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スキンゴレムズ  作者: 陸 理明
第五章 血色の憂い
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少年時代の終焉

 それからしばらくの間に起きた光景について、空二は生涯決して忘れないと誓った。

 自分が為した弱い決断についても同様だ。


 ゴーレムは不意におかしな衝撃を腰に感じて、振り向いた。気がつかなかっただけで、何か机等が置かれていて、ついうっかりしてぶつかってしまったのかと思ったのだ。

 それぐらいに油断していたとも言える。

 目当ての半人半ゴーレムは足元で瀕死で呻いており、護衛のゴーレムは遠ざけた。この場で動くものは他にはいないはずだった。

 しかし、彼は驚愕することになる。

 彼の視界に入ったのは、ただの人間だった。彼の背中に密着するほど至近に、その人間は存在した。

 黒い衣服は彼のものとよく似ていて、縦に長い馬面をした剣呑な双眸を持つ男だった。

 そいつが、先ほどまで廊下の先で倒れ伏していたものと同一人物だと認識する前に、腰から太ももまでの皮を一気に引き裂かれた。

 腰に加わった衝撃の正体は、長大なナイフによる刺突だったのだ。鋭い刃はゴーレムの人造の皮膚をたやすく切断する。

 がくんと影の膝が崩れた。

 大きく引き裂かれた傷口から、ガラガラと固い土塊のような中身が転げ落ちた。

 それは石炭だった。

 黒い、煤にまみれた物体がごろごろと床に撒き散らされる。彼が腹を割いた華さんのそれに比べれば目を奪われるとは言いがたい光景。

 いや、逆に無惨さに引き寄せられてしまうのか。

 肉体の内部に黒いダイヤを詰め込まれた人造の魔人。

『凶手』は背筋伏臥反らしをしているように、上半身を海老反らして、左手を支えにゴーレムのそれに劣らない凶悪な刃物をもう一度突き立てる。

 双眸に宿る異常な光は、妄執と呼ばれるものに違いない。

 石炭のゴーレムは自分に何が起こっていたのか、すぐに理解することができなかった。

 だが、膝が崩れて地面に落ち、図らずも目線が『凶手』と並んだことでようやく飲み込めるに至る。

 自分は人間ごときに、文字通り膝を屈する羽目に陥ったのだ、と。

 つんざく雄叫びが轟き渡る。それは怒りにわれを忘れた人外の咆哮であった。空二は耳を押さえたかったが、死ぬ寸前まで痛めつけられているのに無駄な行為だと諦めた。

 大きく太い腕をハンマーのように横に薙ぎ、無防備に等しい体勢の『凶手』を弾き飛ばした。

 成人男性が何メートルも吹き飛ばされる姿は恐ろしいが、同時に滑稽でもあった。現実味がないのだ。

 おそろしく鈍い音がしたが、ゴーレムは構うことなく自前の刃物を逆手に持ち替えて飛び掛っていく。

 理性が飛んでしまって獣のようだった。

 ゴーレムにもあのような興奮状態があるのか。

 普段の冷静沈着な彼らの立ち居振る舞いからは想像もできない有様だった。

 一方、もう駄目だろうと思っていた『凶手』の身体も自力で持ち上がる。

 顔半分が埃と血とで黒く汚れていた。額を派手に切ったのだろう、首筋まで血に塗れている。鼻もつぶれ、プラプラと揺れていた。

 ただの一撃がどれほどの威力を示していたのか。

 しかし、その眼にはまだ狂気の色がある。

 空二に演説をしたときの、『輝いた運』について講釈をたれたときのように熱にうなされた狂った妖気がある。

「バケモノォォォォ!」

 と叫んだつもりなのだろうが、前歯が何本も折れて血だらけの口から発せられたのは掠れた金切り声だけであった。

『凶手』が両手でナイフを下から突き上げるように振り上げる。

 逆に、ゴーレムが押しつぶすように腕を振り下ろす。

 それらは交叉して、互いの肩と腹に食い込んでいた。

 ゴーレムは痛みを無視しさらに押し込もうとするが、何かに躓いたのか、傷をつけながら滑り、勢いあまってよろめく。一方の『凶手』は刺し貫いた腹をもっと深く傷つけようと捻る。

 肩への打撃の痛みなど、ゴーレム同様に『凶手』も感じていないようだった。

 石炭の欠片がこぼれ落ち、自分の身体にぶつかるのを無視して、さらに傷口を広げようと蠢く『凶手』の横っ面をゴーレムの鉄のごとき掌が掴んだ。

 親指が殺人鬼の目に突きこまれる。

 血と白い液体が噴出する。

 だが、狂人の両腕と同化したナイフが牙を収めることはない。

 ゴーレムの足裏に踏みにじられ、膝を潰されてもそれは変わらない。

 互いに殺戮の飢えに狂い、自らの痛みや命すらも忘れた獣の狂宴だった。

 そんな二匹の怪物の殺し合いを空二はただ見つめていた。

『凶手』が静かに這いずり、ゴーレムに忍び寄っていくのを、対角線上にいた彼だけが目撃していた。

 彼を昏倒させたウォータの仲間である空二ではなく、飛び入りのゴーレムに対して、殺意を持った眼光が向けられていることも見えていた。

 チャコやウォータにあれほどの殺意を見せていた『凶手』が、その偏執的な妄念を新たな登場人物に対して切り替えたのは明らかだった。

 そして、冷静で論理的な殺し屋の思考にすでに狂いが生じ、ただのマシーンのようになっていることも把握していた。

『凶手』をそこに追いやったのが、眼球を貫いて脳に達した水弾のダメージだということまでは想像できなかったが。

 本来、即死に等しいその傷を負ってもまだ動けるのは、彼の『輝いた運』というもののご利益だったのだろうか。

 二頭の大蛇が刃物を持って、暗闇の中で切りあい、刺しあい、叫びあう。

「ガァァァァァァァ!」

「ヴヴヴヴァラララ!」

 お互い声帯が嗄れ果て、地獄の底に流れる効果音として相応しい呪いの咆哮をあげている。

 絡み合う二匹の殺し屋達の死闘を目の当たりにして沸き立つ感情をあえて無視した。

 それは、今、彼がなんらかのアクションを起こせば、この無意味な戦いを中断させることができるのではないか、という正しい想いだった。

 殺し屋たちはともに罪深い存在ではあるが、殺し合い、すり潰し合い、滅ぼしあうのを指をくわえて観ている事が人として正しいことなのか。

 洞藤空二は半ゴーレムであるが仮にも人として生きる以上、争いを止める義務があるのではないかと自問した。

『凶手』も暗殺派のゴーレムも彼とある意味では同族なのだ。

 空二はこの二人の争いを止めることもできたろう。

 わかっていた。


 ……だが、空二はあえてその選択肢を捨てた。


 人としての正しさを貫くよりも、彼が守るべき夕卯子、そしてウォータがこれ以上傷つくことがないように振舞わなければならない。

 正しさを捨ててでも、腑抜けに徹するべきなのだ。どんな罪悪感に悩まされようと。助かる命を蹴り飛ばしてでも。

 石炭ゴーレムの首筋が割れた。

『凶手』の右足は膝からありえない方向に曲がっていた。

 こいつらはいずれ力尽きる。

 そうすれば、例えこのまま俺を殺すことができたとしても、これ以上の殺戮を継続することはできないだろう。

 それは必然的に、ロビーに落ちたまま音沙汰のないウォータや、リネン室に捕らえられている夕卯子が安全に解放されるだろう確率が増すことを意味している。

 だったら、悩むことなどない。

 人間性を放棄して、二匹の獣の死闘をただただ傍観していよう。救える命のため、殺戮を肯定しよう。たとえ、結果として、俺の心が死んだとしてもどうということはない。

 瑕疵があっても中身があることに間違いはないのだから。

 人の中身は様々なのだ。産まれた時の新品のまま、生き続けるなんてことは誰にもできやしない。瑕疵があっても製造元に返品できずになんとか使い回すしか残された道はないのだ。

 故障した自分をだましだまし動かし続け、錆びた精神と死ぬまでよろしくやっていくしかないのだ。

「ウッ、ンーッ! ウッ、ンーッ!」

 ゴーレムの腕が根元からちぎれた。

『凶手』の死に物狂いの最後の薙ぎ払いが、顔の陥没に等しい打撃とカウンター気味に与えた得点の証だった。

 もう『凶手』は馬面どころか象にも似て腫れあがった顔の、即死間違いなしの傷を負いながら執拗に巨体に絡み続ける魔蛇と化していた。

 しかし暗殺派もまだ息絶えることなく殺人鬼の喉を締め付け続ける。

 これは人の姿をしながら人ではないものたちの、惨殺の舞踏であった。

 そして、洞藤空二は、二つの命が醜くあがき、殺し、裁く、地獄から最後まで眼を背けることをしなかった…。


     ※


「クゥ!」


『凶手』によって、内側から申し訳程度に掛けられた鍵もろとも扉を叩き壊し、褐色の肌の少女が廃病院内に躍り込む。

 金色の髪が闇夜に街灯のように輝いた。

 ただ、その下にある精緻な美貌には張りがなく、剣を思わせた四肢は頼りなく震えていた。

 左手は胸の辺りを押さえ、そこには黒々とした染みが滲んでいる。逆の手にはウォータのバッグをひきずっていた。

 病院内は夜に相応しく闇が跋扈していて、まったくの無音であったことが、最悪の事態を予想させ、彼女をここまで支えていた精神力が揺らいでいく。

 ロビーに入ると、すでに闇に慣れていた眼が、前方で大の字になって横たわるウォータを発見した。

 身じろぎすらもしていない。

 まるで飛び降り死体のように仰向けで天井と対峙していた。

 近づこうとすると、脚の力が緩んで大きくつんのめるが、フラフラしながらも歯を食いしばり耐えた。

「ウォータ!」

 ペットボトルの詰まったバッグを置き、小さな身体にすがりついた。意識は失われていなかったらしく、瞳だけが動いてチャコを見る。

 間延びした声が、地面と一体になってしまったかのように不動の少女から届く。

「ごめん……上から地面に叩きつけられたときに、たくさん水を吐き出しちゃったせいで、ちょっと動けない」


 確かに、ウォータの周囲は必要以上に濡れていた。吐き出されたよだれのように口元に水滴が滴っている。

「ちょっと待ちなよ」

 チャコは相棒の無事を喜びながら、やや緩慢な動作でペットボトルをとりだし、蓋を取るとその唇に丁寧に押しあてた。

 ボトルから流れるように水が送り出される。

 ウォータの咽喉が、乾いた砂のように水を飲み干していると、前方から足音が響いてきた。

 拉致されていた空二が階段を降りてくるところだった。

 左手にはテープがグルグルと巻かれており、全身の衣服が乱れ、髪の毛は埃まみれと散々ないでたちであったが、無事ではあるようだった。

 ただ、どういうわけか、また別人のようになっていた。

 初めてあのコンビニで出会ったときの、あの情けない感じに一回転して還ってきたみたいだった。

「良かった、クゥ。無事で、本当に、良かった……」

 安堵の声が漏れる。

 ああ、良かった。ウォータも無事だったし、これで安心して死ねる……


「チャコこそ、大丈夫か?」


 自分を心配する温かく優しい台詞を聞いて、張り詰めていた緊張が解け、糸が裁ち切られた操り人形のように少女は倒れた。

 わずかな踏ん張りもできず、肩から地面にへばりつく。

 押さえていた左手が外れ、彼女の中を埋める紅茶が噴出した。

 空二が慌てて駆け寄ってきた。

 鼻がチャコの身体から嗅ぎ慣れた香りが漂っているのを嗅ぎつける。

 全身につけられた数多くの傷から漏れた紅茶が、少女の全身を浸しているのだった。それはつまり満身創痍になっているに等しい。

 人間ならば血達磨と言っても過言ではない。

 致命傷といえるだけの大きな傷がないだけで、肩にも首にも腹にも小さなものはそれこそ無数にある。

「チャコ、大丈夫か!」

「……ちょっと駄目みたい。致命傷はないんだけど、結構やられちゃったから。……ここに来るまでにも大分『中身』をこぼしちゃったし」

 空二はチャコに代わって、胸の傷を押さえた。

 彼女の血潮、生命力に等しい紅茶が徐々に染み出すのは止められない。

 ポケットから、ゴーレムたちの応急処置に用いるホチキスをとりだし、チャコにレクチャーされた通りに患部を縫い止める。

 その際、人そっくりにつくられたチャコの乳房と紅茶にまみれたブラウス越しに対面したが、まったく気にならなかった。

 まずは彼女を救わなければならない。

 だが、ウォータに水を呑ました段階で、押さえていた傷から漏れた紅茶が限界を超えていたためか、チャコはすでに身体が維持しきれなくなっていた。

 応急処置は漏れ出す中身を最低限減らす結果しかもたらさず、根本的に喪われている彼女を維持する中身を補充することはできない。

 このままではもうすぐチャコは死ぬ。

 液体を中身とするゴーレムは傷を受けて、全体の三分の二がこぼれ出せば簡単に死に至る。不完全な創造物の、不完全な生命の行き着く、デタラメさだった。

 周りを見渡すと、ウォータの多量のミネラルウォーターが残っているのが目に付いた。

 空二はそれを掴む。

 彼が何をしようとしているか、ウォータはすぐ察した。空二はペットボトルをチャコの口元に当てる。

 それを一瞥したチャコは口をつぐむと、顔を背けた。

「……わかってないな、クゥは。『水』なんか飲んだら、あたし、すぐに壊れちゃうよ」

「だけど、おまえが……!」

「あたしたちは、違う『中身』は受け付けられないんだからさ」

「でも、でも」

「あんたたち人間みたいに、自分を変えることは許されていないんだよ。…でも、いいよね、人間は。自分が嫌いになっても、好きな自分になればいいし、なることができるし。あたしたちなんて、ずっとこのままだ」

「変えればいいだろ。『中身』が云々なんて気にすんなよ。何が詰まってたって生きてりゃ、それでいいじゃねえか!」

「あたしらはゴーレムなんだよ。人間じゃない」

「うるせえ、兄弟姉妹なんだろ。たまには弟の言うことを聞けよ、おい!」

 チャコの言いたいことはわかった。

 だが、空二の口からは、

「ふざけるなよ、おい! 死んじまうんだぞ!」

 という言葉しか出ない。

「それがあたしらのルールなんだよ」

 チャコのおどけた物言いが哀しかった。

 彼を助けようと身体を張ってくれた恩人が、今、死を覚悟したのだ。

 空二はチャコを救えるだけの紅茶を買いに行く時間がもうないことを悟った。

 誰かが、今すぐにチャコのために『中身』となる紅茶を持参してくれれば、彼女の命はまだ未来へと続くのに。


 誰かが。


 無力とあてのない期待を抱いて玄関口に送った視線に、闇から滲み出るようにして立つ人影が映りこんだ。

 それはちょっと胡散臭い笑顔を白皙の美貌に浮かべた青年であった。


 華さんがそこにいた。

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