-ツバサの章- 前篇
あの、ボクはツバサです。ちょっとボクの話をしたいです。ごめんなさい、聞いて下さい。それは学校に入って、翌日の朝の出来事でした。ボクは真剣だったんです。少しでもできることを増やしたい。自分で何とかしてみたい。誰かの御荷物でいたくないって考えたんです。ごめんなさい、ひとり勝手にしゃべってしまいました。
「あの、僕…あの…」
第一声の言葉につまったボク。言いたいことや伝えたい気持ちがいっぱいあるのに、何も言えないで立ちすくんでしまったんだ。ここまで来るのに精一杯勇気を振り絞り、ようやく先輩の前に辿りついて声を掛けたのに。すべての勇気も決意も、この一瞬で使い果たしてしまったみたいだったんだ。
口の大きさより、大きな気持ちが口に詰まっちゃった。苦い何かが口元へたくさん上って来たみたい。口元に、思いや言葉が殺到したんだ。まるで火事が起きて出口へ殺して倒れ、逃げ遅れた人みたいな気がしたよ。ボクはボクの思いつめた気持ちの炎で、自分を焼き尽くしたんだと思った。
学校の前を行く人々は、ボクと先輩を気にするでもなく通り過ぎて行っちゃった。みんな登校時間前で忙しいはずだったからね。特別な関係性が見えるなら、好奇の目を向けるのだろうね。でも同じ制服着た高校生が道で立ち話しても、違和感なんてありはしないだろうし。本来なら、そこにはボクの日常が流れているだけ。
でも違和感があるのはボクだけだったんだ。視界の隅にある人々には、きっと別の思いがあるはずだろうね。当番に遅れそうとか、待ち合わせに遅れちゃうとか……。忙しい朝に、特別な出来事は似つかわしくないみたい。誰かの思いなんか、理解する時間も余裕もないだろうし。
先輩はボクを少しの間だけ見てくれていたけれど……。二の句の継げないボクに見切りをつけたのか、足早に去って行ったんだ。先輩だって、朝の予定があるだろうし。遠くなる背中を見つめながら、何か声も掛けられないし、足も動かない。かろうじて指先がかすかに動いたけれど、それ以上は何もできなかったんだ。次に体が動いたのは、ユキちゃんが、ボクの背中を思い切り叩いた瞬間だった。
× × × ×
僕はユキちゃんに引きずられるように教室につれて来られなければ、たぶん道で立ち尽くしたままだったろうと思った。先輩に声掛けした瞬間で、今日一日分のエネルギーを、ぜんぶ使い果たしていたのだから。
今日一日分じゃないのかも知れない。そう、昨晩は一睡もできなかったからね。床についた時点で翌日の分、つまり今日一日分のエネルギーを使い初めていたみたい。心の充電もできなかったのだろうね。バッテリーみたいに簡単充電できればいいけれど、ボクの心は機械じゃないから無理なんだろうな~。自分が機械仕掛けなら、いろいろと部品を組み替えて、理想の機能を得られるのに。プログラムを書き換えて、元気な子に変身できるのに! そう悔やんだりしてみたよ。
無理な事だと思いつつ、ユキちゃんには何か声掛けして、感謝の気持ちを表してはみたんだ。何かユキちゃんが言い返してくれたみたい。だけれど、耳の奥ではユキちゃんの声が、言葉が認識できなかった。頭の中でジェット機が飛んでいるみたいに、キンキンと音を立てていたんだ。
ユキちゃんの口元が動いて言葉をくれたのが判るのは、彼女が大口で唾を飛ばしながらしゃべる性格のせいだ。すごく元気がいい。入学して直ぐに見知らぬ同級生と話ができたのを見たんだ。でも、モシャモシャと小さな口で、小声で話す同級生の女子と違う。声量にデリカシーがないんだ。仲良くというより、圧倒していたみたいだ。
ユキちゃんおかげで、ボクは人生の岐路で、何度も救われてきたんだ。頼りになるし、頼って来たのがボクの人生だったんだ。この学校に編入できたのも、ユキちゃんの後押しがあったから。だあkらボクは頑張れたんだ。
ユキちゃんの大きな口が動いて、もう一度背中をバンと叩かれ、彼女は自分の席に戻った。ボクは彼女と人生のほとんどを、こうやって同じ教室で過ごして来たんだよ。みんなは仲の良い幼なじみというのだろうが、家族みたいに長い時間を一緒に過ごしているから、自分そのものかもって感じる時があるんだ。頼りにするより、彼女に身を任せた人生だったと思える。
だからこそ先輩に声を掛けて、新しい自分を描き直したかったんだ。嬉しくもあり、悩ましいユキちゃん。ごめんね。そして、ありがとう。今日も助けられちゃった。
二・学食は楽しいだろうか
ボクの心の電池パックは他にもあったみたで、なんとか無事に午前中の授業がすんだよ。ボクにも、どこに予備の電池パックが隠れていたのか、まったく知らなかったんだ。自分のことなのに、知らない能力が隠されているみたい。TVアニメのヒーローみたいに窮地に立たされると能力が発現するのかな? ボクには便利な機能が備わっているみたい。
もしかして人類を救うヒーローは自分なのかもしれないと考えると、結構楽しい気分になる。でも、そんなこと無いだろうな。自分の思いを、口にできないのは機能不全なのかもね。修理ができるならしたいものだと思っているんだ。理想の機能を装備・強化して、完全無欠の超人になれたらいいな。そんなこと考えていたら、隣のユウキが声を掛けてきた。いつもボクのタイミングを読んでくれない、ユキちゃんとユウキ。名前の響きが近いから、性格が近いのかもしれないね。
「なあ、高橋とお前は付き合ってるの?」
「どの高橋?」
ボクは男と付き合う趣味がないからね。断言しておきます。LBGTの人じゃないよ。
「ちげーよ、いつもおまえと一緒の高橋。古女房の!」
ボクはユキちゃんと婚約もしてないし、許嫁でもない。どこからそんな『古女房』なんて古風な言葉を持ってくるだろう。ユウキの頭の中を不思議に感じるボクだった。
ユウキはボクと同じ転入生だよ。この学校に入れ替え生徒として編入入学して来たんだ。
ユキちゃんとボクは、一緒に頑張って勉強してきたんだ。勉強ができたら立派な大人になれると思って、中学三年の春から頑張って勉強したんだ。普通の高校じゃなくて、私立の付属校を選んだんだ。いつもボクをバカにしていた秀才君を蹴散らして、ここに入学して見返したんだ。でも嬉しくなかった。良く考えてみると入学できても、成績が悪いと放校されるからね。ここではみんながライバルなんだ。付属校でも大学部に入れるかわからないからね。
実は即座に「ああユキちゃんのことか」と判ったけれどね。ボクはユウキに「名字で呼ぶな!」と思ったんだ。ユウキはユキちゃんと親しくもないのに! 入学二日目で馴れ馴れしく、下の名前で呼ばないよな。フツーはね! でも「いつも一緒だろ」って言い返された。「違うよ、いつも一緒じゃない」と言い返したが、聞いている風はないみたい。
「そんなんじゃない、幼なじみなんだ」と答えたが、「ふつう、高校まで一緒なんてオカシいだろ」と決めつけてきた。
ユウキは勝手に「俺なんか好きな女いたけれど、女子校に行かれて『告る』こともできなかった」と、聞きたくもない個人情報を押しつけて来たんだ。知らないよ、勝手にやってよユウキ!
「学校が違ってもつきあえばいいじゃない」と言ったら、「おまえは判ってない」と突き返される始末。どうわかっていないか、意味不明だよ。ユウキは要らない情報を勝手に伝えて来て。受け答えを一方的に否定されたボク。
これじゃ食事が旨くなくなる。まあ美味しくもない普通なんだけれどね。それに寝不足で味覚も落ちてきているみたいだし。
この学校では、昼食は食堂で食事を注文できるんだ。大学の学食みたい。というか、大学と高校が食堂を境につながっている。大学生と席は同じにできないけれど、建物は同じ。建物内が植物プランターで区切られているんだ。ちなみに中学部は給食だよ。教室や校庭で弁当を食べてもOKだよ。食堂には生協もあるんだ。
ボクが一瞬黙っていたら、ユウキはボクが納得してくれたものと勘違いしたみたいで、話は更に流れて行く。止まらない。ささっと昼飯を食べろよユウキ! ボクには今、悩ましい問題解決の予定があるんだから。この問題解決する為に、考える時間が欲しいんだよ。視線抗議の気持ちをに乗せてたが、伝わった様子は見えない。テレパシーは届かない! ユウキはボクの顔を見ないで、自分の考えにに没頭しているみたい。自己陶酔の告白モードに入ったみたいだ。その『告白できない彼女』の話を、なぜか自慢げに話すユウキ。
周りでみんなが聞いているよと言いたいが、面倒だから言わなかったんだ。きっと気持ち良い思い出があるんだろうね。
ユウキの勇気はどこから来て、どこに進んで行くのだろうか。ボクの勇気は、今日の朝に頓挫して、どこからやり直していいかか判らないんだ。実行力と決断力が生まれる薬があって、簡単に勇者になれたら凄いだろうなと思った。ロール・プレイング・ゲームの主人公にたいに、簡単チャージのアイテムで大変身できたら、人生が楽かもと考えてみたよ。
目の前のユウキみたいに、ちょっと恥知らずでも『良いかもね』と思い当たる気がした。行動力には、裏付けのない自信とか、思考停止が必要なのかもしれない。ちょっとおバカがいいのかも?
聞いてもらえない相手にも、自分の気持ちを開示できる能力と性格があったら、ボクみたいな弱気系の友達を、何人も獲得できる可能性がある? もしかしてボクは、ユウキの獲得したゲーム上の重要でないアイテムの一つなのかな? そんな考えが一瞬だけ浮かんだら、食事がさらに味気ないものになってきた。ママが作ってくれたサンドイッチなのに。ちょっと悲しく思えて来た。
夕方にお腹が減ると嫌だから、サンドイッチを一気に口にかき込んで終わらせた。食材が喉に詰まって咽る。ボクが席を立ったら、ユウキが「待て待て」と話を止めて、早口で食事を済ませて、ボクの後を付いて来た。
ボクはユウキのアイテムじゃない! 後ろから追い掛けて来て、慌てたユウキを見た瞬間に、何か迷いのような物が吹っ切れた。ボクはボクなんだ。誰の物でもないんだ。ボクは少しだけ元気が出た。朝の失敗を挽回しなくちゃ。
三・下校中は告白タイム?
下校時に道を進みながらユキちゃんに聞いてみたんだ。
「え、そうでしょ。」
ユキちゃんの第一声は、ボクの予測を断ち切ったんだ。これは心が一刀両断に切られた状態かも? 袈裟切りってヤツかな。ボクの考えが、見事に真っ二つになり、果てた瞬間。
ユウキがボクに「ユキちゃんと付き合ってるのか」って訊いた話をした時だった。「ユキちゃんとボクが『付き合ってるように見える』みたいだよ」そう聞いたんだ。そうしたら、ユキちゃんはしたり顔で「当然でしょって」って顔して言ったんだ。
実はボクが知らない事実だった。そもそも『付き合うって意味』を深く知らなかった。それがようやく理解できたみたいな気がした。そうかこれが『付き合ってる』とされる状況に、ボクとユキちゃんがあるんだね。ユキちゃんとボクは『幼なじみ』で、幼少から付き合っていたんだ。ボクひとり『知らなかった事実』が明らかになった。『付き合う』って、男女がラブラブ光線を出すオーラに包まれている様かと思っていた。ボクはユキちゃんと手をつないだのは、小学校で終わっていたと思い返す。チューしたこともない。幼稚園時代にバグしたことしかないのだから。
ユキちゃんは言う。
「バレンタインで、誰からも『友チョコ』とか『義理チョコ』を貰ったことないでしょう」って。確かに振り返ってみても、一度も無かったね。
ボクとユキちゃんの仲は、学校中に知れ渡っていたから、誰もボクを『付き合う』対象に選んでいなかったと思う。もちろん人気があるなんて思ってなかった。秀才君からは馬鹿だと思われていた。いじめっ子からは、愚図だと悪口を言われていたもの。常にユキちゃんが、ボクを同級生から守ってくれていた。ユキちゃんは腕っ節も良かったし、実際に喧嘩も強かった。ボクをいじめた子らを、10倍返しでいじめていたくらい。中学生になると男の子の方が強かったはず。でも小さい頃に記憶されたみたいで、ボクに直接手を出す子は居なくなっていたから。ヒナが親鳥を覚えるような『すりこみ』が起きたのだと思いよ。きっと強烈な記憶なんだろうね。ユキちゃんは家の仕事も手伝っていたから、小さい頃から力が強かった。ユキちゃんのパパは大工さんで、凄く力持ちなんだ。
この『付き合ってる』事実を、ボクは高校に入る今日まで知らなかった訳だ。何かヘン。そして最初に理解したのはユウキなんだね。それで一応確認してきたんだね。雰囲気というか、空気を読んでるユウキだ。
クウキとユウキは文字が似ていると思えたら、何だか笑えてきた。空気を読んだことないのが、ボクだったんだね。どこかのマンガに出てくる『仲良しカップル』はここに実在したんだ。ボクとユキちゃんのことなんだ。そしてボクはフシギ君だね。
「へ~」と感心たボク。自分の鈍感さに落胆もしなかったし、事実関係の嬉さも感じなかった。ボクとユキちゃんの関係は、あまりにも日常過ぎて、何の異変も感じないで育って来たんだよ。ボクはユキちゃんの傍らで、スクスクと守られて大きくなったんだ。きっとこのままズッと、仲良しでいるんだ。空気みたいに、あって当然のこととして。
きっと前世から約束されて、この地に生まれて近所に住んで、大きくなる。そんな気がする。テレビゲームのキャラクターみたいに、そこから逃れられない運命の存在で、決まったライバルや敵以外とは交戦しない世界があるのだろう。中学時代までの秀才君やいじめっ子も、設定として決まっていた敵なんだ。小さくて、狭くなくて、広すぎない世界。でも見たことない設定も、どこかに存在しているんだろう。今日の朝に上手く先輩に思いを伝えられないのも、隠れた設定なんだ。きっとそうだ。予定調和と予定不和が、偶然のように、必然の設定で訪れる。出会ってしまう世界なんだ。
ゲームをしているのはボクじゃなくて、見えないどこかにいる神様が遊んでいるのかも知れない。ユキちゃんの言葉には、力があると感じたボクだった。逃れられない力が。
「ママにも頼まれているからね」
「ツバサ、幼稚園の時に約束したよね。私がツバサを守るって」
確かにそうだ。約束というか、少しだけ強要された気もするが、確かにそうだ。十分に納得したし、受け入れたんだ。ボクは今も弱いから。ユキちゃんに頼っている。だから「付き合って」いてくれている。だから今まで気にして来なかったんだ。忘れていたのかもしれない。昔から約束されたことで、すっかり心配が無くなって、安心して暮らしてこられた。安心したから『忘れた約束』約束の二人なんだ。
「ツバサ、誰か好きな人できたの?」
「うんん、違うんだ」
ボクには誰もいない。ボクの心に誰も存在できなかったんだ。ボクの心にはユキちゃんしかいなかった。家族が突然に取り替えられないように、ユキちゃんはユキちゃんで、ボクの暮らしの一部なんだから。ユキちゃんは安心の象徴であり、鬱陶しい家族の一員でもある。ユキちゃんにとっても、ボクにとっても、大切な事実だろう。不安に感じたから、ユキちゃんに聞き直してみた。ボクのことは、ユキちゃんはどんな存在なのか。
「フツー」
それがユキちゃんの答えだった。そう言われるだろうと予想していたんだ。そう思った。そして安心して、ユキちゃんに、窮屈さと親しみを増したボクがいた。特段の問題が無いのだから『付き合ってる』と思えばいいんだ。ユウキにもう一度聞かれたら、そうらしいと答えればいいんだね。ボクが独り知らなかった事実だって。きっとユウキは笑うだろう、いやバンバンと背中や肩を叩かれるかも。鈍感野郎ってね。うん、納得だ!
「危ないよ」
ユキちゃんの声がした。
「え?」と答えた時に、視界全てが真っ暗になって、衝撃波と煌びやかな星明かりが灯った。そして花火のように弾け飛んだ。突然の『ボス・キャラ』攻撃を受けたらしい。しばらくして、熱いものが鼻を伝わって口に入ったんだ。
四・自宅にて
「ユキちゃん、ありがとうね」
向こうからママの声が聞こえる。そして扉の閉まる音。耳鳴りのする頭。響いている音や声。そして振動が頭の中を駆け巡る。五感が極度に敏感になったようだった。頭にアンテナを立てたら、電波も受信できそうな気がしていた。でも皮膚感覚は鈍感になっているだろう。ずっと悶絶していたんだから、敏感のままじゃないはずだ。痛みに耐えて、呆けていただろうね。
きらめきが眼前に広がった時に、唯一聞こえて来た鈍い響き音。何かが額にめり込む感覚を覚えていたよ。首が不用意に折れ曲がって行く感覚もあったんだ。不意打ちと呼ばれる状況が、ボクの脳感覚を増大したような感じ。でも身体感覚は曖昧だ。あの時の衝撃で重力が消失した感覚もある。横になっていたはずなのに、泳いでいる感覚もあったもの。
ボクは自分の置かれた状況が把握できなかった。考えが至らぬ内に、斜め後方に倒れたみたいで、背中に大きく広いものが、打ち付けてきた感覚があった。上下感覚も左右の感覚も、渾然一体となったんだ。だから何が何だか分からなくて当然だよね。
しばらく何も聞こえなかったし、手足がドコに付いているかさえも判らなくなったから。
ユキちゃんの話によると、ボクは何か心あらずな雰囲気で一日中いたらしい。自覚が無いんだけれどね。まあ昨日から寝ていないのだから当然だよな~。それで『付き合ってる・いない』の話が突然ふられて、ボクがどうにかしちまったんだと思ったらしい。通学路の途中で、先輩と向き合って何かを言いそうな、もどかしい状態から変だと思ったらしいんだ。明らかに何か変だ、もしかしたら病気かも知れないって。受け答えも変だし目も血走っている。重度の花粉症にでもなったのかなと。
4月だし、桜の花粉症。そんなこと聞いたことも無いからね。市内は観音山に向けて、一面桜が満開。道の雑草もまだ小さい。思い当たらないから不思議に感じていたみたい。
それで話しをしながら上の空だったり、俯き加減だったりしていた。道を注意散漫で歩いたあげくに、路上駐車していたトラックの建設資材に突っ込んだんだって。前見て歩いていない訳だよね、マンガ読んだり、MP3操作したり、スマホに夢中になったりと同じだね。愚か者、バカ者のする事を、ボクは心有らずにしていたようなものだ。
目線より高い位置に積まれた資材が、車体の荷台よりも上に飛び出ていたから、視界に入らなかったのだろう。お笑い芸人の虐待コントのネタみたいに、後ろに倒れたのだとか。綺麗に衝突して放物線を描いたらしい。
ユキちゃんはボクに注意を即してみたけれど、反応が余りにも鈍いかったらしい。見事な衝突劇を間近に見て、ウケ狙いなのかと勘違いをしたくらい凄かったらしい。そして路面で後頭部もぶつけて、大きな音もしたらしいよ。
ユキちゃんは大笑いしたけれど、一向に起きあがって来ないし、反応も無いから失神したのかと感じて、逆に焦って駆け寄ったそうだ。そうしたらボクは上半身を起こしたらしい。鼻血を結構流したので驚いたのだとか。
ユキちゃんは実家の倉庫で、パパの職人さんが怪我する様を何度か見ていて経験があるみたい。大したことない怪我と、危険な怪我の区別が付くようなんだ。ボクのは後者に近い可能性があったらしい。一気に鮮血が鼻から出たらしいから。
ユキちゃんは救急車を呼ぼうとしたら、ボクが元気に歩きだして行くので、急いで追いかけて来たのだとか。ボクは思いの外足が速く歩けるらしい。ユキちゃんは必死に追いかけたんだって。大丈夫かと思って心配しながら追いかけてきたそうだ。鼻血は直ぐに止まって、路面に落ちた血痕は直ぐに途絶えたのだとか。シャレにならないゾンビのようだったらしい。完璧に何かのギャグ漫画みたいな展開だったらしいよ。ボクはユキちゃんの声が聞こえなかったんだ。すごい耳鳴りだったのだろう。
ボクが帰宅して、迎えに出たママが、ボクを見て驚いたらしい。治療しようとしたけれど鼻血も止まっていたし、受け答えもそれなりだっったから救急車を呼ぶのは辞めたらしいね。ママは元学校の先生で、体育系の怪我にも詳しい。だから怪我の見立てに間違いが無いそうだ。ラグビーみたいな強烈な競技や、格闘技にも造詣が深いんだ。
でも一応心配なので、経過を見ながらボクを着替えさせて、お茶飲みながら経過観察していたらしい。ユキちゃんと、事の顛末を子細に聞いて雑談していたみたい。
例えるなら、動物園の間抜けな猿の観察をしていたみたいなものだろうね。木から落ちた間抜けな猿。水中でおぼれた魚。そんな感じかな? それとも夢遊病の猿かな~。ああ情けない高校生だなボクは。学校に入って2日目なのに。はしゃいで怪我する小学校一年生みたいだ。きっとボクは、ユキちゃんが側にいないと、生き永らえることもできないのかな。そう考えると益々情けない気持ちになる。
衝撃力の強さで遠く耳鳴りはしているが、次第に正気が戻って来るようだ。望まない結果だったが、なんとか正常心に戻れそうな気がする。吐き気もないし、脳の異常も何とか治るかな?
鼻に詰め物したが、しないほうがいいらしいね。最近の治療トレンドらしい。小さい頃は幼稚園で、先生に脱脂綿を突っ込まれていたから。そんな記憶が多いのかも? 話を聞いていて、体が辛くなったから横になろうとしたら、しばらくは座るように指示もされた。それも最近の常識らしい。横になると血液が頭に回りやすいそう。だから鼻血の原因が去るまで、普通に座っていた方が効果的らしい。
鼻血を出す機会も、見る機会も、久しく無かった。もう時代は知らぬ間に変化していたみたい。時代の流れに追いついていないボクは、何者なのかと疑念を抱いてしまう。疑念なのか、不愉快なのか? 頭がムカムカして来たら、本当にこみ上げてきて、トイレで戻してしまった。この時は死んじゃうかもと思った。心配されたくないから、ママやユキちゃんには、部屋で戻って来ても黙っていた。
日が暮れてしばらくして、頭の痛みが平衡状態の頃には、お腹の調子は回復したみたい。嘔吐感は無くなったんだ。そして血色が良くなる程に、今度は頭の外の痛みが増した晩だった。すごいタンコブが出来ているみたい。腫れて触れない。そしてタンコブが熱い!
本当は病院に行った方が良かったのかなと悩んだら、また不安で眠れなくなりそうな気がしてきた。どちらにしても寝返りできない。タンコブが枕に触って、激痛が走る。こうして痛みが、悩みを押し流してくれた。先輩への対応も考えられなくなっていたんだ。
額の傷は薄く小さく、生え際奥なので目立たなかった。衝突した先が尖った何かだったら、陰惨な傷が付いて、一生笑い者にされただろうと想像するよ。考えれば考えるほどに、不安は募り、未来に向けた不満が積み上がる。悪い考えは悪い未来を想像して、暗い面もちになるんだ。『人生一寸先は闇』なのかと考えると、ボクの将来は明るくは成らないのかも? と思えてきた。難し目の言葉が頭に浮かぶ。受験勉強をし過ぎた影響かもしれない。身分不相応な学校を選んだ罰かもと思えてきた。
うまく先輩に話せるか悩み、話せぬうちに失望しちゃった。ユウキからボクの知らない現実を投げかけられて困惑し、ユキちゃんに相談したら驚いた。最後に留めの一発を食らうなんて。そして今に至る激しい痛みと、情けない状態の心。ボクの青春の闇は、深く広い。それから明日の課題実習を思い出して、更に嫌な気分になる。
高校に入り明るい学生生活が始まると思ったのに、桜の散るがごとく夢も散り行く。そんな気持ちになる予感を、入学前にも感じていたボクだったんだ。春休み中は、この先は大丈夫かなと思い悩むのと、きっと楽しいことがあると想像する思考が、すっと自分の願望と不安で混濁してくれていたんだね。こうして授業が始まって、ボクがどこに着地する一点があるのか? 先が見えないことが、心をささくれ立てていたんだ。可能性と限界点が見えないし、あまり見たくもない気分。気持ちの両天秤が、小学校のシーソーみたいに、音を立てて上下に運動していたのだ。
もう昔みたいに、誰か大人の膝で、うずくまって嵐が過ぎ去るのを待つ。そんな機会はもう無いのだと、高校生になって薄々知った頃のボクだった。頭の痛みが悪い閑雅を引き寄せてくるんだ。その心の暗闇に渦巻く厚い雲に、翻弄され弄ばれる恐怖が脳内に浮かんでは消えていったんだ。ゲーム内で、怪物に揉みクチャにされる主人公が、くるくる回る画像を思い出す。何だかボクの視界も回っているように思える。登場人物である主人公の顔が、困難な場面だけボクに入れ替わる幻も見た。
小さい頃に怖い夢を何度もみて、震えて起きた晩もあったなと思い返すんだ。ゲームをやり過ぎだとママに叱れて、泣きながら寝た晩によく見た光景もこんな感じだったかな? 夢の中の自分は、いつもやられる主人公。ゲームは最初からやり直しだね。中学3年の受験勉強で、ゲームはみんな処分しちゃった。ボクが自分かが処分したんだ。高校生になって新しい自分になりたいって思ったから。自分から言い出したんだ。ゲーム機はリユース店に売って来たよ。パパと一緒にお店に行って貰ったんだ。ボクの決心を見て貰えた。バカで愚図から変わりたかった。でも愚図は簡単に治らない。朝先輩に申し出が出来なかったから。機能の晩もこうして悩んでいたんだね。ゲームオーバーの文字も見られずに終わる夢みたいな考え。
ゲームが決して終わらないのだと、暗示してしている証拠かもしれないと考えてみた。現実界で痛い目みるのも当然かと思うんだ。空想が現実に追いついて来たのかな? 現実界に、ゲーム界が影響を及ぼしている! 仮想世界の侵略が徐々に進行しているのかな? ボクはその先端実験体として、ゲーム界の供物にされているのかも。何て恐ろしい考え何だろうか。考えれば考えるほどに、暗闇に落ちて行くかのような気分だった。
もう手元に無いのに、テレビモニターにつながれたゲーム機が視界に入る。黒い液晶画面から怪物が飛び出してくる。部屋が洗濯機の中で、揉みクチャにされるみたい。部屋が怪物や勇者でいっぱいになる。息苦しさで目覚めた。寝られないと苦しんでいたのに寝ていたみたい。自分の部屋の照明器具が見えた。グロー玉が光っていた。起き上がったはずみで、オデコが痛くなる。眼が冴えてしまう。すごく汗をかいていた。ああ寝ていたのかと、しっかり理解できるのに数秒かかったんだ。生きてて良かったと、言葉が浮かんできて、口にしたんだ。自分は先ほどまで、ゲーム世界で葛藤していたのかなと思えたら、すごく震えがきた。痛みでどうかしてしまったのかなと思ったよ。両手て顔を抑えたら、指が額を触って激痛がきたんだ。オデコの怪我を覚えているのに、配慮できないボクがいた。己の不始末で、痛めた体に追い打ちを掛けてしまった。
学校で皆に、怪我をバレないようにしないといけない。誰かに傷口を触られて、痛い思いすると、心配が頭を過ぎる。上半身を起こしていると。ちょっと視線が泳いでいるみたい。まるで船に乗っているみたいな感覚になる。ベッドで船酔いもないだろうと思いながらも、痛み呆けに泳ぐボクがいたんだ。
その時にユキちゃんから携帯電話にメール連絡が来て、明日学校に行けそうかと問い合わせて来たよ。画面を見たら9時だった。痛み止めの頭痛薬で寝てしまったみたい。お腹は空いていない。食欲は無いみたい。着信音で、我に返ったみたいで頭がすっきりする。ボクは当然、全然大丈夫と答えてメールを送っておいた。そういえば、ボクのメールにはユキちゃんしか登録してないな。頭が痛いけれど、小さく声を出して笑ってみた。妙に軽いテンションな自分に驚いたボクだった。でも顔全体が腫れぼいったい気がする。
五・受難は教室からはじまる
ボクの心のスキを狙ったかのように、ユウキが絡んで来たんだ。朝の挨拶のつもりみたい。不用意に接近されて、逃げる間もなかった。ボクの状態を説明する暇もなかったからね。
「おい聞いてくれよ、昨日オヤジにスマホ買ってくれって言ったら~、頭をこう拳骨でガツンとやられて~」
ユウキが実況再現しながらボクの頭を拳骨で、軽くコツンと叩いたんだ。親に受けたその通りの動作で、拳を頭に軽く乗せてくれたわけ。まあ油断していたボクも悪いんだ。最悪の想定をして逃げる準備とか、配慮する事柄はたくさんあったわけです。
ボクの思いがけない悶絶ぶりに驚き喜んだユウキ「え、何なんだ。どうしたツバサ?」声が嬉しそうだった。でもボクは嬉しくない。でも反応を見て、ユウキはボクを『ノリのいい奴』だと思ってくれたそうだ。とんだ勘違いだね。
ユウキは調子に乗って「そうそう、こんな感じで」と、もう一度ボクの頭に乗せた拳。
その刹那、ユウキの後頭部にユキちゃんの跳び膝蹴りが入り、ユウキとボクの惨事は見事にコレで済みました。もうこれで終了です。ユウキもボクも同時ノックアウトでしたから。
教室にいた皆は、何が起こったのか、正しく見ていなかったみたい。僕等新入生も、じょじょに教室に打ち解けてきた頃みたいだった。ずっとこの学校に在籍していた同級生には『あちらは仲良くて羨ましい』と勘違いしてくれたことでしょうね、きっと。プロレスごっこなんて、小さい子のじゃれ合いくらいしかないから。
ちなみにプロレスだと『飛び膝蹴り』で、格闘技系だと『跳び膝蹴り』だよね。見た目が派手だから『飛び膝蹴り』は特撮ヒーロー物やプロレスでは定番だよね。でも身体ダメージは、見た目程ではないらしい。蹴り比べられたことがないから、わからないけれどね。
教室のベランダでユウキが「ワリイ~、ワリイ~」と謝ってきた。ユキちゃんはユウキには謝らなかった。きっと痛かっただろうな。後頭部への不意打ち蹴りだから。
ユキちゃんの膝は柔らかいか固いのか、ユウキの負ったその感触は、ボクには想像できない。もしかしてユウキは、女子に蹴られて嬉しかったかも知れないし。後で時間を置いたら、詳しく聞いてみようと思った。当事者のユキちゃんは、少し距離を置いてもベランダにいて監視しているわけだし。ちょっと聞きにくい。『体験してみる』なんて、膝蹴りを見舞われたら、壊れた頭が割れちゃうかもしれない。跳び膝蹴りは必殺技ですから。
遠くを見てるユキちゃんの横顔は、ちょっとだけ険しい。何かしら聞き難い雰囲気をまとっているもんね。ユキちゃんは何も語らないが、ボクが簡単な理由を、身辺雑記を交えてまとめて、ユウキに説明しておいたんだ。「頭をぶつけて凄く痛いんだ」と言いくるめておいた。
「おまえにも、いろいろあるな」と妙に合点したユウキだった。
「別にいろいろないよ。たまたまだよ」ボクにはいろいろなことはないんだ。昨日は立て続けにいろいろあっただけなんだ。
ボクはついでに、朝の話を切り出してみた。「スマホが欲しいの」と聞いたら「ジョーシキだろ」だと応えるユウキ。「そう常識なんだ」。ボクは欲しくないし、友達は少ないから電話する相手も少ない。中学を卒業したら更に遠縁になったからね。ユキちゃんもボクも、昔ながらの携帯電話だよ。受験勉強中には、電池を抜いて机の奥にしまって置いた。こうすると勉強が捗るって、ママが教えてくれた。ユキちゃんも毎日来て、ボクのママに勉強を教えて貰っていたから、連絡する必要もなかったんだ。だから高校に入っても、スマホはいらない。そう思っていたよ。
ユウキはスマートホンを使って、アプリケーション・ソフトでいったい何をしたいのだろうか。ユウキ達はどうして、たくさん友人を欲しがるのか、それすらもわからないボク。知り合いと、トモダチと、親友の境界線は今も不明だね。そもそも同級生って何だろうか。辞書を引いても、単語の意味を読んでも、ピンとこないな。
ユキちゃんに聞いたことあるけれど「自分で決めればいい」と教えてくれた。決めちゃっていいのだろうか。ボクが決めても、辞書の文言は書き変わらないよね。ネットの辞書サイトも、教えてコーナーも書き変わらないんだから。ならば何を基準に決めたらいいか、わかからない。
そもそもユウキの唱える、『義務感』や『ジョーシキ』とか『トーゼン』とかの意味も理解できないよ。こういうのを『抽象的』って言うんだね。『具体的』でないんだ。受験勉強の時に、ママが注意してくれたこと。記述問題の解答に『抽象的』な言葉をたくさん使うと、何も決められない、考えない人だと思われると解説して貰ったんだ。面接でも具体的に答えなさいと注意されて、何度も練習したんだ。ユウキはそんな『抽象的』な言葉使いで、面接受けてはいれたのかな? 面接の受け答えは、別の顔だったのかな?
そもそも目の前にいるユウキは『トモダチ』なんだろうか『知り合い』? 同級生には違いないけれど。同級生は『トモダチ』に自動的になるのかな。卒業したらどうなるのだろうか。この学校は、成績が下位でなければ自動的に大学へ進める。大学院も入れる仕組みだよ。でも下位の生徒は足切で退学か、一般入学者と一緒に再試験で戻るかするんだ。ボクもユキちゃんも下位の生徒を押しのけてここに入ったんだ。ユウキだってそうだろう。同級生は順位が下がるほどライバルになる。戦う相手になっちゃう。だからママから注意されていたんだ。勉強しないで成績がさがると、ユキちゃんとも戦うことになるって。だから学校が終わってから、毎日勉強を欠かしてはいけないんだ。
この学校は希望すれば、推薦で大学にストレートで入れる。一応基準線はあるだろうけれど。大学に進学して、学部が違えば滅多に合わなくなるだろう。食堂で顔合わせするくらい。その時に『トモダチ』でいられるだろうか。みんな『トモダチ』からも卒業するのだろうか。
前の中学での同級生は、半分くらいの人数しか携帯電話を持っていなかった。卒業した今となっては、自宅の連絡番号も知らない。年賀状をやり取りする習慣もなかったからね。だからもう『トモダチ』でなくなったのかな。それにユキちゃんいがい、ボクを友達と思ってくれる人は居なかったとおもう。ボクはバカで愚図だと、小さい頃からズッと言われ続けたからね。
パパやママの時代は、同級生や先生の連絡先が書かれた表を学校からもらって、年賀状を書いていたりしたらしい。今は連絡票とか個人情報はもらえない時代だよ。昔は情報管理が甘かったんだね。何とかという法律で、個人情報を渡さない決まりになったんだとか。卒業して暫らくすると、ボク達の在籍した情報も消去されるらしい。管理はぜんぶ役所に行くみたい。学校に行っていた事実も記録も記憶も消えてしまう。僕らのいた痕跡は消える。元気に生きていることを知る人も、消えてしまうのだろうか。昔のボクは今は幽霊みたいなものかも知れないんだね。ちょっと悲しくなった。
ボクらが、ここに生きてきた証拠も、やがて消えて無くなるんだ。ああ、そうなのか。
ゲームの戦闘記録のメモリーをリセットするように、ボクの過去も消える。そんな考えに至り、妙に背中が寒くなった気がしたよ。でもボクはどこかに生きている、これからも生き永らえているんだ。
中学生のときには、この先に待ち構える『高校受験』があるんだと、ずっと不安な気持ちを持ち続けていた。記録や記憶が消えちゃう事実を、不安な気持ちが前に押し出す。今までの思い出を、どう扱うのがいいのか、考えもしてこなかったんだ。今日が明日に続いているから、いいのだと考えていたんだ。
この世界が本当ににゲーム界だったら、プレイヤーに『ツマラナイ』と言われて、データ消去されてしまうかもしれない。ゲーム自体も『ツマラナイ』『イラナイ』って売られたり、ゴミにされちゃうかもね。これはゲームの宇宙も消え去ることなんだろうな。
恐ろしい考えが想い浮かんだと思えて、ユウキの話を上の空で聞いてしまったんだ。ボクは空の雲間に飛んで行き、水蒸気のように消えてしまいそうだと思えた。ユウキの言葉が聞き取れない、読みとれない速度の大量音声データが、青空に飛散して消えてゆくのが見えた。もしかしたら言葉も文字であり、こうして目に見えるのかも。声は文字を耳が錯覚したのかもしれない。何だかおかしな考えが頭の中をめぐるばかり。ボクの妄想の、終着点が見つからなくなった気分になる。言葉と文字がどんどん溶けて一緒になる。
もう何もわからない。
自覚できるのは、まだ少し痛い頭が痛いことだけ。心臓の鼓動で、頭の血管が揺れて、脳天が鼓動していることがわかる。血管が風船やホースみたいに感じる。
まるでクイズ番組の、回答できる残り持ち時間を知らせる、巨大なタイマー音のようだ。もうすぐ切れますよ、終わりが近づいていますよと、ボクに知らせるみたい。頭の中にも心臓があって、鼓動してるような感覚が生じてきたんだ。
なんだか要領を得ないボクの意識。目の前でユウキが何か話してるみたい。言葉も文字も掴み取れない感じ。言葉がボクの周りで、零れて行くばかり。留め度が無い気分。次第にフワフワと、浮いているみたいな気分になったボク。やがて気持ち良くなってきた。
ユキちゃんの聞取り証言に拠ります。
ユウキは、ボクが不自然に笑う顔が変だから「席に戻ろうぜ」と言ったらしい。
ユウキによると、返事のしかたが酔った人みただったそうだ。何度もおかしな頷きを繰り返して、ベランダから勝手に教室に戻って行ったそう。ユウキの誘いを聞くまでもなかったらしい。
ボクが覚えているのはひとつだけ。後ろを振りくと、怪訝な顔のユキちゃんの表情。ボクはユキちゃんに「大丈夫だよ」と言いたかったのに、表情が固まってしまい、口が動かない。心配しているユキちゃんの顔が、本当に印象に残ったのが、凄く悲しかった。
席に戻ってみたものの、ユウキの顔はいずこへかに消え、教室も霞の中で見えなくなった。
六・白くて怖い部屋
テレビや映画のドラマで見た光景。ドーナツ条の機械の前にあるベッドの上へ、ベルトで縛られた時、ボクの人生もここまでかと思ったんだ。大袈裟じゃないよ。一度視界が真っ黒になったんだから。空にユウキの言葉が飛翔しているのも見たし、ボクが空中に浮かんでいるのも感じたのだもの。
傍らで看護師さんが、ボクの腕に何かの注射をした。注射の前に、機械の技師さんと看護師さんが、ボクに何か説明してくれたけれど、耳には届いたけれど頭には届かなかったみたい。まったく覚えていないから。あまりに心臓がドキドキしていたから、このまま心拍数異常で死にそうになって、緊急手術されたら嫌だなと思えたんだ。もう観念して辛くなっちゃった。
病院にくる記憶は昔から、痛いことされる場所で、今回も同じだね。注射されて泣くんじゃ、凄く恥ずかしい高校生になっちゃう。だから涙は我慢したけれど、いくら堪えても目尻に涙が浮かんだのを自覚して、すごく切ない気持ちになったんだ。恥ずかしいけれど、もうベルトでベッドで固定され、重いシートに体をくるまれたから、手も足も動かせない。
耳元で看護師さんが、「閉所恐怖症でパニックになる時は……」云々と説明を受けた。覚えているのは冒頭の言葉だけ。既に爆発しそうに怖いんだ。ボクは幼稚な高校生だと思われたくないから「はい、はい」とカラ元気を振り絞ったんだ、エライだろ。でも声になったのか怪しい。口が強張っているのがわかった。いわゆる「大きなお友達だね」ボクは!
エジプトのミイラみたいな面持ちだった。でも周囲が気になり頭を少し動かすと、頭に渡されているベルトがコブに当たって凄く痛くなる。技師さんに「動かないで」とマイクで呼びかけられてしまった。これじゃ「いけない子」だ。怒られちゃった、情けない。
きっと「まな板の鯉」の鯉は、こんな気持ちをしているのだろうか。そんな想像が頭をよぎる。自然に軽い現実逃避を試みた。鯉とか魚って、死にたくないって涙を流すのかな?
どんな場所でもどんな状況でも、ボクは勝手に妄想力が発現し、気分を紛らわせる。特技?
ちょっとだけ喉にこみ上げて、軽い嘔吐感があったけれど、何事も起こらず、過ぎてしまえば何ともない。後の問題は、待合室で延々と待たされたことだ。妄想モードが発揮されそう。それに、入学早々に病気で早退したこと。これは情けない。早退理由は恥ずかしかったけれど、正直に先生に話をしたんだ。いや、上手に口が開かなかったから、ユキちゃんが保健の先生に話したんだっけ。記憶も曖昧で、不確定なままだった。保健室に同席してきた担任の先生は少しも笑わなかったし、保健室の先生は深く考えているようで、口元と眉間が強ばっていた。ボクは曖昧な記憶でそう思い返していた。真剣な話をしているのに、ボクの顔は笑顔が解れなかったように思う。これは顔面神経痛だったのかな。顔面麻痺だっけ?
ユキはボクのママに電話してくれて、結構早目に学校に迎えに来てくれたらしい。
ボクは学校で、要注意人物の一人に選ばれて、学校中が氏名を覚えたのだろう想像する。みんなには特異のある生徒情報として、書き加えられたことだろうね。中学校でも、小学校でも幼稚園でもそうだ。いつも病気ばかりする生徒は、すぐさま先生と生徒に、名前と病状を覚えていたもの。あとお漏らしする子もね。みんな要注意児童や生徒だもの。これで僕も、この学校で、その仲間入りを果たしたね。間違いなく。
病院で注射されるのが嫌で、いつも健康に留意していたのに。こんな大げさな検査になってしまった。真白い部屋で、耳障りな機械音のする検査機で、頭の中を調べられたんだから。これって改造人間の出来上がりみたい? きっと明日からは学校で「頭の検査した誰ソレさん」と覚えられて、顔見る度に「大丈夫か。大丈夫か」って心配されるに決まっているんだ。変な注目を浴びて生きるが、一番嫌いなんだよボクは!
こうして「誰ソレ」と目をつけられると、伸び伸びし難くなるのが通例だもの。優等生と不良生徒、不幸生徒にだけは、絶対になりたくない。そう願っていたのだから。
病院に来て、ドーナツみたいな機械に縛られてから、薄笑いは消えたみたい。横で座るママの心配顔がみえる。ごめんなさい。やっと顔のこわばりが取れたのが自分でもわかる。ママの心配顔が横目で見えるたびに、申し訳ない気持ちで一杯になる。どんな反抗期の子でも、こんな怪我や病気で心配を掛けないだろう。
ユキtりゃんも学校で心配しているはずだ、きっとそうだ。でも病院内だから電話を使うことはできない。それくらいボクも知っている。普段は電話なんかしないのに、すごく電話のことが気になる。巡り合わせが不得意を招きよせた。嫌なことは嫌なことを呼び込む現象が起きたんだと思う、病院のボク。
会話をしないで一人考える時間がたくさんあると、それも面倒なんだなと実感できた。いろんな出来事が起きた昨日と今日。きっかけは、ボクがダンス部の部長である先輩に、入部したいと声を掛けたいと思ったことだった。それで悩み抜いて、寝不足になったのが発端だ。クヨクヨと悩み過ぎるのが、ボクの特長で短所だね。でも直せないんだ。
いやいや、たまたま巡り合わせが、悪い方に行っただけなんだ。何も考えないで行動するより、考えた方がうまくゆくはずだからね。失敗の元は、昨日の下校時に前をよく見ないで、考えながら歩いたから。だからこんな目に逢っているんだ。それでも『考えて行動する』ことが、美徳なんだと肯定してみる。たまたま、ちょっとだけ失敗しただけ。そう自分を慰めてみた。これはきっと素敵な考えであると思えるよ。『くよくよ』しては勿体ない。そうだ。ボクは『くよくよする人間』なっていたのかとわる。『くよくよした』の堂々巡りだね。考えるほどにわからなくなる。『くよくよ』するのはもう辞めよう。止められたらだけどね。
午前中遅くに来院して、すぐに検査してもらったけれど、CTの結果が出たのは夕方。凄く待たされた。これでも早い方なんだって。通常の来院だと、1週間くらい掛かるらしい。
『便りがないのは無事な知らせ』なのは、病院でも適用されるのだろうか? わからないね。『一時的な怪我によるストレスでしょう、ご心配なく』医師に説明を受けると安心する。これで大丈夫だと、痛むオデコを触りたいが、触ると痛いだろう。首を振ると痛いもの。ママは横で心配顔を崩さない。きっと心配して疲れたのかな。ボクはママの事が心配になった。ごめんねママ。
ママは心配で心労になったみたい。帰宅後にソファーで横になって、起き上がって来ない。夕食の支度や風呂の準備は、パパとボクがしたんだ。頭が痛かったけれど、何とかなった。それにパパは料理が上手なんだ。ごめんねママ。苦しめたのはボクなんだね。でも口に出して謝れないのがボクなんだ。
そしてありがとうパパ。
ユキちゃんに電話するのを忘れたことを思い出したのは、深夜近くだった。
「ごめんユキちゃん」
電話するのが凄く気が引けて、携帯電話のメールに「だいじょうぶ」とだけ打ち込んで、ボクは横になった。ちょっとだけ携帯の着信音を期待したが、返事が帰って来ることはなかった。「ユキちゃん、怒っているのかな?」
七・無事に復学できて
ユキちゃんの返答は簡単そっけないのが特徴だ。
「あ、そ。よかったね」
今回ユキちゃんの受け答えは、更に軽めのものだった。けれど、ボクには重く受け止められた。ボクから連絡が行かず、情報を阻害されたような状態でいたから、ユキちゃんの何かが壊れたのかな。間違いなく影響を及ぼしているのではないだろうか? そうとしか思えない。
ボクに感心を向ける気持ちが、揺らぎ薄らいだのではないか。最初から心配なんかしていなくて、結果なんて気に留めていなかったのではないか。連絡が無くてやきもきして、既に本気モードでブチ切れているのか? ボク以外の異性に、関心を寄せているのではないか。昨日の授業の難関に取組んで、それどころではないのか。もしかして女性特有のアレで、何して何とやらなのかな?
考えれば考えるほどにユキちゃんの気持ちがわからなくなる。もしかして世界情勢に憂いている? そんなことはないか。僕らは高校生で、政治学者じゃないからね。ボクの思考は、ありえない遠くの事理にまで、理由を探しする癖があるんだ。だから悩みの方向も果てなく広がる。宇宙の彼方まで、ボクの悩みが訪ねる先なんだ。
ユキちゃんの存在の大きさが、ボクにどれほどなのか思い知らされる場面。普段、ボクへの関心を抱いてもらえる、その嬉しさを理解した。今はそれが薄らいでいるのかな?ユキちゃんにどれほど依存していたことか。ユキちゃんの存在感は、ボクのママに匹敵するみたい。同一種のものであることを知ったボク。
こんな強い気持ちが、ボクの中にあったなんて、ずっと気が付かなかった。ボクがここに存在する意義の半分くらいは、ユキちゃんに認めて貰いたい、ずっと傍にいて欲しい、そんな気持ちだったみたい。ボクの目に映るユキちゃんの姿は、やがて神々しいものに変化して行く気がする。ボクは自らの想いに戸惑うばかり。そうかユキちゃんは、ママの一部だったのか。それとも、もしかして、ボクはユキちゃんに恋しちゃった? これが恋? そうか恋。鯉じゃない。元々そうであったのだろうが、今になって気づいたこと?もしかしてユキちゃんは、ボクの心のお姉ちゃんだったのかな?
常識に騙されて、ずっと同級生と思い込んでいたのかな? ポコポコと頭に考えが浮かんで、次々にあらぬ発展をしたみたい。収集がつかなくなってきた。やっぱりユキちゃんはユキちゃんで、ママでもお姉ちゃんでもない。恋人でもないんだ。
「よう、大丈夫だったか」ユウキの声がした。
ユウキの肘鉄が肩胛骨に当たり、体内に反響音を立て、痛みとともに脳髄を掛け巡る。相変わらず手加減を知らない男子だ。ボクは一瞬呻くだけ。ちょっとオデコに響く。身を捩ったボク。
ユウキはボクの姿を見た後で「あれ、痛かったの」と呑気なことばを発した。ボクは早く体を治さないと、これからもユウキからの受難が続くだろうと思う。
このときは、ユキの膝蹴りは飛んで来なかった。ボクへの関心が弱くなっている証拠だと感じたら、悲しくなる。ボクはずっと迷っているんだな。
これからのボクの課題は、ユキちゃんがボクへの感心事が復活することにあると決めた。視界に見えたユキちゃんの横顔は、ボク以外の方向を見ていた。ユウキがボクにした小さな惨事も、ユウキの所業も知ることはない。ボクは体の痛みより心の痛みの方を感じる。ユウキよりもユキちゃんの方が重要な関心なんだ。けれど、ユキちゃんに振り向いてもらえるよう、声を出す気持ちになれない。思いを行動に移せないボク。
頭をぶつけて転倒したときに痛めた体は、今もって軽い痛みを強く訴えてくる。強い頭痛のおかげで、体の痛みを、しばらく感じないで過ごせていたようだ。ユウキの肘鉄は、その扉を開くノックとなったみたい。ボクは自分の困難な課題をもう一つ抱えたんだね。次第に体が痛みで重くなってきた。鉄の鎧を着せられたみたい。激痛でなくて鈍痛だ。どこが痛いではなくて、体全部が痛い感じがする。
保健の先生に、病院での検査報告をするときに、体の痛む場所を看てもらおうかな? 場所の特定ができれば、誰かに体をさわられる危険を、上手に回避できるかもしれない。
休み時間に保健室へ行ったら、教頭先生がいた。
今日は、保健の先生は外の用事で戻らないらしい。教頭先生はボクが病院に行った件を知っていた。顔も名前も覚えられたみたい。すでにボクは職員室の、新入生代表の一人になっているみたいだ。今後三年間、有名人でいる可能性があると考えると、すこし憂鬱な気分になる。 仕方ないけれど、教頭先生に経過と検査報告をして、すっかり落ち込んで保健室を後にしたボク。
「ああ、なんてついていない毎日なんだ」
八・ボクの問題児はユウキ
ユキちゃんがボクの近くにいない、姿が見えないことに違和感を覚えた。首を巡らせて探していたとき、ユウキがボクに声を掛けてきた。ユウキにはボクの他に、知り合いや『トモダチ』がいないのだろうか。ユウキは何故ボクに関心を持ったのだろうか、単に扱いやすいと感じただけなのかもしれない。ボクはユウキを、苦手なタイプだなと感じている。
『ちょっと強引で無遠慮』だったから。
『言葉と一緒に手足が動く』から。
ユウキが動くと、いつもボクに被害が及ぶからだ。大きな被害じゃないけれどね。
ユキちゃんはいつも、ボクに必要最小限の言葉だけ掛けてくるんだ。ユウキは何時も、過剰な言葉と、余計な行動をボクに仕掛けてくる。小学校にいる頃は、どの生徒でもそんな子ばかりだけれど、高校生になれば大人の距離と対応になると思っていた。
けれど先月は、受験生で、中学生だった。高校生活に大きな期待を掛けていたんだ。特にこの学校に合格してから、その期待は高まっていたね。期待に胸膨らませる状態だったもの。
着る服装が変われば、すぐに大人になれると思った。黒い学生服がブレザーになること。けれどもそんな風に、便利な変身なんてできない。これではボクもユウキも、中学生以上、高校生未満なのかな。中途半端な中間点にいるのかな? でもボクはユウキみたいに、手足と一緒に口は動かない。落ち着いているんだからね。それを愚図と呼ばれた訳だけれど……。
昔からそうだった、たいていユキちゃんがボクの手を握り、引っ張りまわしてくれた。だからボクは、黙って待っていれば良かったんだ。ボクの気持ちのほとんどを、ユキちゃんが代弁してくれた記憶があるように思える。今もユキちゃんの存在は、ボクにとって大きい。
ユウキはボクのそばにより、記憶に残らないような雑談をする。ボクは聞くともなく話を聞いて立っていた。直ぐに授業が始まるから、一緒に教室へ体を向けながら、ユウキの話を聞いて過ごす。コミュニケーションって、こんな会話で成り立つものなのかな。ユウキは楽しそうだ。ボクはどちらでもない。それほど嫌でもなかった。そうだボクは男子とこんな風に立ち話をしたことなかった。もちろんユキちゃん以外の女子とも話をしたことも無いね。
異性のユキちゃんと、同性のユウキ。チョット違っても何だか同じ感じ。どちらも少し行動的で、決めるのも早い。ボクは誰かに付き添い従うのが得意で何も決められない。『トモダチ』って、こんな状態を指すのかな。考えてはみたが結論はでなさそうだ。
ユキちゃんはどこに行ってしまったのだろうか?
× × × ×
放課後、ユウキは自宅がボクとは反対方向なのに、後ろから寄ってきて、「俺あっちに行くんだ」と、進みたい方向を指示した。ボクに同行しろというのだ。何となく嫌だったけれど、足がユウキの進む方向に行ってしまう。振り向いたが、どこにもユキちゃんの姿は見えい。やっぱり早引きしたのかな? 何か用事でもあるのかな。ユキちゃん自体に心配は不要だ。普段、ユキちゃんはボクを心配する。
どうしてなのかな? 今でも少しわからないんだ。これが協調性の問題点とかいうものかな? 他に何かあるかな? 良くわからないね。
ボクは少し考えた。ユウキと歩きながら考えた。ユウキは何を考えているかわからない。でもこうしていると、少し大人になれそうな気持ちがする。これを男付き合いって言うのかな?
ユキちゃん以外の子と、行動を共にするなんて、ボクには珍しいことだ。ボクの中にも、少し意外性の芽が生えてきたのかな。少し違和感を感じる。
そう、ダンス部の先輩に声を掛けたいと思ったのも、ボクの意外性の一つだったのだろうか? 知らない同校のクラブ活動に関心を持ってしまった。ダンスに関心を持って、ボクは自分の希望を満たしたいと考えて行動し、入部届を書いて出したいと声を掛けた。掛けられなかったけれど、心の奥からは大きな声が出たんだ。普段のボクなら、絶対そんなことできないし、やれないし、考えもしない。それにユキちゃんに相談もしなかった。自分で決めたかったから。
ボクの知らないボクが、体の中から出てきて行動を起こす。そして悩み苦しみ、寝不足になる。挙句に頭ぶつけて転び、おかしな挙動をして病院で検査を受けることになった。ユキちゃんに連絡忘れて今日無視されて、今はユウキに声掛けられて何処かに付いて行く。何て非日常が連続しているのだろうか。
不思議なボクの、かつてないボクの行動が、ボクを驚かす。そしてボクを楽しませているんだ。不安にもなる。戸惑っている。ボクはボクじゃないみたい。
これが冒険心なのかもしれない。『冒険心』を理解できたと感じ、心躍る気持ちになった。だからそんなにユウキが嫌じゃないのだ。ちょっとだけ、大人になったんだね。
「ここだよ、ここ」
水先案内人のユウキは、ボクの心躍る気持ちを、少し萎えさせた。大手チェーンの中古品を販売する店だ。
春の柔らかく、ゆるやかな風が道路をながれる中、店先に蛍光色のノボリがたくさん並んでいる。まるでパチンコ屋の店先みたいだ。ケバケバしい感じ。
せっかく春の心地よい風が、店の前で台無し気分になる。どうしてこんなにケバケバしい色にしなくてはイケナイのだろうか。有名なんだから、大きく構えていても、客は逃げいないだろうに! ボクはユウキが、どんな素敵なところに連れて行ってくれるのかと、考えて期待していたのに。ありきたりで、騒がしく、雑多な場所へ連行してくれた。
「ここにあるかも知れないか」。
何があるというのだろう。ユウキの口から発する言葉は常に断片的で要領を得ない。一人合点して納得し周りをかきまわす。ユウキを人物分析するボクがいる。でもボクは、ボクを連れ出してくれる誰かを常に欲している。それが誰でもいいわけじゃないが、特別に嫌でなければユウキでもいいみたい。不満な気分の中に期待の気持ちがある。
もしかして少し大人になったボクが、今ここに誕生したのかも。そう考えると、気持ちが少しだけ動いた。
昨日の壊れたボクなら不安に思うけれど、今は違う感じ。気持ちが動いて普通に表情を動かせるみたい。できそうだと思えたから、いろいろと気分で表情を動かす試験をしたくなった。
ボクは店の窓に写る、ボクの姿を見ながら、ほんの少し喜怒哀楽の顔を作ってみた。ああ動く、動かせる、大丈夫みたいだ。
ユウキはボクの行動に頓着しないで、自分の期待に胸ふくらませていたらしい。ボクの方に顔を向けて顔を覗いた時、変な顔を繰り返すボクに不安感を抱き真顔になった。「大丈夫か」と聞いてきた。ボクは顔が真っ赤になるのを自覚しつつ「ぜんぜん」と答えたのだった。ボクはユウキの顔を真っ直ぐに見られない。場所をわきまえず、嬉しくなって馬鹿なことしちゃった。ああ恥ずかしい。こっち見るなよ、ユウキ!
マジックミラーの店舗の窓を見て、おかしな会話の男子高校生。そして赤い顔と、蒼白な顔している首が二つ並んで見える。二人の間にバツの悪い空気が、そよ風になり流れてゆく。ボクは「何の事?」と言いたかったけれど、咄嗟に出た言葉は心持と違い「ぜんぜん」としか、口が動かなかった。
窓ガラスに映る、なにか間の悪い二人。しばし視界の内に、外にと視線を移し、互いを見つつ固まっていた。やめてよ、ホント!
店員も客も、道路側なんて見ていない。当然、見るのは商品だ。自動ドアを開いて店内に入ると、「いらっしゃいませ~ぇ」と、マニュアル通りの挨拶がどこからか飛んで来た。店員も客も近くに見えない。少しだけ安堵したボク。あやしい二人に見られたと、恥ずかしかったからだ。ユウキは気分を振り切るように元気を出して、店内を少し駆けるように散策してゆく。
ボクは追うべきか、どうしようと悩んで入り口に立ち止まった。ユウキの消えた方向から店員が現れた。「お探しものでしょう」「いいえ大丈夫です」と答えたボク。
そもそも来たくて来たわけじゃない。接客は無用です。ユウキの進んだ反対側に体を向けて、店員の顔も見ないでコソコソ逃げたボク。怪しい奴と思われて、目を付けられたかな。万引き高校生と思われて嫌だった。ボクは直ぐ、そちらの暗い方向に感情や思考が向いてしまう。オドオドしちゃうんだ。
付き合わされて? 何となく? どちらだろう。ボクは期待感を持ちつつ付いてきたのは間違いなかったけれど、ボクには探し物は存在しない。でも歴然とした事実を、直接店員に伝えるのもおかしいよね。実はついでの御供ですって。
ボクは知らない人の顔を見るのが気恥ずかしい、それに嘘も言いたくない。だから『大丈夫ですと』口にしたんだ。これは嘘じゃない。大丈夫だもの、本当に。
店員が女性だと声でわかっただけだった。その人の顔も見ないで、足早に、見当も付けずに店内に進み、棚の先に消えることができたのが意外だった。もちろん、店員さんとの短い会話も、意外のひとつ。口を開いて言葉が口から出たんだもの! いつもひと言以上は、とても言えなかったんだ。通常は言葉が出ないのが、普段のボクの行動だったから。
知らない誰か。掛けてくれる優しげな声。そんな店員の対応に、拒否反応を起こすボク。
小さい頃に『知らない誰かに付いて行っちゃイケマセン』そう教えてくれたパパとママ。知らない誰かに声を掛けられるたびに、その頃の保育園先生や、優しい小学校の先生の顔を思い出す。今もこれが鍵になり、ボクを拒否行動に突き動かすんだ。
何だか幼児のまま大きくなって、イケナイ高校生みたいで自己嫌悪を感じちゃう。けれど、知らない誰かは、やっぱり怖いんだ。優しい綺麗なお姉さんが来ても同じ。『知らない誰かは怖い人だよ』もう潜在意識から、ボクの声がそう言って注意するんだ。
店員さんは売り上げを増やし、成績アップしたいと考えているだろう。職場に来るのは、お給料が欲しから。だから働いている。それが仕事だもんね。だからボクが『酌み易い、美味しいカモだ』と見られたらちょっと心外だ。ユウキに連れられて来ただけで『美味しくない、邪魔なカモ』は店内から排除すると言われたら、もっと嫌だなと考えてしまう。
人から『イラナイ』と思われるのが真底怖い。価値の無い人間だもの。ボクはお荷物にもなりたくない。ボクはボク。ちゃんとした人になりたい。ちゃんと扱って欲しいんだ。
そうだボクはユキちゃんから『イラナイ』と思われて、そう言われる事が怖かったんだ。自分に考えが思い当たった瞬間、不安の元がわかって、ちょっとだけ困って安心できた。でも、ここにユキちゃんがいない事実は、ボクを不安にさせる。恐怖で少し苛立ちそうになる。
ユウキがボクに声なんか掛けなければ、店員さんに顔を覗き込まれることもなかったし、恐怖に晒されることもなかった。しばらく歩んで、店員の人影を隠れるように覗き込んだら、女性店員さんは、綺麗に化粧を施した、素敵な女性だった。恐怖の対象だった声の主を、遠目で確認できて、少しだけ安心する。怖い顔したオバサンや強そうなオジサンなら、直ぐに逃げ出したかも。ユウキを置いて店から消えちゃうね。ちょっとだけ安心したから、心の中でユウキに感謝してみた。
今ボクは、ボクの心の泉に、知らない人から小石を投げ入れられて、湖面に揺れる落ち葉のように揺れている。心の泉も、揺れる木の葉も、ボクなんだよ。起きた波が小さいから小さく浮かんだり沈んだりする。それで少し嬉しかったり、少しガッカリしたりするんだ。ボクは鏡のように、静かな湖面が好きなんだと思う。それが平和なんだろうね。
そこにボクの顔を映して見て、心穏やかに暮らしていたいものだ。泉にはたくさんのボクがいて、ぼくを見ながら、ボクが見てる。ボクだらけの泉の森だ。泉に石が投げ込まれ転がり入るのは、周りの人や風や太陽、動物。そんな世の中が好きで、嫌いで、楽しくて、怖いのだ。
店内には自社テーマソングが大きな音で流れている。その中で偶然に、心の泉を発見したボクだった。もう一つのボクを見つけられて、宝物を得た気分になれた。ボクはボクを驚かさないようにしよう。人が驚かせても、それは我慢しよう。我慢できる範囲で、可能な限り。
歩き回り、ふと自分を見つめ、何か発見する。『犬が歩けば棒に当たる』。棒は犬が来るまで道で待って、犬に教えを与えてくれる存在だ。ボクは新しい棒を見つけるために、散歩に出かけなくちゃイケナイんだね。今日はその引率者がユウキだったんだ。
九・スマートホンがあれば
「これだよ、これ」
ユウキは憧れの中古スマートホンを手に入れて、ご満悦だった。昨日帰りに立ち寄った、中古品店で手に入れた品。どうして中古品売場に携帯電話やスマートホンが売られているのかボクにはわからない。
ボクの使っていた携帯型ゲーム機は、当然のように売られていた。ボクは基本的に新品指向なので、購入は家電量販店か専門店だ。売るときにだけ、中古品の取扱店をまわるんだ。
少ない小遣いは有効に使いたいし、無駄も省きたい。ネットでオークションもあるけれど、今一つぴんと来ない。それにパソコンの扱いは、パパとママの領分だ。ボクが触ったりしない。パパもママもネット販売の愛好者なら、頼んで処分する。けれど『無駄使いして!』と叱られたり、冷たい視線が心を重くするから、先に足しげく販売店を巡り、相場を確認する。だから中古品店で中古品を『お買い上げ』する行為は、ボクの辞書に存在しない行為なんだ。
確かに見た目は中古品に思えないような綺麗な製品だ。けれど中古品だよ。誰かの使った、要らない物だと考えると、何だか手がでない。ボクは贅沢な考えをしているのだろうか? 中古品を嬉しく眺めてるユウキは、ボクには遠い存在に思える。
お店に入る直前には、ユウキとの距離が縮まった気分になれたけれど、目の前のユウキは以前のユウキより距離が離れたと思えた。欲しいだろうスマホの吸引力は強力で、昨日までのユウキと違い、教室で自慢するユウキは、俄か人気者で人が集まっている。集まっているのは男子だけ。ゲーム内の勇者が、武器やアイテムを得ると強くなるように、ユウキはスマートホンを得て、強い力を発揮している。ユウキがパワーアップしたわけじゃない、武器の持つ力だ。
ゲーム内の勇者が目的遂行のためにアイテムの交換をして、戦略力を高めるのと同じだと考えた。それに今のユウキは、勇者そのものだろう。スマートホンが好きで、欲しくてたまらない彼らの中での立派な英雄なんだ。スマートホンが欲しくないボクは、そのことでユウキと国境を、障壁を築いてしまったよう。だからユウキとの距離が遠くなった。一緒に喜んであげればいいのかな? 机の距離間は変わらないけれど、見えない壁の向こうにいるから、ユウキが見え難くなったのかもしれないと感じた。
人は身に付ける何かで、突然に様相が変容するみたい。教室で化粧に余念のない同級生の彼女らも同じ行為なんだろうね。ユキちゃんに化粧癖がないのが、ボクが安心するところだ。ユキちゃんがボクの知っているユキちゃんではなくて、違う新しいユキちゃんに変身しちゃうのは嫌だなと思う。凄く美人ではないユキちゃんでも、ボクにとっては大切な人なわけで、ボクを安心させてくれる存在であって欲しい。
ちらりとユキちゃんを見たら、まるでボクがアイコンタクトしたみたいに、立ち上がりコチラに寄ってきた。寄る先はボクじゃなくて、ユウキの近くに行ってしまった。気後れしたな。
その光景を見て、行き先がボクじゃないことに、酷く落ち込んでしまう。捨てられた気分になるのは何故なんだろう。捨て犬の気分ってこんな感じかなと思う。クンクンと鼻音を立てたら、心配して寄ってくるかな?なんて思ってしまった。
どうやら一昨日に頭を打って以降、完全なユキ依存症に至っているみたい。ユキちゃんの近くに居るのは心地良い。でも大人になりたいボク。ボクの心はボクに向けて『自立しろ』と心底声が聞こえる気がしている。
最近ママやパパから、少し距離を置けるようになってきたばかりだ。もう高校生なら親離れの年齢だよと、いろんな本に諭され、勇気を持ち始めたボクなんだ。ユキ離れをして、対等にユキちゃんと向き合いたいとも思うんだ。ちょっとだけ自立した高校生になれたら、カッコいいかなとも思う。ユキちゃんと対等になれたら、きっと素敵かなと感じているんだ。ユキちゃん意外の誰かにも、高評価を得体と少し感じたかな。
つかの間の妄想時間の内に、ユウキは惨劇の最中になったらしい。
ユウキがユキちゃんの一言に、大きく反応したからだ。何を言われたのかは、聞き取れなかったから不明なんだ。取り巻きの連中も、あーだ、こーだと論争になっていた。きっと強烈なユキちゃんの一言だったのだろうね。
ボクは、ほんの少し話題に関心が高まったが、授業開始の五分前になっていたから、立ち上がってもユウキ達の周りを避けて、教室を後にした。トイレに行っておかなきゃね。出すもの出しておかないと、授業中に困ることになって、またあいつとか思われ、更に目立ってしまうからね。今、話題の渦中はユウキなんだし、ボクは昨日話題の人です。選手交代だ。
日替わりで関心事が移ってくれると在り難い。ボクへの注目が目減りするのを願うのだ。
十・食堂で愚痴は健康的?
「なあツバサ聞いてくれよ」
ボクの了解も取らないで、ユウキは一方的に話し始めた。
ユウキには、誰かに聞いて欲しい話題があるのだろう。なぜそれがボクなのか理解できない。けれどそれを問いかける勇気も、切っ掛けもない。こうして一緒に食事するようになったのも理解に苦しむ。どこに二人を結ぶ必然性が転がっているのかな? 編入生だから?
「ユキのやつがさ~」いつからユウキはユキちゃんのことを、高橋と呼ばずユキと呼び捨てたのか。学校に来始めて、一週間も経過していないじゃないか。ちょっと生意気だよな!
おとといボクが頭を打った日には、たぶん高橋と呼んでいたはずだ。「付き合っているの、高橋と」と聞いて来たのはユウキだよね。そうだ記憶が蘇る。それで頭を怪我した。半分の原因はユウキで決まりだ! 帰りに道にボクは路上で物思いにふけり、建設資材に頭をぶつけて転倒し、翌日病院に行く羽目になったんだからね。原因の発端の一つはユウキにあるんだから。今日そのことに気が付いたんだ。ユウキを見る目が険しくなるだろう。たぶん。
ボクがユウキに、苦情を言う権利があるだろう。そしてユキちゃんと『付き合っている』事実の解説と、釈明と、宣言もするべきなんだ。気持ちが高ぶったけれど、ユウキの言葉は止まらない。こういて何時もユウキの愚痴や、相談を聞いているばかりではないか。ボクはユウキの、掛かり付け相談員じゃないよ。相談事があるなら、担任の先生とか、スクールカウンセラーに言って、アドバイス聞けばいいんだ。
あっ、ボクは保健の先生に会わなきゃならない。昨日は教頭先生が代理をしていたんだ。教頭先生のバーコード・ヘア頭を見て、すっかり大切な用事を記憶から消去してしまった。きっとあの紋様には、重要な記憶を消去するコマンドが仕込んであったに違いない。恐るべし教頭先生の頭の文様。ボクの妄想は止まらない。
「なあ聞いている」
「ああ」とボクは答えたが、全くユウキの話を聞いていなかったね。ボクは自分の考えで、脳味噌が一杯になっているんだ。このままじゃ食事も喉を通らないじゃないか。
「なあ店に行くべきかな」
「うん、そうだ」と答えたけれど、ボクは何の話題なのか全く理解していない。
ユウキがどうしてユキちゃんのことを、ユキと呼ぶようになったのか聞きたい。ユウキの悩みより、そちらが重要な疑問だ。ユウキの悩みなんてどうでもいい。
優先するべきは、ユウキがユキを高橋と呼ばないこと。次は保険の先生に怪我の説目に行くこと。そしてユウキはボクと仲良くする理由は何か聞くことだ。そして最後が今の話題だね。もう一回説明してねユウキ。
どうしてボクはユキちゃんよりも、こうしてユウキと食事をするようになったのだろう? 入学当初はユキちゃんと食事をして、ユウキに「高橋と付き合ってるのか」と聞かれるくらいの仲だったはずだ。それがあっさりユウキに席を奪われて、ユキちゃんと自然発生的疎遠になるなんて。ユウキ君はとんだ疫病神だ。ボクは結論を付けたよ。結論を得たら少し意欲がわいてきた。
向かいのユウキはスマホを握ったまま、食欲がなさそうな仕草をしている。食事するよりも話が長いんだもの。食料を口に入れても、味を噛みしめていないように見える。勿体ないね。顔が下向きで目が塞ぎがち。食事の永いボクがユウキより早く料理を食べている。あり得ない。いったいユウキに何が起きたのだろう。ボクにはそれを聞ける機会があった、それが今だ。でも優先順位は下だったよね。後にしよう。
「今日行ってくるよ」とユウキ。どこに行くの?
「そうなんだ、それがいいね」ボクは心にもない言葉を口にしたんだ。何がいいのか知らないボクがいる。適当で不誠実な対応をしていると自覚したよ。
「じゃあ今日もたのむ」
ユウキはボクに、何を頼もうとしているの? 何されるのか聞いていないよ。何?
「なあ他にはいないだろ、ユキの彼女は、お前なんだしさ」
そうだけれど、それが理由になるの? 何をさせようとする訳? 脈略が読めないよ。
ユキちゃんを食堂内に探したが、見当たらない。どこへいったのだろうユキちゃんは? 心配が募るボクだった。電話すればいいのかな、ユキちゃんに? 学校内じゃダメか~。またユウキのことを忘れて、自分の考えに入り込んでしまった。影が薄いよ今のユウキ。
十一・落胆
ユウキがガッカリして店内から出てきた。
ボクはユキちゃんに電話しようか、止めようか考えに考えていたんだ。外で携帯電話を握りしめ、二つ折りの電話機を、開けたり閉めたりしていた。果たして電話したところで、何を聞けばいいのだろう。それさえも決めていないのに、ユキちゃんに何を聞くの? どうしたらいい。ユキちゃんが電話に出たら、どんな言葉で口火を切ったらいいのだろうか。ボクは素直に話せるかわからなくて、ずっと悩ましかった。ユキちゃんのこと、ユウキのスマホのこと。聞く言葉が見つからない。何か聞きたいのではなくて、ユキちゃんの声が聞きたい? ああそうか。ああそうなんだ、不安なときはユキちゃんに合いたいんだ。それがボクの日常なんだ。
ボクは、ユウキのお供だったことを、ここに来て直ぐに頭から切り離していた。外で待っていたのはそのためだろう。自分の行動を独り分析してみたのか。ボクも少し成長したのかな?
自動ドアが開く度に、悩む時間が途切れる。振り向いて入り口を見つめては、ユウキを捜してドキドキしていた。ユキちゃんに電話している際中にユウキが出て来たら、心臓が止まってしまうだろう。店先に客が出る度に、ユウキでないことに安堵していたボク。携帯電話は何処でも誰にでも電話できるのに、ユキちゃんにも電話ができない。不便な道具だと思ったよ。
何度か頭を振り、携帯電話と店の出入口を往復して見て、視線を上げたり下げたりしていたから、頭痛がぶり返してきた。膝の力も抜け気味。そうだボクは頭に怪我をしているんだ。
これなら一緒に店内に入って、椅子にでも腰かけ、ユウキに関心を向けていた方が楽だった。
ユウキがユキちゃんのことを『ユキ』なんて呼ぶから、何となく距離を置きたくなったんだ。悪いのはユウキなのに、なぜボクが頭痛にみまわれているんだろう。理不尽だよ。この恵まれない状況に居た堪れない気分になるし、頭痛もしている。
ボクが怪我人だから、今も安静が必要なのかもしれない。そう考えると、何だか目の前が暗くなるような気がする。心なしか耳鳴りが遠くから近寄ってくるみたい。あ、トラックか。違っていた。不安で聞き間違いしていたね。ボクはユウキに、来たこともない携帯電話の専門店に連れてこられて、通学路から大きく逸脱しちゃった。こんなところを学校の先生に見咎められたら、教員室で更に名前が知れ渡ってしまう。問題児として。
ユウキはやっぱりボクの疫病神なんだ。ボクの進学の邪魔になったらどうするの。ボクにとってユウキのポジションを再確認した。ユウキに不満を募らせたんだ。
その時にユウキが店から肩を落として出てきたわけ。短いけれど長く感じた待ち時間だった。時間的には丁度待ちくたびれて悪態をつくに充分だったね。ユウキご苦労さん。お疲れさま。
「やっぱりユキがいうように、駄目みたいだ」つまりこの中古スマホでは、電話機が使えないってことらしい。ユウキからボクに、電話機にまつわる詳しい経緯や、技術的な話がなされないで結論だけボヤいている。まあボクには聞いたとしても、何のことやら全くわからないだろう。そもそもスマホに関心がないもの、まあ駄目なものはダメみたいだ。それはわかる。そう駄目なんだから。だからユウキは、ガッカリしているんだね、それだけは良くわかったよ。かわいそうに。
「じゃあこのスマホはどうするの」ボクがそう聞いたら「昨日の店に売りに行く方がいいみたいだ」ユウキは落胆したま、うな垂れる。「そうなんだ」と相づちを打ったボク。
「今から一緒に行こうよ」とユウキ。どうして今からで、ボクが同行するのか理解ができない。
「トモダチだろ」とユウキが言う。友達って何だ、言葉に対する疑念が先に浮かぶボク。
ユウキとボクは、ここ数日間昼食を共にして、昨日は一緒にスマホを買い物に行った仲だ。実績だとそうなる。それだけだろう。同級生イコール、トモダチじゃないだろう、と考えたのだが、「頼むよ」と言われて、あっさり首を縦にしてしまったボクだった。ボクの体はボクの意思を無視して、勝手に合意している。いったい頭を怪我してから、ボクがボクで無くなっているように思える。軽い頭痛と目まいが襲って来ていたから、何かの原因で首が緩んだのだろう。それで首が縦に振れたのだ。ボクの意志じゃないよ絶対に。
ユウキは少しホッとした表情になったが、ガッカリ感が全身から溢れている。気持ちは沈んだままなようだ。今日は帰宅前にたくさん歩く日になった。ガッカリしているのは、実はボクの方が上かもしれない。
中古品店の中は、昨日と同じ喧噪の中。お店の名前をこれでもかと連呼するテーマソング。暴力的だが次第に馴染んでくる。しばらくいると耳鳴りがしそうだが、きっと洗脳するつもりなのだろう。漫画、ゲームやCDがたくさん売られているから、怪しい邪魔な客を追い払う効果に活用しているのかもしれない。頭が痛いから「宇宙人の侵略だ、脳が奪われる」とか言いたくなる。ボクの心の中に何か爆発しそうな気配がある。本当に辛いときは拷問だね。
こんな酷い音量で、毎日音楽を聞いて、お店の人はオカシクならないのだろうか、ちょっと心配になる。昨日の綺麗なお姉さん店員の人は大丈夫なのだろうか。そのお姉さん店員が、ユウキに客対応するのを見て、ヤラレタと感じたのは何故だろうか。お姉さんでなくて、強面の男性店員でもいいはずなのに。何処から来る嫉妬なんだろうか。そうか嫉妬なのか。ボクは嫉妬を知った気になれた。そんな思いが浮かんでは消える。
そしてユウキが振り返り、戻ってきた。言葉もなく店外に進む。ボクは今も頭が痛いが、落胆したユウキを、このまま放り去るのも可哀そうだと思う。『トモダチ』かもしれないと思ったら、体が自然とユウキの後を追った。『トモダチ』か~。
ユウキが言うに「成人の身分証明書がないと買い取りができない」そうだ。それがユウキの回答だった。「ああそうか」と思い当たるボク。確かにそうだよね。ボクもゲーム機を売りに来た時は、パパと同伴だったもの。ボクはゲーム機を売るときは、お店で値段だけを調べておいて、パパと来られない時は、親戚のお兄さんに頼んで、ゲーム機を売って貰っていたんだ。
ユウキも「知り合いの人に頼めばいいじゃない」と教えてあげたけれど、「そんな人いない」らしい。ユウキのパパに頼むと、拳骨が飛んでくるらしい。暴力パパなんだね。今風に言えばDVだよね。
ユウキは、家庭内暴力が日常化している家庭で育ったのか。ユウキのことが心配になる
ボクはパパに叩かれたことなんて一度もないし、ママだって汚いことばを使わないし、滅多に怒らない。ちょっとだけ叱られるだけだ。お説教の時間は長いけれどね。
けれどボクが言うのもなんだけれど、ボクは真っ直ぐに育ったと思っている。暴力や体罰では青少年は矯正できないと思うのだ。ボクが成功事例だからね。中学までは馬鹿とか愚図って言われたから、大正解ではないのだろうね。たぶん。
ボクはこうしてユウキのお友達になったらしいし、買い物にもつきあっている。嫌でも文句の一つも口にしていないしね。思ってはいるけれど言わない。それでいいと思っている。
ボクを叩いたりするのは、ユウキくらいさ。それで『トモダチ』なのか。難しいな。あ~、ボクは『ユウキに叩かれる実績がある』んだと思い出したら、すごく複雑な気分になった。叩いちゃ駄目だろう。この叩く行為は、どの程度までが『トモダチ』で『ライバル』になり『敵』とする判断になるのだろうか。基準点はあるのかな? 数値化されていないし、きっと推奨もされていない体罰と暴力、虐待。
たしか大昔のアニメの主人公が「父親にも叩かれたことないのに!」と叫ぶシーンがあったね。これは昭和だからだろう。それに戦争アニメで、人殺しばかりする作品だもの。若い上司に「殴られもしないで立派な大人になれない」と決めつけられていた。もうあり得ないね、そんなことは。時代錯誤だよ絶対に。あのアニメは戦争を描いているから、今のボク達には関係ない状況だと思える。正しい行為には思えないね。アニメとか漫画は極端だ。でもユウキはパパに、拳骨で殴られるらしい。
これは理想的な家庭教育の方針とかけ離れているだろう。
「親父の言うとおりになっちゃった」
ユウキの言葉は、意外な破壊力を持ってボクの考えを押し返した。殴るパパを肯定しちゃうの。
「そんなもの要らないだろってさ」
「ゲームしたけりゃゲーム機買えって」
それは確かに論理的で、無駄がない説明だね。ボクだってそうしている。ユウキはスマホでゲームがしたかったみたいだ。
「なんか格好良くね~か?」
そう説得されると、少しはそう思えるが、使い難いだけかもしれないよ? 画面も小さいし。
「指先で画面に直接触れてやるのがさ~」
ああ、指タッチがしたかったんだね。ユウキは。
ユウキの思いも、ボクの心にもあるみたい。これが『トモダチ』との共感なのかもしれない。ボクはトモダチの顔を、少しだけ覗き込めた。顔を直接見る怖さを少し克服した。疲れて頭も痛いけれど、収穫のあった一日だったように思える。
「トモダチか~!」
十二・謎は何だろう
電話して声を聞けば安心できるのに、ボクはユキちゃんに電話をしなかった。ユキちゃんも電話してこなかった。今日一日、通学路で背中を叩かれることもなかったし、物思いに耽ってどこかにもう一度ぶつかることもなかった。一見平和な日常が送れているみたい。一見ね。ユキちゃんとの接触時間が少ないのが、不満なんだけれどね。
ボクは一人で歩いて、目的地にたどり着く集中力を得たみたいだ。街を行くと、携帯電話やスマートホンを握りしめて、注意散漫で歩いている人がたくさんいる。いつかボクみたいに、道で何かにぶつかって大怪我するだろう。もしくは誰かを怪我させるのだろうね。でも不思議と、何かに衝突する瞬間をみることはなかった。ボクだけがドンクサイのかな? そんなことないよね。悪いことは悪い事なんだ。それでも老人に注意されている学生は見掛けた。謝らないし、悪態突いたりしていた。見苦しい様だと思ったんだ。
ボクが痛い目をみて、あれから三日しか経過していない。痛みの代償は大きかったね。こうして独りで歩いて通学しているのだから。チョット寂しいね。
ユウキに連れ回されて、靴底がすこし擦り減ったかもしれない。何となく歩く感じが変わってきていた。新しい靴は、すでに足に馴染んできた。靴擦れしなくて良かった。良い製品は、最初から良い掃き心地なんだね。歩き易くなった気もしているんだ。靴づれの恐れは、たぶんもうないだろうね。
制服のブレザーも、ボクの体型に馴染んで、体の一部と同化してきたみたい。道に借り物服が、行列を成している雰囲気はもう見られないもの。そして通りに流れる春風は、今も心地よい。桜もほとんど落ちちゃった。すこし若芽の緑が見えて来ている。丘の上の観音様像も、桃色の浮雲が、若葉色に変化して緑の雰囲気がしている。
歩く先に、ボクが告白を逡巡するきっかけになった、ダンス部の先輩が歩いているのが見えた。あの事件と言うか事故が勃発して以来、先輩に接触し、話しかける機会も逸していたね。あの時に感じていた、ボクの思いが蘇ってきて、心臓の鼓動が早くなる。どうしよう?
あれで諦めたわけではないが、早めに何とかしたいと思っていたんだよ。もしかすると、先輩と通学方向や道が同じかもしれない。学校で先輩を探して、もしくはダンス部の練習部屋へ行き、声を掛けようかと悩んでいたんだ。いつか道で見かけたたら、もう一度挑戦ようと思っていた。こうして機会が訪れたんだ。勇気を出して決行したいんだ。けれど極度の緊張から足が出ない。行動する前から失敗しているんだ。人の顔を、しっかりと見られないボクだから。でも昨日は、ユウキの顔をしっかり見られた。こうして二度目の偶然なら、もしかすると少しは落ち着いて、声掛けができるかもしれない。
そのときに、ユキちゃんがボクを追い越して、ダンス部の先輩に接触したんだ。これは何ということが目の前で起きたのだろう。全く思いもしない展開だ。もう何がなんだか分らないよ! それこそ目の前が真っ白になる気がする。こんな驚きを感じたのは、生まれて初めてだ。ユキちゃんがボクを、しばらく無視したのはこのためか? このためって、何のため? ますます分らないよ。朝から驚きっ放しなんだから。
意外性のある、ユキちゃんと先輩の接触行動。ユキちゃんが接触を試みたのは、何か悪いことが起きる前兆なのかな? ボクは酒屋の前で、道に積み上げられたビールの空きケースにぶつかって、動きが止まってしまった。つま先がちょっと痛い。ほんと、前をみて歩かないと危ないね。何度道の障害物にぶつかるのやら。
真っ白に記憶が飛んで、気がついたら教室だった。ボクは前後の記憶がかなり曖昧になっていだみたい。無思考が、超高速で脳内を駆け巡ったみたいだ。ぶつけて痛んだ頭が、再び痛みを覚えてくる。知恵熱も出て来たのかな。ユキちゃんと先輩の接触した光景が、輝きを伴ない頭に浮かんでくる気がする。すこし冷静さが戻り、思考が安定してきた。無性にユキちゃんが心配になって、教室内を目で探す。首を巡らした先には、何故かユウキがいた。邪魔だよユウキ! ボクの視線がユウキの視線と交差し、元気に手をあげるユウキが見える。アイコンタクトしちゃった。今探しているのはユウキじゃない、ユキちゃんだ。
そういえば、昨日のユウキの苦悩は、もう解決したのだろうか。ユウキには何かあるのだろうが、ボクはボクで、ユキちゃんのことで精一杯だよ。ボクの自分の思考が、不安からオーバーヒートしそうな気がしてきだ。大丈夫かな?
『冷静になれ』の言葉を思い出したのは、しばらく後のこと。やっぱり焦っていたんだね。もう何に動揺しているのかさえ、失われつつある。動揺している自分に、酔っているのかもしれないボクだった。
いったい何をどうすればいいのだろうか。
大人の階段を上るのが高校生の役目なら、これからも何かに驚くたびに、思考停止になることが、たくさんあるだろうか。これがその一つなのかも知れない。それはそれで嫌だ。避けて通り、見ないで済ませたいよ。
始業のチャイムが鳴り、ホームルームが始まっても、心は落ち着かなかった。何も考えられない。部屋の隅にユキちゃんは、いつものように座っている。ボクは、担任の先生の言葉の意味が理解できない。重い動揺が続いたんだ。
十三・人間彫刻を作るには
のろのろと教室の時間が通り過ぎて行く。体の周りには不安があって、不安は何が不安なのか知っているようだ。ボクには知らない何かが、まとわり付いているようだ。
それには粘着性と収集食性があって、透明な物質でできており、更に柔軟性があるみたい。ボクは、それに絡め取られているのだろう。和菓子の皮の一種類のような、半透明な衣をまとう、餡菓子の様だね。餡子はボクだよ。身動きできないけれど、中から衣を通して外が見えるんだ。身動きできない、嫌な雰囲気が、ボクの周囲に付きまとっていた。
上手に表現できないけれど、現実社会とボクを隔てる、何かが存在し続けている。息苦しくないが、動けない感じなのだ。
体の中から例えようのない、黒い色合いの何かが浮かび上がって、もがき出ようとしながらも、沈んで見えなくなる。見たことはないけれど、よく知っている何かの景色だ。ボクには怪しい世界に馴染みが深い、その何かみたい。
次に黄色い筋の血管みたいなものが浮き出ている物体が、頭の周りを付かづ離れず、時々は頭の中を通り抜けて、筋状の糸みたいなものを吐き出して、ボクの頭に被せ付けて行くようだ。黄色い人型の着ぐるみになるのかな。
そしてボクは、糸の切れた操り人形みたいに、重力に引かれて床に落ち、身動きが成らない。生きているのに死んだようで、生かされてはいるが、活かして貰えない人形の木偶。
脳内に電光石火で思考が現れては、何も残さずに消えてゆく。ボクは何か考えている気がするだけで、考える術や方策も忘れている。もう何を考えていたのか思い出せない。
朝の光景が思い出される。ユキちゃんと先輩が話している光景だ。ボクはもう思い出すのを止めたいが、思い出させようとする力と、消したい力が、頭の中で拮抗しているようだ。精神破綻はこうやって進むのかな。「ほらね」と、ボクの何処かが話しかけて来る。ボクだけれど、ボクじゃない、ボクの存在だ。ボクとボクが綱引きをして、中間点にボクが縄に縫いつけられている。両方で引くから、体が引千切られそう。終わりない苦しい痛みが、絶えず生まれて浮かんでくるのがわかる。今ボクは、何をして、何を考えているのだろう。
何がしたい? どうして生きているの? 何をして、されているの? ボクって、いったい誰なの? 分らないことが、もっと分らなくなっていくのが分る。分るって、どういったことなのだろうか?
暴走してフリーズしたパソコンみたいだ。誰か、ボクのリセット釦を押して欲しいよ。
その時に現れた救世主は、ユキちゃんだった。ゲーム・リスタート!
ユキちゃんを、ユキちゃんと認識するのに、しばらく時間が必要だった。パソコンが再起動し直すのにも、時間が必要。ボクがボクとして、再起動するのにも時間が必要なんだ。少し時間が経過して、冷静なボクの一部分が増えて来るのを感じる。まだボクには、可能性が残されているようだ。ユキちゃんの声掛けから始まる次の展開は、ボクを再起動して、ボクの視界と見える世の中を明るくしてくれた。
「放課後に顔出してね」
「え、放課後、放課後ってなに」もしかして、死刑宣告なの! ボクは悪い方に考えが行く。ボクの頭は再起動途中だが、もうそのまま電源を切りたくなった。パソコンは再起動中に電源切ると壊れるんだよね。あ~ボクは、自分で自分を壊してしまうのかもしれない。そんな気持ちを少しも持っていないのに。
辛さの限界が、ボクを自己崩壊に誘う。どうしてか分らないけれど、恐怖が迫ってくる。でも、口は自動的に動き出した。久しぶりにユキちゃんと会話して、口はすでに喜びを感じている。脳味噌は活動を不履行中だね。でも口の末梢神経には、きっと自動制御プログラムが書き込まれているんだろう。本体が壊れても、帰還回路は生き永らえるんだ。素晴らしい機能だ。さながら戦場での兵器みたいに、戦闘データを持ち帰る自動機能だね。SFっぽいな。
緊急時には自動退避機能も働く。本人の預かり知らぬ、組み込まれた安全機能だ。これでは負けが決まると、何もさせてもらえない操縦士の気分だね。ありがた迷惑。ボクは困惑し、そしてボクに落胆するんだ。どうして自分らしく、行動できないのだろうか?
× × × ×
放課後、ユキちゃんに「どこへいくの」と聞いてみた。「連れて行くから大丈夫だよ」ユキちゃんは答えるんだ。ああ、なんて素敵な言葉なんだろう。ユキちゃんの大丈夫宣言。ユキちゃんが大丈夫と言ったら大丈夫なんだ。すべての信頼を置いて、従えばいいだけ。
今までもそうして来たんだ。これからもそれでいいのかも。迷った時はユキちゃんに従えば正解だね。安堵したら、目尻に涙が浮かんで来たのが分る。ちょっと女々しい感じ。
「ユウキ。あんたもね」「え、俺」どうしてユウキと一緒なんだろう。それが納得行かない。
ボクはいつの間にか、ユウキとセットになっていたんだ。ボクの優先順位は、いつ低下していたのだろう。だからユキちゃんは、朝にダンス部の先輩の元に駆け寄り、ボクを通過して行ったんだ。ユキちゃんの中で、ボクの評価順位が下位に変動してしまった。ボクに新たな解決困難な指令が投入されて、頭が混乱して来た。ボクの脳内感情モニターに『実行困難』の表示が出た。これからも処理計算できるのかな?
「だり~な~」ユウキのボヤキ声が聞こえる。ユウキの一言は、ユキの逆鱗を買ったみたい。直後にユウキのうめき声が聞こえ、身動きが止まったからね。暴力ユキちゃんの発動だ。いいなユウキは、ユキちゃんに何かしてもらえてさ! こうしてボクもユウキも体が硬直して、二つの彫像体と化したんだ。もう、為されるがままだね。
十四・竜宮城へ行こう
「やあ、いらっしゃい」ダンス部の部長の声が聞こえる。
「え。 あ。 はい。」ボクは返事するのが精一杯になったんだ。間抜けな声で返答をした。出したくて出したのではないよ。けれど、そう口が勝手に言ったのだからしかたないじゃないか。口にしたことは消えないしね。ボクは誰に怒っているのだろうか?
でももっと最悪で、間抜けな受け答えするより、マシかなと思いましたよ。この程度なら、ボクの許容範ちゅうに収まっているからね。きっとユキちゃんも及第点をくれるでしょう。
ユキちゃんに従って、ダンス部に来られたわけだ。先輩にも会えた。声も掛けてもらえた。各種の疑問点や謎は、放置されたままですから。でも予感的には良い方向に推移しているね。ボクは明るい気分になれそうだ。ちょっと気が楽になった。
「何ここ。 えっ、マジ~。ダンスなの! しかも社交ダンス~?!」
ユウキの言葉は、この場の雰囲気に似つかわしくない。けれども、部屋の雰囲気をを表現するには最適かもしれないひと言だったね。
ユキちゃんに強制連行されて、興味本位で辿り着いた先が、たまたま予想外だっただけ。ここは滅多に使わない、古い講堂だからね。木造建築で市の伝統遺産だもの。ユウキは首をめぐらし、建物内を観察している。古風な建物だからね。物珍しい。ボクも眼だけで見回してしまったよ。でもボクは、少しだけ知っていたんだよ。ボクが目当てにしていたクラブの先輩達は、この場所で放課後の住人になるんだ。入学式で行われた、新入生歓迎会でのクラブ紹介の時に、ここが練習場所だって言っていたからね。ボクは独りで来て、こっそり覗いて見たんだ。
ボクはどうして、社交ダンスに興味を持ったのか分らない。ボクはボクが良く分らない。ボクを一番良く知っているのは、ユキちゃんとママだから。ボクがボクを知らなくても、周りの大切な人達が、ボクを知り見守っていてくれる。だからそれで良いんだ。今まではね。
「彼女から話は聞いている」
ああ、そうか。ユキちゃんが今日の朝に、先輩に接触したのは、ボクをここに連れてくるため。事前に根回しをしてくれたからなんだね。ユキちゃんが先輩へ突然、親しげに接触したのを見て、ボクは気が動転したまま、この時間にまで混乱していたんだ。簡単な事柄なのに、動揺したまま一日過ごし、考え至ることもなく固まってしまった。疑問は聞かなくちゃ解決しないのに。ボクは固まって何も行動できなかった。
ユキちゃんの存在を、改めて知ったボク。ありがたいことだな~。きっとユキちゃんは、ボクの怪しい行動を見て、すべて理解していたんだ、絶体にそうだ。
「届けを先生に出すから、これに記入して」
手渡された紙には、入部届と書かれてあって、学校のすべての部活動や、愛好会に使う定型様式だった。新入生歓迎会で貰った紙と一緒だね。ボクは記載したけれど、先輩に手渡せなかった。封筒の中に今もあるし、鞄の奥に仕舞われているよ。
隣では、拒否感を丸出しにしていたユウキも、上級生の女子部員に席を勧められ、赤い顔して少し嬉しそうだね。ユウキも男の子んだ。少し恥ずかしいけれど、絶対に嬉しいはずだ。素敵なお姉さま達が、こんなにもたくさんいるんだからね。
初々しく動く新入生の女の子も数人いるみたい。ここではすでに先輩になる人達だね。これから、よろしくお願いします。
ボクは、ボクのできる運動って、社交ダンスくらいかなと思っていたんだ。スポーツが得意でも、好きでもなかった。球技は何をやっても上手く行かなかったもの。巧くできないから、決して上手くはならない。ボクには過激な運動が似合わないんだ。球技は興味の外だったんだ。 学校でダンスが体育の授業になってから気が付いたんだ。ボクは自分が思ったよりも、振り付けを簡単に覚えられたから、イケるんじゃないかとずっと思っていたんだ。高校生活できっと、ボクにとって重要なクラブ活動になると感じていたよ。
中学校では球技部か文化部しかなかったから、3年間帰宅部員で過ごしてしまった。でも自宅でママが勉強を教えてくれていた。だからこの学校に入学する下準備ができたんだ。放課後の活動代わりに、何となく頑張って勉強したから、こうしてこの学校に入れたよ。高校への受験勉強を、早くから準備しなさいと言われて、ママから塾通いを課題にされていた。ボクは黙って従っていたからね。推薦で自動的に大学に行ける、この学校に入れて家族皆が喜んでくれたんだ。ボクも嬉しかった。名門私立ならボクをイジメる人も少ないだろう。ママからは、高校では思い出を、たくさん作る方がいいと言われていた。
ボクは部活動をしたことないから、入部希望を伝えられずに、道で立ちすくむ失態をしたわけ。ボクにはとても勇気のいることだったんだ。皆が簡単にできることでも、ボクにはできないことが多い。そんな病気を持っているらしいんだ。だからそんなボクを小さい頃からユキちゃんが見ていたので、心配になって先輩に話を持って行ってくれたんだな。ボクはそう思った。そうしてくれるのが、ユキちゃんだからね。
最初からユキに相談すれば簡単だったかも。ボクは頼り過ぎは高校生らしくないと考えたから、ボクなりに何とかしようと思い立ったんだ。結果的にうまく行かなかったけれど、ユキちゃんのおかげで、ここに来れた。
ありがとうユキちゃん。ボクの救世主だね。
そしてここは、優しそうな女性が、たくさんいるオトギの国のようだ。ダンスをする人に悪い人は少ないだろうね。まるで織姫様のいる、竜宮城みたいだね。ならユキちゃんは、ボクが助けもしないのに、親切に竜宮城に連れてくれた亀だね。何だか、例えが違うな気もする。
十五・気がついて
なんて侘びしい気持ちになったのだろう。社交ダンス部に連れられて行き、これから頑張ろうと思った矢先に、ユキちゃんは入部しないだなんて知ってしまった。これじゃユキちゃんの部外者勧誘で、ダンス部に入ったみたいじゃないか。困ったときのユキ頼みかもしれないが、これからも一緒だよと思ったのに。
最近ボクとユキちゃんは『付き合ってる』んだって分かり、ちょっと戸惑ったけれど、凄く合点のがいっていたんだ。幸せな結論を得たと感じていたのに。
ダンス部でユウキは鼻の下伸ばして喜んでいるのに、ボクの気持ちは晴れない。念願であった社交ダンス部に入れて、頭を打って怪我した辛さも解消できると思えたのに。最重要人物のユキちゃんが、クラブ活動の当事者でないのは絶対に納得が行かない。帰宅道も、ボク独りで歩かなきゃいけない。
ユキちゃんは、社交ダンスと違う『ヒップホップ』をするなんて言っている。確かにあちらの方が、躍動的で活動的だけれど、ユキちゃんだって見た目の感じは、活発的でないと思う。優雅な社交ダンスの方が、きっと将来的にも長く楽しめるはずだ。お年を召したら、踊れないでしょ『ヒップホップ』じゃ。そうか、若い時にしかできないんだね、躍動的なダンスは。ボクはユキちゃんの邪魔をしようとしているのか。
オバサンになったら、いいところ『ジャズ・ダンス』とかやれるだけだろう。年代毎に分けてダンスを楽しめばいいんだね。ボクは本格的なのはちょっと恐いから、クラブ活動はこちらにするよ。若い時にしか、大胆に踊れないと考えるなら、やっぱり『ヒップホップ』とか魅力的なんだろうね。ボクのことを考えてくれているなら、一緒でいいじゃないかと思うけれど。だけどユキちゃんがやりたいことをして、楽しんでもらいたい。ボクはそう思うようになりたい、そう行動したいな。ボクは少しでも大人になりたいから、社交ダンス部に入部したいと頑張ったんだ。そうだ、そうだね。ボクはこうして、今も頑張っているんだよ。
確かにユキちゃんは幼なじみで、高校まで一緒に来てくれた。ユキちゃんに感謝しているけれどさ~。ボクはこれから感謝できるようになるよ。なりたい。嬉しかったし、安心だった今までのボクなんだ。
頭の怪我も、ユキちゃんのおかげで、この程度で済んだのかもしれないね。治療も治癒も、早かったみたいだし。まあ、それなりのトラブルはあったけれど。ユキちゃんがボクの変調を感じて、病院へ行く手配もしてくれた。これからもユキちゃんを、身近な人として感じていたかったんだ。
もしかしたらボクが一人で内緒をして悩んで、ユキちゃんに苦しみを伝えられず、悶え考えているのがわかってしまい、ユキちゃんが怒っているのかもしれないと考えると、急に不安になった。
確かに先輩への声掛けをするのを、ユキちゃんに相談しなかったよ。ユキちゃんはボクに放り出された気分になって、もう面倒を見続けるのが嫌いになって、独り放り出されたのかな。もしかして一緒に『ヒップホップ』をしたかったのかな。
高校に入って、ユキちゃんと言葉を交わす回数が減っていたから、意志の疎通が上手くいってないのかな? ボクが一人で考え込む性格だから、ユキちゃんに相談するのを忘れていたんだ。ユキちゃんはボクを心配してくれているけれど、ボクはユキちゃんを心配してこなかった。ユキちゃんの役に立てていないボクの現状がある。それが理解できてしまい、背筋が冷たく感じて来た、頭の血の気が去り、少し意識が失われそうに遠くなる気がした。なんてボクは、独りよがりだったんだ。まるで幼児みたいじゃないか。
でもここで倒れたんじゃ、またユキちゃんに心配を掛ける。皆に迷惑を掛ける。ボクは不安を押しのけて、凄く頑張り意識を保つようにしたんだ。生まれて一番の気力を発揮したよ。薄れる意識が、何とか少しずつ回復するのが分かった。何とか出来そうだ。何とかするんだ。これからもずっと、ボクが何とかするんだ。
ユウキの嬉しそうな声が聞こえてくる。ボクは何とか持ち堪えた。やれば出来るんじゃないかと思えたんだ。
× × × ×
部活が終わり、ボクは足早に歩を進めて帰宅することにした。部屋でユキちゃんに謝りメールを考えることにしよう。ユキちゃんに、大嫌いにされてしまう前に何とかしなくちゃ。
感謝の言葉と、謝罪が必要なんだね。そうしよう、そうしなくちゃ、それが大切なんだ。家までの距離が遠く長く感じられて、いっそう足早に歩くボク。
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「なんでなの~」自宅に戻ったら、ママとユキが楽しそうに笑っていた。
「あらおかえり」「お茶にしましょう」ママとユキが楽しそうに言う。
ママの「意外ねっ」て言葉が、ボクに投げかけられた。何が意外なんだろうか? ボクはまたもユキちゃんに、感謝の言葉を言えそうにない。このあとは何をしたらいいのだろう。ママがいたんじゃ、恥ずかしくて感謝の言葉なんて言えないよ~。
つづく。