狂獣交錯
最後の瞬間に見たものを、理解することができなかった。
耳障りな叫びを上げて突進する『凶手』の顔に霧みたいなもやがかかったかと思うと、しゃがんでいるウォータを見失ったかのように、そのまま斜めに逸れて、頭から壁に激突すると、地面に滑走するかのごとく顔面から倒れこんでしまったのである。
ウォータのすぼんだ唇から何かが噴出したようにも見えたが、それは気のせいだったのだろうか?
「……ウォータ」
呼びかけたつもりだったが、聞き取れる言葉になっていたかどうかは疑問だった。
それでも、静けさが戻った病院内では呻き声程度には聞こえたようだ。
ウォータは何事もなかったかのようにさっと立ち上がると、埃にまみれて白く汚れてしまったお気に入りのスカートの裾を払う。
そして、空二の傍らにちょこんとしゃがみこんだ。
「生きてる?」
うつぶせの彼を、えいっと力任せに仰向けにする。
このあたりは小さくても怪力自慢のゴーレムの一員だけある。乱暴ではあったが、おかげで苦しかった呼吸が多少楽になった。
「……ああ、助かったよ、……ウォータ」
額の汗を拭こうとして、左手の惨状を思い出し苦笑してしまった。
自分でやったとはいえ、セロハンテープが何重にも雑に巻いてあり、それが青く滲んでいてゴミと混じりあった酷い有様だった。
手自体も皺くちゃで人間の手というより包帯を巻いたビニール人形の素肌のようだ。
それなのにすでに痛みはない。
やっぱり自分もチャコやここにいるウォータのようにゴーレムなのだな、と納得できた。
人間ではないという事実の再確認も思ったよりは辛くはなかった。こんな自分を命がけで助けてくれたウォータと同じだというなら、それは誇るべきことなのだろうから。
達観した笑みが気に入らなかったのか、ウォータがしゃがみこんだ姿勢で小突いてきた。
殴られた部位がこめかみだったのでかなり痛い。
「そういう笑い顔、禁止」
「どんな顔だよ」
「自分をバカにするような嫌な笑い顔のこと」
「ご、ごめん」
「わかったなら、許す」
ウォータは笑った。
初めて見る笑顔だった。
空二が、「こんな顔ができるなら、ゴーレムってのもやっぱり悪くないよな」と思わせる魅力的な微笑だった。
つられるように微笑む。
久しぶりだったので難しい。
何年ぶりだろう、こんな自然な笑いは。
顔の筋肉がちょっと引きつった。
そのとき、一陣の風が頭上を吹きぬけ、塵が舞った。
何か異様なものを感じ、ウォータと空二の視線が一箇所に集中し交錯する。
ウォータが突入した非常口が外界に向けて開け放たれていた。
そこにおそろしいものがいた。
黒いピーコートの影。
黒いといってもところどころドロで薄汚れているのがわかった。
見覚えのある長い刃物。それは『凶手』の持っていたコンバットナイフとも異なる、無骨で分厚いだけの肉斬り包丁。殺戮のための品だ。
「暗殺派……」
「?」
ウォータは怪訝な顔をした。どうして空二がこいつの素性を知っていることが不思議だったが、今はどうでもいいことだ。
コートの男が動くと、ウォータは再び空二の前に立ち塞がった。
眼前の相手はゴーレムだ。
ウォータは同胞とは戦ったことがないが、ゴーレムが敵に回ることほど恐ろしいことはないという事実も承知の上だった。
空二の呟きを考慮に入れるなら、こいつは創造主さまを殺したがっている彼女の兄だ。
無論、ウォータのことも知っているに違いない。
しかも、こいつはさっきチャコが足止めをしようとしていた相手だ。
そうであるなら、あのチャコがこいつに負けたか、こいつを逃がしてしまったということになる。
チャコが負けた、ということはなかなかに想像し難い。
なぜなら、チャコは百年以上も鍛え続けたゴーレム随一の格闘家だからである。
それを負かすなんて、ウォータには考えられない話だ。
しかし、現実にこいつは目の前にいる。
この場で打ち破らなければ、空二が殺されることになる。こいつの放つ殺気は主に空二めがけて放出されているのだから。
標的は間違いなく空二だ。
ならば、ここで空二を逃がさなければならない。
でも、空二の様子を見る限り、怪我がひどすぎて万全とはいえないし、逃走させることも無理だろう。
ウォータは、ハンカチにそっと触れた。
あともう一度だけ、彼女は命を賭けねばならないようだった。
可能ならば水を補給しておきたかった。
ペットボトルを入れたバッグはあのコンビニに置いて来てしまった。
チャコに促されてコンビニに戻ると、空二を拉致したと思しき、黒いワゴンが走り去っていくところだった。後を追って駆け出した時には、激昂していたためについバッグを拾い忘れてしまったのだ。
最悪のうっかりだった。
気がついた時に取りに戻ればよかったのだが、それよりもワゴンの捜索を優先した。
そして改めて自分の身体から大量の中身が滲み出してしまっていると気がついたとき、この廃病院の中庭に目立たぬようにワゴンが駐車されているのを見つけた。
中庭に入った経験があったからこそ気づいた死角に、ワゴンは巧妙に隠されていた。
コンビニでの出来事から、経過した時間はすでに一時間。
人を殺すだけなら長すぎる時間だ。
ウォータは何よりも『弟』の身を案じ、中身の補給よりも救出を選ぶ。
もっとも、さすがに玄関から入るという短絡的な真似はしないで、非常口に続く階段を使い、二階か三階から侵入することにした。
勘に従って、二階をスルーして三階に到達したとき、中から大きな音がした。人が暴れている気配のようだ。
何が起きたかは簡単に予想できた。きっと空二と『凶手』が争っているのだ。
非常ドアのノブに手を掛ける。堅い。ロックされていた。
だから、固執しなかった。
他の出入り口を探すために階下に向かおうとすると、背後でノブが開く音がした。
驚く暇もなく、中から空二のものだと思われる雄たけびとそれからすぐに何か大きなものが倒れたような音がした。合算すれば全部で五秒ほどの時間。すぐに動けなかったのは、ウォータの思考が混乱したからだ。
ウォータは改めてノブを捻った。今度はドアは容易く開いた。
※
……そして、迫っていた『凶手』の魔の手から空二を守りきったはいいが、それ以上の難敵が彼女の前に現れたのだ。
水を補給しておく時間はなかったが、本心では悔やんでいた。
彼女の切り札は、口から撃つ水の弾だからだ。
これは一含みのわずかな水を、矢のように口から噴き出すというだけの簡単な仕組みだが、至近距離ならスチールの空き缶すら貫くことができる。戦闘向きではない彼女にとっては必殺の武器だった。
ゴーレムとしては出来損ないの彼女が唯一、特殊な仕様として当初から備えていた能力。
ただし、この武器は全身の力を口腔内に凝縮するので、皮膚という皮膚からいつもの何倍もの水が滲み出てしまう欠点がある。
さっき、『凶手』に向かった一撃だけで、ウォータは激しい土砂降りに降られたかのように水浸しの状態だった。
強引に怪力で絞られた濡れタオルも同様のありさまだった。
再度撃てば、ただでさえ不足している中身の水がついにはなくなり、ゴーレムとしての生命を保全できるかさえも怪しくなる。
しかし、他に手立てはない。
人の皮膚ならばともかく同胞の肌を、必殺の水鉄砲で破れるかどうかは試したことがないが、孔さえあけられれば撃退できる可能性がないわけではない。
目の前のゴーレムが何を『中身』としているかが勝利の鍵だった。
ウォータはその点に賭けるしかなかった。
分の悪い賭け。
「邪魔をするな、『水』の妹」
自分の素性を知られていることは覚悟の上だ。
「チャコは、どうしたの?」
「……『紅茶』の娘なら、動けなくなる程度に傷つけておいたが、まだ生きてはいる。さっきの現場に捨ててきたよ。数少ない妹を殺すのも可哀想だからな」
「……だったら、クウジも『弟』だよ。見逃してあげて」
「それはできん。創造主も、創造主に至る者も、例外なく滅ぼされなければならない。それは覆せない」
にべもない拒絶が廊下に響いた。
「創造主さまを殺したら、人になれないよ」
「……おまえ、人になどなりたいのか? 我々はただのデク人形だぞ。人形が人になどなってどうする? あのピノキオのごとき、愚劣な木彫り人形らしい無惨な望みを抱いてどうしようというのだ?」
「別にいいじゃないの、ほっといて」
「それに、創造主が我々に何をしてくれた? ……創るだけ創ってほったらかしの挙句、自分の創った出来損ないの面倒を見させるだけ。それが800年だ、800年だぞ。創られた我らにとってはただの迷惑な話ではないのか。よく考えろ、『水』の娘よ。おまえだって、皆に言われただろう、出来損ないと」
「……」
「憎まなかったといえるのか、創造主を」
「ウォータは……」
「どうなのだ、出来損ないよ。おまえのことは知っているぞ、妹よ。同型の姉妹も作られず、生命の源である中身を維持することもできない、一体限りの失敗作。コミュニティーの連中は皆おまえのことを知っているぞ。失敗作としてな」
「ち…が…」
「おまえのようなものを産んで捨てた奴らが憎くないのか。逆らう気概はないのか。どうなんだ?」
「――――――黙れよ、このボケナス野郎」
手すりにもたれかかるようにして、空二が身を起こした。
男は目もくれない。動けない半ゴーレムなど、注視するにも値しない雑魚でしかないのだから。
だが、空二は怯まない。
ウォータを出来損ない呼ばわりしたことがただ許せなかった。
「……あんたも人の中身に拘るタイプなんだな」
少年の左手に目を落とし、コート姿は言った。
「われらは人ではない」
「人間と同じような思考回路があるんなら、それは人間と変わらないはずだ。思考回路に大差がなければそれは皆一緒と変わらない」
「考えることが同じならば、同類項で括れる、と言うのかね。失礼ながら、君はどこかおかしいのではないかね? 物事は客観的に決めるべきだ。主観は出来る限り排除するのが望ましい。主観がまじればものごとは正確さが捻じ曲げられてしまう」
「あんたらは中身の特殊さに囚われすぎている。人間を人間たらしめているのは、心だけだ。心があれば他はどうでもいい」
空二は思ったままを告げた。
男が不機嫌な顔を作る。
というよりも心底不愉快そうだった。
「心があれば犬でさえも人かね。それは極論だろう」
「俺は犬の考えはわからないが、そこで犬を持ち出すほうが極論だろ。そして俺は犬の考えがわからなくても、ウォータの考えならばわかる。チャコも。華さんも、マスターも、ドクターも。……あまり楽しくはないが、おそらくあんたのもだ。なら、それでよくはないか? 同じ思考が出来るなら、心は同じと考えられないかよ?」
「愚劣すぎる。心と思考は違う」
「大した差はない。中身に何が詰まっていようが人は人さ。そして、中身って奴は考えて、費やして、生き続けていれば誰にだって溜まっていく。だから、その程度のものでしかない。中身なんていうものにしつこく拘るのは、俺は特別なんだといういじめられっ子の自己満足さ」
「ふざけるな!」
何がコート姿の逆鱗に触れたのかはわからないが、二人は目の前の相手の怒りの沸点がいきなり最高度に達したことを悟った。
刃物の切っ先が水平に向けられる。
「中身などたいしたことがないだと、ふざけるなよ!」
怒りの男が駆け足でこちらに歩み寄る。
ウォータは水弾をどこに打ち込もうか、すばやく探った。
だが、男の動きに隙はなく、最も致命傷となりやすい顔面は巧みにガードされている。
「ぐっ」
有効打を探して躊躇している隙に、いきなりウォータは咽喉笛をつかまれ、そして恐ろしい力を持って手すりの向こうに投げ捨てられた。
あっけない幕切れだった。
抵抗する暇もない。
「ウォータ!」
空二が叫んだ時には、ウォータはすでにロビーに頭から落下していた。
ぐしゃりとスイカが瞑れた様な嫌な音が階下から届いてきた。
だが、ウォータはゴーレムだ。そんなに簡単に死ぬことはできない。
なんとか、無事を確認しようと、手すりから下を覗き込もうとするが、それよりも先に男の蹴りが腹に向かって放たれた。
重く容赦のない一撃だった。
横向きに吹き飛ばされ、屋上・二階へと続く中央階段にバウンドして激突する。段差の角にぶつかって、蹴られた際のものと同様の痛みが全身に広がっていく。
しかし、それよりも投げ落とされたウォータが気になった。
自分を守ろうと奮闘してくれたウォータの無事な姿を見届けたかった。例え、そのために巨大な敵の脇をすり抜けなければならないとしても。
四肢に力が入らず、這うようにして前に進む。最も感覚のない右足はすでに打撲で腫れきっているのか、パンツの上からでも異常に肥大しているのがわかる。
肩も脱臼したのか、熱い鉄が打ち込まれたように苦しい。指先の感覚が喪失していた。
男の右足がまたも振り回された。
今度は逆方向に吹き飛ばされる。
その際に顔面を床にこすりつけたので、擦り傷で顔がヒリヒリする。
まだ嬲り足りないのか、とどめを刺す気なのか、無言で迫ってきた。
三度放たれた蹴りをなんとか右手でブロックした。幸い、右手はゴーレムのものなので、男の強烈な蹴りのダメージを受けきることができる。
もっとも、受け止めた脚は軌道を変え、円を描き、踏みおろす形で空二の肩甲骨の辺りへ落とされる。
息が完全に止まった。
舌があまりの痛みに仕舞えなくなるほどに呼吸ができなくなる。
そして、またも空二は床を這いまわされる。
惨めな光景だった。
彼は指一本さえももう動かせないのではないかと疑ったが、ゴーレム製だからか右腕の肘部分の動きだけはかろうじて健在であった。だが、事態を脱却する手段があるわけではない。
わずかに身動きが取れたとしても、それがなんにも意味がないことだけは骨身にしみていた。
(俺は殺されるな)
わかりきった未来予想図。
彼を救うものはもういない。
「死ぬがいい、小賢しい手がかりよ。創造主も後で付き合ってくれるぞ」
男の両手が組み合わさり、頭上まで引き上げられる。
振り下ろされるのは多分鉄槌。人生で何も残せなかった男への理不尽な罰則。
それは我慢できる。だが、このゴーレムが二階に残した夕卯子の命を助けてくれる保証はない。
『凶手』と違い、関係ないものの命までは奪わないかもしれない。しかし、どのような理念で動いているかわからない以上、夕卯子が絶対無事に済むとは断言できない。
そうであるならここで容易く死ぬわけには行かないはずだ。
少なくとも100%の助命が保証されない限り。
しかし、すでに空二にはどんな手立てがあるというのか?
彼は無力な一人の人間に過ぎないのだ。
夕卯子の無事を願いながらも、空二は死を受け入れるしかなかった。
いや、ここで諦めることなどできるか。
彼女たちは恩人なのだ。大切なものなのだ。愛すべきものなのだ。
なんとしてでも救わなければならない。
空二は朦朧としつつある意識を無理矢理に覚醒しようと歯を噛み締めた。
そのとき、思いも寄らない出来事が起こった。