少年
久しぶりに訪れた病院は、廃墟に相応しい様相を呈していた、とはいえなかった。
なぜなら、敷地内は鎖と有刺鉄線が張り巡され、入口は板で塞であり、ホームレスや少年達の溜まり場にならないようにしっかりと管理がなされているのが明白だったからだ。
なんとか敷地内に侵入を果たしたとしても、玄関口や窓ガラスはがっちりと南京錠で施錠されており、乱暴に壊しでもしない限り押し入るのは不可能だ。
眼に留まりやすい位置に立てられた看板には、管理会社の名前と立ち入りを拒否する理由が明確に記されている。
まさに完璧な仕事と言えた。
「これは駄目だな」
鉄柵越しに中を覗き込むと、閉鎖以来誰かが無理矢理に入り込んだ形跡は見られない。
看板が比較的新しいことからも、管理会社がまめに仕事をしているのは間違いない。
「どうする?」
と、隣のチャコの意見を聞こうとすると―――バールのような巨大な釘抜きで南京錠を破壊しようしている犯罪者が目に入った。
しかも相当慣れているらしく、鼻歌交じりで鍵穴を弄くってもいる。
ガッと硬いものが折れた音がして、ゲーム機のコントローラーサイズの南京錠が開いた。
人としての常識を意見してやろうと思ったが、褐色の肌の金髪少女は、苦難の道を一心に駆け抜けた者のみに許される満足そうな顔をしていたのでやめた。
達成感に満ちた犯罪者に正論は通じない。
柵に絡みついた鎖を力づくで外し、錆付いて動かない場合はヤクザのように蹴り飛ばし、最後はナマハゲのように敷地内を侵略する。
えーと、こういうのなんて言ったかな。
「……強盗?」
ちょっと的確な表現だが、聞こえないように小声で呟く。ゴーレムたちは耳も鋭い。
しかし、ここ数日の接触でその限界がだいたいわかったので、この程度なら聞こえないだろうとたかを括っていたが、それは誤まりだった。
「何か言ったァ?」
ああん、とゴロツキのように凄まれて、慌てて心にもない台詞を発してしまう。
「怪我はないか、と言っただけだ」
「……大丈夫、慎重にやったから」
少し照れくさそうなのはどういうことだろう?
「なら良かった、心配したぜ」
「ありがと」
振り向きもせずに、さっさと玄関前に進む。
幾重にもビニールテープが張られていたが、鍵自体はもともとの病院のものを引き継いでいるようだ。
そうはいっても、空二たちの一行がその鍵を手にしているわけではない。
さて、どうやって入ろうかと再び思案していると、笑っちゃうほどのシンプルさで、チャコのやくざ蹴りが再び炸裂する。
またもやただの一撃で簡単に厳重に封印されたはずの扉は撃破されてしまった。
思わず、近所の様子を窺う。
土曜日の昼間である。
騒ぎを聞きつけた近くの住民たちが様子を見に来ないとも限らない。
しかし、当の武断派侵入者はこじ開けた扉から平然と中に押し入っていく。
チャコの行動が気になって仕方がない。
つり橋効果で恋に落ちてしまうのではないかと思ってしまうほど、胸がバクバクと鳴っていた。
よく考えれば、この廃病院は洞藤家から歩いて五分のご近所さんである。
彼の知人が通りがかってもおかしくないし、その知人から警察に「洞藤さんのご子息が強盗をしています」と名指しで通報されてしまうこともありうる。
近所付き合いは必ずしも良いとはいえないが、それでも大掃除などの町内会の行事には率先して参加してきた空二の主婦的気遣いが、無に帰してしまうかもしれない。
「おいで、クウジ」
まったく躊躇うことなく、チャコのあとに従っていたウォータが、中から手招きをしていた。
溜息をつきながら、泣く泣く空二は病院の中へ入る。
全てのガラス戸が締め切られ、電灯が点いていないせいで、薄気味悪さが漂っていたが、病院の待合ロビーは記憶にある姿のままだった。
大学の講義室程度の広さだが、今は貼られていたポスターも剥がされ、通院患者用のイスもない妙に閑散とした印象で、さらに広く感じられる。
外来用の受付の反対側に、事務用の窓口があり、左右にそれぞれの科への診察室へ向かう通路が伸びている。
そしてすぐ前には二階へ上がる吹き抜けになっている階段と、中庭に抜ける非常口がある。
病院の中庭は入院患者のリハビリや、患者の家族達の休息などに解放されたスペースとなっている。
この非常口を、幼い時の空二はよく通り抜けていったものだ。
「……何か思い出せた?」
元外来を覘いていたチャコが訊いてきた。
「いや、ここには外来と診察室と中庭ぐらいしか縁がなかったからな、ちゃんとした思い出ってのは少ないんだ」
「なら、あたしは上の方を調べてみるから、クゥはウォータと、記憶にある場所を適当に廻ってみなよ。なんか、その、例の医者について思い出せるかもしれないからさ」
「わかった」
そういい残すと、チャコは二階へ上って行ってしまった。
彼の家に一泊してから、チャコは空二のことを「クゥ」と呼び捨てるようになっていた。
呼ばれ慣れていない愛称はこそばゆかったが、これで彼女との仲がうまくいけば安いものかなと結論付けて、受け入れることにしていた。
多少の我慢は良好な人間関係の基本だ。
取り残された格好となったウォータを促して、自分がよく行った診察室に足を向ける。
診察室にも鍵は掛かっていなかった。
中はほとんど空っぽ、備えつけの棚などが残っているが、あとは薄汚れたカーテンがかかっているだけの寂しい光景だった。
それでも室内に入った途端、空二は懐かしい記憶が脳裏に再現されていくのを意識していた。
あの時、彼の左手の怪我を、彼の青く流れた血を、人生で一番最初に見せた医者との記憶を。
※
傷を見せたのは、診察室ではなく病院の裏にある通称『中庭』だった。
幼い彼には、怪我をしたからお医者さんに治してもらわなければならないという考えだけはあった。
一方で青い血のおかしさを他の人に知られたくなかった。その事実を人に知られることを恥ずかしいとさえ思っていた。
自らの異形を他者に知られることを憚ったのである。
二つの考えに自ら縛られた挙句、空二が選んだのは、たまたま見掛けた休憩中の白衣の人物に話しかけるというものだった。
中庭の隅のベンチに、白衣を着た一人の女性が座っていた。
かったるそうに前屈みに座り、スナック菓子をぼりぼり噛み砕く姿勢はだらしなくて、お医者さまというイメージではなかったが、わらにもすがりたい思いの少年の目には頼りになる人物のようにさえ映った。
意を決し医師に歩み寄った。
「……なんだい、小僧」
第一印象は、乱暴な女の人だなあ、というものだった。
自分の窮状をさておいても、そんな冷静なツッコミを入れたくなるような粗雑さであった。
手ぐしでざっくりと髪を持ち上げ、トップで無造作にまとめた束をアメピンでまとめたヘアースタイルはさわやかであったが、化粧をしている様子はまったくなく、女性らしさは微塵もない。
仏頂面なのも拍車をかけていた。
ただ、手入れをしていない細い眉が、様々な角度に動くおかげで、表情は非常に豊かだった。
そして口からでる言葉はずいぶんと乱暴だった。
「私はお休み中だ、よそへ行け」
お休みという単語を、区切って区切って必要以上に力を込める点が、いかにも嫌そうだったので、少年はびっくりした。
彼が今までに抱いていたお医者さんというイメージとはあまりにもかけ離れていたからである。
「ああん?」
いらだったように細い眉がしかめられる。
怒られた、と空二は肩をすくめたが、女医の視線は彼の手に向けられていた。
けっ、と宙を睨んでから、
「怪我をしたのかよ、しかたねえ小僧、ちょっと診せろ」
と、抵抗するまもなく左手が掴まれ、女医の前に突き出させられた。
女医の目が光る。
空二としては、まず医者に秘密を守ることを約束してもらってから、左手のことを相談するつもりだったのに、計画は早々に破綻してしまった。
(終わりだ)
空二は絶望そのものの衝撃を受けていた。
「やだ……!」
「……なんだぁ?珍しい色の血をしてるな、おまえ」
「……ああ……」
時間が止まったような気がしたが、実際には二秒も立っていなかったろう。
正味のところ、女医が一瞥をくれた間がそのままの時間だったからだ。
「まあ、別にどうでもいいか」
「えっ?」
「ただの擦り傷じゃねえかよ。死にはしないから、そんな顔をすんな」
様子が只事ではないことに気づいても、女医の様子はまったく変化せず、かったるそうな声色もそのままだった。
それでも事情を察したのか、適切とは言いがたいが、慰めの言葉を発した。
「ああ小僧、おまえ、この変な血が怖かったのか?……確かに気持ち悪いが、別に病気じゃなさそうだし、水で洗ってから消毒薬塗ってバンソーコーでも貼っておきゃあいいだろう。だから、そんな顔をしてんじゃねえよ」
泣きそうな顔を、さすがに哀れに思ったのか、仏頂面がわずかに歪んだ。
たぶん、それは微笑だったのだと思う。笑い慣れない鉄面皮に、ごくまれに生じる優しさが感じ取れた。
空二は、この不調法な女医を信じることにした。
そして、子供らしいたどたどしさで自分の秘密を告げた。
そんな空二の悩みを、女医は簡単に切って捨てた。
「隠せばいいじゃん。んで、万が一怪我をしたりしてバレそうになったときのために、黒っぽいハンカチなどをいつも準備しておく。それで、すぐに傷口を押さえちまえばだいたいオッケーだ。目撃者対策に適当な言い訳を用意しておけば、さらに良しだな」
女医が提示したのは、何の解決にもならない場当たり的な対処法だったが、彼女の口から出ると、神の啓示に聞こえなくもない。
「まあ、それだけじゃ心配だろうから、あとで内緒で調べておいてやるよ。そのハンカチ貸しな」
左手を庇っていたハンカチを無造作に奪い取られる。
白いハンカチについた青黒くなった滲みを見て、女医はせせら笑った。
「インクの滲みと変わらねえじゃん。こんなもの、いちいち気にすることかね」
「……誰にも言わないで」
「人間の青い血なんて、調べればおもしろい結果が出るかもしれないし、研究すると大発見になって有名になるかもしれないからな。約束はできないぜ」
「えっ」
「冗談だ。まあ、安心しろや。私は面倒ごとはできるかぎり避けたい性質でな。研究に没頭して大事な女としての華の時期を失うなんて真っ平ごめんだ。結婚もしたいしな。誰かに告げ口する気もねえし、まして学会に発表するために熱心に研究する気もさらさらないさ」
「でも……」
「ただ、な」
女医は、空二の頭に手を載せ、彼を安心させるように、
「まあ、私も一人前の医者である以上、患者の世話はしなければならんからさ。小僧、おまえに心配事ができたら、とりあえず相談に来い。それぐらいは聞いてやる。なんといっても、わ・た・し・は医者だからな」
戦国時代の豪傑のように呵呵大笑したのだった。
その頼もしい姿に、空二は父にも感じたことのない親しみを覚えた……。
※
「それが、あのお医者さんとの出会いだったよ」
お医者さん、と空二は言う。
名前でも、先生でもなく、ただの『お医者さん』。
空二にとって、その女医の存在はまさにそういう存在だった。
中庭で彼の一人語りを聞いていたウォータが顔を上げた。
つまらなそうな顔をしているだろうかと思っていたが、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていたのが不思議だった。
「楽しかったのかい」
「ううん。つまんなかった」
「ぐっ」
「でも、クウジは楽しそうだったよ。昨日、パパの部屋を掃除していたときのクウジは泣きそうだったけど、今のクウジはウォータの好み。楽しそうで、嬉しそう。ホントに笑える笑える」
よく理解できなかったが、思い出話を語る空二は懐かしさのあまり緩んでいたのかもしれない。
確かに、短い付き合いでしかなかったあの女医の言動は素っ頓狂なものだったから、思い出し笑いをしてしまっても仕方がない。
バッグからペットボトルを取り出し、いつものようにグビグビ呑みだしたウォータを見守りながら、石畳以外は雑草の繁りまくった懐かしいベンチに腰を下ろした。
この病院がつぶれたときに、あの女医は同時にいなくなった。
別れの挨拶はできなかった。
ある朝、家のポストによくクリーニングされたハンカチが投函されていた。
ビニール袋にハンカチが入っているだけで、手紙も何も添えられていない。何のメッセージ性もないただの荷物。
あわてて病院に向かったが、委託された業者が今に至る閉鎖の準備をしているだけであった。
病院の人間は見当たらず、作業服を着た男達が無言で鎖を掛けていた。
そんな機械的な光景をいつまでも眺めていることに耐えられず、空二はその場を走り去った。
それから数年。
蜂条夕卯子に出会うまで、彼の秘密を知るものはその女医だけだった。
「クゥ」
非常口からチャコがやってきた。
落胆というほどではないが、無駄足を踏んだなという程度の浮かない顔をしている。
「……いちお訊くけど、どうだった?」
「予想通り、何にもなかったな。やっぱり『エル・ポエップ・ダエッド』のマスターに頼んで探偵を雇って、関係者の足取りを辿ったほうがよさそうだ」
「ここは関係ないんじゃないのか?」
「それは駄目だ。クゥの親父の例もある。おまえの周りに跋扈していた怪しい経歴の連中は根こそぎ調べなきゃならないんだ。気持ちはわからんでもないが、黙って手伝え。おまえだって、その両手の秘密を知りたいんだろ?」
チャコの口調はきつめだった。
彼の立ち位置は、他のゴーレムたちとは大幅に異なる。
なにせ、左手と右腕を除けば、大多数の人間達との差はないに等しく、ウォータがたまたま気がつかなければ死ぬまで正体が露見しなかったおそれもあるのだ。
もっとも、父親の部屋からゴーレムたちの集会所のマッチが見つかった以上、放っておいても彼に対して、または彼を利用するためのなんらかのアクションが起こされていた可能性は高いだろうが。
現段階でできることは、本人も知らぬ間に囲い込んでいた何かを少しずつ掘り出していくしかないのである。
そのためにも、チャコたちゴーレムに協力するしかない。
彼にだってそれくらいはわかりきっている。
だからといって、彼に親切にしてくれた女医や行方不明の父親を疑いの眼で見るのは気分のいいことではなかった。
「ひとまず、家に帰ろう」
「そうだな、また泊めてもらうぜ」
チャコが一転しておどけた風に笑った。
彼女の笑顔がちょっと前から気に入っていた。
「構わないよ。一泊されてしまった以上、あと何泊されたってもうたいしたことじゃないしな」
そういうと、座り込んでいたウォータに手を差し出す。
ウォータがそれを握り返した。
昨日の今日であったが、空二はウォータを妹のように感じていた。
(なら、それでいいじゃないか)
昔の家族のことを、今の家族で追跡しているにすぎない。
それだけのことだ。
懐かしい庭を出て行くときも、振り返ったのは一度だけだった。