チャコの戦い
徒歩で五分ほどの場所に、水商売の店やホステス達を主な客層としているこぢんまりとした花屋がある。
店舗は六畳に満たない狭さだが、派手でいながら日持ちのする品ばかり揃えてあるので、不精なOLなどが日々の潤いのため、仕事帰りに花を購入していくこともある。
深夜の遅くまで営業しているのもこの店のウリの一つだ。
今までにも何度か利用しているため、チャコもここの常連のようになっていた。
すでに定番となっている花々を購入し、『エル・ポエップ・ダエッド』へ続く路地を早歩きで進んでいると、地下にある店へ降りる階段の反対側、丁度、格安チケット販売店と自動販売機がある場所の陰に、何者かが潜んでいるのが見えた。
暗くて判別しづらいので、通常ならよほど眼を凝らさないとわからない地点だった。
きっかけは、チャコの持つ普通の人間よりも優れた聴覚のお陰だった。
潜む影がふと発したガムを噛む音を聞きつけ、普段なら気がつきにくい場所に隠れていたものに気づくことができた。
だが、見つかった相手も、いきなり足を止めてこちらの様子を窺う少女を見落としたりはしなかった。
すぐに陰から離れると、路地に躍り出る。身体を縮こませる必要のある狭い場所では何かと不利だからだろう。
暗い路地だったが、月の光が充分に差し込んでおり、男の顔もはっきりとわかった。
痩せていて頬骨の飛び出した馬面、薄い唇が酷薄で陰気そうなくせに、眼だけが強烈に輝いている。
そして、全身に漂う圧倒的な自信に満ちた存在感。
黒いコートの男は軽く両拳を握って親指をしごく。すると、無音で10センチほどの三角の刃が滑り出る。飛び出しナイフの類だろう。
明らかにこちらに殺意を抱いている。
「てめえは!」
チャコはその馬面を見知っていた。
驚きがつい口から漏れる。
「ちっ」
影は自分の顔を見られたことよりも、顔を知られているらしいことに舌打ちした。
本業では彼の顔を知るものはまずいない。
そのはずだが、目の前の褐色の少女は既知の相手に対するリアクションを披露している。
それは自分の正体というべきか、自分の存在を目標たちが知っていることの証明だと考えられる。
ここで一気に始末をつけるべきかとも考えたが、ただでさえ目標たちは力が強く、場合によっては通常は在り得ない魔的な挙動すらこなすこともわかっているのだから、正面からの戦いは得策ではない。
ましてはここは敵のテリトリーである。
助太刀がこないとも限らない。
影は逃走を選択した。
今日得た情報を咀嚼し、役に立てる時間を稼がなくてはならない。
だが、それを簡単に許すチャコではなかった。
逃走のためわずかに視線を外した隙に、短くはない距離を詰める。
そして、微塵も容赦のない掌の一撃を背中――肩甲骨のあたりに叩きつけた。
だが、咄嗟のことで体勢が悪く、腰の乗った一撃とはならずに姿勢を崩しただけで終わり、男は身をよじって地面を転がる。
男の身体能力は低くなく、二度転がった後、すぐに膝立ちをして振り向き、追い討ちに備えてくる。その間も両拳に握ったナイフは手放すことはない。
もしも用心せずに近づいていたならば、チャコは身体のどこかを切り裂かれていただろう。
一投足の間合いに達しながら踏み込めないのは、男が発する瘴気のように不気味な気迫に呑まれていたこともある。
チャコは前世紀の初頭に横浜で創造されたゴーレムである。
二つの大戦も経験したし、朝鮮戦争時の半島に潜り込んでいたこともあった。
その頃に多くの人間達を見掛けたが、この男ほど奇妙なタイプは記憶になかった。
これと似たようなタイプというなら、大陸にごまんといた馬賊の頭領たちが挙げられるが、あれは現代の日本では三日と生きていられない希少種だ。
それなのに似ているというのは、男が発する異常な自信の強さのようなものが、死が間近にある戦場を生き延びたものに近いということだろうか。
チャコは足を引き、猫足に立つ。
一世紀も前に習い覚えた武術の技が自然と身を動かす。
彼女は『紅茶』を中身とするに相応しく、本来は淑やかな性質を持つゴーレムである。
ウォータや華さんのように特殊な部分を持つ訳ではなく、能力的には人間とあまり変わらないのが特徴といえば特徴の平凡なタイプだ。
もともと液体を『中身』とするゴーレムは闘争に向かず、純粋な戦闘と言うことでは、固体型のゴーレムの方が優れていることもある。
しかし、百年の活動期間に様々な出来事が起き、彼女が当初の性質のままで存在することを許さなかった。
その一つが、人間のように身を守るために格闘技を習い覚えなければならなかったいうことであった。
そして、チャコは当時横浜にいた琉球人に唐手を学んだ。
構えを取ると自信が全身の神経を駆け巡る。
それは爽快な気分だ。
琉球から伝わった直後の荒々しさを残す唐手に、チャコの稼働時間である100年の練磨を加えたものが、彼女の自信の元だった。
それが、影の自信に劣るものではないことは力で証明できる。
男が前進した。膝立ちとは思えぬ、転ぶようなダッシュ。地面に這うことも厭わぬ、それをしくじれば遥かに不利になるに違いない動きで、二刀流のナイフを交叉させる。
狙いはチャコのすらりと長い褐色の脚。
踏み込もうとしたタイミングを意外な攻撃で邪魔され、本来なら迎撃の手刀をみまうはずが、脚を引くだけで精一杯だった。
男は捻りをいれて右肩から地面に落ち、同時に腰を支点に下半身を跳ね上げる。ブレイクダンスじみて下から昇りあがる踵。
咄嗟に自分を庇ったチャコの肘を不十分ながら強打した。
バランスを崩して、チャコはよたよたとたたらを踏む。
一方で男はその反動を用いて起き上がり、中腰になると、今度こそ一目散に駆け出しはじめた。
―――チャコのすぐ脇を。
さっきの失敗を教訓に、今度は振り向くロスを避けて一気に全力疾走を行ったのだ。
度重なる予想外の動きに、意表を突かれまくったチャコは、結局は何もできずに終わってしまった。
追いかけるべきかとも考えたが、その分だけ時間を失ってしまう結果に終わった。
走力においては、チャコも普通の人間とほとんど変わりがないのも致命的だった。
彼女とは対照的に、まったく躊躇なく走り去っていく影を苦汁を飲んで見送ることになつた。
そして、先ほど落としてしまった花束を拾うと、その足で『エル・ポエップ・ダエッド』のある地下に続く階段を降りはじめた……。
※
「あの『凶手』がいやがったんだよ。多分、この店を見張っていたんだと思う」
チャコは空二の右に座り、不機嫌そうに長くスマートな脚を組む。
そのなんとなく不吉な名を聞いて、店内をどよめきが走った。
もちろん、空二にはなんのことだかさっぱりわからない。
「おい、それは確かなのかい?」
グラスを乾いた布巾で拭っていたマスターが詰問調で言った。
その眼光は鋭いもので、「デマは許さない」という意思に満ちていたが、チャコはわずかさえも迷わずに言い切った。
「うん、『組織』が用意していた写真を少し老けさせたっぽいけど、間違いないね」
「そうか……」
いつのまにか、マスターの手もお留守になっていた。それほど深刻な話題なのかと、漠然と理解した。
店内に沈黙が落ちる。
チャコは自分の携帯を取り出し、カチカチ弄り始めた。白い綺麗なスタイルの最新機種で、ゴジラのストラップがついている。
「……『凶手』ってのはね……」
意外なことにウォータが口を開いた。
ウォータは人差し指を立てて、剣呑なことを口走る。
「人殺しなの」
絶句する空二に追い討ちをかけるように、
「ウォータたちの兄弟姉妹がもう七体も殺されているの。だから、この国ではウォータたちにとっての一番危険な敵なの」
「はい、こいつ」
そういって、チャコが携帯電話の待ち受け画面を掲げた。
そこに写っていたのは、隠し撮りだろう、遠距離から撮影したやや不鮮明な男の写真だった。
どうやら携帯を弄っていたのは、彼にこの写真を見せるためだったらしい。
馬面の痩せた男。
すくなくとも空二には見覚えのない男だった。
「……アンダーグラウンドの世界での通り名は『凶手』。本名は不明。だいたいは紅林則和という偽名を使っている。もともとは名古屋あたりの暴力団の構成員だったらしいが、ある時期からフリーの殺し屋に転向。フリーの殺し屋なんて非現実的な職業をもう十年以上続けているだけあって腕は確か。そのスタイルとしては刃渡りのあるコンバットナイフを使った刺殺がほとんど。確認されただけで、14人を殺害している。そのくせ、ただの一度も現場を目撃されていないことから、彼をフォローする集団なりが存在すると噂されている」
まるで暗記しているかのようによどみなく、華さんが説明をする。
「だが、人間相手の殺し屋なら、僕達にとってなんの脅威にもならない。こいつが脅威なのは、さっきウォータが言ったとおり、すでに七体の仲間がこいつに消されているからなんだよ」
慄然とした。
ゴーレム達が肉体的なポテンシャルでいえば、人を遥かに凌駕していることをさっき説明されていたからだ。
力は150キロのバーベルを簡単に持ち上げ、跳躍力も二倍近く、他のポテンシャルも通常人とは比べ物にならないそうだ。
その彼らがたった一人の人間に七人も殺されている、という話は空二にとって驚きの事実だ。
その疑問を察したのか、
「なぜ、僕らを狙うのかの目的や背後関係は一切不明。ただ、人よりも肉体的にははるかに優れている僕らを容易く屠る腕前はすさまじいとしかいえないね。『組織』からこうやって写真が配信されているのも、十分に注意を促す意味があるんだろう。どうやら、さっき僕のお腹を掻っ捌いてくれたのは、彼のようだね。さすがというか……」
華さんが空二に向き直った、
「洞藤くん。……動機はわからないが、『凶手』は僕らを無差別に狙ってきている。かつて宗教的な背景を持って僕らを付け狙った連中はいたが、『凶手』のように無差別に僕らと見れば襲ってくる相手は今までにも聞いたことがない。そして、これほど危険度の高い相手もざらにはいない。僕らと一緒にいるのを見つかっていたとしたら、洞藤くんも真実はどうあれ、兄弟姉妹として狙われる虞がある」
再び深刻な沈黙が落ちた。
死刑宣告直後の法廷のような静寂であった。
「あたしがこいつを守るよ」
手を上げたのは褐色の少女。
その双眸には決意の光が溢れていた。
「……チャコ」
「こいつは、あたしが見つけた手がかりだしね。それに、さっき奴を逃がしちまったのもあたしの責任だし。ウォータもやるってさ。ウォータにとっても初めての弟だからね」
脇を向くと、おずおずとウォータがペットボトルを掲げていた。賛同の意思を表示しているらしかった。
華さんが重々しくうなずいた。
「わかった、君らに頼もう。他の兄弟姉妹は、洞藤くんの周囲を洗って、少しでも僕等の創造主の正体を割り出してくれ。洞藤君、チャコとウォータが君を護衛することになるけど、それで構わないかい」
「まあ、いいけど」
空二は並んで座る人ではない少女達を見やった。
まだ会って一日程しか立っていない彼女達に、今日仕入れたばかりのファンタジックな情報を重ねてみる。
信じる信じないは別として、付き合ってみるのも悪くはないかな、と思った。
結局のところ、彼は自分の生い立ちについて探り出さねばならず、結果としてどんなことがあっても受け入れるしか道はないのだから。
「じゃあ、しばらくの間、あんたの家で面倒になるからよろしくね」
チャコがしれっと聞き捨てならない台詞を吐いた。
「何?」
「……だから、しばらくウォータとあたしはあんたん家に厄介になるから、よろしくねと礼儀正しく挨拶をしたのよ、わかったかよ?」
空二は眼を丸くした。
「ちょっと待て。そんな話に納得はしていないぞ」
「大丈夫、あたしたちは気にしないぞ」
「俺は気にするだろ!」
ペットボトルが掲げられた。
微笑むウォータは抱きつきたくなるほど可愛いが、今の彼には小悪魔ならぬ子悪魔でしかない。
「ウォータはいいよ」
「俺が駄目だって言ってんだっ!」
悲痛な叫びが店内に響き渡った。
だが、それを吹き消すような爆笑が店内に轟き渡り、空二は自分が別の意味で異空間に迷い込んでしまったのではないかと後悔したのだった。