水の護り
すでに開院していた当時の清潔さや設備は失われていたが、見覚えのある病院の廊下だとわかった。
どうやら、二階中央通路につながる元リネン室に閉じ込められていたらしい。
幼い時の記憶では、右に進むと三階までの吹き抜けがあり、眼下にはロビーがあるはずだった。
足音を立てないように慎重に手すりから下を覗くと、ロビーの端で堂々と『凶手』が壁にもたれかかっていた。
凶悪なデザインのコンバットナイフを大切そうに抱えている。
敵を迎え撃つにしては堂々としすぎている。
冷たい双眸は玄関だけを見つめているが、チャコたちが他の場所から侵入するとは考えもしないのだろうか。
それに訪問者はチャコたちだけとは限らない。通報を受けた警察だって来るかもしれない。
だが、それらすべてをひっくるめてうえで、自分の『輝いた運』というものを妄信しきっているのだろう。
まっとうな常識の世界に生きていた高校生には、まさにその信仰にも似た思考こそが恐ろしかった。
ややもすれば『凶手』と敵対する相手は、彼と伍するためには、『凶手』以上の強運を持ち合わせなければないと思い込んでしまう可能性があるのではないか。
それは、しなければならない努力を放棄し、ありえない夢想に浸るような危なさを呼び起こす行為である。
今の彼は存在する現実を直視し、なんとしてでも夕卯子を助けなければならない立場だ。
運なんてものに頼る真似はしない。
無惨に萎びて変形した自分の左手をやや見える角度に配置し、床を蹴り上げわざと大きな音を立てた。
(引っかかってくれよ)
『凶手』の顔が上がった。
眼に写るように、さりげなく左手を振る。
敵がすぐに事態を把握することができるように。
はったりと挑発は戦いの基本だ。
「その手…………まさか、てめえ!」
薄暗いロビーからでもはっきりと視認できたらしい。
この左手は『凶手』が熱望するバケモノのものなのだ。
それなのに彼は空二に違和感を感じただけで、細かい身体検査を行わなかった。
獲物に出し抜かれた間抜けな猟師。
空二がゴーレムであることを秘して、『凶手』のしくじりを嘲っていたかのように演技する。
あれほどの選民思想の自意識過剰な人間だ。
コケにされることに耐えられるとは思えない。
侮辱されたと『凶手』が腹を立てるのを見越して、わずかな時間に考えた作戦がこれであった。
何も応えず、上への階段を昇る。またも意識して音を立てた。この耳障りな音で、冷静な殺し屋の心にもっともっとノイズを走らせなければならない。
二階の少女を忘れてしまうほどに。
三階に上がり迷わず左側に走り出す。
非常階段が左にあることを覚えていたからだった。
十メートルほど先に、すでに非常灯が消えている厚手の扉が立ちはだかる。
その廊下の隅には引越しの際に打ち捨てられた、脚の壊れた長テーブルが転がっていた。他にはこれもクッションの外れたパイプイスもある。
空二は瞬時にこれからの作戦を起てて、パイプイスを拾うと同時に右腕で後方へ投げ捨てた。
右腕はゴーレムのものだ。秘められた怪力は人の比ではない。
勢いこそなかったが、投げつけられたものはパイプイスである。
階段を駆け上がり、三階に現れた『凶手』は出会い頭に飛んで来た鈍器を防ぎきれず肩から受けることになった。
命中はしたものの、ダメージはほとんどなかったのか、『凶手』の慣性による突進力を殺しただけに終わってしまう。
けれども、彼我の戦力差がかなり開いている以上、その勢いを抑えられただけでも良しとするべきだろう。
ここでもう一度、左手を見せ付けるように動く。
この左手は釣り具だった。
ターゲットは希代の殺し屋という地上で最も危険なフィッシング。
「……その手は何だ?」
かかった。
『凶手』は空二の左手にを睨みつけている。
わなわなと肩が震えていた。
勿体をつけるかのごくと左手を胸の前に掲げてみせた。
この殺し屋はゴーレムを見分けることができる。それなのに、空二のことは見抜けなかった。そんな事実が冷静な殺し屋を動揺させていた。
彼には、皮がしぼんだ左手が見慣れたバケモノの死に際と同じに見えたが、ゴーレムと人間と区別できるはずの眼はなんの異常も伝えてこなかった。
絶対の自信がわずかに動揺していた。
(うまくいった)
自分がおちょくられたと『凶手』に思い込ませることが、この作戦の肝だ。
『凶手』はリネン室で保っていた冷静さを欠き始め、おそらくは地であろう凶暴さを曝け出し始めていた。
馬面が怒りによって紅潮していく。
「これのことか?」
「それはいったいなんだよ?」
「……知るか」
バカにしたように吐き捨てると、同時に後ろ手に非常ドアのロックを外す。
その音を聞いて、空二がドアから逃げようとしていると考えて、『凶手』はダッシュした。逃がすわけにはいかないからだ。
だが、空二は逃げなかった。そんな選択肢は端から彼には認められていない。
長テーブルの端を掴むと抱えあげて、『凶手』めがけて突っ込んだ。この程度の無茶が可能なぐらいの腕力があることは確認済みだ。
予想外の行動に、『凶手』が怯んだ。
長テーブルのリーチなら勝てると、空二は判断していた。
武器としては無骨で、殺傷能力はともかく十分すぎる鈍器だ。
それに狭い廊下なのだから、命中率は格段に跳ね上がる。
『凶手』は避けようとするが、狙い通りにテーブルの角を激しく腰に引っ掛けてしまい、嫌な手応えとともに大きな呻き声をあげた。
骨にひびが入ったかもしれない。
手応えがあったと同時に、右腕に力を込めさらに押す。
しかし、そのために無理な軌道をしてしまったために、身体のバランスが著しく崩れ、前に一気につんのめってしまう。そのまま階段の前までダイブするようにすっ転ぶ。
『凶手』は腰を押さえた中腰のまま動かない。
それでも傷を負った殺人鬼の眼光は衰える様子もなかった。
もっとも、思いのほか重いダメージを受けたらしく、息を荒げて動こうとはしない。
一方の空二も、無理な体勢で滑った衝撃でま背中から床に激突してしまい、呼吸が止まり、まともに動ける状態とはならなかった。
「やってくれるじゃねえか」
無骨なコンバットナイフが光る。
まず、移動の自由を取り戻したのは、『凶手』の方が先だった。
空二は背筋が冷えていくのを感じていた。
動かなければ、すぐにでも俺はこの殺し屋に始末される。
乾坤一擲の逆襲はしくじってしまった。
これが『凶手』の言うところの運の左用なのかはわからないが、失敗してはならぬところで詰めを誤ったのは事実だ。
そうはいっても、まだ戦えないわけではない。
懸命に痛みを無視して身体を起こす。
まだ戦いは終わっていない。
必死に、腕を上げようとしたとき、
ガチャン
非常口のノブが開き、一つの影が吐き出される。
「待ってた、クウジ?」
ずぶ濡れた黒いキャミワンピの小柄な姿は、ウォータのものに間違いなかった。
※
ウォータとは、「水」を示す英語のウォーターをもじってつけられた名前である。
名付け親は、当時東アジアを中心に活動していた華さんだ。
ほぼすべての兄弟姉妹たちには、真名と呼ばれる創造主が名づけた名称があるのだが、ウォータにはそれがなかったので、仕方なく決められたものだった。
二十年前、成田空港のロビーでぽつねんと座り続ける彼女を、たまたま香港から帰ってきたチャコともう一人が奇異に思って声をかけたのが始まりだった。
現存する最新の姉妹でありながら、復古した『水』を中身とした同胞として、ウォータは一時だけ注目を浴びた。
だが、ウォータにはどういう訳か、おかしな点が多すぎた。
第一に、記憶がない。
ゴーレムたちは創造されたときに、自分たちの存在について完璧な知識を保有している。足りないのは創造主に関してのものだけという完璧さだ。
それなのに、彼女は自分の名前すらも覚えていなかった。
第二に、中身が滲み出す。
液体類を『中身』とするゴーレムは全体の六割にも達するが、最初期に創造されたものでもない限り、それが肌から頻繁に染み出すということはありえない部類に入る。
『中身』の減少とは下手をすれば、それは死に直結する欠陥だ。
しかし、ウォータはドクターによる計測に寄ると、何かしていなくても人間が急激な運動をして流す汗並みの水を常に失っているのである。
それはウォータ自身の構造に問題があるとしかとらえられない。
第三に、同時期に創造された兄弟姉妹がいないということ。
ゴーレムたちの製作目的は人間の製造と目されている。そのための臨床実験体が、彼らであるのはほぼ確定事項といっていい。
そして、その目的のため常に3~4体の多少異なったバリエーションを用意するのが、創造主のいつものやり方である。
だが、何故か彼女には同時期製作の兄弟姉妹たちが見つかっていない。
こういった点を挙げて、どうしようもない失敗作であったからこそ、ウォータは創造主に見捨てられたなのではないかという、悪評がコミュニティーに流れた。
それは過大な期待を持って彼女を受け入れたゴーレムたちの裏返しの感情であったが、保護者となったチャコと華さん他数名以外にウォータが心を開かなくなるという結果を招いてしまうのである。
一片の咎なくして仲間に疎まれることになったウォータの心は曇っていた。
発見されてから二十年、次の弟妹が見つからないことも彼女の心を凍て付かせた。
(……ウォータができそこないだったから、創造主さまはゴーレムを作ることをお止めになっちゃったのかな? もしかして、もしかして、ウォータがみんなの期待を裏切っちゃったからなのかな?)
ウォータはあまり喋りたがらない。
別段、言語中枢がおかしいのではなく、ただ単に内心で考えたことを表現するのが困難なのだ。
しかし、考えることは津波のように溢れていて、むしろ心中ではおしゃべりといっても過言ではない。
内心では常に饒舌に悩んでいたが、客観的には無口そのものだった。
それは洞藤空二に出会い、少しだけ、変わった。
彼女にとって初めての弟、そして創造主がウォータ以降にも人間創造に向けて研鑽を続けていたことの証拠。
その特殊な在り方は彼女の苦悩に満ちた二十年にも意味があったのだと、彼女をして満足させるほどの出会いだった。
あのコンビニでの出来事に、精神の器の底では大歓喜の雄たけびを発していた。
二十年来の相棒たるチャコですら読み取れなかったが、ウォータの心象風景には一瞬にして青い空が広がり、緑の草花が生い茂り、小鳥が舞って歌を囀った。
それは春の風景であった。
さらに実際に接してみることで、ウォータは空二のぶっきらぼうだが優しい人柄に触れて悶えた。
唯一、序列でいえば姉である自分を妹みたいに扱う態度には、少々の無礼を感じたが、それはおいおい矯正すればいいと眼を瞑ってあげた。
なんといってもウォータの方がお姉さんなのだから!
……ウォータは非常口から飛び込み、すばやく中を確認した。
大切な、本当に大切な弟が薄暗い廊下に倒れ伏していた。
その彼と自分の間に立ち塞がる大きなナイフを持った男は、腰を押さえて壁によりかかり、荒い呼吸をしている。
空二が手傷を負わせたのだろう。
ウォータはポケットから白いハンカチを取り出した。
そして、睨みつける姿勢を崩すことなく、長い黒髪をハンカチで縛りあげる。
このハンカチは空二が彼女にくれた品だった。
空二にとってはリモコンを保護するだけのつもりで渡したに過ぎなかったが、ウォータにとっては弟からの初めての贈り物だ。かけがえのない宝物だ。
大切な贈り物を、その贈り主の生命を守るための戦いの準備に用いるのは、ウォータの死を賭した覚悟を表わす為。
これは戦いの儀式。
これは守護の誓い。
大切な弟を、ここで守らなければならない!
手に巻いていたタオルに、口から体内に溜め込んだ水を吹きかける。
タオルは水を含むと、重さで威力を何倍にも増し、それだけで膂力に秀でたゴーレムが振るうと十分に危険な凶器となる。
(クウジ、えらいよ。でも、もう大丈夫だからね、お姉さんが守ってあげるからね、もう大丈夫だからね)
ビタン、と軽く振られた濡れタオルが重い音を響かせる。
『凶手』は横目で、階段脇で倒れている少年の様子を窺ってから、新たなる敵に備え、壁から離れる。
お目当てのバケモノがやってきたというのに、彼は訳もなく不愉快だった。
『輝いた運』を持っている自分が、獲物のやけくそ気味な反撃を紙一重で避け損ね、深刻ではないとはいえダメージを受けてしまった。
こんなことは今まではなかった。
思い起こせば、窮鼠が猫を噛むどころか、獲物が彼の身体に触れることすら稀だったのだから。
彼は正面から拳銃で撃たれてもかすりもしないし、痛みをこらえることなど皆無であった。
それでも、ウォータが躊躇うことなく前進したので、『凶手』も思考を放棄して付き合わざるを得ない。
相手の武器は濡れたタオル。
だが、決して侮れるものではない。あのバケモノたち特有の怪力で振るわれたら鉄パイプのような鈍器にもなる代物だ。
跳んできた。
小さな体が矢のようにしなり、振り下ろし気味にタオルを叩きつける。
たかがタオルに鉄棒並みの硬度があると見抜き、わずかに下がってそれを避けることに専念する。それだけでは殺し合いを征せないので、避ける際にナイフで横に薙いだ。
しかし、ナイフが切り裂いたのは何もない空間。子供のような身長とタオルという間合いのとりにくい武器の間合いを、ウォータが効果的に活用し、目測に狂いを生じさせたのである。
黒く濡れた小鳥は、着地と同時に腰を下ろし、左手を基点に半回転を描く。勢い良く周って、繰り出される鋭い回し蹴り。
『凶手』の脚を薙ぎ払われ、背中から地面に打ち付けられた。一瞬、呼吸ができなくなる。
起き上がろうとしたが、それよりも早くふわりと浮いた影が彼の視界を埋めた。
「なっ!」
それは肘を突き出し、背面ジャンプをしながら身体を空中で捻るプロレスのダウン攻撃のように美しく弧を描く飛翔だった。
少女の狙い通りに、尖ったエルボーが『凶手』の無防備なみぞおちに突き刺さる。
小さく軽い身体だとはいえ、ウォータの攻撃をまともに食らえば、人を死に至らしめるかもしれない。
『凶手』はみぞおちから胸部、そして気道をせりあがる嘔吐感に咽喉を焼かれた。花火のように意識がとんだ。『凶手』はゴーレムたちの怪力は警戒していたが、運動神経については舐めてかかっていた部分があったので、それが対応の遅さを招いた。
そのままウォータは手を休めなかった。
肘をそのまま一度押し込んだ後、『凶手』の腹の上で起き上がり、馬乗りになりマウントポジションを取ると容赦なく殴りつけようとする。
小さなお尻に敷かれていた『凶手』の腹筋が競りあがる。
「くっ」
『凶手』は白くなりかけた意識のまま防御本能に従い、有利な体勢を取らせまいと、手を振って横に起き上がろうとしたのである。
ウォータはバランスを崩し、そのまま倒れこむ。
ふんばろうとしたが、無意識のうちに振り回されたナイフの柄での一撃を肩に受けて失敗する。
仰向けのまま、ケダモノのように『凶手』が吼えた。
半ば寝転んだままの『凶手』の脚が槍のようにウォータの柔らかい腹を貫く。
ゴーレムである彼女には痛みによるダメージは与えられないが、軽い体重が災いし、三メートルも奥に吹き飛ばされしまう。
壁を擦りながら吹っ飛んだウォータは、うつ伏せで呻く空二からわずかに離れた場所で尻餅をついたように、脚を投げ出した格好になる。
空二は全身がしびれて動けなかったが、彼を助けるために身体を張っている少女の危機を察知していた。ウォータも自分同様危険な状態だ。なんとかしなければならない。
だが、空二は指も動かせない自分を呪うしか出来なかった。
まだ回復しきっていないのだ。
一方の『凶手』は呼吸だけは困難であったが、冷静さを失ってはいなかった。
転がっていたナイフを拾うと、脇に構えて左手を添える。刺し殺すつもりだった。これならリーチにおいては、小柄なウォータに勝るという判断だった。
またもケモノのような奇声とともにウォータめがけて飛び掛った。
その様子を眼の端にとらえたウォータは、あわててタオルの両端をもって盾とする。
だが、それは失策だ。濡れタオルなどで大の大人が勢いをつけて行う刺突を防ぐことなど出来はしない。
刹那、『凶手』は勝利の予感に酔った。
だからこそ、ウォータの頬が可愛らしく―――窮地にそぐわないほどに可愛らしく―――膨らんだことに気づかない。
プシュ
その音はジュース缶のプルトップを引く時のものによく似ていた。
『凶手』は自分の左目に、冷たく、そして熱い何かが刺さったことを、すぐには気づけなかった。
直後、彼の全身の力は抜け、意思をなくし、ただの肉の塊となって地面に滑り込む。
強敵が堕ちていくシーンを、ウォータは冷え冷えとした視線で観察していた……。