バイト少年の憂鬱
「いらっしゃいませ、おはようございます」
自動ドアの開閉音にあわせて、アルバイトの店員が反射的な挨拶をする。
店員は弁当コーナーの棚を布巾で拭く作業から手が離せなかったので、そのまま仕事を続けながらも、とりあえずの確認のために視線を送った。
早朝の七時前という時間帯のこともあり、スポーツ新聞だけをかっさらうように買って店を出て行ってしまう客や、入口からまっすぐにレジに向かいタバコのみを注文する客がいるため、いちいち確かめる必要があるからだ。
だが、たった今入店してきた客は、店内の角にある弁当コーナーに迷うことなく近づいてきた。
すぐ隣に寄って来られたせいか、店員と眼が合う。
長くサラサラした栗色の髪を活動的なポニーテールにした、眼鏡の少女だった。
細身の肢体が身につけているのは、近所にある県立石舟高校の制服で、こげ茶色のブレザーもタータンチェックのスカートも店員にとっては馴染み深いものだった。
スカートはこのあたりの地域の少女たちの標準的な丈よりもやや短めで膝の上まで、カバンは学校指定のもの。
ほとんど化粧っけもなく、アクセサリーの類は見当たらない。
適度な日焼けとまっすぐと伸ばした背筋、真面目な体育会系優等生がなんとなく文科系を目指しています、というような印象の少女だった。
色素の具合からか、どことなく潤んだように見える瞳を持った、美しい少女だった。
少女はやや意味ありげだが親しげな微笑を浮かべ、店員の肩を叩いた。
「や、空二。今日もアルバイトをがんばっているかい」
店員―――洞藤空二は、すこしだけ面倒くささを混ぜながらも、似たような微笑を返した。
少女が彼のバイトを快く思っていないことを知っているから、皮肉をこめられたものだと承知しているからだ。
「今日は早いな、夕卯子」
「うん、文化祭のポスター用のお知らせを作る予定でさ。ちょっと早めに登校して、印刷しとこうかという風情」
「風情の使い方が間違っているぞ。妙な国語を使ってばかりいると、いざというときに混乱してもしらないからな」
「いいの、いいの」
ひらひらと掌を振る。
いっこうに気にしていない様子だった。
「言語は時代とともに栄枯盛衰するのよ。それとも変形? 時代を先取りするのが何よりも肝要なんじゃないかな。それが正しい言語進化論よ。……て、何言ってんのかしら、あたし。あんまり適当に喋ると意味わかんなくなるよね。……それはそうと、そこのシーチキンサンドを取ってよ。あんたがそこに立ち塞がっているから、まったくもって取りづらいんだからさ」
空二の背中越しに惣菜の棚にあるサンドイッチを指差す。
「これでいいのか?」
一番手前のサンドイッチを手渡して、店員としての義務を果たさせると、少女―――蜂条夕卯子はきびすを返し、雑誌コーナーへと向かう。
「夕卯子」
「なーに」
「いつもの雑誌なら、レジに取り置きしてあるぞ」
「……ありがと」
親指をぐっと立てる、蜂条夕卯子さん(高校二年生)。
空二とともにレジに向かい、店員と客として、カウンターの中と外に別れる。
カウンターの定位置に戻るとバックヤードに分けておいた週刊コミック雑誌を持ち出し、サンドイッチとともにバーコードを読み取ってから袋に詰める。
すでに一年以上のバイト歴があるので、動きによどみはない。
多少仏頂面なのは、取りおきしておいたコミック雑誌のせいだった。
彼は蜂条夕卯子の趣味を良く理解していた。
見た目の優等生っぽい雰囲気とは裏腹に、彼女はヤンキー漫画が大の好物なのだ。
中学時代からの友人であり、おかげで何度かお邪魔したことのある彼女の私室には、少数の少女漫画とともにそんな暑苦しい漫画がずらりと揃えられていて、一種異様な光景だったのを覚えている。
ガクランや特攻服を着込んだ漢たちが表紙を飾るものばかりなのだ。
特に全国制覇ものというか、主人公が各地の組織や不良たちと抗争を繰り返しながら、徐々に勢力を増していき、最終的に日本のトップに伸し上がるというようなお話に眼がないようだった。
もっとも、現実に存在する不良にはほんのわずかな興味さえもなさそうで、ヤンキーが男の好みというわけではないらしい。
また、等身大のリアルなヤンキー系漫画には眼もくれないし、不良っぽい男子への憧れなど毛ほどもないという割りきり方だった。
むしろ、ただ単に大きな集団抗争が好きなだけらしいとはっきりわかったのは、高校進学後、無理矢理に生徒会活動につき合わされ、一緒の仕事に従事しだしてから、本人に愚痴られて発覚した。
『どうしてリアル社会には、生徒会に敢然と反旗を翻す、反骨の集団がいないのかねー』
どこの世界にそんな学園マフィアがいるものだろうか。
……そして、彼女の妄想世界では、起こって欲しい抗争用の人員に空二も勘定されているという事実を知って以来、夕卯子がこの手の雑誌を読むことを極度に畏れるようになった。
誰だって、そんな奇抜な抗争に巻き込まれたくはないだろう?
今、空二がビニール袋に詰めている雑誌の連載で、彼女が愛読しているのは、『黄色の傾いた学生服の生徒会長が、周囲の反社会的なグループと連日連夜抗争を繰り返す冒険活劇』といったシュールなものである。
彼の目下最大の悩みは、夕卯子が突然黄色い制服を着て登校しないかというしゃれにならないものであった。
なぜなら、蜂条夕卯子は、県立石舟高校の現生徒会長という地位に就任しているのだから……。
「……ね、空二」
「なんだ? ……532円になります」
「はい、602円。……このバイト長いよね」
「602円お預かりします。……もう一年かな」
「もう三年生になることだし、辞めて受験に専念しないの?」
「しかたない。親父が帰ってこないからな。……70円のお返しと、レシートです」
「……そう、じゃあ仕方ないね」
「そう、仕方ないのさ。……ありがとうございます。またお越しください」
「……今日ね、生徒会あるから、手伝って」
「了解」
空二は正式な生徒会の役員ではないが、一・二年次を通して文化祭実行委員だった。
石舟高校では文化祭実行委員は極論すれば生徒会の下請けみたいな扱いを受けている。
その関係もあり、夕卯子はまめに空二に声をかけてきては、こき使おうとする。
部活に入っていないので暇の多い空二は、時間が空いていたら、できるかぎり夕卯子の頼みを聞き入れることにしていた。
そんな二人の関係を色々と揶揄する声もあるが、空二はともかく夕卯子は気にも留めていないようだった。
お互い、冷やかしを気にするようなタイプではないのだ。
夕卯子がレジ袋を持って店を出ようとしたとき、新しく二人の客が来店してきた。
生徒会長の歩みが止まる。
まるで自分と対峙するかのごとく入ってきた二人組の少女たちの異彩に、眼を奪われたからだった。
一人は、軽いウェーブのかかった金色のショートカット、薄い褐色の肌、蒼い瞳をした能動的な印象の少女。明らかに外国人と思われるが、人種や国籍については見当もつかない。
あえて挙げるならば、オリエンタルなアーリア人といったところだろうか。
年齢は空二たちとさほど変わらぬハイティーンに見えたが、人種差を考慮すると必ずしも同じぐらいとは限らない。
透きとおった感じのふわりとしたシフォンブラウスと動きやすい白サプリ、これみよがしな青メノウとトルコストーンのネックレス・アクセ。
腰の位置も高く、そこから伸びる長い両脚は、素足のままブルーのバッシュを履いており、オリンピックに出場するトップアスリートのようだった。
もう一方は、140センチほどの身長しかなく、どうみても小学生だった。
外見の年齢は、およそ11歳から12歳ほど。
だが、目立つということでは褐色の肌の少女にも、まさるともおとらない。
なぜなら、腰までの黒い長髪は市松人形のようで、額で切りそろえている点もさらにその印象を増している。
そのくせ肌は雪のように白く、日本人のきめ細かい肌と白人種の透明さを重ね合わせたかのような繊細さを有している。
また、外見年齢よりも年上に見せようとしているのか、黒い絹のキャミワンピと半袖の短丈Gジャンというファッションだが、体型が子供っぽいので効果については不明だ。
さらに、この少女の身体にはまったく似合わないごついボストンバッグを肩からかけていることがとても目に付く。
誰の目にも、そのバッグが内容物でパンパンに膨れまくった、ずっしりと重いものであるだろうことは明白だった。
もっとも、そんなことは大したことではないかもしれない。
それよりもはるかに異様なのは、少女の黒い服が完全にびっしょりと濡れて、水滴がしたたり、肌にぴたりと貼りついていることにあった。
すでに九月も半ばだが、夏の残暑がいまだにはびこっている季節でもあり、昼間に出歩けば汗にまみれることも多くない。
だから、汗だくになった少女がいたとしてもまったくもっておかしいとまではいえないが、この少女の様子についてはその範囲に収まらないだろう。
まるで彼女だけが、ついさっきまでプールに浸かっていたかのように、びちゃびちゃに服が濡れているからだ。
フリルのついた袖さえも肌にまとわりつき、服の濃淡と思えたものは、濡れているかいないかの違いが湿り気で表現されているだけだった。
通りすがりの親切な人ならば、同情のあまりすぐにでもタオルを差し出したくなるほどに、びしょ濡れだった。
それにもかかわらず、汗臭さではなく、清潔な香りが漂っているように感じられるのは、その抜きん出た容姿のおかげだった。
二人ともはっきりした目鼻立ちをした、さわやかな絵画の中から顕現したような美少女であった。
左右が対称のごとき精巧な造りの、人形のような作り物めいた美貌。
夕卯子の息を呑む声が店内のBGMにまぎれて聞こえてきた。
店内に入ると同時に、黒髪の少女がすたたたとドリンクコーナーへ駆け寄っていく。
そして、おもむろに下の段から、2リットルのミネラルウォーターのペットボトルを二本引っ張り出し、またすたたたと音がしそうな勢いでレジまで運ぶ。
自分たちが振りまいた空気など、一切構わぬといった態度だった。
小学生高学年ぐらいの体つきには不似合いな大きさの荷物を背負っているというのに、まったく重さを感じさせない軽やかさだった。
ドスン。
液体の入ったペットボトルはやはり重く、合計4リットルが鈍い音を立てる。
その音が空二と夕卯子を覚醒させた。
二人は少女たちのあまりにも現実離れした美貌に、まさに凍り付いてしまっていたことに気がついた。
濡れ鼠の少女が陶然と突っ立っていた夕卯子を押しのけ、視線でレジを打つように促すのだが、まだ呆けている空二にいらだち、
「早くしてよ」
と、礼儀正しさの欠片もなく命令をする。
「……ああ、はい、いらっしゃいませ」
ようやくアルバイトという自分の立場を思い出し、リーダーでバーコードを読み取る。
夕卯子も自らの行動にちょっと憮然としながらも、店を後にすることに決め、空二に目配せをよこした。
レジ作業をこなしながら、空二も軽く頭を振って応える。
本来ならこの時もなんの事件も起こらず、何事もなく世は流れていくはずだった―――
だが、空二がレシートと共におつりを渡そうとしたとしたとき、すべては始まる。
……それは、その場にいたものすべてが決して忘れることのできない一瞬となった。
この日以来、洞藤空二の人生は規定のレールを外れて暴れだし、彼をしつこく捕らえていた鬱屈からの解放がなされるとともに、誰かにとっての支えとなるべき生き方が走り出すことになるのだ。
それを運命と呼ぶかは定かではない。
空二の持つ潜在的な事情を考慮すれば、やはり遅かれ早かれ、いつかは始まるものであったのは明白だから。
ただ、すべての始点となるこの時において、そこに集まっていた面々のことを鑑みると、やはり数奇な運命の為す業であったと断定してしまうのが精神の安寧のためには最良かもしれない。
奇異な問題には平凡な答えが似合うものだ。
きっかけは些細なことだった。
おつりを渡そうとした左手と、それを受け取ろうとした右手が互いに触れ合った刹那、少女の顔が激しく引きつった。
同時に振り払われた空二の左手。
零れ落ちていく小銭たち。
鳴り響く金属音。
呆気にとられる空二を尻目に、少女は彼に触れた手を胸前に引き寄せると、うってかわったように怯えた眼をして彼の顔を見やる。
「――あなた、なんなの?」
意味不明の問いかけ。
普通の人物なら、なんら痛痒を感じない内容にすぎないはず。
だが、洞藤空二の心を貫くには十分すぎるほどに鋭くとがった槍の穂先であった。
それは彼の琴線を逆に震わす魔の問いかけであった。
「答えて!」
しかし、唇から漏れだすのは荒い呼気のみ。
我知らず、空二が左手を少女に伸ばしたとき、その横合いから飛び出したものに、手首をがしっと掴まれた。
もう一人の淡い褐色の少女のものだと認識するまもなく、空二の身体は前に引きずり出され、頬からレジ台に強く押し付けられた。
極められた手首にほんのわずかな力がこめられると、肩を支点とした梃子の要領によって、柔道の脇固めに似た形のまま空二の身体は押さえつけられていた。
一瞬の早業だった。
押さえつけられた空二どころか、一部始終を間近で目撃していたはずの夕卯子ですら何が起きたのか、すぐにはわからなかったほどだ。
さっきまで確かに褐色の少女は入り口付近にいたはずなのに、気がついた時には空二がレジで押さえつけられているという状況になっていた。
「うそ……」
驚愕の声は褐色の少女から上がったものだった。
彼女は自分が拘束している少年の左手を凝視したあと、もう一方の手で固めている首筋に触れていた。
恐ろしい形相であった。
天に浮かぶ月とおなじぐらいの容積を持つ鉄の塊で頭を殴り飛ばされたみたいに、何かについてとてつもなく驚愕しているらしいことが傍目にもわかった。
恐る恐る指先を伸ばし、指の腹で撫でるように感触を確かめる。
さらにもう一段階、眼尻が吊り上った。
角度的には合致するはずがない全員の視線が、何故か絡まったかのような錯覚に囚われ、一気に背筋が冷えていく。
「……チャコ」
ずぶ濡れの少女が呼びかけた。
褐色、金髪の少女はチャコというらしい。
だが、チャコと呼ばれた少女は驚きの表情を固定したまま微動だにしない。
精巧に造られた蝋人形を彷彿とさせた。
この段階にいたってようやく、夕卯子の意識がはっきりとした。
事情はよくわからないが、大切な友人がいわれのない暴力を受けているのだ。それを止めさせなければならない。
理由はそれだけに留まらないが、とにかく、現時点ではっきりしているのは、彼女にとって看過できない理不尽な行為が眼前で繰り広げられているという現実だ。
「空二を離しなさい」
適切な発言といえた。
他の人間の前では決してしない、名前の呼び捨てもある意味当然だ。
二人は自他共に認める大切な友人同士なのだから。
ただ、それと同時に肩に背負っていた高校指定のカバンが振りかぶられ、やや横殴りに放たれなければ、の話だ。
夕卯子は空二を救うため、突発的な動きに全身の力をこめた。容赦のかけらなど一切なし。殺人も辞さない全身全霊のフルスイング。
事実、なんの躊躇いもない打撃が自分を襲ったことにチャコは激しく戸惑った。
塞がっていた両手を解放し、すぐさま顔面をカバーする。
四限分の教科書とノートがぎっしりと詰まったカバンは、その自重のみでチャコのガードを上から突っ張った。
だが、チャコはわずかに後ろに下がっただけでそれに耐えきる。
眼に刺々しい光が浮かぶ。
しかし、それも一瞬で消えた。
チャコにとって、ここで争うことは決して得策ではなかったからだろう。
「……行こう、ウォータ」
「うん」
何事もなかったかのように、ずぶ濡れの少女のことをウォータと呼ぶと、チャコは一瞥もくれずに歩き出した。
黒髪の少女はそれにつき従う。
戦闘モードとでも言うべき緊張状態が崩れ、チャコが拳を収めたらしいと理解すると、夕卯子もまたカバンを床に置いた。
もう、これ以上事を構える気はないという意思表示だ。
だが、チャコから眼は離さない。
すぐにでも再戦を求めかねない相手だと感じていたからだ。
一方のウォータはすれ違う際に、夕卯子を面白そうに見つめ、まだカウンターに突っ伏す空二に顔を向ける。
こちらは奇妙に怯えた風だった。
本来ならイカれた暴力を振るわれたのは空二であり、そんな眼をしなければならないのは彼であるはずなのに。
自動ドアが開閉して、完全に脅威が除去されたと判断してから、夕卯子は空二の側に寄った。
彼は捻られた左肩を痛そうに擦っていた。
「いったい、何なの、あいつら?」
そんな空二を気遣いながら、言葉を選んで訊く。
「わからない。ただ……」
「ただ、何よ?」
「俺の左手がおかしいとわかっていたみたいだった」
夕卯子は絶句した。
空二の左手について、誰よりもよく知っていたからこそ、その発言の真意に気づいたのだ。
意味するところまでは漠としてわからないが、これが尋常な話でないことだけはわかった。
「なんで……」
自動ドアが開いた。
二人の視線が再び重なる。
そこにはまたもずぶ濡れの少女がいた。
咄嗟に空二は身構え、夕卯子はカバンの手を握りなおす。
だが少女は、さきほどと同様すたたと歩み寄ると、カウンターに置いてあったレジ袋を引っつかみ、すぐに回れ右をした。
単に忘れ物を取りに来ただけらしい。
肩透かしをくらって呆然と眺めてる二人を尻目に、少女――ウォータと呼ばれていた――は逃げるようにカウンターから離れた。
その際、二人は少女からの奇妙な台詞を聞いた。
そして、その台詞は不思議な効果を伴って、ずっと耳から離れることなく残り続けた。
それは、
「バイバイ、はじめての弟くん。怖がってごめんね」
と、いう意味不明なものだった。