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あたらしくうつくしいことば  作者: 石川博品
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第2章 うつくしいひみつ


 小説家になりたかった。




 最初にそう思ったのは高校1年のときだ。


 ふつう、そうした夢は胸に秘めておくものなのだろうが、隠し事ができない性質たちなので、家族にも友達にもはなしてしまった。家族には「紗雪なら絶対なれるよ」と励まされ、友人たちには「いまの内にサインちょうだい」とせがまれた。周囲があまりに好意的なのでわたしは、小説家に向かない甘すぎる環境に身を置いてしまっているのではないかという贅沢な不安を抱いていた。


 2年生の3学期でフットサル部を辞めたのは、本を読む時間が欲しかったからだ。


 そんな理由を説明したところで他の部員は納得してくれるはずもなく、退部後は廊下で会っても無視されるようになったが、そんなことはどうでもいいと思っていた。夢に向かって突きすすむのにつまらないしがらみになど構っていられない。


 放課後、図書室に行くのが日課だった。東南女子の図書室はなかなか立派だったが、利用者はほとんどいない。カウンターでは図書委員が暇そうにしていて、わたしひとり、書架の森の奥深く、何も持たずに散策していると、暗く、心細く、同時に何か、わたしのために取っておかれた宝物のような物語を見つけられるような気がして胸が高鳴った。


 その日も、背筋を伸ばして整列している背表紙たちを眺め、物語の冒頭を着想するときの高揚感に酔いながら細く黴臭かびくさい通路をそぞろ歩いていた。


 気配を感じたのは洋書の棚に差しかかったときだった。


 本を1冊取ったとき、居並ぶ本の天と棚板のわずかな隙間に動く影がほのえて、わたしは目を凝らした。


 黒のセーラー服にぎょっとしたのは、倉木女子の生徒がこちらにやってきてまだ1月もたっていない頃だったからだ。見慣れない制服を校内で見ると、この世界によく似た異世界に紛れこんでしまったようで気味が悪い。


 セーラー服は襟の下端が見えるだけで、着ている人の顔はわからない。よく見ると、書架の向こうには2人いるようだった。2人が向かいあわせに立っている。


 こんな狭いところで何をやっているのかと、わたしは書架をまわりこんで通路をのぞきこんだ。


 泉さんと三宅さんがそこにはいた。


 三宅さんが書架に寄りかかり、顔を伏せている。長い髪が垂れてその表情を隠す。彼女より背の高い泉さんが身を低くしてその黒いとばりの下をのぞきこもうとしていた。三宅さんが顔をわずかにあげて何かいう。泉さんも彼女の眼前にことばを連ねる。


 統合手話だったので話の内容はわからなかったが、その優美な動きから、詩のようにうつくしいことばであろうことは容易に想像できた。


 何かいいかけた三宅さんの手を泉さんがつかんだ。振りほどこうとするのを許さず、書架に押しつける。まるで磔刑たっけいのようなかっこうだ。


 泉さんは三宅さんの顔を間近で見つめ、やがて唇に唇を重ねた。


 最初、触れるだけだったのが、やがておたがい激しく口を吸いあう。三宅さんの手がいましめを脱して泉さんの背中をつかみ、セーラー服をぐしゃぐしゃに乱す。


 そのときまでわたしは、キスというのは唇で触れあうことによってふたりのこころが通じあい、よろこびが生まれるものだと思っていたのだが、三宅さんの様子を見て、もっと単純な、粘膜どうしが絡みあいこすれあうことによる肉体的快楽もあるのだと思い知った。自分の口内を舌でなぞってみる。からだが内から熱くなる。


 忍び足でその場をあとにし、さっき書架から取った本を持って閲覧テーブルに就いても、熱が去らない。その熱はわたしに、快楽を受ける側としても与える側としても、わたしのこのからだはもう準備ができているのだと告げていた。わたしはそれを、もうすこしのあいだ知らずにいたかったと思った。


「すごいものを見ちゃったな」


 わたしはひとりごとをいった。テーブルの下、スカートの裾あたりで手を動かすだけだから、誰にも見られることはない。


 本を開き、字を追っているうち、次第にこころが落ちついてきた。


 英訳された日本の小説を読むと文章の本質がつかめるというようなことをどこかで読んで、実践していた。確かに、情景や心理の凝った描写が英語に訳されるとシンプルなものにかわって、「こういうことをいっていたのか」とわかることもあった。だが元の日本語を読むときふっと鼻先に香るようなものが消えうせているとも感じる。それはたとえば、初等部のとき母が上履き入れにしゅうしてくれた花や蝶だったり、お楽しみ会で上級生のお姉さんが首にかけてくれた色紙いろがみのネックレスだったり、いまはどこに行ってしまったのかわからないが、ふとした拍子に思いだされてそのたびにぎゅっと胸を締めつけるものに似ている。


 わたしが書きたかったのはそういうものだ。過去の誰にも書けなかったもの、わたしのことばで書かなければうしなわれてしまうものを書きたい。


 英文の意味が取れなくてすこしかんがえこみ、本から顔をあげると、三宅さんと目が合った。書架と書架のあいだに立ち、わたしを見つめている。


 わたしは彼女にひらひら手を振った。あんなものを見てしまったあとだから、ちょっと動きがぎこちない。


 彼女はわたしとテーブルを挟んで向きあうかっこうで座り、何かをいった。統合手話なのでよくわからない。手の動きからすると「読む」だろうか。表情は疑問文のように見えるが、文末だけ表情を変える国語手話とちがい、ずっと同じ顔をしている。


 わたしたちのことばは「手話」と呼ばれるけれど、顔の動きであらわされるものも多い――疑問だとか使役だとか条件だとか。聴者にとってこうしたしゅようはわかりにくいというが、わたしは「見ればすぐ読みとれるのにどうしてわからないんだろう」と不思議に思っていた。だがいま、はじめてふたりきりで三宅さんと向きあってみて、相手のいわんとしているところがさっぱりわからない。


 あたらしいことばはそう甘くないということか。


「読む」らしきことばがあることから当たりをつけて、わたしは読んでいる本の表紙を三宅さんに示した。彼女は目を見開き、うなずく。どうやら通じたみたいだ。


 彼女がまた何かいう。今度は国語手話が交じっている。「好き」ということばの入った疑問文。文末だけ疑問の顔。さっきのがWH疑問だとすると、これはYES/NO疑問だろうか。勘で答えてみる。


「わたしは小説が好き」


 わたしがいうと三宅さんはうなずいた。また当たりだ。


 そのあと、すこしのあいだわたしたちは手を止めていた。ことばが通じないとどうしても慎重になる。


 もやのように立ちこめる気まずさを振りはらってわたしは立ちあがった。沈黙なんて、もっともわたしと縁遠いことばだ。


 テーブルをまわりこみ、三宅さんの腕を引く。小説の棚まで彼女をひっぱっていき、それを指差した。


「わたしは小説家になりたい」


 どうしてそんなことをいったのかわからない。彼女の秘密(・・)を盗み見たことに対するつぐないのつもりだったのだろうか。


 彼女はわたしのことばが理解できないようだった。そこでわたしは書架から本を1冊抜きだし、その著者名のところを指した。


「わたしはなる、これ(・・)。わたしは書く」


 ようやく通じたみたいで、彼女はうなずいた。何かをいうが、読みとれない。わたしにもわかる単語がある。「ろう者」・「存在」――それから疑問をあらわす頭の動き。


「ろう者の小説家……たぶんいないと思う」


 ろう者は日本語の読み書きが上手でないとよくいわれる。手話と日本語はまったく別のことばだから、両方習得するのはとてもむずかしい。ろう者からすれば日本語は外国語も同然だが、聴者が外国語を学ぶのとくらべて、音声に頼れないからよけいたいへんだ。聴者が外国に留学して誰とも口を利かず、本だけ読んで過ごしたとしたら、その国の言語を身につけられるだろうか。そんなのわたしなら神経衰弱(ノイローゼ)になってしまう。たくさん聞いてたくさんしゃべって、何ならダンサーのブロンド美女と同棲でもしてイチャイチャしてる人の方が上達するはずだ。


 わたしは小さい頃から本ばかり読んできたけど、日本語力がどれほどのものなのかはわからない。


「ろう者の小説家がいなくてもいい。わたしが最初のひとりになる。その方がおいしいし」


 わたしはいきおいこんでいった。


 ふだんからそんなことをかんがえていたわけではない。そのときはことばが意志をかたちづくった。


 三宅さんが彼女自身を指差し、わたしを差し、それから拳を天に突きあげた。


「何?」


 わたしがたずねると、彼女はもう一度同じことをする。


「ひょっとして応援(・・)? わたしのこと応援するって?」


 彼女はうなずく。


「ありがと」


 わたしは照れくささのあまり笑ってしまった。


 はじめて見たとき「お姫様」なんて形容してしまったけれど、三宅さんはそんなお高く止まっているわけではなく、表情がころころ変わってむしろ親しみやすい。


 その彼女が急にまじめな顔つきになってまっすぐわたしを見た。


「あなた、見た?」


 そういったのはわかった。


「何のこと?」


 わたしがいうと、彼女は唇を尖らせ、合わさっていた上唇と下唇をぱっと離した。


 泉さんとのキスのことをいっているのだとすぐにわかった。


「あっ、それは……たまたまというか……本当にわざとじゃなく――」


 わたしの弁明を彼女はそっと手で払いのけた。人差指を立ててわたしの唇に当てる。


「秘密」


 といっている。


 聴者が唇に指を当てることで「秘密」をあらわすのは、そうすることで口が開けなくなってことばを発せなくなるからだ。ではなぜ国語手話でも同じ動きで「秘密」なのか。ずっと不思議に思っていたが、実際唇に触れられてみると、何もはなせなくなってしまった。ことばの内側にある大事なものをつかまれてしまったような気分だ。


 いつの間にかわたしは書架に寄りかかっていた。ひんやり硬い鉄製の棚板やがさがさつるつるでこぼこした本の背表紙が背中とお尻に当たる。


「彼女が好きなの」


 三宅さんは近くて、彼女のことばがわたしの手や胸をかすめそうになる。


「あなたは……女の子が好きなの?」


 わたしがきくと、彼女はうなずいた。


「わたし――」


 彼女は自身を指差し、次にわたしを指す。「あなたは女の子が好き」


 わたしと同じことをいう。どうやらわたしの物真似をしているらしい。首をかしげ、皮肉っぽく目を細めている。


「ちがうちがう。わたしがきいてるの。女の子、好きなの?」


「わたしは女の子が好き」


「泉さんとつきあってるの?」


「うん」


 それを見てわたしは、すごいと思った。小説家になりたいといいながら何も書いていない、つまり何者でもないわたしに対して、彼女は同性愛者だ。そういう人を見るのははじめてだった。


 わたしはさっき彼女がやったように、拳を握り、思いきり突きあげた。


「わたし応援する」


「応援?」


「そう、応援!」


 そういって二度三度と天井に向けてグーパンをする。


「ありがとう」


 彼女はほほえんだ。


 いまかんがえると、応援だなんて思いあがりもはなはだしい。たとえばわたしが誰かとはなしているとき、聴者の人がやってきて「ろう者なんでしょ? 応援する」なんていわれたらどんな気分になるだろう。わたしは何かに困っているわけでもなく、ふつうに生きているだけなのに。


 三宅さんだってそうだ。ふつうに生きて、女の子を好きになる。それだけのことだ。わたしの後押しなんて必要ない。


 だが17歳のわたしはそんなことに思いも至らず、「女の子どうしのラブストーリーなんてどうかな」と、いつも思いつきだけで書かれることのない新作(・・)を頭の中に思いえがいた。


 背の高い書架に挟まれた谷間みたいな通路で、三宅さんの長い黒髪だけが別世界からの光を浴びているかのようにかがやいていた。




 応援するといったのにわたしは何もしなかった。そのせいでもないのだろうが、1週間ほどで三宅さんと泉さんは別れてしまった。


「WHYなぜに!?」


 そのしらせにおどろいたわたしはアメリカ手話(USSL)とすこしかじった統合手話とを重ねて三宅さんに問いかけた。


 彼女は口に手を当てて笑う。


「いやいや、笑い事じゃないよ」


 わたしはテーブルに頬杖を突いた。


 その日も図書室は閑散としていた。


「なんでそんなことになったの?」


 あらためてたずねてみる。


 三宅さんは「わたし――」といって統合手話で何かいい、「千尋――」と泉さんの名前を出してまた何かいった。


「ちょっとわかんない」


 わたしの答えに彼女はすこしかんがえて、国語手話でいう。


「わたし、こころ、多い。千尋、こころ、すくない」


 たどたどしいけど、いいたいことはよくわかった。三宅さんが思うほど泉さんは彼女のことを思っていなかったということだ。


 わたしはすこし意外な気がした。図書室でキスしているとき、泉さんの方が積極的に見えたからだ。


「それはもうどうしようもないなあ。惚れた弱みというやつだよ。一度足元見られちゃうとさ、最後まで主導権握られるよね」


 きいたふうなことをいっているが、このアドバイスは経験に基づくものではまったくない。


 三宅さんは首をひねっている。すこしことばがややこしすぎたか。


 わたしは「かんがえ、ない」「道、ない」といいなおした。


 それを見た三宅さんは下唇を嚙み、瞼をぎゅっと押しつけるようなまばたきをしていたが、やがてそのぱっちりとした目からなみだの大きな粒をこぼした。


 わたしはうろたえてしまった。


 核心を突いたつもりの不用意なことばがとんでもない事態を引きおこした。世界は何もかわっていない――まわりには誰もいなくて、閉めきられた窓のカーテンはそよとも動かず、書架の本はことばを内に秘めたまま黙って並ぶ。三宅さんもじっと、すこし首をかしげたようなかっこうのまま動かずにいて、ただなみだだけが頬を伝って宙に身を投げ、テーブルの向こう、おそらくは彼女のスカートにできたプリーツの谷間に消えていく。ときおり彼女が親指でなみだを拭うと、片方の目が引きのばされ細くなり、わたしに非難のまなざしを向けているように見えた。


 わたしはあたふたとテーブルをまわりこみ、彼女を胸に抱いた。肩に置いた手の下で長い髪が折れる。椅子に座ったままの彼女はわたしの胸に頭を預け、腕の中にすっぽり収まって、野の花を手折ったときのような、みずみずしく甘い香をわたしの鼻先にただよわせた。


 髪を伸ばしたいな、とわたしは唐突に思った。


 彼女の熱が伝わってくる。なみだや吐息の熱さも感じられる気がした。なぐさめのことばをかけてあげたいけれど、わたしたちのことばでいまそれはむずかしくて、ただ肩を撫でさすり、彼女の不穏な熱が冷めるのを待つ。


 やがて彼女はわたしの胸から顔をあげた。なみだに濡れた頬を拭い、照れくさそうに笑う。


「ごめんね」


 そういわれてわたしは肩をすくめた。別に謝罪するようなことはされていない。


「だいじょうぶ?」


「うん」


 彼女はハンカチを鼻に当てた。


 わたしはこの状況を、いかにも女子校って感じだな、と他人事みたいに思った。立ったままだったので閲覧テーブルの列が端まで見渡せて、放課後の人気のない図書室、女子2人、女の子どうしの恋のはなしをして、なみだを流して、なぐさめて、だなんてちょっとできすぎている(・・・・・・・)


 その調和ぶりが何だか息苦しくてわたしは、三宅さんのとなりの椅子を乱暴に引き、腰をおろした。


「場所かえよっか」




 駅北口のスタバは当時まだできたばかりで、何だか特別な場所に思えた。


 中に入るとカウンターに顔なじみの店員さんがいたので、わたしは「いつもの」と注文した。彼女は「わかりました」と答える。


 三宅さんに肩を叩かれた。


「すごいね」


「何が?」


「ことば、通じる」


「うちの学校の人がよく来るから、この店の人たち、すこし手話できるんだよ」


「『いつもの』っていった」


「部活帰りよく来てたから、おぼえられてんの」


 ちなみに、「いつもの」で通じるようになるまでは、いちいちメニューを指差して注文していた。ホットキャラメルマキアート・ディカフェ・ローファットミルク・キャラメルエクストラソースをわたしたちのことばで何というのかはいまだにわからない。


「三宅さんは何にする?」


 わたしはたずねた。カウンターの向こうでは店員さんが笑顔で注文をうながしている。


「あなたと同じ」


 三宅さんはわたしの陰に隠れるようなかっこうでいう。背の高い彼女が身を屈めるものだからかえって目立つ。


 レジでお金を払おうとしたら、彼女に肩を揺さぶられた。


「駄目、駄目」


 わたしが彼女の分も払おうとするのを止めようとする。


「今日はわたしのおごり。さっき泣かしちゃったから、そのおわびにね」


 わたしがいうと彼女はしょうしょうといったふうにうなずいた。


 彼女のあのなみだをホットキャラメル(以下略)1杯であがなえるというなら安いものだ。


 カウンターでホット(略)を受けとり、テラス席に行く。その日は入学式や始業式あたりの、花に蒸されたようなあたたかさがもどってきていた。おかげで午後4時に外で座っていても寒くない。


 三宅さんがペーパーカップに口をつけ、すする。一瞬目を丸くし、それから表情をとろけさせた。


「おいしい」


「よかった」


 わたしも1口飲み、一応ローファットミルクで保険(・・)をかけてあるとはいえ、部活辞めたあとでこの甘さこのカロリーはちょっとまずいな、と二の腕の肉を揉みながらかんがえた。


「ありがとう――」


 彼女がいう。「なぐさめ。わたし、泣いてた」


「気にしないで」


 わたしは答えてテーブルの上を見つめた。


 確かに甘いものはなぐさめ(・・・・)だ。だけどそれは舌の上ですぐに消えてしまう――そして恐ろしいことに皮下脂肪となってからだに残る。


 悲しみも残る。だからそれに対抗するため、消えないなぐさめをかんがえなければ。


「失恋の傷を癒すのはさ、やっぱりあたらしい恋だよ」


 わたしがいうと、三宅さんは道行く人の方に目をやり、わずかに頬を染めた。


「あたらしく、好きな人、いる」


はやッ!」


 おどろきのあまりわたしは肘でカップを倒しそうになった。


 三宅さんは肩をすくめ、唇を引きむすび、照れくさそうな、すこし申し訳なさそうな笑顔を浮かべていた。


 さっきまで泣いていたのにもう笑っている。配偶者を亡くして大泣きする人ほどすぐに再婚相手を見つけたりする、なんてはなしもあるけど、それと同じことだろうか。


「好きな人って誰?」


「2年生の……北村きたむら恵美えみさん」


「キタムラ……? 元から東南女子にいた子?」


「うん」


「ちょっと顔が出てこないな。その子、部活やってる?」


「わからない。委員会、わたしと同じ」


「なるほど……」


 わたしは飲み物に口をつけた。「接点はあるわけだ。もう何かはなした?」


「まだ」


 三宅さんはそばをとおりかかる別の高校の女子たちがこっちを見ているのに気づいて、手の動きを小さくした。「ことば、見る、いい。はなす、むずかしい」


「だよねえ」


 道路の連中に一度ガンくれておいてわたしは椅子の背もたれにからだを預けた。


 確かに、三宅さんはこちらのいうことをほとんど理解しているようだが、はなす方はあまりうまくない。ことばがスムーズに出てこないし、はなし方もたどたどしくて、ネイティブでないと一目でわかる。


「いや、でも――」


 わたしはからだを起こした。「いま『いい』と『むずかしい』は統合手話だったよね? それなのにわたし、わかった」


「ホントだ」


 三宅さんが目を丸くする。


「わたしたちのことばは混ざってきてるんだよ。誰かにそうしろっていわれたわけでもないのに」


「すごい」


「てことはさ、その内キタムラさんもふつうにしゃべれるようになるんじゃない? ……いや、そんな悠長なことはいってられない。わたしたちでことばを作るんだ。あたらしいことば。それを広めて、わたしたちが学校を支配する!」


 わたしの頭の中には、異国から輿こしれしてきたきさきのためにあたらしいことばを作りだす王の物語が浮かんでいた。愛のちからでことばを産みだす。何てロマンチックなんだろう。妃の気をくために狼煙(のろし)をあげて国中の兵隊を集合させるなんてのよりずっといい。


「わたしたちのことば?」


 三宅さんは頭を前に出す。これは統合手話の疑問をあらわす仕草だ。


「そう。わたしたちの、ことば」


 わたしは答える。「そう」は統合手話、その先は国語手話。


「さっそく基本的なとこを決めていこうよ」


 かばんからノートを出してテーブルの上にひろげる。風がめくろうとするページを三宅さんが押さえる。指と指が触れあい、目を見交わし、ほほえみあう。




 わたしたちは思いあがっていた。


 自分たちのことばで学校を支配しようだなんて。


 そんなことばをふたりだけで作ろうだなんて。




 でも思いあがって当然なのではないだろうか。


 若くうつくしくことばの通じあうわたしたちだったのだから。


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