宝暦543年12月26日【エルフィエラ国】ユーリス
それは、まるで奈落の底へと続いているかのようだった。
光の差し込む余地など、入り口の扉が開いた時以外には無く、今や、遥か下へと伸びる螺旋階段を照らすものは、私が持つ洋燈の灯りただ一つだけ。
少し先さえも見えぬその場所は、まさに、暗闇の監獄だった。
ひんやりとした、生きる者を拒むような空気に背筋が震えるのを感じながら、私はその狭い階段を一歩一歩進んでいた。
進めば進むほど、空気は冷たく、重くなっていく。
それでも、私はこの足を止めるわけにはいかなかった。
ーーー「これ」を「あの方」にお届けするまでは。
どこまでも延々と続くように思われる螺旋階段を降りながら、私は右手に抱えた一冊の書物を握りしめた。
書物、と言っても、それは世に出回るようなものではなく、とある一人の人物によって書かれた、世界でただひとつのもの。
ある人に手渡されたこの書物を、私は「あの方」へと渡さなければならないのだ。
それこそが、今の私にできる唯一のことでありーーーそして、それは私にできうる「最後の賭け」なのだから。
「……きっと、もう遅いのでしょうね」
「あの方」は、間違えてしまった。
そしてその過ちはもはや、やり直すことはできない。
あの方の結末は、私たちでも変えられはしないのだ。
「それでも、私は」
ーーーせめて。
「あの方」の心だけでも、変えることができたのならば。
たとえ、全てが遅かったのだとしても。
「あの方」が己の過ちに気がついてくだされば。
この書物に秘められた想いだけでも、伝えられたのならば。
私は、きっと……。
下へと続く階段の一番奥。
ふと見えた灯りに、こみ上げる感情を理性で押し殺し、私はその場所へと足を進めた。
この塔の最深部、硬い鉄格子で囲まれた、出入り口には無骨な錠前がかけられた小さな部屋。
そこは、罪を犯した王族を収監する場所だった。
コツリ、と塔へ響く私の足音に、淡い灯りの中、人影がゆるりとこちらを見上げた。
ーーー淡い光の中でも輝きを失わない、長い白銀の髪に、全てを諦めたような、翠玉の瞳。
幼いながら、「エルフィエラの宝石」と謳われた美貌は二日前のあの日から何も変わらない。
しかし、そのまとう雰囲気は全くと言っていいほどに変わってしまっていた。
五百年以上の歴史を誇る、エルフィエラ国国王、ノアール・レスタリカ・フォン・エルフィエラ。
栄えある我が国の少年王にして、つい二日前まで、宰相を務めてきた私ーーーユーリス・カインズの仕えるべき主だった方の姿がそこにあった。
「……僕を、笑いに来たのか、ユーリス」
「傾国」と呼ばれた前王妃に瓜二つの美貌が自嘲気味に歪み、その虚ろな翠玉の視線が私を見上げて言った。
「笑いたければ笑え。もはや、僕はお前の主でもなんでもない」
「……陛下……」
「僕はもう、『陛下』じゃない。……そう望んだのは、お前たちだろう?」
「っ……」
陛下の言葉に、私は思わず小さく息を呑んだ。
ーーー確かに、陛下のおっしゃる通りだ。
私たちが、この方をここへと閉じ込めたのだ。
それにもかかわらず、私は一体何を期待していたのだろう。
私が、主であるこの方を裏切ったというのに。
今更ながらそのことに気づされるとは。
「……なぁ、ユーリス。あいつは……エリシュカはどうしている?」
ポツリ、と呟くような小さな声で紡がれた言葉に、私は顔を伏せ、言った。
「……それは。……。……二日前と、お変わりはないようです」
エリシュカ、というのは、陛下の妃ーーーつまり、この国の王妃であった人だ。
ありとあらゆる贅をつくし、あまたの男たちを手玉に取り、国を傾け、そしてーーーノアール陛下を破滅させた女。
二日前のあの日。
自らの罪状を突きつけられてもなお悪びれる様子もなく、自ら陛下の御心を裏切っておきながら醜く陛下に縋った矮小な女。
今でもなお、陛下の名を呼び、周りの者に当たり散らす、愚かな女。
もとより、私を始め、臣下は皆、彼女と陛下の婚姻には反対だった。
身分も低く、振る舞いも褒められたものではない彼女は、しかし、陛下の寵愛により王妃へとののし上がった。
それにもかかわらず、彼女は陛下の妃となった後も見目の麗しい男たちを侍らせ、狂楽の限りを尽くし、国の財を喰い散らかしたのだ。
「……そう、か。ははっ。本当に……本当に、僕にはふさわしい妃だな、あの女も。さすがは愚王の王妃だ」
「陛下、それは……」
「お前たちも、清々しただろう?扱いづらい王を王座から引き摺り下ろし、優秀な前王の弟を王位につけることができたのだから」
「私は、そのような……」
「愉快だっただろうなぁ。最低最悪な女にうつつを抜かす僕を見ているのは。それだけ僕が王座から遠のくからなぁ。見ものだっただろ、ユーリス。僕が堕ちていく様は」
壊れたような笑みを浮かべながら、早口にいいたてる陛下に、私はかける言葉が見つからなかった。
ーーーどれほど、言葉を尽くしたところで。
この方にはもはや、私の言葉は届かない。
裏切り者の私には、その権利などないのだから。
この方は変わられてしまった。
いつの頃からだろうか。
我々臣下の諫言には耳を貸さず、甘い言葉だけを聞くようになった。
そうしてあの女に出会い、あの女に請われるままに全てを与え、坂道を転がり落ちていくように、陛下は道を踏み外された。
一体、いつから間違えてしまったのだろう。
私はなぜ、気がつかなかったのだろう。
この方の変化に。
最初は小さかったはずのその変化に、私は側にいながらなぜ気がつかなかったのだろうか。
これは、私の罪だ。
私は、気づかなければならなかったのだ。
前王陛下に、この方のことを頼まれたのだから。
そして、なによりもーーーこの方の幸せを、願っていたのだから。
「陛下」
ーーーこれは、私の「最後の賭け」だ。
きっと、私の言葉では、この方の心を変えることはできない。
その凍りついた心を溶かすことは、もはや私では叶わない。
けれど。
「彼女」の言葉ならば。
「今日は、あなたに、これを届けに参りました」
跪き、私は鉄格子の隙間から右手に持った一冊の書物を差し出した。
青い装丁のその書物は、誰よりもその色が似合った「彼女」を連想させる。
「……本……?いや……日記……?」
「はい。……この日記が、誰のものなのか。あなたならこの『色』で、お分かりでしょう」
ーーー私のその一言に、陛下の肩がビクリと震え、呆然とした表情が再度こちらを見上げた。