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スキンゴレムズ  作者: 陸 理明
第三章 人と偽人の肖像
11/22

凶手

『職業凶手』というのは、殺し屋のことを差す。

 一時期、アジア産の映画などで流行ったことがあるので、スラングとしては意外に知名度がある方だろう。

 紅林というのは自分でつけた偽名だが、『凶手(きょうしゅ)』というのは通り名のようなもので、暗黒社会ではそれで通じていることから気にはしていなかった。

 むしろ、それでビジネスが円滑に進むならば得か、とさえ考えていた。

 作家のペンネームみたいなものかもしれない。

 言うなれば、キラーネームか。

 同族を殺し、報酬を得る経済活動のための名前だ。

 半年に一度就労するだけで、左団扇で暮らしていけるこの仕事を『凶手』は天職とさえ考えていた。

 その他の空いた時間は、自堕落に過ごしてもいいし、次の仕事に向けてのトレーニングに費やしてもいい。完全に自由だ。

 失敗すれば自分の命や自由が奪われるリスクなど脳裏に浮かべたこともない。

 そして、二十代中盤には、もうその道の泰斗と呼ばれてもいいぐらいの実績を、『凶手』は備えていた。

 殺しという作業そのものより、予定したノルマをこなすという行為自体を楽しく感じていたことから、ある種のワーカホリックだったのかもしれない。

 人とは異なる仕事を黙々とこなす自分に酔っていたのかもしれない。


 おれは他人とは違うんだ、と。


 その意識が劇的に変わったのは、ある女と知り合ってからだった。

 ……女は場末のバーで酒を食らうだけの世間的にはどうでもよい女だった。

 アジア系らしいが、日本語はネイティブ並に堪能で、気だるい雰囲気を醸し出しながらも持ち崩した感じがしない、凛としたところがあるという矛盾した存在だった。

 トレーナーにボトムジーンズというアバウトな格好が常で、ブラシをかけただけのロングの黒髪は安っぽいが、唇のぽっちゃりとした一昔前のアジアンビューティーという感じだった。

 香港あたりのビジネス街にいそうな、美しい容姿の持ち主だった。

 それでも、連日夕方からバーに居座り、つまみも頼まずに老酒を飲み続けるだけの女は、社会的には振り返る価値はないが。

 女のどこが気になったのか、初対面の『凶手』にはわからなかった。

 ただ、老酒をちびちび口に含むだけの姿は、郷愁にかられている元中国人という程度の連想しか浮かばないし、パーマのかかったふわふわの髪を好む彼からすれば、ストレートは古臭い年増というイメージでしかなかった。

 それなのに、女から眼が離せなかった。

 職業柄、目立つことは避けるようにしているので、横目で眺めるだけであったが、何故か気になって仕方がなかった。

 酔いが完全に回る深夜まで、『凶手』はただ女の様子を窺っていた。

 翌日、同じバーに行くと、また同じ場所に女はいて、同じ動作を繰り返していた。

 その日は、持参した女性誌を読んでいたが、そんな平凡な行動でさえ奇妙に違和感が感じられた。

 また次の日、深呼吸をしてから『凶手』は女の横のスツールに座った。

 女は老酒を一杯干すまで、彼の方を見もしなかったが、唐突に口を開いた。

「……女を眺め回すのは止めにしたの?」

 独り言のような疑問の言葉だった。

「バレてたのかよ」

「……それはね。一昨日くらいから背中あたりが視線でピリピリしてたからよ。ただ、子宮がうずくような視線じゃなかったから、あんたは『女』のあたしには興味がないんじゃない?」


 指摘されて始めて、彼は一度もそういった欲望を抱いていなかったことに気づいた。

 アレとアレでのツープラトンのことだ。

 どういうわけか、純粋に、ただ女に対しての好奇心が沸いていただけだったようだ。

 好みの容姿でないからだけでなく、初見以降はその外見にとらわれたことがなく、中味だけにそそられていたのだろう。

 改めて指摘されたとおりに、そういった眼で観察してみるが、やはり男女間の欲望のようなものは覚えなかった。

 そもそも『凶手』は薄汚い淫売や、あそこが病気で爛れたような尻軽と睦みあうことを嫌い、いまだ童貞のまま生きてきた。

 彼のお得意様も接待で女を宛がおうとしてくれたが、安宿で腰を振っているときに命を狙われたら堪らないと断っている。

 英雄色を好むなんて俗説を信じている奴らは彼を何故か見下すが、同業者の中では「『凶手』は心がけがいい」と高い評価を受けているのだから、皮肉なものだった。

 本音を言えば、女の肌よりも熱くさせるものがあったからなのだが、わざわざ声高に喧伝するものでもない。

「口説かれるのはごめんかい?」

「……じろじろ見られるよりはマシね」

「悪かった。今から口でぺらぺらするわ」

「ぺろぺろするのは、今日は勘弁して」

 軽口の後、追加の水割りを頼み、女と乾杯をした。

 初対面にしては話が弾み、意外と楽しい時が過ぎていき、またの再会を約束して二人は別れた。

 再会を約束する殺し屋というのは奇妙奇天烈なものだったが。

 ……その後も、何度か彼女と酒を酌み交わす機会があったが、素性は依然ようとして知れなかった。

 もちろん『凶手』自身、自己紹介などできる立場ではないので、しつこく尋ねるわけにもいかない。

 それを差し引いたとしても、女の口の堅さは尋常ではなく、名前はおろか日々の酒代の出所でさえ洩らしたりすることはなかった。

 もっとも『凶手』が望んでいたのは、女の素性ではなく正体だった。

 この場合、正体は『中身』といいかえてもいい。

 何故、この女に対して『凶手』のセンサーが過剰な反応を示し続けるのか、その訳が知りたいのだ。他は単なる些事にすぎない。

 ある日、決心して訊いてみた。

「……あんたは、他の奴らとどこか違うように感じるんだがよ。まあ、おれだけの直感だがな。そこのママに聞いても首を捻るだけで埒があかねえ。他の連中には聞いていねえが、おそらくはママと同意見だろうよ。だから、おれだけが、あんたを違うと感じているだけの気のせいかもしれねえが、あんたは誰かにそんなことを言われたことはないかよ」

 言葉が足りないような気がしたが、『凶手』にとっては愛の告白をしているように真剣な想いをこめた問いかけだった。

 女はしばらく無言。

 頻繁に会話が弾むような間柄ではないが、これほど意図的に産みだされた沈黙は話しかけた日以来、はじめてのことだった。

「……心当たりはあるわね」

「単刀直入に聞くぜ。どこが違うんだ?」

「そっちこそ、聞かせてよ。なんで、そんなことに拘るのさ?他人と他人の違いなんて、人間ていう商売をやってる限り、それこそ無限にあるものでしょうに。わざわざ知りたがるなんておかしいわ。あなた、異常な詮索屋の類なの?それとも、人間じゃないのかしら?」

「何だと」

 思いも寄らない反応だった。

 彼は確かに同族殺しの人でなしの範疇には入る。だが、人間でないのかという意味がさっぱりわからない。

「人間なら人間らしく、色の異なるものは無理解に排除するべきでしょう。無自覚に無慈悲に、無条件に。いちいち理解しようとする努力をしたがるなんて、それは人間とは呼べないわ」

 彼は絶句してしまった。

 女の口調はごく穏やかで、内容も厭世的であるが目新しい訳ではない。問題はその奥底で牙を研ぐような、ぞっとする敵意が見え隠れする点であった。

 この女は人間を憎んでいるのではないか。

 同族を殺して飯の種にしている男が、同族を憎んでいる女を見て背筋を寒くするとは笑えないジョークだ。

 気がつくと女はカウンターに勘定を置いて、店をでるところだった。

「おい、待てよ」

 急いで万札を置いて、『凶手』はその後ろ姿を追った。

 バーの外に出ると、女との距離はだいぶ離れていた。

 彼は早歩きで近寄る。

 肩に手をかけるが、うっとうしそうな流し目で邪険にされたうえ、手を払われた。

「気を悪くしたんなら謝る。だけどよ、あんたがそこまで怒る理由が、おれにはよくわからねえ」

「……他人と違うなんて言われて喜ぶのは餓鬼だけよ」

「そうとも言えねえと思うが。個性ってのは重要だろう」

「個性なんてあったって邪魔なだけ。できるだけ丸くて平凡な石の方が、川底ではよく回転するものよ。個性重視なんて、あたしにとっちゃ正気の沙汰じゃないわ。摩擦が増えるだけよ。……違いなんて、くだらないわ。周囲と一緒が何より大事。少しでも棘をもたずに問題なく寄り添って生きていくのが最高の生き方よ」

「おれは他の奴とは違うぜ」

「……そう思い込んでいるだけよ」

『凶手』は夜道で哲学論だか教育論だかを語り合う柄ではなく、女からは彼の求める回答がどうやら得られそうにないという結論に達し、ようやく自分らしさを追及するための覚悟を決めた。

「こっちに来いよ」

 彼は無理矢理に女の手を引っ張った。

 女は意外に力強く抵抗したが、すれ違う通行人の目を気にしたのか、最後には大人しく従った。

 人気のない路地に連れ込むと、『凶手』は女の唇を奪った。

 手馴れた風に見せかけたが、実は彼にとってのファーストキスだった。

 もっとも、そんな乙女のようなこだわりは彼の中に欠片もないが。

 女にとってもそんなことはどうでもいいことなのだろう、乱暴でどことなく陵辱的なキスを受けとめる。

 抵抗らしい抵抗はほとんどしない。

 鼻先に老酒の芳醇な香りがした。

「……あたしに欲情しないんじゃなかった?」

「試してみただけだ」

「で、どう?」

「やはりアレが勃たねえ。おれはあんたに惚れているわけじゃなさそうだ」

「そんなことの確認のために、こんなところに押し込めたの?」

「いいや」

「じゃあ、何」

「これ」

『凶手』は、腰の裏に隠していたナイフを右手のスナップだけで、女のわき腹に刺し込んだ。

 普段から愛用している凶器ではないが、手入れを怠っていないのが自慢の品だった。女性の軟い腹筋などはバターをスプーンで抉るように簡単に貫く。

 しかし、指先は妙な感触を伝えてきた。

 刺し、貫き、抉り、それで初めて気がついた異常。

 女の肌は皮ではなく何か別の物質であり、肉のあるべき位置につまっているのはほんのわずかな手ごたえしか示さない液体だという異常。

 背筋を冷たい汗が滑り落ちる。

 女は微笑んでいた。

 わずかな痛みを感じた様子もない。


(あんたの腹の中には熱い鉄の塊が捩じりこまれているんだぜ、そんな顔していたら反則だろう?もっと苦しんでくれないと、そう、人間的にやばいんじゃないか?)


「……意外と早かったわね、こうなるのが」

「あんた、いったい何言ってんだ?」

 このときのことを思い返す度に、『凶手』は自分が理解できなくなる。

 何故、おれは狂ったように取り乱さなかったのか、と。

 胸の奥に正体不明の澱んだ泥があり、それが理性を爛れさせ腐らせたかのように思考が喚きださない。

「手を見て御覧なさい」

 凶器を握った右手は血に塗れているだけだ。

 そんなものを見てもどうにかなるはずがない。

 にもかかわらず、見てしまった。

 液体に濡れてはいたが、血に染まっていたわけではなかった。

 場末のバーがあるような、場末の繁華街の、場末の誘蛾灯の下でもそれがはっきりとわかる。

 彼の右手を濡らすものは、透き通る無色だった。

 堪らず眼前に翳してみる。

 透明なのは疑いがなかった。

 だが、彼の鼻腔を震わせる臭いには覚えがあった。

 同じ香りが女の吐息に重なっていたからだ。

 それは老酒のものだった。

 てっきり女の身体と間違えて老酒の瓶を割ったのかとつまらない現実逃避をした。

 が、認識が覆るはずはない。

 間違いなく、匂いも色も老酒と変わらぬ液体が、女の肉体から漏れ出ているのだ。

「……わかった?」

「あんた、何者なんだよ」

「芸がないわよ、さっきから」

 女の腹からはじわりじわりと老酒がこぼれ出ている。

「あたしは、お察しの通り、この老酒でできているのよ」

 女は傷口からでる老酒を擦りとりながら、口に含む。

 それは同じものを食べ過ぎて食傷気味のグルメのように厭々した仕草だった。

「あたしたちはね、あなたたち人間とは皮の下の中身が違う。そういう種族なの。気味が悪くて仕方がないでしょ」

「……」

「ね、違うといわれて喜ぶなんてありえないでしょ」

 女の膝が崩れた。

 肩のあたりが萎びた植物のように皺が寄る。

「中身が半分ぐらいになると、あたしたちは意識が薄れていくわ」

 ロングの髪ががくりと揺れる。

 首が支えをなくしたように、『凶手』の肩にもたれかかった。

「すべて零れたらもう助からない」

 女は立った状態を維持できずに崩れて折れる。

 折りたたみの梯子のようだと、不意に彼は感じた。

「どうせ、もう生き続けていく気もしてなかったから別によかったけど。……ねえ、最後だし、頼みを聞いてよ」

「……何だよ」

 返事をした理由はわからない。ただの気まぐれだったのだろう。

「あたしが死んだら、皮と骨みたいな針金が残るからさ。それ、生ゴミと一緒に捨てといてよ。いちお、正体がバレないように配慮しとかないと、仲間達に悪いからさ。でもホントは燃えないゴミと一緒ってのは嫌なんだけどね」

「……あ、ああ。わかった」

 女は最後の最後に、例の気だるい微笑みを浮かべた。

 文字通り空気の抜けた風船のようだった。

 あるいは消え行く蝋燭の火か。

「……ああ、やっぱり普通が一番よ」

 女の生命活動が終了したとおぼしき瞬間、『凶手』は体内に溜まっていた黒い何かが放出する、信じられない射精感を得た。不覚にも達してしまった。

 彼の身を蝕んでいた『不運』がきれいに蒸発し、芯から純粋な『運』が甦り、彼を不死身の超人の座まで押し上げていく。

 今まで、彼は幾つかの仕事を遂行したときにもこのような感覚を覚えたことが多々あったが、それら過去の経験とは比べ物にならないほどの高みへ向かう快感。

 これこそが、超人の域。

 輝きを放つ人の位階。

 何物にも代えがたい高揚感の後、『凶手』は自分にこの感触を与えてくれた恩人を見下ろした。

 足元にわだかまる、アルコールにまみれた皮と服が女の残骸だった。

 くしゃくしゃの黒いものは女の髪だろう。

 出来る限り恭しく、騎士が姫をエスコートするかのように丁寧にそれらを拾い上げた。

 思ったよりも遥かに軽い。重量としては、大き目の風呂敷といったところか。

 しばらく、さっき確かにあった出来事を反芻する。

 夢幻ではない。

 あれは現実の出来事であり、おれが感じた喜びに勝るものはない。

『凶手』は手近なゴミ捨て場を探すと、もっとも嫌な悪臭を放つ青いポリバケツの蓋を開け、半分だけ汚物が詰まったその中に、女の皮を丁寧に捧げる。

 それから、上にカモフラージュのためにビニールを敷き詰める。

 静かに蓋を閉めた。

 もう、誰の眼にも触れやしないだろう。

 最後にバケツの側面を軽く蹴飛ばした。



 別れの挨拶のつもりだった。

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