親友
蜂条夕卯子の母は、陸上の一部門でオリンピックに出場し入賞したこともある名選手だった。
幼いときから、母の凄い話という奴を周囲から飽きるほど聞いて育った。
加えて母はトップアスリートとして、標準以上の容姿を備えた美人でもあった。
正直、彼女の小さいときからの尊敬の対象は母一人であり、配偶者であるところの父親を尊敬したことなどほとんどなかったと思う。
父は、ただの変哲もないサラリーマンだったからだ。
両親は二十代で結婚したが、実際の付き合いは高校時代からだったそうだ。
中学時代にはすでに地元で有名な陸上選手だった母は、高校進学後に、どういう訳か同級生のさえない少年と付き合いはじめた。
当時、始まったばかりのガンダム等のアニメや、新井素子の小説が好きな、今で言うオタクな少年が、どうしてエリート体育会系そのままの少女と付き合うことになったかはよくわからない。
だが、少女と付き合うことになってから、少年は陸上部のマネージャーになり、彼女のために考えられるすべての雑用をこなし始めた。
その当時は、現代のように先端的なスポーツ理論のようなものはトレーニングにまったく取り入れられていなかったが、少年はできるかぎりの最先端の情報をかき集め、彼女のためだけのカリキュラムを作り、必死に尽くしたそうだ。
普及していなかった栄養学も齧り、自分で調理した弁当なども作って差し入れた。
インターネットの発達していない時代としては、資料を見つけることさえ並大抵の苦労ではなかっただろう。
その甲斐があってか、少女は高校三年でインターハイ二位となり、有名な実業団チームに入ることが出来る。
だが、実業団に所属すると、少年が少女のために尽くすことはできなくなった。
実業団には実業団のやりかたがあり、専門のコーチも用意されている。
少年の仕事は自然となくなるはずだった。
だが、少年は予定していた進学を辞め、就職を選ぶ。
就職先は比較的自由が利く職場だったからか、彼は少女を応援するために奔走した。
休みの日の大会は必ず応援に行き、日々の練習も出来る限り見学した。
どうみても文化系の彼を、筋肉偏重主義の数人の同僚が見下し、少女のいないところで嫌がらせをおこなうことも多々あったそうだ。
美しい少女の情けない恋人への横恋慕じみたそれは、時に暴力行為にまでエスカレートすることもあったと聞いている。
それでも、少年は少女の練習を見守り続けた。
そのうち大きな大会で勝つためには海外へ遠征する必要もでてくる。
かかる費用は高額で、セミプロとはいえ、会社の金をかける以上、それほど頻繁に遠征を行うことは出来ない。
しかし、少年は自分が稼いだ給料を惜しげもなく彼女のために提供した。
企業などがスポンサーになった場合に比べれば微々たる額だが、それでも遠征費用の足しにはなった。
少女への個人的な寄付を集うため、企業への働きかけも率先して行った。
彼の存在を疎ましく思っていた他の実業団の面々も次第に何も言わなくなっていった。
彼の行動によって得た額が少なくない額だったからだ。
その上、場合によっては、帯同するコーチの遠征費用までも彼は支払った。
おかげで少女は他の選手よりも多くの大会に参加することができ、経験を積み重ね、結果としてオリンピックの日本代表となり、五位入賞という当時の日本人としては快挙ともいえる成績を収めるに至った。
柔道やバレーといった花形競技に比べれば注目度こそ低かったが、見目麗しい彼女は一部でマスコミの注目を浴びた。
テレビ出演などもし、地元の名誉賞等も受け、今度こそ少年と少女は住む世界が完全に断絶するかと思われた。
しかし、しばらくして少女は、現役を引退。
オファーのあったコーチにすらならず、完全に陸上から足を洗うことになる。
少女と少年は(すでにいい年齢になっていたが)結婚し、その一年後に夕卯子が誕生する。
伝え聞く話などから、父は献身的な男性だなと思っていたが、娘の印象としては、ただ母の栄光に尽くしただけのようにしか見えなかった。
居間に飾られている当時の新聞記事のスクラップなどでも、父のことに触れたものは見当たらない(このスクラップも父が作ったものだ)。
父の献身はまったく誰の注目も浴びていなかった。
自分の彼女のために青春の十年間を身を粉にして尽くしたのに、誰も(母以外は)感謝していないように思えた。
まるで自分がない生き方だったのではないのか。
その思いは、13歳の時、父が突然入院したときにさらに強くなった。
父の病は急性のものであり、手術をしても五分五分の生存率さえもないというものだった。
夕卯子は悲しかった。
父は母と自分に尽くすだけで、自分自身では何も得られず死んでしまうのではないか。
それこそ、がらんどうで空虚な人生ではないのか。
何もなかったのではないか。
父が死ぬ前、病室で二人きりになる機会があったとき、夕卯子はこの質問をぶつけてみた。
これが最後だと薄々感じていたからでもあった。
「父さんは、アニメーションの監督になりたかったんだよ。ほら、ガンダムとかダグラムとか。あれの監督さん達が好きで好きで仕方がなかった。
ああいう作品を手がけたかったんだ。あと、大藪晴彦や平井和正のようなハードボイルド小説も書いてみたかったなー」
「……それがお父さんの夢だったの」
「ああ」
「じゃあ、なんでそっちの道に進まなかったの。お母さんなんか、才能があるんだからほっとけばよかったのに。
なんで、自分の好きなことをしなかったの。お父さん、スポーツが大好きって訳でもないのに」
「―――好きな女の子がいたからだよ」
「……でも、自分のやりたいことをやらないで終わったら、結局満たされないんじゃないの。駄目なんじゃないの?空っぽじゃないの?」
「そうかもしれない」
病のせいでかすれた声は夕卯子の言葉を半ば肯定していた。
しかし、父は、夕卯子から目を逸らさなかった。
「……でも、何もない人間なんていない。良かれ悪かれ、人間は生きていくだけで希少で得がたい中身を溜めていく生き物なんだよ。
からっぽな空き缶の中でも詰まってさえいれば、中身なんてどんなものでも構わないものなんだ」
そして、父は無理に身を起こし、夕卯子の頭を撫でた。
「朝早く校庭を走っていた真面目で綺麗な女の子は、素敵な女性になり、私の初恋は成就した。そして、こんな可愛い娘もいる。これは人の中身としては十分すぎるほどに十分ではないのかい?中身があるだけで素晴らしいのに、ましてその中身が母さんと夕卯子だというならまったくもって不満は見当たらない。だから、なんの後悔もない。私はそう思うんだよ」
……父はそれから一週間後に亡くなった。
しばらくたって夕卯子は、自分をがらんどうだと信じる少年に出会った。
この少年は、俺には何もないと口癖のように呟いていたが、彼女からしてみればアホかという感じだった。
何もないと言っているくせに、結構親切で、口よりも足が動いて誰かの盾になっている。
夢がないといいながら、他人のちっぽけな夢を応援している。
自分を捨てて失踪した父親をずっと愛している。
わたしなんかを友人ランク第一位に据えている。
アホでなければゴミだ。
死ぬ価値もないカスだからこそ生きていられる、としかいいようのない勘違いのアンポンタン野郎だ。
やはり近いうちに教え込まなければならない。
夕卯子は決意する。
教えて叩き込むべきは、大切なわたしの父の言葉だ。
土日は学校がなかったので会わずに終わったが、月曜日になったら、奴の家にでも押しかけて……鞭でしばいてやる。