第1章 あたらしいなかま
作中に登場する手話はすべて架空のものです。日本では主に、独自の文法を持つ日本手話と、日本語の文法にのっとった日本語対応手話(手指日本語)が使われています。アメリカでは日本における日本手話に相当するASL(American Sign Language)が使われています。
あの頃のことで思いだすのは朝の教室の騒がしさだ。
わたしたちの高校には教室と廊下とをへだてる壁がない。ないのは必要ないからだ。光だとか視線だとか、まっすぐなのがわたしたちで、この世界だから、それをさえぎるものなど必要なかった。
廊下から見ていると、無数の手が、目が、口が動いて、まるで細かい雨の落ちる水溜まりのようだ――そちらに動きがあったかと見る内に、今度はあちらが動きだす。1人のはなしがはじまったかと思えば、それが終わるのを待たずに向かいの1人がはなしをはじめる。会話が波紋のようにつぎつぎ起こりひろがって、どこが中心かわからなくなる。騒がしさに目がくらむ。
わたしが教室に入ろうとすると、同級生たちはいったん黙り、そのおしゃべりな手をひらひらと振ってくる。
「おはよう」
とわたしがいうと、
「おはよう」
と彼女たちもいう。
正確に書くと、わたしたちは両手を挙げて、顔を挟むようなかっこうで掌を向かいあわせにし、親指を掌の中央につけ、人差指・中指・薬指・小指をまるで2人の人間がお辞儀しあうようにぺこりと、中手指節関節、つまり指の付け根のところで折りまげた上で、顔をいかにも挨拶という感じでぱっと明るくしたことになる。
でもわたしたちはそんな細かい手順を意識しない。聴者が「おはよう」というとき、唇をすこしすぼめて舌を奥にひっこめ、息を上顎の真ん中あたりに当てて「お」、それよりくちびるをやや開いて舌はだらりと伸ばし、息を上の歯茎に当てつつ唇で摩擦して「は」……なんてことをかんがえるだろうか。
わたしたちも「おはよう」というのにいちいち手がどうの指がどうのとかんがえたりはしない。「おはよう」は「おはよう」だ。だからこれからは「おはよう」とだけ書いていく。正確さを気にしていたらいつまでたってもわたしが教室に入れない。
わたしは黒板に張ってある座席表を見に行った。
それは4月の始業式の日で、緊張感とともに非日常の緩んだ空気が教室にはただよっていた。
出席番号順で割りふられたわたしの席は廊下側から2列目、前から2番目だった。となりの席には浅香梓がいる。
「おはよ」
わたしはそういって背中のリュックを机におろした。さっきの「おはよう」とは表情がすこしちがう。
「おはよ」
梓はいって長い髪を掻きあげた。
「また同じクラスだね」
本当なら「あなたとわたしは――」といっているのだが、省略している。日本語ということばは正確にいったり書いたりせず、ほのめかすのが好きだ。
「3クラスしかないからね」
そういって梓は髪を掻きあげる。
「おなか空いたなあ」
わたしは椅子に腰をおろして腹をさすった。
「朝ごはん食べてないの?」
「食べたよ。でも空いたの」
「さすが体育会系」
「元ね」
「そうだった」
梓は髪を掻きあげる。「ところで、わたしの髪について何かないの?」
「わざとらしいからあえて触れなかったんだけど」
わたしはあらためて彼女の髪を見つめた。以前から明るい色だったのが、春休みが明けていっそう明るくなっている。まるで日溜まりで眠る狐の背中みたい。
「きれい」
わたしがいうと、
「ありがと」
梓は照れくさそうにほほえんだ。
「いままでで一番明るいんじゃない?」
「3年いなくなったからね。ほとんど金髪ってとこまで攻めてみた」
「もうわたしたちが3年なんだけど」
「そうだった」
梓が椅子の背もたれをつかみ、廊下の方に背中をかたむける。脚が持ちあがって太腿の裏、ぎゅっとよりあわさっている隙間に白いものがのぞいた。
「パンツ見えてる。エロい」
わたしがいうと、彼女は笑いながら脚をおろす。
ほのめかしも遠慮会釈もわたしたちにはなかった。それは女子高だったからなのか、そういうことばを使っているからなのか、たまたまわたしたちがそういう性格だからなのか、わからない。
「紗雪、髪跳ねてるよ」
梓にいわれてわたしはブレザーのポケットから鏡を取りだした。
人を呼ぶとき、ふつうは本名でなく、サインネームという綽名のようなものを使う。わたしの場合は、小さい頃から睫毛が長かったのでその様子と、フットサルをやっていて「デフ・ロナウジーニョ」を自称していたことからその「ロナウジーニョ」とを組みあわせたことばで呼ばれていた。だから正確に訳すならば「サユキーニョ」といった感じになるのだろうが、まだるっこしいので本名で記す。
ちなみに梓は初等部のとき1年に2度同じ腕の骨を折るというミラクルを起こしたことから、ギプスをあらわすことばで呼ばれる。
「朝ちゃんと直したんだけどな」
鏡を見ながらだとはなしづらい。わたしたちは相手の顔を見ないと会話できないからだ。左手が塞がっているのもよくない。利き手だけではあらわせないことばがある。
梓が鏡の脇から顔を出す。
「ていうか、今日ブスじゃない?」
「うるさい」をいう代わりにわたしは彼女の肩を殴った。
「あっ」と彼女は表情でいう。
「いまの衝撃でおなら出た」
「いわなくていいよ。どうせ聞こえないんだから」
「いや、これ音がなくてもわかるタイプのやつ」
そういって彼女はみじかいスカートをつかんでばたばたやる。パンツはすっかり見えてしまう。白くて光沢のある、触るとすこし冷たそうな生地。
「最悪」
わたしは教室の正面に向きなおった。
ほのめかしや遠慮会釈がないのも善し悪しだ。
黒板の上のチャイムライトが光って、ホームルームのはじまりを告げる。
廊下を見ていると、先生たちがそれぞれ1人か2人の生徒を連れて歩いていく。どの生徒もブレザーではなくセーラー服を着ている。襟もジャケットもスカートも黒で、わたしたちの紺ブレザーよりもシックな印象を受ける。
私立倉木女子学園が経営破綻したのは今年2月のことだ。行き場のなくなった生徒たちの受けいれ先として手を挙げた中に、わたしの通う都立東南女子ろう学校もあった。
急なはなしだったので、倉木から来た転校生たちは元の制服のまま来ていた。こちらの制服に切りかえるかどうかは各自の自由ということになったらしい。
倉木女子はお嬢様学校だという評判だったし、文化というか何というか、とにかくいろいろ東南女子とはちがっていたので、わたしたちはかなり身構えていた。
担任の岡崎先生が教室に入ってきた。今日は始業式なので背広だ。2人の生徒をうしろにしたがえている。
起立・礼・着席のあと、いつもなら先生に構わずおしゃべりするはずの手が机や膝の上に置かれる。
聴者である岡崎先生は口話と日本語同期手話で転校生の紹介をはじめた。
日本語同期手話とは、日本語の語順をそのまま手話に置きかえたもので、主に聴者や中途失聴者が使う。わたしたちの使う国語手話と単語は共通しているが、文法はまるでちがうし、顔を使った表現や指差しがないので、わたしたちには何をいいたいのかわからないことも多い。
そのよくわからない日本語同期手話よりも唇の動きを読みとる読話の方がマシなのでわたしはいつもそちらに意識を集中させるのだが、いまは別のところに惹きつけられてしまう。
転校生はふたりとも背が高くて、黒いセーラー襟に入った白いライン、結わずにまっすぐ垂らした白のタイ、膝を隠すすこし長めのスカート、靴下はちょっとみじかめで、どこがどうというわけではないのだけれど、全体的な雰囲気がいかにもお嬢様らしく、ついうっとりと眺めてしまう。朝っぱらから髭で青くなっている岡崎先生の口元を注視するよりずっといい。
背の高い方は、髪がみじかく顔は小さく、顎を引いて背筋を伸ばし、手をうしろにまわして胸を張ったそのすがたは凛々しくて、まるで王子様のよう。顎の先まで達する前髪に片方の目は隠れ、教卓の岡崎先生に向けるそのまなざしはうかがえないが、すらりととおった鼻筋、すこし尖った唇が横顔に高貴な雰囲気をまとわせる。
同級生たちの方を見てみると、みんなぽかんと口を開け、目を大きく見開き、胸に手を当てたりなんかして、乙女な感じになっている。ほんの2ヶ月前、倉木の経営破綻のことなんてそっちのけで、アラフォーおじさんの岡崎先生に誰か1人やたら高いチョコをあげたという理由で揉めていた連中も、「ついに見つけた!」というような顔で転校生を見ていた。
一方、背が低い方の転校生は、背が低いといってもクラスの平均をすこし上まわるわたしより大きくて、顔はたぶんわたしより小さい。髪がまっすぐで長くてとてもきれいで、そのうつくしさを表現するには、梓の茶髪を「きれい」といってしまったからにはその上を行くことばでなければならないのだが、ふさわしいものが見つからない。緑の黒髪とか烏の濡れ羽色などといった、本で見ておぼえた形容ではなく、あたらしいことばが必要になってくる。
みんなの前に立たされた彼女はすこし恥ずかしそうに肩をすくめ、手はからだの前で合わせて、伸ばした指と指とをたがいちがいに交差させる。となりの王子様が堂々としているのにくらべると気弱そうではかなげで、たとえていうなら、西洋のではなく日本のお姫様だ。ぱっちりとした目の見る先は教卓の岡崎先生だが、その視界の端に王子様をとらえているのは明らかだった。強いきずながふたりのあいだにはあるのだとわたしは直感した。
先生が黒板にふたりの名前を書いた。「泉千尋」に「三宅真奈美」。立ち位置から見て、王子様が泉さんで、お姫様が三宅さんだろう。
先生にうながされ、王子様が教卓に就いた。手を動かして自己紹介をはじめる。わたしたちは息を呑んだ。
予想していたとおり、いや予想以上に彼女のことばは理解できなかった。ただ、その優美な手ぶり、ともすれば傲岸とも取れる表情から、
「わたしの名前は泉千尋。みなとともにこの学校で学べることをうれしく思う」
といったようなことをはなしたのであろうことは想像できた。絶対こんなことはいってないだろうが、想像するのは自由だ。
彼女たちのいた倉木女子学園は統合手話を使うことで知られていた。
わたしたちの使う国語手話は古くから日本で使われていたことばだ。現在、日本のろう者の大多数はこの国語手話の話者である。
それに対して、統合手話は明治時代に北海道で暮らしたアメリカ人宣教師によって考案されたものだ。当時の北海道は日本各地から人が集まっていて、ろう者の使うことばもバラバラだった。そこで宣教師が彼らのことばとアメリカ手話(USSL)を混ぜて新しいことばを作った。いまでは一部の私立高で使われているだけで、話者はかなりすくない。
それぞれのことばに話者の集う団体があって、どうも両者の仲は悪いらしいが、わたしたちには関係のないことだ。
泉さんは統合手話のあとで国語手話を使った。それはとてもたどたどしくて、わたしたちには、
「わたし、欲しい、仲良い。わたし、欲しい、1年、よい時間」
といっているようにしか見えなかった。
手話が下手なのは、聴者ならまあそんなものかと思って見ていられるが、別のことばとはいえさっきまで流暢にはなしていたろう者の場合だと、不思議というか何だか不気味で、どこか悪いのではないかと心配になってしまう。
勝手な言い分ではあるけれど、わたしは王子様にすこし幻滅してしまっていた。
彼女がはなしおえると、クラスのみんなはひらひらと手を振って拍手した。
続いて三宅さんが教壇の中央に立つ。彼女もまた統合手話を使った。手の動きや表情はきれいだけど、いっている意味はわからない。
「三宅真奈美と申します。みなさま、どうぞ宜しくお願い致します」
というようなことをいったのではないかと推察される。
手話通訳者は手話がはっきり見えるよう黒っぽい服を着るものだ。三宅さんの黒いセーラー服の前で舞う色白の手も、そのコントラストのために明るく浮きあがって見えるが、いわんとするところは読みとれない。見ていると、自分の中にある国語手話ということばが解体されてしまったような気分になる。
同級生たちがひらひら拍手すると、三宅さんははにかんでほほえみを浮かべた。
ホームルームが終わって、始業式のため体育館に移動する。
廊下を行きながらわたしたちは、後方を歩く泉さんと三宅さんをちらちら見ていた。
「統合手話、あんなにわかんないとは思わなかった」
「日本語同期手話の方がまだわかりやすいよ」
「あのふたり、ちょっとはなしかけづらい雰囲気だよね」
泉さんと三宅さんはわたしたちに見向きもせず、何やらはなしている。完全にふたりだけの世界だ。おそらくは、
「きみの自己紹介、素晴らしかったよ」
「貴女の方こそ、素敵だったわ」
というような会話がなされているのにちがいない。
王子様とお姫様なのだから。
「紗雪、声かけてきなよ」
梓が肘でわたしをつつく。
「いやいや、わたし人見知りだから」
わたしが答えると、まわりのみんなはにやにやしながらこちらを見る。「嘘をつくな」と顔でいっている。
「ホントホント。絶対無理だから」
そういいながらわたしはいきおいよくまわれ右して、体育館へ向かう人の流れに逆らい走りだした。友人たちのフリにはちゃんと応えなければ。背後で彼女たちの大笑いする様が目に浮かぶようだった。
わたしが近づくのに気づいた泉さんと三宅さんが会話を止めてこちらを見る。
ふたりの前で足を止める。彼女たちも立ちどまる。
「YEAH、YEAH」
わたしはうろおぼえの統合手話とUSSLと指文字とをごちゃまぜにしてはなしかけた。「わたし、木之瀬紗雪akaサユキーニョ・フロム・LA! YO・RO・SHI・KU!」
人の流れがわたしたちを避けてとおる。時間の流れからも取りのこされてしまったように錯覚する。
三宅さんが吹きだして口元に手を当てる。となりの泉さんが肩をすくめて笑う。
どうやらこちらのことばは通じたみたいだ。
わたしは彼女たちをひとりずつハグして、「YO・RO・SHI・KU」の意をこめて背中を軽く叩いた。LAでは初対面どうしこうやって親睦を図る。行ったことがないので想像だが。
やるべきことはやったので、わたしはふたりに手を振り、小走りに友人たちのもとへもどった。彼女たちは大笑いと肩や背中への殴打でわたしを出迎えた。
「マジで行くとは思わなかった」
「勇者だ」
「LAどこから出てきた」
わたしはふりかえってあのふたりを見た。またわたしのわからないことばではなしている。
そこでなされている会話は、
「おもしろい子がいたものだね」
「妾、あの方とお友達になりたいわ」
あるいは、
「おかしな子がいたものだね」
「妾、倉木女子に帰りたいわ」
といったものだろうか。
わたしたちは会話のときに相手の顔をまっすぐに見つめるものだが、彼女たちの交わす視線は、傍で見ているわたしがすこし照れてしまうほど、「傍目もせず」ということばが思いうかぶほどまっすぐで一途で赤裸々だった。
「ねえ、あのふたり――」
友人のひとりが彼女たちに背中を向け、その陰で小さくはなす。「つきあってたりして」
「紗雪、ちょっと行ってきいてきなよ」
梓に肩を叩かれる。
「無茶いうな」
まわりのみんなが笑う。
「同じ女子高なのに、うちらの学校、どうしてああいう百合的なのないの?」
「ブスばっかだからでしょ」
「うるせえよ」
「でも梓かわいいよ?」
「やばい。ここに隠れ百合いた」
わたしたちは明け透けで率直で、ほのめかしも遠慮会釈もなかった。
同じことばを使っているどうしならば。