、意味はわかる。


「あなたに一目惚れした。最初の自己紹介――フロムLAのときに」


「あれで!?」


 わたしのことばも彼女のことばも、「わたし」というときはわたしを指し、「あなた」というときは誰もいない窓の方を指す。別々の手によって発せられているのに、ひとつこころから生みだされているようだった。


「前にあなた、『女の子が好きなの?』ってきいたよね。わたしはそのとき『あなたのような女の子なら好き』と答えた。統合手話だったから、わからなかっただろうけど」


「あっ、あの表情か……」


 あれは統合手話で「条件」をあらわす表情だったのだ。ラーメン屋でも同じ顔をしていた――ラーメン屋来たことないの?/親となら(・・)来たことある。


「いや、わかるかーい!」


 わたしは三宅の腕から逃れようとした。だが彼女はことばの合間にわたしのブレザーをつかんで放さない。


「北村恵美はどうすんのよ。好きだったんじゃないの?」


「あの子のことはどうでもいい。恋愛相談をすればあなたに近づけると思って」


「クズすぎるでしょ」


「いいんだよ。あの子も恋愛ごっこがしたかっただけ。背伸びしてまわりに対して優越感を得るためにわたしを利用したんだよ。わたしたちはお互い利用しあってた。ただそれだけ」


「そういうの、わたしはよくわからないな」


 恋愛とはもっと神聖なものだとわたしはかんがえていた。ろくに恋愛なんてしないのに――いや、していないから(・・)か。


 三宅の舌が耳の穴に這入はいりこんでくる。からだがぞくぞく震えた。彼女の手がわたしの胸を撫であげてからことばを結ぶ。


「わたし、あなたのためなら何でもする」


「じゃあとりあえず放してもらえる? もし誰かにこんなとこ見られたら――」


 なんてことをいっていると、絶妙なタイミングで書架のあいだに足を踏みいれる者がいた。


 下級生らしき女子がわたしたちを見てかみなりに打たれたような顔をする。


「す、すいません!」


「いや、あの、これは――」


 わたしの弁明を見ずに彼女はきびすを返し、走りさった。


「見られちゃったねえ」


 三宅がわたしの耳たぶを舌の先で転がす。


「いや、見られちゃっ(・・・・・・)たねえ(・・・)じゃないよ」


「千尋に抱かれてるところを見られたわたしが、いまあなたを抱いてる。次はいま抱かれているところを見られたあなたがあの子を抱くのかも」


「何だそりゃ。呪いかよ」


 わたしは三宅の手に爪を立てた。相手がひるんだ隙に手を振りほどき、向きなおって肩を突きとばす。


 三宅は左右の書架に手をついて踏みとどまった。上気した顔に笑みを浮かべている。その表情は不気味にうつくしかった。


「どうしてそんなに嫌がるの? 一度試してみたらいいのに」


「無理だよ。女の子は恋愛対象にならない」


「応援するっていったよね? 理解があるふりしてただけなの?」


「応援するし、理解したいとも思う。でもわたし自身はどうかっていうと、やっぱり無理だ」


 うなじや耳は三宅の唾液でまだ濡れている。「たとえばさ、誰かに音楽のすばらしさを説明されたとしても、わたしにはわからない。聞こえないもん。それと同じ。頭で女の子のすばらしさをわかっていたとしても、からだが反応しない。愛を感じとれない」


 三宅がゆっくりと迫ってくる。わたしはこれ以上何かされたら殴ってやろうと拳を固めた。


「どうしてあなたが小説を書けないか、教えてあげようか?」


 彼女は鼻先にことばを押しつけてくる。


「えっ?」


 わたしのことばは空間がなくて腹までしかあがらなかった。


 どうして彼女はわたしが一度も小説を書いたことがないと知っていたのだろう。何度も書きかけては消して真っ黒になったあのノートを開いて見たとでもいうのか。


「あなたが書けないのは、空っぽだから。人間関係の外にいて、ただ見ているだけ。それでわかった気になっている。わたしとはちがう。千尋の取りまきの子たちの方がよっぽどマシ。彼女たちのことばには実があるもの。あなたのことばは空っぽ。中身が何もない」


 三宅はゆっくりとあとずさりしていく。わたしにとって、空間的にも心理的にも発言するゆとりが生まれる。だが何もいえない。わたしの手は凍りついたように動かなかった。


「あなたは小説家になんてなれない。たぶん一生何も書けないよ。本当に書く気があるのなら、あらすじばっかりかんがえてないでもう書いているはずでしょ。あなたは書けない。空っぽだから」


 彼女は本の背を撫でながら通路の奥へとしりぞき、すがたを消した。


 わたしはようやくいいたいことをいえるようになったけれど、それをぶつける相手はもういなくて、空しく胸の前で結んで開いてをくりかえした。


 すでに書かれた、空っぽで(・・・・)なかった(・・・・)本たちがわたしを見おろし、見あげ、横目に見ている。わたしは取りおとした本を拾いあげ、テーブルをまわりこんで椅子に座った。


 ふりかえると、真っ暗な窓に真っ白な顔のわたしが映っていた。ガラスに付着する雨粒がリズミカルに増えていき、わたしの知らない音楽というものが聞こえてきそうな気がした。



 わたしに小説は書けないと三宅はいった。


 彼女のいうとおりだ。


 本当に彼女のいうとおりだったのだ。

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