第4話
午後。
上野の図書館カフェ。
日差しが柔らかく、窓際の席に座る二人の間には、紙資料とノートパソコンが広げられていた。
「……すごいな、これ」
悠真は、ティリアのまとめたノートを手に取り、目を走らせる。
「異世界式の基礎体力トレーニング……に、こっちの世界の栄養学……? それに自己管理アプリの活用法?」
「うん。言ってしまえば、全部こっちの“ありふれたもの”だよ。でもね、順番と習慣化の組み合わせで、ちゃんと“効く”ようになる」
ティリアは静かに笑った。
その表情には、“特別な力”ではなく、“積み重ね”への自信がにじんでいる。
「鍛錬っていうと、大げさに聞こえるかもしれないけど──
やること自体は地味だよ。日記を書く、生活リズムを安定させる、姿勢を整える……」
「……それだけで、変われる?」
悠真の声には、まだどこか疑いがあった。
ティリアは否定も肯定もしない、けれど“強さ”のあるまなざしで見返した。
「変わるって、たぶん“気づく”ことから始まるの。
自分がどこに立っていて、どこに向かっているかを、ちゃんと見ること」
悠真は、ノートに視線を落とす。
丁寧に描かれたスケジュール表。
“理想の一日”の流れ。
「一週間で目指す変化」と題されたチェックリスト。
何かを始めるために、完璧じゃなくていい。
むしろ、未完成だからこそ、始められるのかもしれない。
「俺にも……できるかな」
「できるかどうかは、やってみないと分からないよ」
ティリアの口調はやわらかいが、曖昧さはなかった。
彼女は、現実の重みを知っている。
「でも、試してみる価値はある。だって、それが“ここで生きる”ってことでしょ?」
悠真は、ティリアの横顔を見つめる。
異世界の勇者だった彼女が、今はこうして、地に足をつけている。
肩書きも力もなくなった世界で、それでも前を向こうとしている。
「……じゃあ、まずは、これを一緒にやってみる」
悠真がノートを指差すと、ティリアはうれしそうに笑った。
「了解。“初級編”からね」
二人の間に、小さな笑い声が生まれた。
それは、現実に流れる静かな音。
けれど、確かに“始まり”を告げるものだった。
***
翌朝、目覚ましが鳴るより先に、悠真は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む青白い光が、部屋の壁をぼんやりと照らしている。
時計は6時21分。
「……起きれたな」
自分の声がやけに静かに響く。
でも、どこか心地よかった。
冷たい水で顔を洗い、歯を磨き、昨日ティリアと話した「理想の朝ルーティン」を思い出す。
ストレッチ。白湯。軽いスクワット。日記。
どれも大げさなことじゃない。
けれど、それを“自分の意思でやる”ということが、これほどまでに自分を落ち着かせるとは思ってもみなかった。
朝の空気の中、スマホに目を落とす。
「今日も、ちゃんと生きる。#異世界転生病」
そんな言葉とともに、昨日のカフェで撮ったノートの写真を一枚、投稿していた。
いいねは、ひとつ。ティリアからだ。
悠真は少しだけ笑った。
バズりもしない。誰かを驚かせるでもない。
でもそれが、なんだかとても“本当のこと”のように思えた。
出勤のために家を出ると、通勤途中のホームには、同じように眠たげな顔の人々が並んでいた。
彼らの誰が異世界転生病にかかっているかなんて、見た目では分からない。
でもきっと、みんな、どこかで現実に踏みとどまりながら生きている。
「俺も……ちゃんと、立ってみよう」
ホームに吹く朝の風はまだ冷たく、けれど背筋がすっと伸びる感覚があった。
その日、仕事終わり。
ふとスマホを見ると、ティリアからのメッセージ。
「明日、ちょっと面白い場所に行かない? “努力”がどう実を結ぶか、見せたいものがあるんだ」
悠真は、間髪入れずに「行く」と返信した。
何があるかなんて分からない。
でも今は、ただ前に進みたかった。
どこかの世界に“転生”するんじゃなくて、
この世界で、“今の自分”をもう一度、歩き出すために。
***
日曜の午後、ティリアは待ち合わせ場所に指定してきた「上野恩賜公園」の噴水前にいた。
白のシャツに紺のジャケット、髪は相変わらずひとつにまとめられていて、シンプルだけど凛としていた。
「遅れてごめん。仕事が長引いちゃって」
「ううん、私も今来たところ」
軽く微笑んで、彼女は小さく手を振った。
「で、今日はどこへ?」
「こっち。すぐ近くだから」
連れていかれたのは、上野公園内にある小さなギャラリー。
展示されていたのは、地域のアートスクールに通う子どもたちの作品だった。
「……ここ?」
「うん。悠真さんに、いちばん見せたかったのは、これ」
彼女が立ち止まったのは、一枚の油絵の前だった。
画面いっぱいに描かれていたのは──不格好だけど、まっすぐな目をした剣士。
「これ、13歳の子が描いたんだって。はじめての展示だそうよ」
「……すごい、な」
「ね。“上手い”って言葉じゃ片づけたくないでしょう?」
悠真は頷いた。
構図も色使いも、荒削りだった。けれど、何かが“届く”。
「私ね、異世界では“勇者”だったけど、それはただの称号。
実際には、毎日毎日、見えないものと戦って、転んで、また立って、の繰り返しだった」
彼女の声は静かだったが、言葉の奥に熱があった。
「ここにある作品だってそう。みんな、才能なんてなかったかもしれない。けど、続けたから、“今”がある」
「……すぐに何かを変えられる魔法は、ないってことか」
「うん。でも、少しずつなら、“現実”でも、形にできる。
努力が残る場所が、ちゃんとここにはある」
悠真はもう一度、剣士の絵に目を向けた。
“ただの絵”ではなかった。
この絵の向こうには、ひとりの子どもの努力の時間が詰まっていた。
「俺も……何か、描けるだろうか」
「描けるよ。きっと。……最初は真っ白でも、ね」
ティリアの笑顔は、かつて剣を握っていた少女には見えなかった。
それは、今を生きる“大人”の顔だった。
***
ギャラリーを出て、ふたりは上野の森のベンチに並んで座った。
午後の陽射しがやわらかく、鳥の声と遠くの子どもたちの笑い声が風に乗って届いてくる。
「……ねえ、ティリアさんは、なんで俺なんかに声かけてくれたの?」
悠真がぽつりとつぶやいた。
彼女は一度、黙ってから答えた。
「動画のコメント欄に、悠真さんの名前があったの。
内容は消されてたけど、通知だけ残ってて。なんとなく、気になって検索してみた」
悠真は息をのんだ。
思い出したくない、けれど忘れられない投稿の痕跡が、まだ誰かの目に残っていたという事実に。
「……俺、ずっと前に、勝手に写真撮られて……拡散されたことがあるんだ」
ティリアは言葉を挟まなかった。
悠真はゆっくりと、途切れ途切れに話し始めた。
「ただ、本を読んでただけ。誰とも話したくなかったから、ひとりでいた。
でも、それが“陰キャの観察日記”とかって、勝手にタイトルつけられて。
“今日もこいつが同じ場所で死んだ目してた”とか、毎日晒されてた」
声が震えるのを、どうにか抑えながら話す。
「誰も助けてくれなかったし、俺も何も言えなかった。
結局……転校して、バイトして、家族とも距離ができて、ずっと……」
ティリアはゆっくりと頷いた。
「それで、“異世界に行きたい”と思った?」
「……そう。“こっちじゃないどこか”に行けば、変われる気がした」
言葉にしてみて、なんだか幼稚な幻想にすがっていたことに気づく。
でも、それが嘘じゃないから、逃げたくても逃げられなかった。
「でも、本当は……」
ティリアが顔を向けた。
悠真は、唇をきゅっと結んだあと、小さく吐き出すように言った。
「本当は、ただ――“誰にも見られたくなかった”だけなんだ。
見られて、笑われて、勝手に意味づけされて、そういうのが、怖かった」
その言葉に、ティリアは目を伏せて、小さく頷いた。
「わかるよ。わたしも、ずっと戦ってきたのは――そういう目だった。
“勇者”なんて肩書があっても、ほんとの自分なんて、誰も知らない。
だから、自分のために生きるって、ほんとうはすごく怖いことなんだよね」
静かな風が、ふたりの間をすり抜けていく。
「……でも、今の悠真さんは、見られてもいいと思ってるんでしょ?」
「まだ……ちょっとだけ、ね」
「それで、十分だよ」
ティリアは、にっこりと笑った。
***
日が暮れかけた上野の森を、ふたりはゆっくり歩いていた。
照明の点いた遊歩道には、夕涼みの親子連れや散歩中の老夫婦の姿がある。
「……あのさ」
ふいに、悠真が言った。
ティリアは足を止めず、静かに耳を傾ける。
「俺、昔から“がんばれ”って言葉が、嫌いだった」
その言葉の重さを、彼女も理解していた。
黙って先をうながす。
「努力が足りないって言われてるみたいで、
何をどうがんばればいいか分からないまま、全部否定されてる気がして」
「……うん」
「でも、今なら、少しだけ思えるんだ。“がんばる”って、
何かを変えるためじゃなくて、“見られてもいい自分”になるためにあるのかもしれないって」
ティリアは、ふっと笑った。
「やっと言ったね。……自分の言葉で」
「……それっぽく聞こえた?」
「うん、ちゃんと悠真さんの言葉だった」
木々の影が濃くなっていく中で、ふたりの歩調は自然と合っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、ティリアが小さく尋ねる。
「それで? この世界で、何かやってみたいこと、ある?」
悠真は少しだけ考えて、肩をすくめるように答えた。
「まだ、はっきりとは分からない。でも……少しだけ、“人前に出るのが怖くなくなった”気がする」
「それなら、上出来よ」
ティリアの声は、いつもより少しだけ優しかった。
「焦らなくていい。自分の“勇者”になるのに、期限はないんだから」
「……勇者か。無理だろ」
「どうかな。案外、そのあたりに転がってるよ、“認定証”なんて」
ふたりは小さく笑い合った。
その瞬間、悠真は思った。
この笑顔が、“今ここ”でしか得られないものなら――
きっと、この世界に生きる意味は、ちゃんとある。
***
電車の窓に映る自分の顔を、悠真はぼんやりと見つめていた。
都会の夜景が流れていく車窓。だがそのきらめきよりも、自分の胸の内が不思議と静かだった。
ふと横を見ると、ティリアが目を閉じて座っていた。
けれど眠ってはいない。その表情は、かすかな余韻をたたえている。
「ねえ、ティリアさん」
呼びかけに応じて、彼女が目を開ける。
「ん?」
「……君は、こっちの世界に来て、ずっと何を考えてた?」
ティリアは少し驚いたように眉を動かす。だが、やがて表情を緩めた。
「最初は、何もわからなかった。向こうでは“勇者”だったのに、こっちではただの人間。戦う理由も、役割もなくなって。何者でもなくなるって、けっこう怖いのよ」
「……うん、なんかわかる気がする」
「それでもね、この世界で人と話して、触れて、見て回って――
だんだん気づいたの。私はもう“戦う人”じゃなくていい。
今度は、誰かの“背中を支える人”になれたらって」
「……じゃあ、それが、今の君の“役割”なんだ?」
ティリアは少しだけうなずいた。
窓の外を流れる街のネオンが、断続的にティリアの横顔に色を添えていく。
その表情は、戦いを終えた者がようやくたどり着いた、静かな確信のようだった。
「向こうの世界が崩れたあと、ここで“何者にもなれなかった自分”に耐えられるかどうか、ずっと試されてたのかも」
「……俺も、こっちで“何者でもない自分”が嫌だった」
「でも、何者でもないってことは、可能性の塊でもあるのよ」
ティリアの声は、柔らかく、けれど芯があった。
「私は、悠真さんに出会えてよかったと思ってるよ。あなたに手を伸ばせたことで、私自身も少しだけ前に進めた」
悠真は言葉を失った。
背中を押されたと思っていた自分が、いつの間にか、誰かの“支え”にもなっていたのかもしれない。
電車のアナウンスが次の駅名を告げた。
「じゃあ、もう行っちゃうのか」
「まだ。もう少し、こっちの世界にいたい。
見ていたいの、あなたがどう進んでいくのか」
悠真は小さく息を呑み、目を伏せて、それからふと笑った。
「……じゃあさ。
“次のレベルアップ”も、見ててくれる?」
ティリアも、笑った。
「もちろん。見習い勇者さん」
夜の車窓に、ふたりの笑顔が並んで映っていた。
***
日暮里の空は、まだ夕焼けの赤みを残していた。
仕事終わりの帰り道、コンビニ裏の非常階段に、悠真とティリアは並んで腰かけていた。
照明が金属の階段を淡く照らしている。
遠くから山手線の走る音。
喧騒の中にあって、不思議と静けさのある空間だった。
「今日な、店長に褒められた」
「へえ。……珍しいんだ?」
「間違いなく、初めてだと思う」
缶コーヒーをかちんとぶつけ合う音。
ティリアは口をつけず、缶のぬくもりだけを感じていた。
「品出しの順番、ちょっとだけ工夫してみた。
忙しい時間にアイス系がスムーズに出せるように。
誰も気づかないと思ってたけど」
「……見てる人は、ちゃんと見てるよ」
ティリアはそう言って、微笑んだ。
「異世界では、戦えばレベルが上がった。
でもね、現実だって同じ。
違うのは、“成長”が数値で見えないってこと」
「……それが、つらいんだよな」
悠真は空き缶を足元に置き、目を伏せた。
「いつ上がってるのか、わからない。
そもそも、変わってるのかすら疑わしくなる」
「うん。でもね、私も、こっちに来たばかりのときは、ずっと混乱してた」
ティリアの声が、少しだけ揺れた。
「“勇者”って呼ばれて、戦い続けた。
でもその役割は、あっちの世界のものだった。
こっちじゃ誰も私を知らないし、称えてくれない。
──それって、自分の存在が、急に“ゼロ”になったみたいでさ」
悠真は顔を上げた。
ティリアの横顔には、ほんのわずかな影がさしていた。
「……じゃあ、どうしてこっちにきたの?」
ティリアはゆっくりと言った。
「こっちの世界で、私は誰かを守るためにいるわけじゃない。
戦う相手も、敵もいない。
だけど──この世界にいる“誰か”の横に立つことなら、できるって思ったの」
「……その“誰か”って、俺?」
ティリアはうなずいた。
「だって、悠真はまだ、変わりたいって思ってるでしょ?」
悠真は少しのあいだ黙って、それからぽつりとこぼした。
「わかるよ。……ずっと、何かを変えたかった。
このまま終わりたくないって思ってた。
異世界に行けば、今の自分じゃない誰かになれて、
全部やり直せるって──そう思い込んでた。
でもさ、そんな物語が本当にあるなら、とっくに誰かが幸せになってるはずだよな」
ティリアは笑わなかった。ただ静かに言葉を重ねた。
「でも、現実は一回きり。だから、意味がある」
悠真は少しだけ笑った。
「……レベル3くらいにはなれるかな」
「なれるよ。もっと、ずっと上に。
こっちの世界でも、ね」
春の夜風が、ふたりの間を抜けていった。
ふたりの影が、金属の階段をゆっくりと下っていく。
この世界にも、きっと“レベルアップ”はある。
誰かに認められることがゴールじゃない。
それでも、誰かに見てもらえたことが、歩き出す理由になるのかもしれない。