ct.01. 恋の余情ーBlue Gimlet / White Palomaー
Bar Otium。
バーテンダーをしている玉城ララは、カウンターの天板を軽く撫でるように拭いていた。
閉店までは、まだ時間がある。
店内には静かな音楽が流れていて、入り口手前のテーブルでは男女のカップルがグラスを傾けている。奥の席には、一人の男性客がいた。
そのとき、入口の扉が開く。
小さく鳴ったベルに、ララが顔を上げた。入ってきたのは、二人の男性だった。
「いらっしゃいませ」
ララが笑顔を向ける。
「二名様ですか?」
「はい」
「どうぞ。こちらにおかけください」
二人をカウンター席へ案内する。
入ってきた二人のうち、一人は少し疲れたような表情をしていた。
もう一人は、その友人だろうか。すらりとした体つきに、すっきりと整った顔立ち。
二人とも、年齢はララとそう変わらないように見える。
席に着いた二人を見て、ララはふと尋ねた。
「お二人は、ここに来るのは初めてですか?」
「はい」
答えたのは、友人の方だった。
「歩いていたら、いい雰囲気のバーがあるなと思って。ふらっと入っちゃいました」
「ありがとうございます」
ララはにこりと笑った。
「私もこの店が大好きなので、そう言ってもらえるととても嬉しいです」
男性が笑う。その目が自然に細くなる。
その瞬間。
ララの心臓が、小さく跳ねた。
(――あ)
ほんの一瞬、目を奪われた。
ララは何事もなかったように笑顔を保つ。
(……ちょっとかっこいい)
頬が少し熱くなる。
「では、改めまして」
ララは二人に向き直った。
「バーテンダーのララです。今夜は、心ゆくまでお供いたします」
そう言って、カウンターの中へ入る。
すると、さっきの男性が少しだけ身を乗り出した。
「……ララさん」
「はい?」
「こいつ、ちょっと落ち込んでるんで。何か、元気づけるような飲み物をお願いできますか?」
隣に座っていた男性を見る。
確かに、先ほどからほとんど顔を上げていない。
「あら。どうされたんですか?」
ララが尋ねると、彼は少し気まずそうに笑った。
「実は今日、五年付き合った彼女に振られまして……」
「……そうだったんですね」
彼は小さく頷く。
「だから、こいつに連れてきてもらって」
「一人で飲ませたら絶対潰れると思ったんで」
「お前、俺のこと何だと思ってんだよ……」
ぼそりと返す。
そのやりとりがおかしくて、ララは思わず笑った。
「五年ですか……長いですね」
「はい……」
彼はまた、少し項垂れる。
「……じゃあ、明日から急にいなくなるって思うと、変な感じでしょうね」
「……」
「私だったら、明日から何を考えて過ごせばいいのか分からなくなりそう……」
「ほんと、その通りです」
彼は苦笑した。
「高校の同級生だったんです。五年前の同窓会で再会して」
「その頃は、仲のいい女友達って感じだったんですけどね」
彼は少し笑った。
「久しぶりに会ったら、やっぱり話が合って。二人で会うようになって……」
「ああ、この人、可愛いなって」
一度、言葉を止める。
「……気づいたら、好きでした」
「……素敵な話ですね」
ララは素直にそう言った。
「でも、俺、今度地方に転勤が決まって……」
「……はい」
「このタイミングしかないと思って、プロポーズしようと思ってたんです」
そこで彼は、苦しそうに笑った。
「でも」
「転勤を伝えた途端、彼女の顔が暗くなって……」
「彼女、仕事が大好きだったんです」
「だから、『私はあなたについていけない』って」
「『遠距離も考えられない』って言われちゃって」
「……それは、お辛いですね」
「はい……」
彼は俯いた。
「大好きでした」
その言葉が、静かな店内に落ちる。
ララの胸が、きゅっと締め付けられた。
すると、隣に座っていた男性がララを見る。
「ララさん、優しいですね」
「えっ?」
思わず顔を上げる。
「いやいや、そんなこと……」
ララは慌てて手を振った。
すると彼は、友人の肩を軽く叩く。
「元気出せとは言わないよ」
「……」
「落ち込むときは、落ち込んどけ」
そして、笑う。
「その代わり、いくらでも付き合ってやる」
「……悪いな」
「まぁ、明日休みだしな」
そう言って、彼はまた笑った。
ララはその横顔を見つめる。
胸の奥が、また小さく鳴った。
(――この人、優しいな)
「では」
ララは二人に向き直った。
「そんなあなたにぴったりのカクテル、作らせていただきます」
シェイカーを手に取る。
今夜の彼に似合う一杯を、ララは頭の中で思い浮かべていた。
「お待たせしました」
先に差し出したのは、青く澄んだ一杯。
「ブルー・ギムレットです」
「ギムレット……青いですね」
「はい。普通のギムレットとは少し違うんですけどね」
ララは少し微笑んだ。
「ジンとライムをベースにした、すっきりした酸味のあるカクテルです。後味はキリッとしていて、少し強めなので、ゆっくり飲んでくださいね」
グラスをそっと彼の前へ置く。
「……ありがとうございます」
彼はしばらくグラスを眺め、それから一口飲んだ。
「……美味しいです」
「よかったです」
「……少し酸っぱいですね」
「ふふ。そういう日もあります」
ララは少し笑って続ける。
「今すぐ忘れなくていいと思います」
「……」
「5年分ですもん。簡単に忘れられるほうがおかしいですよ」
「……なんか、ありがとうございます」
そう言うと男性はまた一口、カクテルを口に運んだ。
次に、もう一人の男性の前へグラスを置く。
「こちらは、ホワイト・パロマです」
「俺に?」
「はい。なんとなく、これが似合う気がして」
白く淡い色のカクテル。
「テキーラをベースに、グレープフルーツとライムを合わせて、すっきり飲めるように仕上げています」
「へえ……」
「爽やかですけど、グレープフルーツのほろ苦さも少しあります」
「……それ、俺のことですか?」
「……ふふ。どうでしょう?」
彼はグラスを持ち上げる。
「いただきます」
一口飲む。
「……おいしい」
「よかった」
ララは二人を見渡した。
「お二人とも、今夜はゆっくり飲んでいってくださいね」
「ありがとうございます」
それからしばらく、三人で他愛のない話をした。
⸻
やがて、片方の男性がトイレに席を立つ。
入れ替わるように、奥に座っていた一人客からオーダーが入った。
「すみません、ネグローニお願いします」
「かしこまりました」
ララがカクテルを作り始めると、友人の男性が話しかけてきた。
「ララさん」
「はい?」
「すみません。あいつの話に付き合わせちゃって」
「いえいえ!」
ララはカクテルを作りながら笑う。
「私もお話聞けてよかったです。おかげでイメージに合うカクテルが作れましたし!」
「……バーテンダーのお仕事って、大変じゃないですか?」
「え?」
「お酒の知識も必要だし。一人ひとりに合ったカクテルを作ったり」
「そんなことないですよ!」
ララは首を振った。
「もちろん、最初は覚えることがいっぱいで大変でしたけど……」
そこで少し考えてから、
「一人ひとりのお客様に合いそうなカクテルを考えて作るのって、すごく楽しいんです」
「……好きなんですね」
「はい。大好きです!」
言った瞬間。
ララは、ぴたりと動きを止めた。
(……あ)
(なんか今の言い方……)
「……」
「……」
急に恥ずかしくなって、ララは視線を逸らした。
「……ララさんは、どんなお酒が好きなんですか?」
「私は――」
その質問に、ララの顔がぱっと明るくなる。
「えっと、最近はジンベースのものが好きで。ジンって同じお酒でも使うボタニカルによって全然香りが違って――」
気づけば、いつもよりずっと饒舌になっていた。相手は急かすこともなく、頷きながら聞いている。
「なるほど」
「……って、すみません」
ララは我に返った。
「私ばかり喋ってしまって」
「いや」
「?」
彼は柔らかく笑った。
「楽しい話でした」
少しだけ目を細める。
「ララさんって、面白いですね」
――ドクン。
今度は、はっきりと心臓が鳴った。
ララは思わず目を瞬かせる。
そのとき、
「待たせた」
男性が戻ってきた。
「おかえりなさい」
ララは慌てて笑顔を作った。
⸻
二人はしばらくお酒を楽しんだあと、会計を済ませた。
「今夜はありがとうございました」
ララは笑顔で二人を見送る。
「こちらこそ。ありがとうございました」
男性が頭を下げる。
「とても美味しかったです」
「ありがとうございました」
その友人も続く。
そして、少しだけ間を置いて。
「……また来てもいいですか?」
「……っ」
ララの胸が跳ねた。
「……もちろんです!」
声が少し上ずる。
「またお待ちしております!」
二人が扉へ向かう。
「そうだ」
そのとき、男性が何かを思い出したように振り返った。
「結婚のお祝いとかのときにでも、また来よう」
「……?」
ララが首を傾げる。
男性は隣の友人を指差した。
「こいつ、来月結婚するんですよ」
「……」
一瞬、時間が止まった。
「……そうなんですね!」
ララはすぐに笑った。
「おめでとうございます!!」
「ありがとうございます」
友人が少し照れたように笑う。
「彼女とも一緒に来られたらと思います」
「…………」
ララの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
(――なるほど)
(そうだったのか……)
「……はい!ぜひ、一緒にいらしてください!」
それでもララは、最後まで笑顔で二人を見送った。
「ありがとうございました!」
扉が閉まる。
ベルの音が、静かな店内に響いた。
ララはしばらく、その扉を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
そして、静かにカウンターへ戻った。
「……結婚するんだって」
ぽつりと呟く。
グラスを拭いていたマスターが、顔を上げた。
「そりゃ残念だったなぁ」
「……うん」
「でも、あの二人に出したカクテル。なかなか良かったんじゃないか?」
「え?」
「ブルー・ギムレットと、ホワイト・パロマ」
「……?」
「ブルー・ギムレットは、忘れられない思い出。ホワイト・パロマは、寄り添うやさしさ」
「そうなんですね?」
「うちではそういう意味にしてる」
「……」
「ぴったりだったな、あの二人には」
いつの間にか、店内に残っている客は一人だけになっていた。
奥の席。
さっきからずっとそこにいた男性客が、グラスを傾けながらララを見る。
「ララ、分かりやすすぎ」
「……理久さん!」
ララが振り返る。
このBar Otiumの常連客だ。
「入ってきたときから、ララが惚れそうだと思ったよ」
「……だって、素敵な人だったじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
ララは少し頬を膨らませた。
「優しかったし。私の話まで聞いてくれたし……」
「へえ」
理久がネグローニを一口飲む。
その様子を見ていたマスターが、ふと思い出したように言った。
「今月で何人目だ?」
「……三人」
「……今日って、まだ二週目だよね?」
理久が呆れたように言う。
「そんなこと言ったって……!」
ララはカウンターに手をついた。
「好きになっちゃうんだもん!」
「……」
理久とマスターが顔を見合わせる。
理久はもう一度、ネグローニを口に含んだ。
「……まあ、ララらしいけど」
「何それ」
「褒めてる」
「絶対褒めてない」
ララがむっとする。
マスターが小さく笑った。
「ほら、ララ。次のお客さん来たぞ」
「え?」
ララが振り返る。
入口の扉が開く。
ベルが鳴った。
ララはいつもの笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ!」
――今夜もまた、Bar Otiumに新しい夜が訪れる。




