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月在らば

作者: 高島啓市監修小林摩也

男の名は、志摩晃というペンネームを使う作家だった。一方で円望晟という歌号をもつ歌人でもあった。

名を別けるメリット、デメリットはあったが兎に角男は気まぐれだったのである。

志摩晃として文筆業に励むもなかなか芽が出ず、時折新聞の歌壇に愚歌が採用される程度の露出度。

対外的には作家兼歌人として通していたが、代表作のない言わば三流文士でしかなかった。

男は、創作意欲だけは尽きず様々な作品をストックしていたものの、出版社に、いわゆるコネがなくただ惰眠を貪る日々が続いた。

実家からの仕送りだけが命綱だったのである。

男の書きたい分野は幅広く、それこそ出版社のご命令とあらば何でも書く気でいたのだがいたずらに時は過ぎ行く。

このように長い下積み時代を経験した男にとりもはや怖いものなど無かった。ひたすら売れるとも知れぬ書き物を精査することに執心したのである。

それらの作品を携帯サイトへ投稿するも、男の評価はどうにも上がらなかった。自分の作品を客観視する、言わば俯瞰できる状況に無かったのだろう。

同時に男は短歌の自作集を自費で出版すべく算段してまわった。男としても歌人の立場がより重く、大きくなっていたのである。

その活動を手伝ってくれる仲間が徐々にではあるが増えはじめ、何とか出版にこぎ着けたのである。

男の歌号はそれなりに知られるべく存在を増していった。何しろ有名無名の短歌を千程詠じたゆえに。

しかし男は満足していなかった。自らの依って立つべき所を文学の世界に求めていたからである。

男は当時ある女性と付き合っていた。歌人仲間でもあったその女性はいっけん人目をひく、いわゆる美人の類だった。しかし才には恵まれずそれが唯一の短所でもあった。

歌号で桐子というその女は、男の才気にいささか毒されてもいたようだった。

所詮無い物ねだりの関係であったのか二人は程なくして別れたのである。

しかしこの恋愛沙汰は、当時密かに話題となり、結果として男の名を高めることとなる。

男の、文学で身をたてるという欲求は作家志摩晃と歌人円望晟との乖離を決定的なものとする、まさに避けては通れぬ道行きだった。その事はまだ完全に理解の行き届かぬ男だった。

文士として生きていきたいという願いは、歌人としての成功者の足を引っ張る結果をもたらし、生活の安定をも失いかねないものゆえ深く物事を考えないこの男の最大のネックに成りかね無かった。

しかし男にとり三流文士のまま人生を閉じる気などさらさら無かった。つてを辿り彼は兎も角作品を見てもらう機会を漸く得たのである。

その出版社は新人発掘に注力する事で有名な会社であった。ある意味男の意向に添う会社と思われるも、彼に付いた編集者は以外にもまだ年若い女性だった。

差し出された名刺に名前と携帯番号、メアドがあった。それ以上知りたい情報はなく、ただ男は女の呼び名を「ゆき」とだけ認識すればこと足りたのである。

もちろんこの時点で自らが歌人であることは内密にしていた。

志摩晃というブランドを歌号以上に伸ばしたい、それ一点張りだったのである。実際男の持ち込んだ原稿は長きに渡って推敲に推敲を重ねた物だった。ゆえに本作の出版は認められる運びとなった。

その女性編集者は彼に独占契約の話を持ち掛けてきた。契約金の高さに一瞬目がくらむも男にその気は無かったのである。しかし彼はその女性編集者を憎からず思っていた。特段悪い所もなかったゆえに。

彼女は本作がなにがしかの新人賞を取るものと確信していたみたいだったが期待はずれに終わったのである。

しかしこの事により、作家志摩晃としての実質デビューとなり男は満足した。彼は何となく彼女と付き合うようになっていく。作家と編集者のただならぬ恋かと思うと非常に安易な気もしたのだが、両者にとり過不足なき関係だった。

男はストックしていた作品が売れる物か分からなかったので彼女に判断を委ねた。使える物と使えない物を整理してもらい非常に助かった。

あと男が一部で有名な円望晟であることも知られてしまい二人の間で秘密は無くなってしまった。

ゆきは彼にとりかけがえのない存在になっていく。例え他社の仕事をこなすようになっても変わらず接してくれたのである。

ゆきはその頃から随分変わっていき、女度がアップしてゆくのが端から見ていても分かる程だった。

歌人として喰えた訳でも無かった男は漸く作家稼業で身をたてられそうだった。三流を脱し二流にはなれたかなぁと良く彼女と笑いあったものだった。

やがて二人は入籍し、ゆきは家庭に入った。男は今まで以上に仕事に励んだ。

決して売れっ子作家では無かったものの喰うに困る事は無かったのである。ゆきは彼の影響からか歌人を気取り短歌を詠むようになっていた。

歌号は彼が考え「一寿子」と名付けた。最初読み方が分からなかったようなので、「かずし」と読むのだと教えてあげた。「意味は?」と問うのでただ語感で選んだだけだと正直には言えずその場はごまかすよりなかった。

ゆきの日々はそうして短歌を詠むことで生活の息抜きとなっていくのである。

ある時彼女はこんな事を言い出す。私もいつか歌集を上梓したいと。

歌集なら確かに書籍を売るより簡単ではあるのだが、まずネットで発表したらと提案すると、そんなことくらいとっくにやっているわとの返事、敵もさるものである。そうして五百程短歌が集まりいよいよ歌集を上梓する話がトントン拍子で進んだ。ゆきは自信たっぷりの様子だったが、中身を見た男はもっと精査した方が良いと敢えて苦言を呈したのである。

ゆきは自信を砕かれたようで、一時夫婦間にすきま風が吹いたのは自分のせいとばかりも言えないと男は思ったのだったが。

兎に角歌人としては自分が先輩であることを納得してもらわない事には話にならないと彼女に諭したのである。

「具体的にどの短歌のどこが悪いのか教えてくれないかなぁ。私の納得がいくまでね。」こう言われると男の歌人としての血が騒ぐのである。

全体として五百の短歌のうち、半分程の精査が足りないことを指摘した。納得してもらうまで何度も繰り返し言って聞かせたが果たして本当に分かっているのやら、微妙な所ではあったが。男がゆきの仕事を手伝う気はそれ以上なく、また自分の幾つか抱えていた仕事に戻った。

この夫婦は結婚して間もない為仲睦まじく外からは見えたことだろうが、喧嘩の絶えないごく普通のカップルだった。

男は他所に女がいた。やはり歌仲間の知り合いだった。

妻では得られぬ刺激をその女性は纏っていた。年は男より一回りは上回っていたろうか。歌号を泰良子と書いて「やすこ」という。大人の魅力に満ち溢れていた。

しかし家庭に波風を立てたくない男は不倫関係に甘んじた。相手には母親の他は家族が居ないらしくその事も男をのめり込ませる原因ともなった。

ある時彼女の主宰する歌誌「表窓」の第百号記念の会にお呼ばれした夫婦はドレスアップして参加し、出席者らと歓談していたところをやすこに見つけられ男は不意に緊張感に襲われた。妻を帯同させていた男はやすこの「そちらが奥様?」という言葉に更に気分を悪くし、そそくさと会場をあとにした。

後ろから着いて来たゆきは、男が車をひろい車中で彼に対し「あなた、失礼じゃない。やすこさんを無視するなんて」と言われ「ただ気分が悪くなっただけだ」と答えるにとどめた。

どうやら妻は二人の関係に気付いてはいないらしかった。男と妻は彼の事務所兼自宅へと帰った。

やすこという女性は、母親の介護をしつつ歌会を開くなど精力的に活動していた。そして男はそのやすこの姿を知るにつけ愛惜の念を禁じえ無かったのである。単に年上の女性に対する憧れとも違う、きっとそこには自ら歌誌を編む人に対する尊敬をも含んでいたであろう。

やすこの前夫、まぁ居ても当然だったのだが、何かの事業で失敗し借金を抱え込んだらしく、慰謝料を払わない替わりに協議離婚をした経緯があったらしい。

やすこは男に将来性を見込み全てを捧げる気でいた。しかし男はその期待を身に過ぎるものと思っていた。逢瀬を重ねるうち二人は時の残酷さを思いしる事となる。妻であるゆきが妊娠したというのだ。

この事を喜んであげないのは余りにゆきに失礼であろうと、男は思った。同時にやすこには申し訳ない気持ちで一杯だった。

もちろんその事は夫婦二人の秘密であった。今やすこにこの事を知られる訳にはゆかない。

同時に不倫も気付かれてはならなかった。男一人が我慢すればいいのだ。

妻のつわりが存外ひどく、男はゆきに掛かりっきりな状態になった。自然やすこは遠ざけられることとなる。

やすこはこの状態に耐えた。何ごとが起きようとも愛が絶えるとは思えなかったのである。

ゆきの機嫌は随分良くなっていった。逆に男は孤独感を深めていく。いっそ夜逃げでも出来たら、とただやすこの身が案じられた。

妻と愛人の間で揺らぐ男と笑う事は出来ない。両天秤にはとてもかけられなかったのである。

果たしてこの時点でどちらを男は愛していたか、倫理にもとる問題であったが男にとっては愚問であった。産まれ出づる我が子を見てみたいという欲求は妻の体をいたわる内に日に日に強くなっていった。やすことの連絡も絶え、男は父親になるという自覚が自然に芽生えてくるのを感じ始めていた。

そして妻は臨月を迎えた。六か月検診で男の子と事前に分かってはいたがやはり妊婦の体が気遣われたのである。この時点でやすこの事は余り考えないことにしていた。兎に角今は無事の出産を祈る他無かった。いよいよ妻はとある産科クリニックに入院しその日に備えた。

男は会おうと思えばやすこと会えなくも無かったが、まだ早すぎると思った。

男は自宅から車を滑らせ妻の入院先までせっせと通う日々を過ごした。妻の容体は安定していた。何の問題もなく、周囲のスタッフとの雑談が気晴らしになるらしかった。

妊娠後期の出産の心得なる映像を男は見せられ、心の高ぶりを覚える彼であったが、同時に不倫相手の事も気にするのは我ながらズルいと思った。

そんな自分が許せず、男は自宅に戻ると酒と煙草に逃げた。ゆきと一緒になる頃には止めていたものを、再び耽るようになったのは自らの心の弱さだと思った。その事はクリニックに通ううちにすぐゆきに気付かれてしまう。煙草臭さは煙草を吸わない者には即気付くものらしい。

妻から「なぜ?」と問われ「君が居ない寂しさからだよ」と答えるより無かった。ゆきはこの時夫を気遣うゆとりはなく胎動する我が子の事で心は満ちていた。男はイライラが募って来るのをどうすることも出来ずにいた。

人恋しく思っていたがただ悪癖に逃げるしかない。

仕事はどうしていたかというと、この頃の男は筆絶ちをしていた。理由はやすことの関係に溺れ仕事が手につかなかったからである。しかしそんな男でもまさか妻の妊娠中に浮気をする程インモラルでは無かったのである。本当にそれだけだった。暗い日々は続く。父親になるという気分も尚の事気分を暗くさせた。

男の児の父親になる自覚なんてなかなか湧いて来るものでは無かった。

クリニックから連絡がくるといよいよ出産なのかと不安が募った。妻の方が初産でもあり不安は尽きなかったであろうに。

悩んでも仕方ない。夫立ち合いのもと、いよいよその時を迎える。ゆきは男の手を強く握って離さなかった。長い陣痛のあと、丸一日程経った頃にようやく男児が誕生した。

刹那男は安堵の表情を浮かべた。正直嬉しさがこみ上がってきた。この感情は男に説明出来るものでは無かったが、3kg程と思われる赤児は最初紫色を帯びていたが徐々に赤色がかっていった。

すぐに妻の胸元へと差し出され、妻は嬉々として我が児を胸に抱いた。あまり可愛いとも思えなかったが。男は子供の名前を事前にゆきと相談していた通り「大樹」と名付けた。ありふれた名だがこんなものだろうとも思っていた。

妻子が退院し、いよいよ育児生活が始まる。パパになる事とはどういう事か、育児とは何か、ゆきから専門書を読まされていたので解ったつもりだったが理論と実際はこうも違うのか、兎に角手のかかる児だった。事前に聞かされていた通りほぼきっかり三時間おきに泣き出すのは傑作だと思った。長子ゆえ子育てに慣れない二人だったが、ゆきは実家に帰ることなく自宅に居てくれるのは正直助かった。気が紛れるからである。やすこのことを鬱々考えるのも辛い事だった。

生後二ヶ月程すると子供の首が座るようになりお風呂デビューとなった。これはパパの仕事と決められていた。この頃子供の顔は自分に似ていると思った。特に鼻筋がそっくりだった。

それにしても男は自分に子供が授かるなんて奇跡だと思い始めていた。一生縁などないと思っていたのは幼少期、親から冷遇された記憶からだった。いじめというより放っておかれたのである。両親とも自分には冷たかった、相手にしてもらえなかった、可愛いがってもらえなかった。あらゆる幼少期の思い出を辿ってもそんな事しか思い浮かばなかった。小学生に上がる頃両親はよく喧嘩ばかりしていた。口論の種は父親の浮気が元であった。思えば自分も同じ事をしている。親がしてきた事を自らも追体験するなんて有り得ない事だと思っていたのに、そうでは無かった。

男はうなだれていた。ゆきは育児にかまけてそんな男の心情に気付く筈もない。子供は日々成長していくが男はちっとも可愛いとは思えなかった。男は育児中の気晴らしになると思いある雑誌の連載話を引き受けた。約半年振りの仕事である。内容はズバリ育児中の日々の雑感であった。

妻が寝ている隙に仕事机に向かう男、久し振りに文章が書ける。男は喜びに包まれていた。そしてその合間に禁断のメールを打ち始めた。相手はやすこである。果たしてレスが返ってくるかさえ分からなかったが、予想外にもそれは即座に返ってきた。そこには長々と男に対する恨み節が綴られていた。

男はめまいがしてきたが、返信は虚実ない交ぜな内容にて、妻が出産したことだけは秘密にしておかなければならなかった。

それにしてもこうしてまだ連絡が途絶えなかったのは奇跡的なことに思えた。やすこの愛が有難かった。こうしてメールのやりとりをする夜が幾週間か続く内、遂に男はやすこと会う算段をつけるのだった。

ゆきにはその朝出版社との打ち合わせだと嘘をつき、自宅を出た。そしてやすことの待ち合わせ場所であるカフェまで急いだ。二人は何ヵ月振りに対面したのである。

やすこは相変わらず美しかった。男はというと無精髭を伸ばし少々野暮ったい印象を相手に与えたようだった。「あなたずいぶん変わったわねぇ」そう言われ「仕事が忙しいもので」としか返答出来なかった。

「まぁいいわ。今日一日たっぷり付き合ってもらうわよ。久し振りなんだから」と、やすこは言い男は「喜んで」と答えた。街を散策し、公園を巡り、彼女は何やら携帯を触り出す。「次の歌会のネタを集めているのよ」と言った。「あなたも参加しない?奥様と一緒に」と強い脅しをかけてくるのはやすこらしいと思った。今日一日は幾らでもやすこに付き合える。男の気は緩みきっていた。ある商店街で昼食を済ますと更に神社詣で、そこから昔風情の町を散歩、電車を乗り継ぎ郊外へと至る。そこはもう二人にとって未知の場所だった。男はやすこに隠れてみっともなく携帯に妻宛てで「今日は遅くなる」旨メールしておいた。

そうしてやすことの一日はあっという間に過ぎ去った。ある温泉宿に辿り着き、ベッドトークでも盛り上がり、やすこはまるで10才若返ったかのようにすら男には思えた。美貌の持ち主ゆえ付き合っている相手は幾らでも居そうなものなのに男しか他にいないとのカミングアウト、嘘をつく訳ないとも思ったがリップサービスであったかもしれない。

二人は夜を明かして語り合った。やすこの孤独が少しは理解出来た男だった。二人はのんびりとお湯にあたったあと帰京した。

男は昼前頃に自宅に戻って来た。誰かが二人の姿を見つけてゆきにこの事を喋っていたとは知る由もなかった。それも後日判明する事であり言い訳は幾らでも出来たのだが男は弁明する事を避けた。

「一言説明があってもいいでしょう。あなたが黙っている限りやすこさんとどんな関係なのか私には分からないし」

「なぜ沈黙するかなぁ。やっぱりやましいことでもあるんでしょう?」「このまま黙っているなら実家に帰ってもいいのよねぇ。家事の出来ないあなたはさぞ困るでしょうに」

「いい加減にして頂戴。何とか言いなさいよ」

すると男は一言。

「俺が出て行くよ」

これで交渉は決裂した。

「子供は渡しませんから」そう言われ更に、

「慰謝料と養育費はキチンと頂きますから」

と例の殺し文句を吐かれた。正直打撃だった。だからあれ程妻の妊娠期間中はやすこの事は考えないようにしてきたのだ。現実子供が産まれ気が緩んでしまった事は致命傷となった。

男は慰謝料として相場といわれる三百万円を払い、月々の養育費をも払い続ける羽目に合うのである。心の隙につけ入る悪魔の仕業としか思えなかった。男は思いきってこの事をやすこに相談してみた。慎重に言葉を選びながら。しかし「あなたの家庭を壊したのはあなた自身の責任よ。わたしに何が出来るというの」こう言われ「もう会ってはくれないのでしょうか」と切り出すも「そんな事を考えては駄目よ。あなたは立派な大人なんだから」とやんわりと断られた。どうやらゆきは自らの出産の事実をやすこに話したに相違無かった。

男は同時に大切な女性を二人共に失ってしまったのである。男は絶望した。そして以前にもまして酒量と煙草の量も増えていったのである。しかしその経験は男を更に作家として磨きをかけることになる。

その後の男は仕事も順調に進み、付き合う女性に困る事も無かった。依然酒と煙草は欠かせないものだった。行き付けのクラブで豪遊することもままあったのである。ホステスとの噂も絶えない正に大作家気取りでいたのだった。当時男はホテルに缶詰め状態であり雑誌の連載を週5本、書籍の仕事を月3本と殺人的スケジュールをこなしていた。女性の出入りも自由とあって理想の作家生活を送っていたのである。志摩晃の名は天下に轟いていた。一方歌人円望晟は死に絶えていた。男にとり黒歴史化していたのだ。

しかしたまにネットで志摩晃と円望晟とは同一人物か、等と散見されることもしばしあった事は事実。何しろ昔、円望晟の歌号で歌集を出版していた経緯があり後ろめたさを男に感じさせていたからである。男はもう忘れていたが「表窓」という歌誌は存続し、主宰者である「泰良子」もまだ元気で創作活動にいそしんでいた。男の元妻である「一寿子」も良く名を連ねる常連だったのである。

男は酒と煙草の害で体調がおもわしく無かった。しかしそれでも強いアルコールを求めてのクラブ通いを止めようとはしなかった。

そんな常連の店の一軒に男の事を気遣う余りホテルまで付き添うようなホステスが一人居たのである。源氏名で「ヒトミ」というその女にとり男は上客、高い酒を注文してくれるから付き添うのは当然の事のように思えたが女は年の頃20代半ば、男から見るとまだガキのうちだったのである。どのクラブのママでも店の方針として上客との恋愛は御法度であった。ホステスが辞め他店に移った場合常連である上客まで移るのは死活問題だったからである。男はその女のことを見下していたのだが、ある晩男は店内にて飲酒中に喀血してしまい大騒ぎとなった。すぐに救急車を呼び女は私が介抱しますと言い一緒に搬送先の病院まで運ばれて行った。

幸い検査の結果胃潰瘍であり他の重い病気では無かった。ほっとしたヒトミであったが医師から手術の必要なことを聞かされ動揺してしまう。

同意書やら費用やら混乱しつつもママから助言を請い何とか手術にこぎ着けたのだった。そんな周囲の心配をよそに雑誌社の編集者がどこで聞きつけたのか病院まで押し掛け原稿の催促をする始末。男は術後の経過も良く、又病室にて原稿を捻り出す正に出版業界にとり神様のような存在であった。しかも手術の模様も下書き無しで見事原稿に仕立てあげ、苦境にある出版社に恩を売る事も忘れなかった。ヒトミはそんな男の様子を心配しながら見ていたが、本当にこの人は天才なんだと感心することしきり。一生付いてゆこうと思った。お店の方はいっとき休ませてもらう事にした。

そして男は禁酒禁煙を医師から仰せつかりヒトミの出番が巡ってくるのである。ある時男はヒトミに「酒を買って来てくれ。そうしたらお前に好きなだけ高い物をプレゼントしてあげよう」と約束した。ヒトミはこの事を後まで覚えていたが男はすぐに忘れてしまっていたのだ。あと「俺はどうやってこの病院に辿り着いたんだ」と質問してもヒトミは黙って彼の世話をやくだけだった。

断酒の辛さは人から聞いてはいたが男の場合特に酷かった。皆この断酒に失敗し、必ずまたあらゆる手段を使ってでも酒を飲まずにはいられないのだが男も例外では無かった。

一見酒と水は似ている。この事を利用して作家仲間がいろんな物に酒を忍ばせては男の面会に訪れたものだった。これは早く死んでしまえ、という事かと正に皮肉たっぷりな業界人達だったのだ。ヒトミはこのアル中患者と、とことん戦うつもりでいた。まず業界人の出入りを禁じ基本面会謝絶にしてもらった。そして酒の代わりに大量の水を飲ませ、満腹にして断酒させようとするも、男はヒトミの事をまだ命の恩人とは気付かずにいた為「お前ごときに何が解るか」と言ってはならない台詞を吐いたこともあった。

だがヒトミはこの男を見捨てられずにいた。面影が亡き祖父に似ていた事もあり、まるで祖父孝行でもしているようなつもりでいたのかもしれない。

断酒の訓練はそうしたヒトミの献身的な看護もあり入院可能な期間中に何とかなりそうだった。そして一端退院する為ヒトミがその手続きをする様を見るにつけ、男はなにがしかの感情を抱かざるを得なかった。

「お前、何で俺なんかに良くしてくれるんだよ」とホテルに戻ったあとに問い質しても、

「好きだからに決まってるじゃん」と最早そんなレベルの間ではなかった女の口から出る言葉には確かに何ら重味は無かったのだが、男はヒトミの溌剌とした所が気に入ったのである。

「もし又酒を飲みたくなったら俺の手足を縛ってくれ。俺が抵抗したら警察を呼んでくれ。もう俺はお前の物なんだからな」 ヒトミは唯笑っているだけであった。禁煙の方はよりハードルは低かった。男はヒトミの家来に成ったつもりでいたので断酒の誓いだけは果たそうと思っていた。

胃の切除後、男の食事は一日少量ずつ6食と決められていた。このプログラムを組んだ栄養士にヒトミは教えを乞い、自らホテルの厨房で腕を振るった。それをさもシェフが料理したように装い、上手く食事制限させる事にも成功した。

この時がヒトミにとって男と付き合う絶頂期であったろう。

しかし男は断酒の誓いを忘れ、ヒトミが目を離したり出掛けたりした時に限って再び酒に手を付けたのである。ヒトミが男の部屋に入るなり酒臭さが漂うのに気付き、思わず

「ナメてんじゃねぇよこのオヤジ」と凄んでみた時もあった。その度に

「ゴメンナサイ、もうしませんから許して」と子供振るこの男をどう躾たらいいものか分からなくなるのである。

そうした事は日常茶飯事となり、いよいよヒトミは我慢の限界に達したのである。

「もういい。こんな所出てってやる」

ヒトミは男の元を去った。男はこれ幸いと、まだ遠慮がちだった酒が堂々と飲めるとあって喜びに浸った。結局無駄な努力だったのだ。ヒトミは一週間程経ったのち再び彼の部屋に現れた。そして紙袋からバーボンを取り出してみせた。それは男の一番好きな酒だったのである。クラブで高い酒ばかり飲んでいた割りには実は小心者だったのである。

その時左の薬指に指輪をはめたヒトミは

「これ2億するの。あなたのカードの限度額を越えてたから残金はキャッシュで払っといてね。よ・ろ・し・く」とだけ言い請求書を置いて出ていってしまった。あとで店のママに聞くと、ヒトミはホストと結婚し今は海外にいるとの事。何て奴だと思いヒトミの連絡先をママに尋ねると

「晃さんが好きなだけ高い物を買ってあげるって約束なさったんでしょう。もうあとの祭りなんだから諦めなさいな」と言われ男は黙り込んでしまった。

そんな約束したっけと我に帰るもどうやら取り返しのつかない事をしていたらしい事だけは分かった。たかが酒のせいで。

男は荒れた。以来酒飲みは再びアル中に舞い戻り、文屋稼業に酒を飲まない奴は居ねぇよと正に開き直ったのである。

結局男の財布は空になり、また幾らでも取り戻せるさとタカをくくっていた。ところがアル中のせいで文章はまとまりがつかず再三修正を求め編集者がやって来る始末。あれこれ命令されるのが嫌いな男はブチ切れ「お前んとこの仕事はやーめた」と言い放ってしまう。

この事は業界内で有名となり男の仕事は激減したのだった。当然ホテルからも追いやられ住み処は中古アパートへと移った。

借金苦の生活も本の印税でどうにでもなると思っていた。その時男の体はボロボロだった。みかねた大家がアパートの中で死なれちゃ困ると病院を紹介してくれた。

検査の結果末期の多臓器がんだった。余命三ヶ月との診断を受けた。それからの男は性格を改めて真摯に病気と向き合った。

かつて懇意にしていた雑誌に、闘病記を書かせてくれるようその版元の出版社にお願いし受け入れられるや男は早速原稿書きに取りかかった。その闘病記は作者の死亡まで正確に時を刻む記事と成った。そして男は簡易なる遺言書をしたため始める。男の寿命は診断どおり三ヶ月で尽きてしまった。享年62才。

喪主は男の元妻が務め、しめやかに葬儀は執り行われた。遺言に従い無宗教であった。そして志摩晃の遺産を相続放棄し、ゆきと、結婚して幸せに暮らしていた一人息子の大樹とで晃の野辺送りを済ませたのである。

ちなみに男は、遺言書の中に辞世を忍ばせていたので以下紹介する。

「日の沈む 友の待つ地へ 旅立ちぬ 変わらぬ愛こそ 惜しむべきかな」 解釈省略。志摩晃兼円望晟

と書かれてあった。これを見たゆきは感極まり、男が名付けてくれた歌号にて歌誌「表窓」に歌人円望晟追悼の短歌を詠み、これを捧げた。

「月在らば 巣立ち眺むる 一人にて 置き去りされし 想い隠せず」 解釈 :月夜にて私はあなたが遠く旅立つ姿をひとり眺めています。

かつてあなたを慕った私の想いは取り残されてしまったようです。

一寿子

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