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奪われる傀儡

作者: 穂高独歩

 風が強い日だと思って窓の外をじっと見ていると、先生が教室に入ってきた。いつも整っている髪の毛が少し乱れているから、すこしだけ慌てているのだろう。荒れた息を押し殺すようにして、軽く咳払いした後、教室を見回す。見回す首の動きで、整えた前髪がまた少し動いた。

 「よし、みんないるかー。いないやつは手を挙げろー」

 先生の軽い冗談に、教室はどっと明るくなる。勢いよく手を挙げるお調子者の生徒を制しながら、話を続けた。ジャージ姿が特徴のタジマ先生は、生徒から人気がある。

 「よし。みんな知ってるとは思うが台風が近づいてる。かなり強い台風らしいから、雨が降り出す前にみんな帰ることになった」

 想定外の連絡に、教室はまたどっと盛り上がる。やった! と正直に口にするもの、不安そうな顔をするもの。反応は様々だが、全員が「ラッキー」と思っているのは間違いなかった。

 「嬉しいのはわかったからまず先生の話を聞きなさい。終礼は今から十分後。忘れ物がないように帰る用意をして、席についておくこと。わかったな?」

 みんながうんうんと首を振っている。一番後ろの僕の席からじゃ、みんながどんな表情をしているのかわからないけれど目がキラキラしているんだろうな、とは思った。先生は「よし、じゃあまた十分後」と言って、また慌てて教室を出ていった。

 示し合わせたようにしゃべり始めるみんなを横目に、僕は帰る用意を始めた。

部活にも入っていなければ、別に勉強熱心でもない僕の鞄はいつも空いている。空っぽのリュックは、元の形を保てずに不恰好にひしゃげている。長く使っているこの鞄も随分くたびれた。

 たった十分を持て余して、椅子に座ってぼんやりしていると、いつ戻ってきたのか、先生が廊下から顔だけを教室に入れて、手招きしている。髭を蓄えた口元が、僕の名前を呼んだので、僕は廊下に出た。

 「今日、テシマが休んでるのは知ってるよな?」

 テシマは僕の隣の席の女の子だ。口数が少ないので、同じクラスになってからもしゃべることはほとんどない。そもそも、あんまり学校に来ていない。来ていない理由について先生は秘密だとも何とも言わなかった。

 いくらしゃべらないとはいえ、隣の席なので来ていないことには気づいている。素直にうなずいた。

 「そこでお願いなんだが…」

 申し訳なさそうな顔を作りながら、先生が後ろからプリントが挟まったファイルを出してきた。太い黒々とした眉毛が「困ったような表情」を見事に演出している。

 「いいですよ」

 先生が頼みを言い切る前に、僕は返事をして先生の手からファイルを取った。途端に曲がっていた眉毛は元に戻り、申し訳なさそうな表情の名残は全く見えなくなるから、大人はずるいと思う。いつもありがとな、と背中を一度叩いてまた階段を下りて行った。

 僕はたまにプリントのおつかいを頼まれる。幼馴染とかそんな特別な関係があるわけではない。ただ、僕の家がテシマの家と近い、というだけの理由だった。僕の家のほんの目と鼻の先にある大きな家。庭に妙な白い彫刻があることから僕らに「ピカソの家」と名付けられた、一般的にいう豪邸にテシマは住んでいた。


 またすぐに先生は教室に戻ってきて、簡単な連絡があったあと放課後になった。宣言通り十分後のことだった。臨時のものだろうか、聞きなれない時間になるチャイムは、特別な一日を告げているような気がして妙にワクワクした。


 テシマの家は本当に近い。家のベランダからでも見えるような近さにあるくせに、僕の家とはあらゆる点で違っている。まず、僕の家には門がない。庭も、彫刻も、大きな車庫も。テシマの家は僕の家にないものばかりで形成されていた。だけど、不思議と羨ましいと思ったことはない。それは自宅を「ピカソの家」だなんて呼ばれているからなのか、理由はよくわからなかったけれど、僕はその家の近付きにくさを嫌っていた。

 学校の正門からまっすぐ伸びる一本の大通り。それを道なりに十分ほどいってから右手に見える細い路地を抜けると僕の家に着く。この細い路地というのはあくまで近道で、どうやら大人は通らないらしかった。僕がたった十分で着く学校までの道を母親は「自転車じゃないと遠い」というのだから、何か遠回りする道があるのだろう。僕はその道を使ったことがない。

 僕の家を正面に見て、さほど広くない道を三分ほど歩くとテシマの家に着く。公園に面した道は、車の往来が少なく、半分、小さな子の遊び場になっている。

遠くから見ても大きな門は、近くから見ればもはや圧迫感を与える壁でしかない。呼び鈴を押すと、カメラ付きのインターフォンからテシマの声が聞こえた。少し高めの落ち着いた声。

 「はい」

 「あの、タケナカです。プリント持ってきたんだけど」

 「はい」

 短い返事の後、ピーという電子音が鳴って大きな門がひとりでに少しばかり開いた。入れということなのだろう。思いの外軽い門を片手で押しながら中を覗くと、いつも上から見る、妙な彫刻が庭にポツリと立っていた。遠くから見るとよくわからないが、近くから見てもよくわからない。白い石を彫って作ったのだろうそれは、滑らかな表面をもち女性的な印象を受けた。

 門と挟んで広がる庭を横目に玄関に着くと、テシマがドアから顔をのぞかせていた。黒い髪の毛に丸くて大きな目。目の下は疲れたように少し黒ずんでいて、口元はマスクに覆われている。

 「ありがとう」

 短く言って、テシマは僕の手からプリントの入ったファイルを取った。薄い長袖のTシャツから伸びた白くて細い指は、簡単に折れてしまいそうな印象を持たせる。

 「風邪?」

 「ううん。違うの」少し目を伏せる。

 「もしよかったら、あがっていかない?家に誰もいなくて暇なの」

 ドアがさっきよりも開かれ、テシマの半身が外に出る形になっている。突然の誘いにもたついていると、首筋に冷たいものを感じた。空は学校を出てきた時よりも暗く、雲は分厚さを増しているように見える。風が強くなってきた。びゅう、と家の中に吹き込む風でテシマの長い黒髪がバサバサと揺れる。天気が良くなることはきっとないだろう。


 初めて入るテシマの家は、いい香りがした。よこしまな感情からくる感想ではなく、本心からそう思った。ふわふわの絨毯に、僕の家にあるものの何倍もあろうかというテレビ、見たことない美味しそうなクッキーに、嗅いだことのないいい香りがする紅茶が、綺麗なテーブルの上に手際よく用意された。

 「こんなものしかないけど。よかったら」

 「全然!僕の家じゃこんなの食べれないから最高だよ」

 遠慮なく両手でクッキーをつかんで食べる僕をみて、テシマが少し笑った。笑顔を見たのは久しぶりどころか初めてだった気がしたので、僕のほうまで嬉しくなった。テシマは、大人しい性格も手伝ってか、目立たないけれど可愛らしい顔立ちをしている。

 「気に入ったなら、いつでも食べに来てね」

 小さな声で一言だけ言って、テシマが僕の向かいのソファに座った。

「お母さんは?」

家の中にテシマの母親の姿はなかった。テシマの母親のことだから、細くて綺麗な人なのだろう、と勝手に思った。

「出かけてるみたい」

すぐ戻ってくる、ということを言葉の外に含めたようにテシマは答えた。髪を指でくるくると絡めて遊んだ後、クッキーを一つ口に運んだ。

 雨は風に舞い、窓ガラスにどんどんと打ち付けている。

大きな窓越しに庭を眺めると、白い彫刻が、一人、庭で雨風に耐えていた。濡れた表面は、妙な色っぽさを出していて思わず見とれてしまった。

「ねえ」

不意にテシマに呼びかけていた。なに?と控えめな声で返事が聞こえる。

「どうして学校にこないの?」

どうしてこんなことを聞いているのかは自分でもわからなかった。今度は返事がない。外の雨の音を静かに見つめていると、テシマの息遣いが僅かではあるが聞こえる。

「あのオブジェ、何がモデルか知ってる?私のお父さんが彫ったんだけど」

テシマの声は酷く悲しそうだった。僕がこれ以上彼女の心に踏み入れると、彼女を守っている薄い氷のような膜を踏み抜きそうだった。視線を送るだけでも彼女が壊れてしまいそうだったから、わざとそっちは見なかった。

「あのオブジェ、私がモデルなんだって。生まれたばかりの私をみてお父さんが一か月かかって彫ったんだって。笑っちゃうよね。娘をモデルにしたなら、もっとそっくりに彫ってくれればいいのに」

わざと僕が黙っているとテシマが自嘲気味に続けた。もしかすると泣いているのかもしれないけれど、涙の音は雨の音に交じって聞こえてこない。

「でも、すごく綺麗だよ。まるで、泣いてるみたい」

テシマがはっと息を飲む気配があった。また、二人の間に沈黙が流れる。

低く、胸の奥底に響くような音が、ぼーん、ぼーんと部屋に鳴った。何時のチャイムだろうと、音の方向に顔を向けると、柱時計の針は5時前を指していた。

「そろそろお母さんかえってくるんじゃない?」

僕がテシマにそう声をかけると、一瞬の間を置いて、テシマは思い出したように、そうね、といってテーブルの上の食器を片付け始めた。五時を知らせる音はまだなり続いている。


結局僕がテシマの家を出たのは6時も過ぎてからだった。結局、その日テシマの母さんの姿を見ることはなかった。辺りは薄い暗闇に包まれている。雨は降り続いてはいたが、比較的小雨になった瞬間を狙って、飛び出すようにテシマの家を出た。

強い風に舞って、雨が大きな蛇のようにうねっている。

またきてね、と小さく声が聞こえたので、片手を上げて後ろ姿で返事をしておいた。

庭にあるオブジェは相変わらず泣いているようだった。表面に水が染みているのか、さっきよりも少し暗い色になったきがする。

大きな門が閉まると、ピーと電子音がなった。門が開かないどころか、取っ手すら動かなくなっている。目の前に急に壁が現れたような気がして、家までの道を走って帰った。



テシマの家から僕の家までの三分ほどの道のりを一分で駆け抜けた先にある2階建てのアパート。その2階につまらなさそうに並ぶドアを濡れた手で開けた。何の特徴もない、ただこげ茶色に塗られただけの板が、ギイと苦しそうな音を立てて開く。夢の世界にいた僕を、こっちが現実だと叱ってくれているような気がした。

「ただいま」

よれた暖簾が廊下と居間を申し訳程度に区切っている。人影は、ない。いくら初夏の六時とはいえ、廊下の奥になるにしたがって暗闇は深くなる。「必要ない」というわかりやすい理由で、母さんが廊下の電球を外してしまったため、玄関右手の壁には役目のないスイッチが不格好にへばりついていた。

別に怖いということもない。僕は躊躇なく闇に向かって歩を進めた。絨毯張りでも何でもない廊下がキシキシと苦しそうな音を立てる。真っ暗な居間の壁に手を伸ばし、力を込めると、パチッと音が響いて部屋がパッと明るくなった。

少し散らかったテーブルの上には、いつも通り夕食がラップに覆われて置かれていた。ラップについた水滴で中身を外からはっきりと見ることはできない。僕はラップを外して、電子レンジに入れた。静かな部屋に現代的な音だけが響く。


僕の両親は離婚している。僕が小さい頃の話だから、二人の間に何があったのかはよく知らない。一度だけ母さんに「父親はどんな人だったのか」と尋ねると、随分と叱られたから、きっと碌でもない人だったのだろうと想像している。僕が覚えているのは玄関から出て行く父親の背中だけで、ほとんど記憶にない人のことを今さらになって考える気にはなれなかった。


ピー、と聞きなれた電子音が部屋に響く。電子レンジで温めたものは、総じて美味しくない。一度お湯に浸したみたいにべちゃりとして、味以前に舌触りがこの上なく不快だ。僕は全部のおかずを一口ずつかじって、残りはビニル袋に入れてゴミ箱の奥に捨てた。お腹はいっぱいにならなかったけれど、さっきテシマの家で食べたクッキーが空腹を満たし続けてくれる、そんな気がしたから大丈夫だった。

自分の部屋に、といっても居間と襖一枚で繋がった和室だったが、入って布団にくるまって目を固くつむった。


—————どれくらい時間が経ったろうか。薄暗かった外は、さっきより深い闇に包まれて、布団にくるまった僕を不気味な静寂が取り囲んでいた。

締め切ったふすまから居間の光が漏れている。母さんが帰ってきていることが分かった。僕は、のそのそと布団から起き上がり、起きていることを母さんに悟られないように、ふすまの隙間から居間を除く。薄いベージュのカーディガンにパステルカラーのロングスカート。お世辞にも「年相応」とは言えない格好をした母さんが椅子に座っているのが見えた。こちらに背を向け、毛先の傷んだ黒髪をのせた肩を小刻みに振るわせている。

 彼女は今夜も泣いていた。声を出すことも、鼻をすすることもない。ただただ、一人何かに耐えるように、静かに泣いていた。蛍光灯が古くなっているのか、時折、光がちらちらとするから、そのたびに僕は隙間から目を離していた。


 母さんが泣いているのを初めて見たのは、たぶん、幼稚園に通っているころだった。

すでに離婚していたから、母さんは僕を幼稚園の「放課後保育」というシステムに預けて、必死に働いていた。放課後保育は夜六時まで。時間ぎりぎりに息を切らしながら迎えに来てくれる母さんを、僕はいつも一人で教室で待っていた。だから、僕の中の幼稚園は、昼間騒がしい場所というより、夕方妙な静けさに包まれる場所、という印象のほうが強い。

ある日、幼稚園で「勤労感謝」という言葉を習った。たぶん、勤労感謝の日の前日だったと思う。担任だった若い女の先生が「勤労感謝」について丁寧に説明した後「いつも働いてくれてありがとうの気持ちを込めて、お父さんお母さんに手紙と似顔絵を送りましょう」と優しい声でいった。僕は父さんの顔がわからなかったから、作業の時間全部を使って母さんの似顔絵と手紙を書いた。周りのみんなが、一枚の画用紙に二つ顔を書いていたから、一つだけなのが恥ずかしくて、みんなから隠れながら描いたのを覚えている。完成した似顔絵を先生に見せると、顔が一つなのを不思議に思う顔をしてから、ハッとしたようにこちらを向いて優しく微笑むから、僕は酷く嫌な気持ちになっていた。

その日も母さんはいつも通り、息を切らしながら夕方の教室に入ってきた。うっすらと汗をかいた額を拭うこともなく、「ごめんね、遅くなって」と僕に左手を差しだす。僕はなんだか急に恥ずかしくなって、口を真一文字にきつく結んだまま、描いた似顔絵と手紙を手の代わりに差し出した。

膝から崩れ落ちるように僕をひしと抱きしめた母さんは、声を出さずに静かに泣いていた。僕は母親を泣かせてしまったと思って、慌てたのを覚えている。初めて見る泣いた母親に対して、何をしていいのかわからなかったから、僕は頭をなでてあげた。


泣く母さんを撫でて慰めてあげるのも、きっとその日からだ。僕はさっきまで寝ていてだるい身体を引きずって、居間に座る母さんの頭を優しく撫でてあげていた。大丈夫、いつもありがとう、そんな言葉をかけることもなく、黙って頭を撫でてあげる。母さんにとってそれが一番の安らぎになるようだった。

「今日は何かあった?」

机に突っ伏したままの母さんが口を開いた。

「ううん、なにも」

「ごめんね、晩御飯。いつもあんなので」

「大丈夫。美味しかったよ」

この短いやり取りに、僕はいつも罪悪感に駆られる。ゴミ箱に捨てたご飯を拾って食べたくなるような、衝動的な罪悪感に。



それからというもの、僕はしょっちゅうテシマの家に行くようなった。最初は物々しく思えた大きな門も、今では片手で開く張りぼて同然になるほどだった。ピー、という甲高い電子音も電子レンジと同じだとおもうと、いくらか気が楽になる。

最初はリビングだけで遊んでいたけれど、何度が家に行くうち、自然とテシマの部屋だけで過ごすようになっていた。女の子の部屋だけあって、リビングとは雰囲気の違う、女の子らしさが漂っている。本棚、ベッド、クローゼット、あらゆる部分がこれ以上ないというほど綺麗に整頓されている。クローゼットに女の子らしい服がたくさんかかっているのは少し意外だった。季節は初夏だが、厚手の長袖のものが目立つ。

授業のノートを見せることもあったけれど、僕よりも学校に行っていないテシマのほうが勉強ができて、僕のミミズが這ったような字のノートを見せる必要はないことはすぐにわかった。読めるかもわからないノートを熱心に見つめるテシマを横目に、僕は綺麗な食器に入った紅茶を飲む。このいい香りがする紅茶にもずいぶん慣れた。

「私のお母さん、教育熱心なの」

僕の汚いノートを丁寧に閉じながら言った。

「だからそんなに勉強ができるんだ。じゃあ、学校になんて行く必要ないじゃないか。僕がテシマくらい勉強できたらきっと学校なんて行かなくなるよ」

テシマには僕の言葉が心底羨ましそうに聞こえたのだろうか、ふふふ、と口元を抑えて笑っていた。

「タケナカくんは、学校が勉強のためだけにあるとおもう?何のために学校に行ってるか、考えたことは?」

「んー、僕は遊ぶためかなぁ。勉強なんて、それこそテシマみたいに家でもできるし」

「そういうこと。私は学校でもできることを家にこもってしてるおバカさんなの」

何か納得いかないところがあったけれど、言葉にできそうにないから黙って相槌を打った。美味しいクッキーを二つばかりひょいとつかんで、口に運ぶ。

「そういえば、テシマが読みたいって言ってた少女漫画、借りてきたよ」

「え!ほんとに?」テシマの顔がパッと明るくなる。

鞄に詰めてきた漫画を、テシマの前にドサドサと広げる。目の前に積もる漫画の山に、わあ、と目を輝かせるテシマは、小さな子供のようだ。無邪気なテシマの反応に、思わず僕は、どうだ、と胸を張る。

「でも、タケナカくん鞄の中身全部漫画で、教科書とかはどうしたの?」

「う…」

「だめだよ。ちゃんと教科書はもっていかなきゃ」説教じみたことを言いながら、床に広がった漫画を一冊手に取って読んでいる。

「…ま、いっか。タケナカくん、学校に勉強しに行ってるんじゃないもんね」

漫画を片手に、テシマがいたずらっぽく歯を見せて笑った。今までに見たことがないくらい、明るい笑顔だった。




二人寝転がって静かに漫画を読んでいると、下の階の玄関のほうから、物音が聞こえた。がちゃがちゃと鍵を閉める音と、年を取った男の声だろうか、低く響く音が聞こえる。ふと外を見ると窓の外はいつもより暗く、時計の針は8時を回ろうとしているころだった。いまさらになって、ぼーん、と時を知らせる低い音が耳に入る。

ご両親が帰ってきたの?と聞こうと思ってテシマのほうを見ると、テシマは青ざめた表情で震えていた。さっきまでの笑顔からは想像もつかない、恐怖におびえた表情をしている。

「タケナカくん、クローゼットに入って…」早口にテシマが言う。

「え?」

「いいから!はやく!!」

語気を強めるテシマに押し込まれるように、僕は衣服が詰まったクローゼットに身をうずめた。女の子の匂いがする。これはテシマの匂いだろうか。

クローゼットのドアをテシマが少し乱雑に閉めると、そこは完全に真っ暗闇だった。僕の家の襖のように、外からの光が漏れてくることもない。完全な閉鎖空間。僕にもこんな部屋があれば、母親が静かに泣く様子を毎晩見なくて済むのだろう。

クローゼットが閉まって間もなくして、部屋がにわかに騒がしくなった。食器を手荒に扱う音、漫画がどこかに投げられる音、さまざまな音に混ざって会話が聞こえてくる。

―――誰か来てたのか。

――うん。

―――もう帰ったのか。

――うん。

―――――これはなんだ

――――――――友達から借りたの。返して。

――こんなの読んでどうするつもりだ。

きっと漫画のことだろう。声が低いことから、おそらく父親にばれたのだ。

―――別にいいじゃない。返してよ。

――生意気な口をききやがって!

ついさっきまで穏やかに話していた低い声が、突然、怒声交じりの激しい語調に変わった。一方のテシマの声は、怒声に遮られてよく聞こえないが抵抗しているようだ。まるで点滅しない信号機のように変わる展開に、僕の心臓が小さく跳ねる。

やがて男の声が聞こえなくなると、今度はテシマの、やめて、という驚くほど悲痛でか細い声が聞こえてから、ドスン、と絨毯に何かが倒れる音がする。金属同士がこすれるような音がしたあと奇妙な静けさに包まれた空間に響いたのは、テシマのものであろう、喜悦や、快楽とは一線を画し、言い切れない悲痛を孕んだ、かぼそい嬌声だった。

肌と肌がこすれあい、ぶつかりあう小さな爆発音。それに対応するように漏れるテシマの喘ぐような声。目の前で行われているのであろう営みその全てが、クローゼットのドア一枚を悠々と超えて、こちらへ侵入してくる。

不気味にも、この薄いドア一枚を蹴破って彼女を助けようという気持ちは湧かなかった。むしろ、彼女の嬌声を最後まで聞いていたいという気持ちすら生まれていた。

僕はクローゼットに吊るされた服に鼻を押し当て、目一杯深呼吸をしてから、彼女の淫れた声に耳を傾ける。この壁の向こうで、彼女は自身の大切な尊厳全てを奪われながら、女の宿命を学んでいる。

僕の中でどんどんと温度を上げていく熱が、具体的な形をもって放たれるのに時間はかからなかった。自分の意と反して、どくどくと脈打つように流れるそれに、僕は快楽を覚える前に激しい戸惑いを感じていた。生暖かさがズボンの裾からドロリと落ちる。遅れて、目の前が真っ白になるほどの快楽が僕に襲い掛かる。正気を保つので精一杯だった。僕はこの感情に抗わなければ、僕まで彼女から何かを奪いたくなるだろうことは、容易に想像がついた。

 宙へ浮かぶような快楽の中、扉の向こうが静かになっているのに気付いた。耳を澄ますと、男の荒い息が聞こえる。肩で息をしているような、猛獣を思わせる呼気だった。テシマの声は聞こえない。

 ベルトを締める、軽快な金属音が聞こえる。荒い息に交じって、男が何かもごもごと話しているのが聞こえた。男は部屋から出て行ったのだろうか、締め切られたドアからは外の様子が全くわからない。階下の柱時計が時を打つ音が聞こえた。

 ―――でてきて…いいよ……。

 弱々しくて今にも消えそうな、テシマの声が聞こえた。たぶん、僕に言ったのだろう。返事をせずに恐る恐る扉を開ける。蛍光灯の明かりがまぶしくて、咄嗟に目を細めた。

 目の前には、絨毯の上にへたりこむように座っているテシマがいた。少し衣服が乱れている。薄いピンクの絨毯の上には、紅茶がこぼれたのだろう茶色いシミ。部屋の隅には投げ捨てられた漫画が乱雑に積み重なっている。

 いい匂いのする女の子の部屋は、一転して、むせかえるほどの男の匂いに包まれていた。さっきまで何も入っていなかったゴミ箱には二、三、ティッシュを丸めたゴミが捨てられている。

 座り込むテシマに声をかけられずにいると、テシマが口を開いた。一言一言、言葉を確かめるようにゆっくりとしゃべった。

 「ごめんね。急に。クローゼットの中、狭かったでしょ」

 しわの入った服を伸ばすように手で払う。いや、全然…と言ったつもりだったけれど、声にならなかった。テシマが何かに憑りつかれたように、服を強くはたく。

 「あのお父さんさ、偽物なんだ」

 そう言いながらこっちを向いたテシマの頬は、よくみると紅潮していた。うっすらと額には汗をかいているのだろう。前髪が数本、不格好に張り付いている。

 「偽物?」

 やっと声になった言葉は、慰めでも励ましでもない、単なる疑問の言葉だった。

 「うん。偽物。私の両親、離婚してるんだ」

 「離婚…」

 テシマの言葉を、覚えのいいオウムのように繰り返す。繰り返さなければ、僕の脳がテシマの言葉を拒みそうだった。繰り返すことで、テシマの言葉が僕の言葉になり、すでにいっぱいになった脳に無理やりではあるが染み込んでいく。

 「原因はお母さんの浮気。本当のお父さんは出て行って、お母さんだけがこの家に残って。で、新しく来たのが、あの偽物のお父さん。気が付くと、お母さんも私を置いてどこかにいっちゃって、今は、偽物のお父さんと二人暮らし」

 淡々と、用意された台本を読むようにテシマが続ける。

 「…タケナカくんの家さ、お父さんとお母さん離婚してるんでしょ?」

 唐突な質問に胸を衝かれた。どうして知っているのか気になりはしたが、細かいことは黙ったまま、大きく頷く。

 「どうして?」

 「タケナカくんさ、お父さんのこと、覚えてる?」

 テシマが遠くを見るような眼をする。

 「ううん。全然。顔も、声も、何にも思い出せないくらい小さいときに離婚したから」

僕は正直に、でも少しの嘘を交えて答えた。何にも思い出せない、というのは嘘だ。

僕の答えを聞いて、テシマが少し安心したように息を吐いた。細い指を絡ませて、どこか居心地悪そうにしている。

 「私はね、ぜーんぶおぼえてるんだ。顔も、声も、一緒に行った場所も、全部。忘れようと、忘れようとしても、庭に立ってるオブジェが、忘れるなって私を叱るの」

 声が震える。絨毯には大きくて丸いシミが二つ。テシマが大粒の涙を流していた。頬を伝ることもなく落ちる涙は、テシマの赤らんだ頬を覚ますことを放棄している。

 僕はテシマにかける言葉を見つけることができずに、開いたままのクローゼットに腰掛けた。肩でも抱き寄せようか、そう思って手を開いた時にクローゼットから漂う香りが、僕にはテシマを慰める資格がないことを思い出させた。情けなく開いた両手を、ぐっと強く握る。爪が食い込んだ掌がじんじんと痺れる感覚があった。

テシマが服の袖で、濡れた目元を拭う。涙は、締まりの悪い蛇口のようにちょろちょろと流れるらしい。しきりに手を目元にやった。

 「あの人、忘れ物取りに来ただけみたい。 しばらく帰ってこないだろうから、家にいて大丈夫だよ」

 自分を落ち着かせるように、テシマが紅茶の入ったティーカップに指をかけた。食器同士がこすれあって、かちゃかちゃと小刻みに音を立てていた。



 僕は逃げるように家路を急いでいた。たった三分程度の道のりなのに、家に着いた時の僕は酷く息切れしていた。大きく息を吸うと、肺がきりきりと痛む。


 テシマがティーカップから手を放すのを待って、僕はすぐに帰ることにした。理由はお母さんが心配するから。口調はごまかしたつもりだったけれど、表情はごまかしきれていなかったのだろう。テシマは僕の顔をじっと見てから、そう、と小さく呟いたきり、何も言わなかった。


 暴れる息を押し殺して、家のドアに手をかける。素直に開いたドアに、僕の心臓は小さく跳ねた。相変わらず家の中は薄暗いが、リビングからは蛍光灯の明かりが漏れている。

 「ただいま」

 返事はない。玄関には母さんの靴が並べて置いている。そろそろとリビングへ向かうと、母さんが椅子に座って、また静かに泣いていた。昨日と同じような恰好をしている。

 「ただいま」もう一度、母さんの背中に向かっていってみる。返事がない。

 「母さん…?」

 「どこにいってたの」

しゃべるために息を吸うという様子もなく、母さんの背中から突然暗い声が発せられた。女性とは思えないほど低くて暗い声は耳に届くまでもなく真下に落ちて、地面を這いずり回っているような響きがある。

 「ちょっと、すぐそこの友達の家」テシマの家、とは言えなかった。理由はない。

 「そう…」

 漫画がなくなって空になったカバンを部屋に置こうと、母さんに背を向けた。人一人が通れる程度に襖を開けると、暗い部屋にリビングの蛍光灯の光が不格好に差し込む。光が僕を陰にして部屋に落とし込んだ。

次の瞬間には、僕は影の中に乱暴に横たわっていた。背中にジンジンとした痛みが走る。バチン、とリビングの明かりが消され、僕は視界を失った。

 「心配したのよ」どんっという衝撃。

 「こんな遅くまで」僕は身体を丸めた。

 「どこにいってたのよ」さっき言ったはずだ。

 「いつからそんな子になったの」髪は痛いからやめてほしい。

 「そうやって」

 「そうやって、みんな私を一人にするの」

泣き声交じりの悲痛な声が、暗い部屋の真ん中で丸まった僕に降り注ぐ。固い拳と、鋭い痛みを伴って。

 僕は忘れていた。そうだ。僕はテシマを心配できるような、高尚な人間じゃなかった。美味しいクッキーも、いい香りのする紅茶も、柔らかい絨毯も、ふかふかのソファも、全部、全部、遠い昔に見た夢のような気がした。


 人間の脳は、嫌なことを長く忘れないようにできているらしい。正負に関わらず、感情をともなった記憶は長く頭の中に留まる。僕の脳は、それが忘れられないと判断すると、その記憶を奥深くにしまい込んでしまった。僕自身も探せないくらい奥深くに。

こんなことになってしまったのはいつからだろう。彼女に泣いて抱きしめられた日を思い出せても、彼女に泣いて殴られた日を思い出すことができない。


僕が唯一覚えている父親の姿。

小学校にあがるころだろうか、父親は夕方に突然でていった。

———いい子にしてるんだぞ。

どこいくの?と廊下で質問する僕の頭に手を置いて父さんは言った。低くて、近くで話しているのに遠くにいるような声だった。それから父さんの背中は、ドアの向こうの夕焼けにのまれていった。差し込んだ光で薄暗い廊下も赤く燃えるようだった。

母さんはキッチンに立っていつものように夕食の用意をしていた。リズムよく鳴る包丁の音が好きで、僕は母さんの手元を横から覗き込みたくて、精一杯背伸びしていた。

 「ねえ、お父さんどこいったの?お買い物?」

 ――さあ。わからないわ。

 近くにいるのに、遠くにいるような弱い声。母さんの声は、包丁の音にかき消された。

 キッチンについた小さな喚起窓が、夕焼けで真っ赤に染まっていた。


それから、覚えもしていないある日、母さんは突然僕に拳を振り上げるようになった。涙で濡れた拳を振り上げて、何の躊躇いもなく僕にそれをぶつけた。決まって左手の拳で行われたそれは、幼かった僕に、暴力以上の大きな衝撃を与えた。

ある日、これもまた覚えていないある日、僕はそれを受け入れることに決めた。小さな身体を小さく丸め、彼女の拳を全て受け止めた。僕は彼女を拒絶しないことにした。

床と交わるほどの低い視線。90度傾いた世界を見ながら、彼女の罵声の雨を全身で受ける。その雨の痕が、僕の身体を覆うことはいつからか日常になった。


身体が大きくなっても、90度傾いた世界は何も変わらない。薄暗く、少し物が散らかった部屋は隅の方に薄く埃が積もっていて、随分と息苦しく見える。

ああ、部屋の片付けしてなかったな。今日は宿題があるんだ。そんなことをぼんやりと考えていると、彼女が発する罵声は、聞いたこともない外国語のような響きを伴い、いつの間にか耳へ届かなくなった―――。



どれくらい時間が経っただろう。窓の外は静けさを増している。

 丸まった僕の身体に、母さんがもたれかかった。さっきまで握り固められていた拳は緩く解け、耳へ届いていなかった声は涙という具体的な形になって、僕のよれたTシャツに染み込んだ。

———ごめんなさい。ごめんなさい。

小さな子供が親に何かをねだる時のような、すがりつく声で母さんは何度も謝っていた。これもいつものことで、この言葉が、拳を解く合図になっていた。

僕はジンジンと痛む身体を起こし、なおもたれかかる母さんの身体を抱き寄せる。日に増して細くなる身体に、母さんがある日突然、乾いた枝のようにポキリと音を立てて折れてしまうのではないかと思う。

腕の中で泣く彼女が、涙で濡れた顔をあげ、リビングから僅かに入る光で艶かしくてらてらとした薄い唇を、僕の唇に押し付けた。生暖かい生き物が、するりと歯の隙間を抜けて僕の口に入りこんだと思うと、夏のコンクリートに投げ出されたミミズのようにのたうちまわった。先ほどまでだらりと垂れていた手は、いつのまにか僕の頰に添えられている。彼女の細い指が僕の耳を塞ぐと、人間の唾液が絡む厭らしい音が僕の脳内で反響した。

頰に添えられていた手は、するすると僕の身体を沿って下へ降り、止まり木を見つけると小鳥のようにそれをぐっと掴む。

———ごめんなさい。

熱い吐息を伴って耳元で呟かれるその一言は、言葉は同じでも、意味はさっきまでと大きく違って聞こえた。一重の目鼻立ちのくっきりした白い顔は、外からの薄明かりで一層映えて見える。綺麗な顔に微笑を浮かべたまま、僕の下腹部に顔を近付けたかと思うと、止まり木は熱い粘膜に包まれた。僕は目を瞑って、ただただ、何かを堪えるしかなかった。暗い部屋に響く小鳥のさえずりはテシマのそれと脳内で重なり合って、酷く聴き心地の悪いものになっていた。


いつからか、母さんの涙、暴力を受け入れた後、僕は母さんに潜む「女」を受け入れることにした。母さんも、自分の中で膨らむ女の不満の捌け口として、身近にいた僕を選んだのだ。

直前までの暴力からは大きくかけ離れたその行為を僕の身体が受け入れるまでに、それほど時間はかからなかった。むしろ、暴力の恐怖を快楽とすり替えてくれるその行為に安堵すらしていた。

 彼女が夢中になって僕に女の牙を突き立てていると、時折、聞きなれない名前を荒い鼻息交じりに呼ぶ時がある。

おそらく父親の名前なのだろう。悲痛を含んだその名前は、女の悦びが頂点に近付くにつれ言葉としての響きを失い、やがて獣のような咆哮に変化する。

咆哮を止めると、快楽に支配された全身が短い痙攣を繰り返しながら、彼女は耳元で囁く。

———ごめんなさい。


女の自分を慰めた母さんは、僕の腕の中で、先の咆哮が嘘のように静かに眠っていた。布団も敷いていない畳には妙な染みができている。

夜は闇を深め、時計は夜中の二時を回った頃だった。

 窓から入った月の光が、僕の身体を薄く照らす。消えなくなった無数の痣が、母さんを受け入れた僕を叱っているように見えた。

長袖ばかりのクローゼット、偽物のお父さん、白いオブジェ。僕は夢と現の狭間を一通り彷徨ってから、静かに眠りについた。



「おはよう」

「お、おはよう」

からりと晴れた心地のいい朝、眠りたがる頭を無理やり起こして教室の席についていると、後ろから声をかけられた。

隣の席に当然のように腰を下ろすと、テキパキと授業の用意を始めている。

「はい、これ」

僕がしようとしている全ての質問を断るように、漫画を持った右手が僕の前に突き出された。

「漫画、返却期限すぎると怒られるからめんどくさいでしょ?でも、タケナカくんみたいに全部を一気に持ってこれないから、ちょっとずつ持ってくるね」

私は教科書も持ってこなきゃダメだし、と皮肉交じりの冗談を口にしてからペットボトルに入ったお茶を一口飲んだ。潤った唇がやけに目につくので、わざと視線を外した。

「…大丈夫なのか?」

「大丈夫、ってなにが?」

僕のあらゆる疑問をまとめた一言に、彼女は鋭い目と柔らかな口調で答えた。

「…いや、なんでもない」

おとなしく質問を取り消したのは、テシマが学校に来た理由を聞いたところで、自分にはなにもできないと分かったからだった。

「そういえばさ、映画化してるんだね」

「え?」

「あの漫画。映画化」

幼稚園児にしゃべるようにぶつ切りにされた言葉で、やっと、テシマが言いたいことが分かった。

僕の借りた少女漫画はちょうど映画化されたものだった。人気の俳優と、話題の女優が主役のカップルを務める。若者の間で話題になっている、と宣伝文句にはなっているけど、あの漫画を読んでいる人を若者の僕はテシマ以外に知らなかった。

「ああ、俺が図書館で借りたやつ」

「そうそう」

テシマが頷きながら、にやにやと口角をあげている。見たことのない表情だったので、僕は変に身構えた。

「と、いうわけで。その映画、今度観に行こうよ」

「誰と?」

「もちろん、タケナカくんと」

テシマの発する言葉の意味がわからなくなって、文脈を探るように僕は数秒間停止した。

「僕と?テシマが?」

「うん。映画デート」

「映画デートって…」

あまりにあっけらかんとデートという単語を口にするテシマを前にして、つい、小声になってしまう。教室を見渡しても、周りがこちらを見ている様子はない。

「い、いいけど、急にどうしたの」

「デートってしてみたかったんだ。特に映画館で。そしたらちょうどいいカモがいたから」

また口角をあげて、こちらを見た。さっきの鋭い目が嘘のように、優しい目をしている。

「じゃあ、明日ね」

 「明日?」

 「だって、私もタケナカ君も部活入ってないし、空いてるでしょ?」

僕の意見を聞く気がないのが語調から伝わったので、僕はテシマの言葉に曖昧に頷いた。ついでに時計をみると、授業が始まる二分前を指している。教室はさっきまでの騒がしさを緩め、各々が自分の席に戻り始めた。

「よし、じゃあ決まり。善は急げだよ」

手をパンっと叩き、さーて、といってテシマは前を向いた。僕もその音に目を覚まされるように、前を向く。

ジャージ姿のタジマ先生が教壇に立って、なにやら授業の用意をしているようだった。 チャイムが鳴る。柱時計の音と違って、高く鳴るその鐘の音は、僕の胸で気味悪く響くことはない。

その日一日はなにもなく終わった。不登校だった人が来てもこの程度のざわめきで終わるあたり、僕らは大人に近づいているんだと思う。

不思議なものを見るように遠巻きする女子もいれば、妙な正義感に駆られて「いつでも相談してくれ」と小声でいう委員長、気さくに接する男子。久しぶりに登校したテシマに対する反応は様々で、クラスにテシマの居場所がなくなっているという事はないようだった。

終業のチャイムが鳴る。僕はいつも通り荷物を全部鞄に詰め込み、太陽の陽が直接あたるグラウンドを横切って、サビにまみれた校門を抜けた。

テシマにプリントを届けるのが習慣になっていたせいか、手ぶらで帰っているのがなんだかむず痒くて、落ち着かない手をわざとブラブラさせて帰る。

声をかけられたテシマがクラスメイトに見せた笑顔が僕の胸で詰まって、僕の呼吸を浅くしていた。

 


 次の日、いつも通りの用意をして家を出る。昨日同様、空の青が色濃く映える朝だった。

 アパートの階段を錆びついた手すりを触らないようにしながら降りる。大きくも小さくもない家が立ち並ぶ、地味な住宅街。

 「おはよう」

 色の濃いロングスカートに高めのヒールを履き。白い無地のシャツに落ち着いた色の薄めの長袖カーディガンを羽織って、テシマが立っていた。手には可愛らしいバッグを持って、顔は軽く化粧をしている。

 「ほら、いこう」

 制服姿で立ち尽くす僕が言葉を発する前に、テシマは僕の手を自然に掴んで歩き始めた。

 「ま、まって。ちょっとまって」

 「なに?」

 何を聞くことがあるの、と言わんばかりの表情でテシマが足を止めこちらを向いた。普段より赤く染まった唇が、彼女の白い顔によく映えている。

 「映画は放課後に行くんじゃないの?」

 「学校なんて毎日行くんだから、一日くらい休んでも大丈夫だよ」

 まあ私はいつも休んでるんだけどね、と自虐をしながらまた歩き始めた。さっきより手を掴む力が強くなっているのは、絶対に連れていくという無言の意思表示に思えた。家の前を掃除しているおばあちゃんに不思議な目で見られていたけれど、テシマはそれを気にする様子もない。

 「財布が」

 「財布は私が持ってるから大丈夫。それに、誘ったの私だし、今日は私のおごり」

 「制服が」

 「制服デートなんて学生の憧れでしょ?」

 「授業が」

 「今度勉強教えてあげる。私、今学校で勉強してるとこ全部できるから」

 偉い人の記者会見よりもすらすらと出てくる回答に、僕は抵抗するのをやめた。からりと晴れた青い空。テシマの揺れる髪の毛を見ていると、不意にあの日クローゼットで嗅いだ匂いが漂ってきて、僕は時々、ばれないように息を止める。テシマが後ろを向く様子はない。女性にしては大股に、僕の手を引きながらカツカツと歩く姿は、普段の大人しいテシマから想像できないものだった。


 

 電車は僕が思っていたよりも空いていた。朝陽が差し込む車内で、皆が一様に眠たそうな顔をして吊り革に身体を任している。静かな朝の電車は、騒がしい教室よりは幾分かいいものに感じられた。

 心地いい揺れと静けさを味わう間もなく、電車は僕たちの目的の駅で停車する。ドアが開くと、眠たい身体に鞭を打つようにして、みんなが一斉に電車を降りる。学生の姿はほとんどなく、制服姿の自分が酷く場違いに思えた。

 駅のホームから地上への階段を上がると、いくらか空気が澄んでいるような気がする。

 「おい、どこいくんだよ。映画館ってこっちだろ」

 見当違いの方向に歩き始めるテシマに声をかける。平日の午前中とはいえ、やはり都心は人で溢れていて、少し油断すればお互いはぐれてしまいそうだった。

 「タケナカくんはわかってないなぁ。デートといえば、でしょ」

 

 ―――最近のプリクラはすごい。

 僕の細い目は宇宙人のように変形し、短い脚はゴムのように引き伸ばされている。テシマの赤く塗られた唇は、異常なほどに赤みを増していた。親指の腹ほどしかない小さな写真を食い入るように見つめる。

 「ね。デートと言えば、でしょ」

テシマが隣の席で精一杯の得意顔をするので、そうでもないという風を装いながら、プリクラの端が折れないように丁寧に財布にしまった。テシマの家のソファに座りなれたせいか映画館のソファが少し硬く感じられる。

 スクリーンが開くと同時に入場したので、目の前の画面には映画館のロゴが表示されているだけで、何の動きもない。前の列に背の高い人が座って、よく見えないというのでテシマと席を交代してあげた。平日の午前中に映画館へ来る人が意外といることに驚いて、頻繁に周りを見渡していたら、みっともない、とテシマに手をはたかれた。

 それにしても、大人というのは無責任だ。こんな時間に制服姿の学生が街を歩いていても誰一人注意をしようとはしない。不思議そうな目で見られたり、すれ違った後に後ろから「学校」という言葉が聞こえてくることはあっても、僕の肩をたたく人は誰もいなかった。

「ねぇ」

静かな空間に気を遣っているのか、普段より抑えた小さな声でテシマが僕を呼んだ。

「この映画見ちゃったら、私がタケナカくんに漫画お願いした意味なくなっちゃうね」

「まぁ、映画と原作は違うってよくいうし、漫画も読んでみたらいいんじゃない?」

すぐ隣にいるテシマの顔を見るのが少し気恥ずかしくて、まっすぐ前を向いたまま答えた。照明が少し絞られ、スクリーンには映画の予告編が流れ始める。

「タケナカくんて」

テシマの声が映画の音に負けている。

「好きな人とか、いるの」

「いない、かな」

「いたことは?」

「覚えてる限りでは、ない」

「どうして?」

他の質問に比べると少し間を空けてから、どうしても、と曖昧な返事をした。画面の中では、イメージガールと銘打たれた見たこともない女優が、お世辞にも上手いとは言えない演技で映画の紹介をしている。照明はさっきよりもまた少し暗くなったようだった。

そっかー、と落胆とも安心ともとれない小さな声が聞こえた。

「テシマは?」

社交辞令のように僕はありきたりな質問を口にした。ここで会話をやめると、だんだん暗くなるこの空間に、一人取り残されそうだった。

ふふふ、と小さな笑い声が意味ありげに聞こえたかと思うと、照明がぐっと暗くなった。明るいスクリーンが、暗闇に慣れない目に眩しくて、思わず目を細める。

スクリーンの明かりに照らされたテシマの顔を見るのは少し勇気がでない。

がさがさとポップコーンを漁る音が四方から聞こえた。ポップコーンの甘い匂いが、ろくに朝食を取らなかった僕を叱った。鳴ってくれるな、と手を組んでお腹の上に乗せて、また少しの間息を止めた。


目の前で美男美女が演じる甘い恋愛劇に、僕はすぐ退屈した。想いをなかなか行動に移そうとしない男と、男の好意に気付いていながらもそれを素直に受け止められない女。二人の恋愛模様を神の視点で眺め、お互いの思惑がすれ違うのをやきもきしながら見る。

 ご都合主義に進んでいく物語が、起承転結の転にさしかかったであろうころ、僕は不意にまどろんだ。瞬きするたびに夢と現実の区別を失って、瞼の裏は夢の色を濃くしていく。さっきまで硬かった椅子は、僕の中で以前の柔らかさを取り戻し、僕の身体がソファにずぶずぶと沈んでいく。俳優の吐く気障なセリフは、外国語のような懐かしさをもって僕の脳内に響いた。


椅子に沈んだ僕は、次の瞬間、芝生の上に立っていた。スポットライトで照らされたように丸く切り取られた芝生。その先は白くもやがかかっていてはっきりとしない。

僕は脚を前に運んだ。脚の動きについてくるように、芝生の道が不恰好に伸びた。一歩、また一歩と地面を踏み固めるように歩を進めると、目の前にテシマの家でみたオブジェが現れた。白く滑らかな表面。女性らしさを感じさせる丸み。

僕は半ば吸い込まれるように、その石肌に触れた。

指先が石に触れた途端、妙な粘り気を指先に覚えた。驚いて手を引くと、オブジェと触れた指先に、蜘蛛の糸のような細い橋が架かっていた。その糸は切れることもなく、だらんと力なくつり橋のように垂れ下がっている。

 僕はもう一度石肌に触れた。手のひらを石に置くと、その手の周りをどろどろとした液体が覆った。その液体は妙な温かさを持っていて、不気味な安心感を持っていた。僕は両の手のひらを石に置いた。またずぶずぶと液体に飲み込まれていく。

 その液体は腕を上って、僕の胸ほどに迫った。温かい。僕が遠い昔に忘れた何かを、この液体は持っているようだった。僕はオブジェに身を任せた。オブジェを抱きしめると、僕の全身が液体に包まれた。温かい安心感を備えたそれが、僕の身体の中に入ってくるような感覚があった。

 その時、真っ白だったオブジェが、じわじわと黒く染まっていることに気付いた。僕の胸のあたりから広がるその黒は、だんだんと、しかし確実にオブジェの表面を駆けるように広がっていく。

 純粋な黒。見ているだけで吸い込まれそうなその黒。

 心に芽生えた一抹の恐怖から僕はオブジェから身を剥がそうともがくけれど、むしろ、僕の身体はオブジェに飲み込まれているようだった。

指先、腕、肩。もはや、眼を閉じているのか、開けているのか。瞼の裏と外の世界の判別ができないほどにその黒が目の前に迫っていた。



―――ねえ。

 テシマの声が聞こえる。粘膜に包まれたようにくぐもった声。

――――起きて。終わったよ。

恐る恐る瞼を開くと、柔らかいオレンジ色をした照明が目を掠めた。僕を揺さぶるテシマの手は止まらない。瞼を薄く開いてテシマの方を横目に見ると、それに気付いたらしく揺さぶる手を止めた。出口につながる階段通路は人で混みあっていて、みんな映画の感想を口々に漏らしていた。

「あ、起きた?」

夢と現実の狭間を行ったり来たりしていた僕は、最終的に夢の中に落ち着いていたらしい。柔らかく思えた椅子は固さを取り戻している。

「ごめん、寝てたみたい」

「大丈夫。退屈だったよね」

退屈、と感想を漏らすテシマの目は薄く充血し、瞼は心持ち腫れているような気がした。その様子に、僕は軽口をぎりぎりの所で飲み込んだ。

 「いこっか」

短い誘いと共に、最初に席を立ったのはテシマだった。少ない荷物をまとめて、尻にひかれていたスカートのシワをぱっぱっと叩くようにして伸ばした。その動きに引っ張られるようにして、僕も立ち上がる。

 「お腹減ったね。なんか食べよう」

人ごみに混ざるタイミングを図りながら、テシマが言う。テシマの言葉で、僕はお腹が減っていたことを思い出した。僕の前で髪を揺らしながら歩くテシマの後ろ姿を見ていると、僕の胃はきゅうと縮むような気がした。左手につけた腕時計を見ると、針はもうお昼過ぎを指している。秒針の動きをしばらくみていると、この調子ですぐ日が暮れるような気がして、僕は時計から無理やり目を逸らした。

 平日の昼間から映画を見ている人は、僕が思っていたよりも多いらしい。映画館を出て、健やかに晴れた青空をみながら深呼吸すると、教室という空間が非常に窮屈なものに思えた。どちらからというわけでもなく、僕らは手を繋いで歩き始めた。


 

夕方。夏が近いとは言っても、いよいよ日の暮れる7時過ぎ。僕らは手を繋いだまま、学校の門から伸びる一本道を歩いていた。制服と私服の学生カップルを目で追う人はあっても、後ろ指をさすようなことはなかったし、僕はそんなことを全く気にしなくなっていた。手をぶんぶんと振り回すようなこともない。ただ、隣にいることを確認しあうかのように僕たちは手を静かに固く結びあっていた。地面に伸びる影が、ある一点で一つにつながっているのを見るたびに、二人で安心するように笑った。

 いつも一人で通る近道を二人で手を繋いだまま抜ける。

 近道を抜けた先に見る景色。綺麗とは言えないアパートに至って普通の住宅街。車通りは少なく、いつでも静かな道。

 そこに彼女は立っていた。ロングスカートにブラウス、カーディガン。日はさっきより暮れ、色ははっきり見ることができない。長い髪を乱れさせ、少し猫背の姿勢で彼女はこちらを見ていた。道一本挟んで見る彼女の顔は遠くの外灯の光で一層白く怪しく、眼の周りは落ちくぼんだように見えた。彼女の薄い唇が震えるように何かを呟いているが言葉にはなっていない様子だった。

 僕は思わず繋いだ手に力を込めた。何か不審に感じたのか、僕の一歩後ろでテシマが立ちどまる。

 「ただい…」

 「離れろ、離れろ、離れろ!!」

 肩で息をしながら、彼女は僕らに駆け寄った。黒板をひっかいたような不快な音をはらんだ声が鼓膜を震わせた。強い力で僕らの手を無理やり引きはがす。何時間ぶりだろうか。離れた手のひらが風を受けて、ひやりと冷たくなった。

 「あなたは?だれ?ねえ。紹介しなさいよ」

 彼女は丸い目をぎょろりと動かして、首をほとんど動かさずにこちらに視線を送った。テシマの手首は掴まれたままだ。悲鳴こそ上げていないけれど、テシマは痛みに耐えるような表情を見せていた。

 「ただのクラスメイトだよ。そんなのじゃないから、放してあげて」

 そんなの、とはなんだろう。跳ねる心臓を無理やり押さえつけて、できるだけ落ち着いた声で言った。僕とテシマの間で二、三度彼女の目がおもちゃのように動く。

 「本当に?」

 彼女が顔ごとこちらに向けた。彼女の首の骨が、ぎぎぎ、と音を立てたような気がした。

 「本当だよ。だから、はなしてあげて」

 僕の瞳を透かして脳みそを見るようにしてから、彼女はパッとテシマの手首から手を放した。赤い手の後がくっきりと残っている。

 「あなた、うちの子に変なことしてないわよね?」

 彼女はテシマのほうに顔を向け、敵意をむき出しにした声で尋ねた。こちらから表情を見ることはできなかったけれど、酷い顔をしているのは間違いなかった。

 「してません」

 掴まれていた手首をさすりながら、テシマが毅然として答えた。

 「嘘ばっかり」

 耳をふさぎたくなるような醜い声がまた聞こえた。

 「あなた、うちの子を誘惑してるんじゃないの?学校から連れ出して、誘拐みたいな真似して。ねえ、何か言ってみなさいよ。なにしてたの?ねえ」

 テシマの細い肩に、彼女の手が乱暴に乗せられる。

 「なにもしてません」

 激しく揺さぶられながら、テシマははっきりと答えた。

 「じゃあ、なんで手なんて繋いでたの?まさか、うちの子におかしなことしたんじゃないんでしょうね?変なことしてたら、ただじゃおかないから、この―――」

 僕は思わず耳をふさいだ。彼女の口が、醜くテシマを罵るように動くのが見えた。テシマは目をつぶって、口をきつく結んでいる。刃物とまではいわない。けれど、小さな鋭いガラス片が、テシマに刺さっては飲み込まれていくように感じられた。

 本当に耳をふさぎたいのは、きっとテシマのほうだ。僕は勝手に逃げて、心臓の鼓動しか聞こえないような、静かな世界に逃げ込んでいる。そう思うと、急に自分が弱くなった気がして、胸の底に、灰色のぐずぐずした何かが溜まっていくような感覚に襲われた。そのぐずぐずは、曖昧に、けれど確かにそこに存在した。血管か、リンパか、喉か、神経か。何を伝っているのか分からないけれど、それは僕の身体の上を目指して、ふつふつと湧き上がっていた。

 ――パンッ。

 小さな鋭い破裂音と同時に手のひらにはジンジンと痛みが広がった。彼女は電池の切れたおもちゃのように動きをとめ、また首だけがこちらを向いた。彼女の不気味な目は、名前もない複雑な感情をはらんで、大きく見開かれていた。

 血色を失った唇が、また震える。

彼女の肩越しに、テシマが口を堅く縛ったまま肩を震わせているのが見えた。

 「どうして」

 彼女の力のこもらない小さな声は、また、私に届く前に地面に落ちて、僕の足元を這いずり回った。

 「私のそばにいてくれるって約束したじゃない」

 這いずり回った声は、地面から伸びる手のように僕の足首を掴んだ。

 「また、そうやって、私を一人にするのね」

 その手はゆっくりと、しかし着実に僕の服を掴むようにして身体を這い上ってくる。

 「あの人みたいに。あの人みたいに」

 這い上った手は、僕の首を掴んで、きゅっと力を込めた。僕の細い首は跳ねた。肺は空気を欲しがって、心臓は新鮮な酸素を求めて、それぞれが力なく喘いだ。

 意識がゆっくりと遠のいて、また瞼の裏に夢を見ようとしたとき、首に絡みついていた憎しみはするりと地面に落ちた。

 眼を開けると、彼女は細い指で精一杯顔を覆って泣いていた。声も、何もなく、静かに。

 ―――ごめんなさい。

 すっかり日は暮れ、昼間の暑さを忘れたように、風が吹く。何の音もしない閑静な道に、彼女の悲痛な声だけが、小さく響いた。

 いつからそうしていたのだろう。どれくらいの時間が経っていたのだろう。

時計を見ることをやめていた僕は彼女の横を平然と通り、茫然と立っていたテシマの手を取って、テシマの家の方向へ歩き始めた。たった三分の道がとてつもなく遠く感じられた。その遠さに息苦しさを感じるような、でも、この時が永遠に続いてほしいような、そんな曖昧な感情が、僕の胸の中で渦巻いていた。


 深夜も近い。日はとっぷりと暮れている。今にも子供の声が聞こえてきそうな遊具に囲まれて、僕とテシマはベンチで身を寄せ合っていた。人の気配もない。季節的にもまだ虫が鳴かないころなので、公園はこの上ないほどの静寂に包まれている。

 結局あれから、僕らはお互いどちらの家にも帰らなかった。どちらかが何かをいうでもなく、自然とどこかに居場所を求め、この公園のベンチ座った。僕の母親も、テシマの偽の父親も、ついに探しに来ることはなかった。

 「探しに、こなかったね」

 ちょうど考えていたことをテシマが口にした。だね、と曖昧な返事をする。

 「首、大丈夫?」

 僕は最初、テシマのこの質問の意味が分からなかった。しばらく考えてから、あの形を伴った憎しみのことを言っているのだと気が付いた。左手で首をさすってみる。血まみれになっていたり、焼けただれているということもない。彼女の手のぬくもりも残っていない。

 「変なとこ見られちゃったな」

 僕はできるだけ明るく声を上げた。

公園にぽつんと立つ外灯は、古くなっているのか時折ちらついた。明かりの周りを、虫が衛星のように旋回している。

 「母さん、普段はあんなんじゃないんだ。今日はたまたま疲れてて」

 「お互い様だね。変なとこみられあってるの」

 嘘と見抜かれたのだろうか。ふふふ、と含んだような笑いをみせたあと、上がった口角をすぐに元の位置に戻した。その表情の冷たさに僕は驚いて、出かけた声を詰まらせた。

 「お互い愛されてるね」

 「うん。形も何もかも、全然違うけど」

 愛されている、というのは間違いではない。確かに、僕たちはあの人たちに必要とされていた。一方は衝動的な性の対象として、また一方は残された最後の拠り所として。形の違う愛を、僕たちは押し付けられている。

 「好きな人がいない、って言った理由は、あれ?」

 テシマが聞き辛そうに、ぶつ切りの言葉を並べた。あれ、というのは母さんのことを指しているのだろうことはすぐにわかった。また外灯がちらちらとする。ちらつく光に襖から覗くリビングが脳裏をよぎった。

 「母さんのこともあるかも。母さん、ああなって長いから。関係ない人にまで、母さんのことで迷惑かけられないし―――」

 理由は半分で止めるつもりだった。ついて出てこないように喉をぐっと閉めたつもりが、夜のわずかな明かりを反射するテシマの瞳を見ていると、緩んだ。

 「僕は奪われることに慣れすぎて、与える方法が分からないんだ。だから、あの日、クローゼットの中でテシマの声を聴いた時、正直嬉しかった。ここにも、僕と同じ奪われる側の人がいた。仲間がいた。って。同時に、怖かった。奪う側の人間がクローゼットのドア一枚向こう側にいると思うと、怖くて声も出せなかった。だから、助けてあげられなかった」

 僕の口は、聞かれていないような事まで、よどみなく、流れるように話した。繋いだ手には力がこもったけれど、声が震えることはなかった。そして、僕の身勝手な告白にテシマは驚いた様子も見せなかった。

 そう、と小さく呟いて、テシマは繋いでいた手をほどいて、僕の首に手を伸ばした。

 さっきまで憎しみと悲しみが絡みついていた首。絹の表面を撫でるように、僕の首筋を彼女の指が伝った。テシマの手からは同情や慰めが少しも感じられなかった。優しい、与える者の手だった。

 ペンキの刷毛のように、同じ場所を上から下へさすった後、テシマは僕の首にやさしく口づけをした。少し湿ったやわらかな優しい感触が、僕の全身を駆ける。

 ほどかれて居場所をなくした手を、僕は首を触るテシマの腕に添えた。季節外れの分厚い長袖をめくると、彼女が偽の父親から与えられていた重すぎる愛の跡が、生々しく具体的な形をもって現れた。

 「ずっと、この手、知ってたんだ。やっと、触れた」

 僕もまた、彼女の腕に口づけをした。優しく、愛の跡の数だけ、何度も。白く柔らかいテシマの肌には、その跡が酷く不格好に映った。ちらつく外灯の周りを旋回していた虫が、コツンと明かりにぶつかった。

 彼女の大きな黒い瞳が、僕の瞳を覗いた。目の奥から脳を見透かされているようで、僕が少し目をそらすと、彼女は僕と唇を重ねた。カチリ、とぶつかる歯の隙間を通って、僕の中に入り込むそれは、口の中から脳を蕩かすような温かさを伴っていた。

 彼女の背中に手を回し、ぎゅっと強く抱きしめた。僕は同年代の女の子を抱きしめたことがないから確信はないけれど、抱きしめたテシマの身体は随分と弱弱しいものに思えた。この身体に、無数の愛の跡が無理やり与えられ、あの男はテシマから何かを奪い続けるのだ。傷ついたテシマの身体は、ずっと、男に与えられる小さな形ない刃物をため込み続けるに違いない。

そして、いつかそれは爆発する。飛び散る破片が周りの人を傷つけるのだ。

座ったまま抱きしめた不格好な格好のまま、僕の胸の中にはまたぐずぐずした何かが溜まっていた。さっきのものとはまた違うそれは、その正体を考える時間を僕に与えないまま、テシマの口から、喉へ、腹へ、腕へ、脚へ、指先へ。どんどんと体を満たしていく。

「なあ、テシマ」

僕はその正体を考えなくても知っていた。

「なに?」

身体を満たすそれが、僕の口から溢れた。

「おれ」

溢れでたそれは、

「殺したい人がいるんだ」

あまりにも激しい、刃物の形をしていた。

 

 嗅ぎなれた匂いが充満していた。手に持った刃物は、わずかな光もないはずの暗闇で大げさに光って見えた。不思議と落ち着いていた。心臓がおかしな動きをすることも、肺が呼吸をすることを忘れることもなかった。

 外からは、食器のすれる音が聞こえる。今はまだ静かな空間。階下の柱時計が鐘を打った。時計は外してきたから、今が何時かは分からなかった。

 しばらくして、どれくらい時間が経っていたかは知らないけれど、ドアの向こうが騒がしくなった。低い声、さっきよりも激しくなる食器の音。床に響くどんっという衝撃に、ベルトが外れる軽快な音。

 今すぐ飛び出したくなる衝動を、僕は必死に抑え込んだ。さっきまで大人しかった心臓がバクバクと強く拍動した。粘ついた唾液を無理やり飲み下す。ほどなくして、あの日聞いたのと同じ嬌声が聞こえ始めた。一定のリズムを刻むその声に、僕は酷く苦々しい気持ちになった。


――――殺したい人がいるんだ。

 テシマの耳元にあふれた、僕の胸のぐずぐずは鋭い刃物の形をしていた。あまりにも攻撃的なその姿に、テシマの身体が一瞬びくりと跳ねた。

―――偽物のお父さんを殺して、二人で暮らそう。

―――きっと母さんは自殺するから。

―――自殺しなければ、母さんも僕が殺すよ。

猟奇的な提案が泉のように湧いた。

 僕の提案にテシマは小さくコクコクと何度も頷いた。僕の提案に対する単なる震えなのか、賛同の頷きなのかははっきりしなかったけれど、この際細かいことはどうでもよかった。

 

 僕はドアを静かに開けた。瞳に飛び込む明かりに目を細めながら、柔らかい絨毯にそっと足をつま先から乗せる。わずかに聞こえていた嬌声が、その輪郭をはっきりとさせた。

目の前には男の醜い背中が広がっていた。生々しく身体が動くたびに、尻の肉が揺れるのが不快だった。男の下には組み敷かれるようにテシマの姿があるのだろう。男の背中で顔も身体も見えないので、僕からは4本足の奇妙な怪物が、部屋に横たわっているように見えた。奪うことに必死になっている男は、後ろに立つ僕の姿に気付いていない。

一刻も早く、この景色を消し去りたかった。僕は左手を高く振り上げ、何の躊躇いも持たずに、それを男の首に振り下ろした。二度、三度。音も何も聞こえなかった。吹きあがったしぶきが、僕の視界を真っ赤に染めた。男はしばらくもがいた後、だらしない身体をぐったりとテシマの上に横たわらせた。

絨毯に広がる赤いシミ。その中に、テシマは生まれたままの姿で座り込んだ。罪悪感はどこにもなかった。テシマの身体を見た興奮もなかった。テシマの身体は、やはり、男から与えらえれ続けた見えない刃物の跡で覆われていた。

僕はこの光景に、満足感すら覚えていた。それは男を殺したことによるものか、テシマを救えたことによるものか、何かは分からなかった。ただただ、言いようのない何かで僕の全身は満たされていた。

テシマがガチガチと歯を鳴らした。

「大丈夫だった?」

テシマは僕の言葉に、コクコクと小さく二度うなずいた。生まれたてのようにおぼつかない足取りで、テシマは自分の服に袖を通した。しかし震えは止まらないらしい。

「大丈夫。少し、怖かっただけ」

 僕は血の付いたナイフをそっと絨毯の上に置いて、テシマを抱きしめた。手は赤黒く汚れていたけれど、気にしなかった。

 「もう大丈夫だから。何も怖がることはないから。これからは一緒に暮らそう。きっと僕たちならやっていけるさ」

 そう囁いて、僕はテシマを一層強くだきしめた。薄いシャツ一枚をまとったテシマの身体は、ほんのりと優しい温かさを持っていた。

僕はきっと間違えたことなんて何一つしていない。僕の行使した正義を、これから一生かけてテシマと二人で証明していくのだ。ここに暮らせなくなれば、どこか遠くにいけばいい。何も、この町にずっと根を張る必要はない。

テシマの髪の匂いをすーっと深く吸い込んだ。



僕の腹に、鋭い痛みが走った。その痛みは波のように全身に伝わって、やがて、まるで腹の上で焚き火をするような熱を持った。

ぐらついた身体が絨毯に沈む。身体の下に、見覚えのある赤い海が広がっていく。

腹に突き立った、一本のナイフ。憎しみを纏って男の命を奪ったそれは、憎しみとは別の何かを纏って僕の命を奪おうとしていた。

ナイフを握る、何度も握った白くか弱い手。そこから伸びる腕の先には、僕がさっきまで抱きしめていた肩。その上には、見たこともないほど醜く歪んだテシマの顔があった。歪んでいたのかは判然としない。もしかすると死の淵に置かれた僕の目が、歪んだのかもしれない。

声を出そうとした。声は出なくなっていた。声帯は無駄に震えてから、僕の言うことを聞かなくなった。

嘘でもいいから、テシマには震えていて欲しかった。外の世界を怖がるテシマを僕の手で守ってあげるつもりだった。テシマへの愛で満たされていた泉が、底のほうから、どんどんと赤黒く染まっていくのが分かった。

あの日の夢のように。オブジェを包んだ生暖かい粘膜のように、僕の身体は赤くて生暖かい血で包まれた。さっきまで僕の中を流れていたそれは、僕の感じることができる最後の生だった。

90度傾いた世界。そこに広がるのが、いつもの散らかった部屋ならばどれだけよかっただろう。感じる痛みが、母さんによる愛を孕んだものならば、僕はどれだけ幸せだっただろう。


僕はテシマに利用されていた。いつからかはわからない。初めて会った日か、高校に入学した時か、僕がプリントを届けた日か、テシマに好意を抱いた日か。ある時を起点にして、僕はテシマの手のひらで踊らされていた。見えない糸で操られる僕は、果てに自らナイフを手に取って、目の前の男を殺した。テシマにとって僕は、非常に都合のいい人形だったに違いない。


皮肉にもテシマの口ははっきりと動いた。この世の悪の全てを含んだような、厭らしい笑いを浮かべながら。


———ごめんなさい。


絨毯に身体がズブズブと沈む感覚があった。夢か現か。瞼の裏に夢をみた。きっと悪い夢だろう。そんな予感をひしと感じながら、僕は目も耳も口も、全てを閉ざした。


書いてみたものの駄作です。

男女の性の描写がしたくて書いた作品でもありました。

物語は完全に破たんしてますね。頑張ります。

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