過去と現在(いま)
空二はノートをとるふりをしながら、授業中、ずっと左手を見つめていた。
見た目は何の変哲もない、ただの少年のものでしかない手。
だが、それがすべての厄介ごとの元凶でもあった。
この常人のものとなんら変わらぬはずの皮膚の下には、誰のものとも異なる青い血液が流れ、もし傷つくことがあれば直ちにそれが流れ出すのだ。
幼き日に、自分の血液が青いという事実を知ったときの衝撃は、まだまだ完全には抜けきっていない。
他の子供はおろか、普遍的な人間たちと明らかに違う異形を秘めたものである事実は、彼と他者との間に冷たく堅固な壁を築き上げた。
その後、青い血が流れているのは左手の肘から指先だけに限るということが判明したとしても、他人と違うという点には変わりがなく、なんの慰めにもならなかった。
かつて青い血の人種が迫害される映画を見たことがある。
イカやタコなどの一部生物の血が青いということを知り、つまらない妄想を抱いて夜中に震えたこともある。
自分が他と根本的に異なるという自覚は、子供にとって致命的な傷を感じさせるものであった。
だから、空二は周囲の人間とは、どうしてもある一線までしか合わせることができなかった。
常に左手の秘密を隠して生きてきたからだ。
誰にも知られたくなかったから。
誰かに蔑視されたくなかったから。
誰かに嫌われたくなかったから。
抽象的な「誰か」が、いつもそこにいた。
他の部位がどんなに怪我をしても、左手だけは免れるように細心の注意を払ってきた。
だから、運動や刃物を扱う作業はことごとく避けてきた。
左手はできるかぎりなるべくポケットに突っ込み、行儀が悪いと注意されたことさえもある。
それでも、誰になにを言われようと、左手の秘密さえバレなければどうということはなかった。
誰にも知られたくなかったし、知られなかった。
あの変わった外科医以外には。
だが、それ以外にもう一人、例外的に彼の秘密を知ったものがでた。
蜂条夕卯子。
この高校では生徒会長を務める、中学時代からのかけがえのない友人。
彼女との出会いはまったくもって記憶にないが、中学時代にやっていた図書委員会の集まりがきっかけだったのは間違いないだろう。
……あれは、二人で組んで図書準備室の片づけをしていた時のこと。
作業中、棚の上に無造作に置かれたハサミが、ふとしたはずみで落下した。
学校の備品にあるまじき大き目の凶器であるハサミの鋭い刃先が、しゃがみこんでいた夕卯子の肩口に落下していった。
すぐ脇にいた空二は咄嗟に左手を差し出してしまう。
庇う意図は微塵もなかったはずなのに。
しかし、結果として彼女を庇ったことになり、その代償として左手を軽傷か重傷か判別しない程度の切り傷を負い、はっきりとした出血をしてしまった。
青い体液が床に飛び散る。
庇った少女の目にも入ったはずだった。
空二の身体は竦みあがる。
他人に、たった一人とはいえ他人に、ひた隠しにしていた青い血の滴りを見られてしまったのだ。
悔やんでも悔やみきれないしくじりだった。
少女が口を開く。
「きみ、しっかりして」
予想した台詞ではなかったような錯覚がした。
だが、それが真実であり、予想は簡単に裏切られた。
それだけに留まらず彼女の対応は優しかった。いや、優しすぎたのかもしれない。
すくなくとも秘密の露見に怯え切っていた少年には例えようもない慈愛に満ちていた。
青い血を流す傷に白いハンカチを当てて、さらに大丈夫かと問いかけられた。
顔色が真っ青になり、無言のままの彼を心配したのだろう。
血の流しすぎを考えたのかもしれない。
実際には、ただ自己の中に沸き起こる感情の怒涛に困惑していただけだったのだが。
次に、「病気なの?」と控えめに聞かれた。
人と違うというのなら、まずそれが正しい問いかけだろう。
空二の血は青いだけで、物体をドロドロに溶かす濃硫酸ではないのだから。
「体質」
短めに答えると、それ以上は少女は口を利かずに、人がいない水飲み場まで彼を連れて行き、流水で血を洗って消毒をしてくれた。
あとは、見た目より深い傷でないことを確認すると、保健室から消毒薬と包帯をもらってきてくれて、てきぱきと手当てをしてくれた。
保険医には内緒で持ち出したものだと知り、後日、完治してから謝りに行った記憶がある。
治療中は今までの生涯で必死に隠してきた秘密がバレたことに戸惑い、混乱していたので、少女のなすがままの状態だった。
そのとき、パニックになって思考停止中の空二は、つい自分から少女に左手の血のことを詳しく説明してしまった。
訊かれもしないのにうわ言のように秘密をペラペラ喋り始めた、知り合い程度の同級生に彼女はずっと付き添ってくれた。
後になって、同級生をはじめとする十代の少女たちが、実際はたいして優しい訳ではなく、むしろ残酷な部分の方が大きいということを知ってからは、まだ中学二年にすぎない少女が持っていた聡明さと慈愛めいた優しさに深く感謝することになる。
そんなことがあって、空二と少女―――夕卯子とは親友といってもいい関係になった。
彼女は、青い血の秘密を隠し続けることに同意してくれた上、いざというときのごまかし方なども親身に考えてくれた。
なぜ、夕卯子があんなに親切にしてくれたのか、今になっても空二にはわからない。
夕卯子自身、空二の身を挺した振る舞いで怪我をせずにすんだことへの感謝があっただけだったのかもしれない。
ただ、彼女への恩義だけは忘れることはなかった。
それは今では深い深いかけがえのない友誼へと昇華している。
今日も、わけのわからない少女に取り押さえられたとき、夕卯子は何のためらいもなく彼に救いの手を差し伸べてくれた。
夕卯子がいなければ、現在の自分がどうなっていたかわからない。
不気味な左手を抱えたまま、うずくまって生きていくしかなかったのではないか。
それを思うと、空二の心は不思議な困惑にとらわれる。
そして、最近はまったくといって良いほど頭に浮かばなくなっていた、自分の左手の謎について久しぶりに考察する機会を得た。
あの二人の少女たちはいったいなんだったのか。
『あなた、なんなの?』
黒髪は確かに、そう言い放った。彼の左手を見つめながら。
チャコと呼ばれた褐色の少女も、彼の左手を眺めていた。
明らかに彼の秘密を看破したものの行動であった。
幼い頃から、疑問だった青い血の正体がつかめるかもしれない。
そう思うと、洞藤空二の心は平静でいられなかった。
※
『凶手』は、暗い室内で何時間も待ち続けていた。
彼が待っていたのは、このマンションの主である外国人の女性だった。
もっとも正確な意味で、『外国人の女性』であるかしれたものではないが。
道具で壊した窓から室内に忍び込み、どれほどの時間が経過したのか、すでに彼自身ですらわからなくなっていた。
だが、彼は待つことがなによりも得意だったから、この退屈な行為になんの苦痛も覚えない。
ぎらぎらと生気が漲った瞳、揺らぐことのない姿勢、そのどれもが獲物を仕留めるために必要なものであり、それを維持するために全精力を傾けることは、むしろ彼にとって娯楽に等しい。
それでも室内に漂う甘ったるい香水の臭いだけには閉口していた。
現況に不満が在るといえば、それだけだ。
玄関の鍵がくるりと回った。
ゆっくりとドアが開き、人影が姿を現す。
半日ぶりの、家の主のご帰還だった。
扉が閉まるとまた室内が暗くなる。
脇にある電気のスイッチを押す気配がした。
玄関の電灯は点くのだが、奥のダイニングのものだけは点かない。
この2LDKのマンションは、玄関とダイニングの電灯が同じ配線を用いているから、どちらかだけが不灯ということはない。
これは『凶手』の仕業だった。
目標を警戒なくこちらの想定通りに動かすために、彼がよく用いる手法だ。
配線に少し手を加えるだけで済む上、たいていの相手にはこれがよく通用する。
そして、経験側上、人間以外にも通用する。
キッチンのブレーカーを確認したとしても、べつに異常は見当たらないので首を捻るだけだ。
「あれ、おかしいな」
ダイニングに住人が足を踏み入れた。
彼女の発する日本語にはなんの違和感もない。
声だけを聞いたら、純粋な日本人と区別がつかないだろう。
言葉は流暢過ぎるほどに正確なものだったが、ブルネットの髪といい、高い鼻梁といい、典型的なラテン系の美女のタイプであった。
ダイニングの電灯を下から見上げる。
もちろん原因などはわかりっこない。
背が届かないので、バッグを置き、イスを台にするために動こうとしたとき―――
「よお、バケモノ」
『凶手』はソファーの陰からいきなり立ち上がると、美女が振り向く前に、手にした刃渡り30センチのコンバットナイフでそのわき腹を貫いた。
突然の凶行だが、動きにはなんの淀みもない。
手ごたえはいつもと変わらない。
だが、刃を立て、さらに上下に抉ったときに、傷口から漏れ出したものが通常とは異なっていた。
どろどろとした、黒い液体が彼の袖を濡らす。
それが、おそらくは精製前の重油であろうことは見当がついていたが、なぜ女の身体から重油がこぼれだすかは未だに理由がわからない。
まあ、重油がでてくるだろうことは、ロフトに隠してあった無数の重油缶の存在から想像は出来ていた。
このバケモノたちの生態を『凶手』は熟知しているといっていい。
女はなにが起こったのか咄嗟には理解できないようだったが、自分の肉体に刃という異物が差し込まれたことよりも、自分の部屋に見慣れぬ男が存在していることについて強く反応した。
「な、なんなの、あんた?」
女の手が、『凶手』に向けて振られた。
細すぎるはずの四肢にこめられた力が、ヘヴィ級のプロレスラーのそれをはるかに上回ることをよく承知していた『凶手』は、間一髪で避けきる。
そのついでに、ナイフにもう一度だけ力を込めると、真下に引き下ろした。
通常の人体ならば、このような力を加えたとしても筋肉を断つことはできはしない。
生きた肉の抵抗力というものは思っている以上に手応えがある。
しかし、女――とその同類のバケモノ共――は、本来、薄皮一枚しかない、いわば張りぼてだ。
一度コツを覚えさえすれば、彼ほどまでに熟練したレベルの業なら至極簡単に切り裂ける程度だ。
『凶手』の作った傷は、わき腹から太ももを切り裂き、膝までに拡がっていった。
そして、傷から一気に激しくこぼれ出す重油。
ここまで傷が広がれば、すでに立ち続けるための重心の維持ができなくなっているだろう。
「あんた……」
苦しそうな声が聞こえ、女は中身の重油を一気に失ったこともあり、右ひざからがくっと崩れ落ちる。
もう一度、『凶手』を打ち据えようとするが、彼の横っ面をはたいたのは台所用品のゴム手袋のような芯のない皮だった。
女は鼻につく臭いを撒き散らしながら、まるで空気のぬけた風船のようにしぼんでいき、そして、『凶手』の足元にわだかまっていった。
皮でできた風船のように折りたたまれる。
昔、折りたたみの梯子のようだと連想した記憶が甦った。
ブルネットの髪だけが、元人体であったはずの風船の大きな特徴であるといえた。
ついさっきまで漂っていた甘ったるい臭いがかき消され、くらくらしそうな重油の異臭が室内を蹂躙していく。
『凶手』は油の汚れにまみれた床とカーペットを見下ろし、それから心底満足できた笑顔を浮かべて呟いた。
「ふつふつと滾るよな、おい、バケモノ」
すでに動かない皮の塊に投げキッスをする。
当然のごとく、その気障な仕草に応えるものは居ない。
「ありがとうよ。放出したぜ」
それから女の中身であった重油に汚れたスラックスと靴下を、用意しておいた予備に着替える。
ナイフと両手はキッチンで丁寧に洗った。
まだ、幾分爪の中などが汚れてはいるが、それはここから出て宿にしているホテルに帰ってからでも構わないだろう。
残骸の後始末をどうすべきか悩んだが、ちょうどいいことにここには重油が多量にあるのだから、それを最大限に利用することにした。
『凶手』は窓のあたりまで離れ、落ちていた雑誌の一冊にライターで火をつけた。
そして、窓から庭に飛びすさると同時に、女の残骸が転がっているあたりに雑誌を投げ込む。
火はすさまじい勢いで室内を紅蓮に染めつくしていくが、それがはっきりと形になる前に、下手人である彼は遥か遠くへと消えさっていった。
自らの為した悪行になんの痛痒も覚えず、『凶手』はもうすぐ明るくなる道のりを快適な気分で歩いていく。
夜空は曇ることもなく、初秋のさわやかな風は気分を浮き立たせる。
ああ、なんて素晴らしいこの想い!