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第3話

月曜日の夜。

悠真はアルバイトを終え、日暮里駅の改札を出て、夜風のなかを歩いていた。

明かりの消えかけた商店街を抜けて、コンビニの角を曲がる。

今日も、誰とも会話らしい会話はしていない。


昨日、少年に言葉をかけた自分の姿を思い出す。

確かに何かが変わり始めた気がしていた。でもそれは、どこまでも限定的な“よい偶然”だったのかもしれない。



部屋に戻り、洗濯機を回しながらスマホを開く。

求人アプリを起動する。

応募していたいくつかのバイトはすべて「選考中」のまま。連絡はない。


一つ、短期の事務補助に応募しようとして、指を止める。

「週5日以上勤務できる方、正社員登用あり」

そんな文字が、思ったより重くのしかかる。



──こんなことで、何が変わるんだ。



洗濯機の音がむなしく響く部屋の中で、

悠真は頭を抱えるようにして、ベッドに倒れ込んだ。


どれだけ“まじめに”やっても、見えない何かが自分を弾いてくる。

ティリアの言葉が脳裏をよぎるたびに、反射的に心のどこかが冷えていく。



「努力で世界が変わるなら、とっくに変わってる……」



呟いたそのとき、スマホが震えた。



《ティリア:ちょっとだけ、電話してもいい?》



一瞬、迷う。

けれど、断る理由もなかった。


通話ボタンを押すと、すぐに、落ち着いた声が聞こえた。



「こんばんは。……声、暗いね。何かあった?」


「いや……別に。ちょっと疲れただけ」



嘘だとは思われているだろう。でも、ティリアは追及してこなかった。

少しの沈黙のあと、彼女がぽつりと呟いた。



「……こっちの世界はさ、“報われるかどうか”をすごく気にするよね。

それって多分、“無駄になりたくない”って気持ちの裏返しなんだろうけど」



悠真は言った。



「だって、報われなかったら意味ないじゃん。

誰かに気づかれなかったら、評価されなかったら、やる意味ないって、思うだろ?」



電話の向こうで、ティリアは微かに息をのんだ気がした。

でもすぐに、静かな声で答えた。



「それ、異世界でも、たくさんの人が言ってたよ。

『才能があるのに認められない』『頑張ってるのに負ける』って」


「……じゃあ、ティリアはどうしてたの?」



しばらくの間、答えは返ってこなかった。


ようやく聞こえてきたのは、感情を抑えた声だった。



「報われるってね──

“誰かが決めるもの”だと思ってた時は、つらかった。

でも、“自分がやりきったかどうか”に視点を変えたら、少しだけラクになったの」


「そんなの、強い人の理屈だろ」


「うん。きっとそう。

でもね、強くなる前は、私も“努力が意味を持つ場所”を探し続けてた。

それってつまり、こっちと同じだよ。世界が違っても、誰も最初から報われたりしない」



その言葉は、夜の静けさに沈んでいった。



「……ごめん。暗い話したな」


「いいの。今日、なんか話したくなって、連絡しちゃっただけだし」



ティリアの声には、いつものような余裕があった。

けれど、その奥にある微かな疲労に、悠真はなぜか少しだけ安心した。


この人も、“全能なヒーロー”なんかじゃない。

痛みを抱えて、それでも歩いてる。



「じゃあ、おやすみ」


「……うん。おやすみ、ティリア」



通話が切れたあと、悠真はしばらくスマホを見つめた。

画面に自分の顔がぼんやり映っていた。


努力は、いつ報われる?


答えは出ない。

でも、それでも少しずつ、自分は“向かい直している”気がした。




***




平日の午後。

ティリアは、渋谷の再開発エリアにあるジムの個室ブースで、軽く体を動かしていた。


スクワット、腕立て、体幹の静止。

人目を避けながらできる範囲のトレーニングを、ルーティンのようにこなす。


現世に来てからというもの、「戦う理由」はないはずだった。

けれど、鍛えることをやめると、自分が“消えていく”ような気がして落ち着かなくなる。


筋肉の動き、関節の角度。

フォームに集中すればするほど、過去の記憶が浮かび上がってくる。



──“才能を授かった”日。



異世界で、勇者として指名されたのは十四歳のとき。

最初は怖かった。でも、それ以上に高揚感があった。



「あなたには選ばれる素質がある」

「これが神からの恩恵だ」

「運命の子だ」



そんな言葉を、何度も浴びた。


けれど現実は、甘くなかった。

剣の訓練は地道だったし、魔法も最初は火花すら出なかった。

それでも毎日、朝から晩まで、訓練と実戦を繰り返した。


才能は、ただの“起点”だった。

その後に立っていたのは、誰よりも泥臭く、傷ついて、努力を続ける自分だった。



──もし、あの世界で「運命の勇者」として期待されなかったら?

──もし、もっと早く“才能”が認められていたら?



たぶん、今の私はいない。

そして今ここにいて、誰かに「頑張れ」と言うこともなかった。


インターバルの合間に、スマホに通知が届く。



《この前の話、もう少し詳しく聞きたい。才能があった人は、どこまで行けるのか》



──そうやって、期待してるんだね。

「どこかに、報われる世界がある」と。


ティリアは、スマホを見つめながら、小さく笑った。


そして、メッセージを打つ。



《才能を授かっていたとしても、努力しなかったら、なにも起きなかったよ。

 私もあっちで、ずっと“追いつこう”としてた。怖かったし、逃げたかったし、泣いたこともある。

 でも、一番救われたのは──努力を“わかってくれる誰か”に出会えた時だった》



メッセージを送信したあと、

彼女はゆっくり立ち上がる。

フォームを整えて、再び身体を動かし始めた。


汗がにじむ。

それでも、呼吸は静かだった。


この世界に来てから、ティリアが何よりも感じたこと。

それは──


どんな才能よりも、“見てくれる人の存在”が、自分を支えていたという事実だった。


そして、いま自分がその立場になれるのなら。

誰かの背中を支えてみよう。そう、思えた。




***




火曜日の朝。

いつもより早く目が覚めた。

カーテン越しに入る光が、部屋の白い壁を照らしている。


昨日の夜、ティリアとメッセージを交わした。

その余韻が、まだ胸に残っていた。



「……俺も、変われるのかな」



呟きながらベッドを出て、久しぶりに洗面台の鏡とまっすぐ向き合った。

髪を整え、シャツを着替える。

今日は、少し前に応募していた面接のある日だった。


場所は、駅前の小さな物流会社の事務所。

未経験歓迎、シフト応相談──。

条件は悪くなかった。


履歴書をバッグに入れて、電車に揺られながら思う。

ここで決まれば、少しずつ生活を立て直せるかもしれない。



──けれど、現実は甘くなかった。



面接担当者は、最初からどこか冷ややかだった。


「職歴に空白がありますね」

「どうして前の仕事を辞めたんですか」

「週5勤務は難しそうですね」


質問のひとつひとつが、静かに突き刺さる。



たしかに、自分には“胸を張って話せる何か”がない。

でも、それを埋めるために来たはずだったのに。


面接が終わり、事務所を出るとき、

「後日、採用の方にのみご連絡いたします」と言われた。



──つまり、落ちた。



答えが出るまでもない。

面接官の表情も、言葉のトーンも、それを物語っていた。


駅前のカフェに入り、席に沈み込むように座る。

スマホを開くと、ティリアからの返信が届いていた。



《今日、どうだった? 少しでも前に進めたなら、すごいことだよ》



その言葉を見て、悠真はふっと笑った。


──“進めた”かどうかも、わからない。

むしろ、踏み出したぶんだけ跳ね返された気がする。


画面を伏せて、天井を仰ぐ。

周囲は平日の昼下がりをゆったり過ごす人たちでいっぱいだった。



「才能を授かっていたとしても、努力しなかったら何も起きなかった」

──昨日、ティリアはそう言っていた。



じゃあ、努力した結果がこれだったら?

誰にも届かない場所で、何度も弾かれたままだったら?

それでも「続けろ」と言えるのか。


ふと、隣の席の会社員たちが、昼休みの雑談で笑い合っている。

それが遠い世界の光景に見えた。



“向いてないんじゃないか”

“どうせ何をしてもダメなんじゃないか”



そんな声が、心の底から湧きあがる。


だが、そのとき。


ふと、カバンの中に入れたままの履歴書が目に入った。


しわくちゃになった封筒の中の、自分の名前。

筆圧の甘い文字。それでも、自分で書いた、たった一枚の書類。



──それを、ティリアに見せたら、あの人は、なんて言うだろう。



口先だけで「頑張ったね」と言ったりは、しない。

「じゃあ、どう次に進むか考えよう」と、きっと現実に引き戻す。


でも、それでいい。

もう少し、見ていてほしいと思った。


悠真は、スマホを手に取り、短くメッセージを送る。



《……ちょっと負けた。でも、全部終わったわけじゃない》



送信ボタンを押したあと、

彼はゆっくりと、深呼吸をひとつした。




***




夜。

ティリアは、図書館の閲覧スペースに一人、ノートを広げていた。


音のない空間。

照明が白く、ページの文字を浮かび上がらせる。



彼女が見ていたのは、解剖学の専門書。

筋肉、腱、関節、神経の名称がびっしりと並ぶ難解なページ。


けれど、ティリアの視線は確かだった。

異世界では、こうした“構造”を魔法の知識で学んだ。

現世に来てからは、それを医療や科学という言葉で置き換えながら、同じものを学び直している。



──でも、それだけじゃない。



彼女は、ページの端に、ある言葉を書き記していた。



「力とは何か?」

「強さは、どこにあるのか?」



それは、彼女がずっと考えてきた問いだった。


かつて、異世界の戦場で彼女は多くの“敵”を見た。

魔物、盗賊、裏切った騎士、そして──誰よりも強い、同じ人間。



ティリアがまだ若かった頃、戦争の渦中にいた彼女の前に、

一度だけ、“自分より圧倒的に強い女”が現れた。


鋼の鎧を着た傭兵。

無駄のない動きと、冷徹な判断。

一太刀交えるだけで、体の芯まで打ちのめされた。



「剣の重さは同じでも、覚悟の重さが違う」

──彼女はそう言って、笑った。



その言葉が、ずっと胸に刺さっていた。


才能じゃない。

運命でもない。


“覚悟”が、その人の強さを決める。



だからティリアは、決して剣を置かなかった。

異世界の戦いが終わったあとも、なぜかこの世界に呼ばれて、戦いを終えた自分に向き合うことになっても。

彼女は“もう一度鍛える”ことを選んだ。


たとえ、戦う相手がいなくても。

たとえ、強くある意味が見えなくなっても。



「……強さは、自分を守るためじゃなく、誰かの痛みを分け合うためにある」



ノートの片隅に、静かに書き加える。

その筆圧は、どこか迷いがなく、まっすぐだった。


悠真の顔が、ふと浮かぶ。


あの人は、まだ戦い方を知らない。

けれど、もう武器を取ろうとしている。

その手を握るには、こちらも“何か”を差し出さなければならない。



ティリアは立ち上がった。

ノートを閉じ、カバンにしまいながら、ひとつ小さく呟いた。



「次は、ちゃんと伝えてあげないとね」



夜の図書館を出ると、風が頬を撫でていった。

その冷たさに、彼女は少しだけ目を細めた。




***




水曜日の夕方。

陽が傾き始めた上野公園のベンチに、悠真とティリアは並んで座っていた。


ティリアの手には、あたたかい紙カップの紅茶。

悠真は、ベンチに浅く腰掛けたまま、手元の缶コーヒーを見つめている。


風が吹き抜け、木の葉がさらさらと揺れた。



「今日、面接の連絡、なかったんだよね」



悠真がぽつりとこぼす。



「うん……たぶん、ダメだった」


「そっか」



ティリアは、すぐに何も言わなかった。

慰めの言葉も、励ましの言葉も、口にしない。

ただ、静かに紅茶を一口すすった。



「……言いたくなるでしょ、“頑張れ”って」



悠真が苦笑混じりに言うと、ティリアも少し笑った。



「言おうと思ったけど、ちょっとだけ我慢した」


「なんで?」


「今のあなたは、“頑張る”って言葉に、ナイフが仕込まれてるように感じるでしょ」



悠真は、返す言葉を見つけられなかった。


しばらくして、ティリアがふいに口を開く。



「私ね、あっちの世界では“勇者”って呼ばれてたけど……そんなの、ただの肩書きだったよ」


「肩書き、って?」


「最初から特別だったわけじゃない。生まれた村では、鍛冶屋の娘だったし。魔法なんて一つも使えなかった。剣だって、手が豆だらけになるまで練習して、ようやく人並みに振れるようになった」


「それでも、勇者に?」


「そう。“勇者候補”がいなくなったからね。たまたま命があって、剣が振れて、立っていたのが私だった。それだけ」



ティリアは、淡々と語る。

だが、その声の奥に、かすかな熱がある。



「認められるまで、何年もかかった。

 それでも、結果を出し続けないと“勇者らしくない”って言われた。

 戦って、勝っても、“次はもっと大きな敵だ”って。

 誰も、“よくやったね”とは言ってくれなかった」



沈黙。

公園の奥から、子どもたちの笑い声が届く。



「……じゃあ、なんで、やめなかったの?」



悠真の問いに、ティリアはしばらく考えた。


そして、ゆっくりと口を開く。



「……たぶん、誰かに“選ばれた”って思いたかったんだと思う」


「選ばれた?」


「私が頑張ることで、誰かが助かって、その人が“ありがとう”って言ってくれたら──

 それだけで、自分がこの世界にいてもいいって、思えたの」



ティリアの目は、木々の向こう、夕空の端を見つめていた。


悠真は、その横顔を黙って見つめていた。

言葉では説明できないけれど、彼女が背負ってきたものの重さが、ほんの少しだけ伝わった気がした。



「……それって、ずっと一人で戦ってきたってことだよね」


「うん。でも──今は、違うよ」



ティリアは、ふと微笑んだ。



「こうして、あなたと話してる。この世界でも、誰かとちゃんと向き合えてる。

 だから、今の私はもう“選ばれる側”だけじゃなくて、“選ぶ側”でもあっていいと思ってる」


「選ぶ側……?」


「そう。あなたが、どんなふうに変わっていきたいのか──

 それを、ちゃんと見ていたいと思ってる。

 今度は、私の番だから」



その言葉は、そっと胸の奥に灯るようだった。


悠真はうつむいたまま、小さく頷いた。


夕暮れの空が、少しずつ紫に染まり始めていた。




***




翌朝、6時前。

日暮里の住宅街に、薄曇りの空が広がっていた。


佐伯悠真は、駅前のコンビニでの夜勤を終えた帰り道、足を止めていた。

家の玄関前。ドアノブに手をかけかけて、しばらく動けなかった。



──変わるって、どういうことなんだろう。



昨日のティリアの言葉が、脳裏をぐるぐると回っていた。



「“頑張れ”って言葉に、ナイフが仕込まれてるように感じるでしょ」


「でも私は、それでも言うよ。“頑張れ”って」



それは押しつけじゃなかった。

“それでも”の先にある言葉だった。

それでも、言ってくれた。


ドアを開け、靴を脱ぎ、部屋に入る。

狭いワンルーム。ロフトつき。

布団はたたまず、PCデスクの横には読みかけの自己啓発書。

部屋の空気が、昨夜から変わっているわけではない。けれど、少し違って見えた。



悠真はロフトに上がり、古びたスニーカーの箱を取り出した。


高校の頃、半年だけ通ったキックボクシングジム。

続けられなかった。通う時間も、気力も、理由も失っていた。



けれどその時、唯一「楽しい」と思えた瞬間があった。


ミットに当たった感触。

汗を流したあとの、心と体の澄み具合。


あれは“強くなれた”気がした、数少ない記憶だった。



もう一度、やってみるか──

そんな気持ちになったのは、何年ぶりだろう。


スマホを手に取り、ジムの名前を検索する。

当時と同じ場所に、まだそこはあった。


体験レッスン、随時受付中。



無意識のうちに、ページの「申込み」ボタンを押していた。


指先が震えた。


こわい。

変わらないかもしれない。

またすぐ、やめたくなるかもしれない。


でも──



「私は異世界から来た、というより、“違う場所でたくさん努力した人間”で、たまたまここにいるの」


「今度は、私の番だから」



ティリアのあの言葉が、背中を支えていた。


決して、無理やり押されているわけじゃない。

でも、支えてくれている。


悠真は立ち上がり、久しぶりに窓を開けた。

朝の風が流れ込む。



うまくやれる自信なんて、ない。


けれど──



「……やってみるか」



自分の声が、少しだけ張りを帯びていた。




***




数日後の夕暮れ、上野の不忍池。

蓮の葉が風に揺れ、遊歩道にはまばらな人影があった。


ティリアは静かにベンチに座り、缶の麦茶を両手で包み込むように持っていた。

待ち合わせより少し早く着いたらしい。


数分後、足音が近づいてくる。



「……遅れてごめん」


「ううん、ちょうどいいくらい」



悠真は、額に少し汗をにじませていた。

慣れない運動をしたあとのような、やけに清々しい表情だった。



「行ってきた。ジム」


「そう。どうだった?」


「しんどかった。でも……」



彼は、言葉を探すように少し口を閉じ、空を見上げた。



「……“できなかった”より、“もう一回やってみようかな”って思ったことの方が、なんか大事な気がした」



ティリアは、そっと目を細めた。



「うん。それ、すごく大事」


「ティリアはさ、なんでそんなに人のこと見てられるの? 俺だったら、いちいちイライラしそうだよ。変わらない人とか、動こうとしない人とか……」



ティリアは、すこしだけ考えてから口を開いた。



「……私ね。あっちの世界で、仲間がいたの。剣士とか、魔術師とか。ほんとに優秀な人たち。でも、うまくいかないこともあって──ある時、誰かが言ったの」


『誰かを信じて待つのは、“戦う”のと同じくらい難しい』


「そのときね、はっとした。私、何かを“してあげる”ことばかり考えてた。でも、“見ている”っていうのも、すごく大きな力になるんだって」



悠真は、彼女の横顔を見つめた。



「それって、あれか。“選ばれたかった”って気持ちの、逆ってこと?」


「うん。誰かを選ぶってことでもあるし、見ているってことは、相手をちゃんと“信じてる”ってことだから」


「……重いな」


「でしょ。でもね、私はそれがしたいって思ったの。

あなたが進むなら、その背中をちゃんと見ていたいって。

あっちの世界で剣を振るってたときも、今ここにいるときも、それは変わらないの」



ふたりの間に、静かな時間が流れる。


池の水面に、街灯の明かりが映り始めていた。



「……じゃあ、ちゃんと見ててよ」



悠真が、ぽつりとこぼした。



「最初はまた転ぶかもしれないけど、たぶん今度は、ひとりで転ばないと思うから」



ティリアは、ほんの少しだけ笑った。



「うん。ちゃんと見てる」




***




夜の上野公園。

照明に照らされた小道を、ティリアと悠真が歩いていた。

風は冷たいが、どこか穏やかだった。



「……じゃあ、そろそろ帰るね」



ティリアが立ち止まり、軽く手を振る。

悠真も足を止めるが、すぐには何も言えなかった。


そのまま見送ろうとして、けれどふと、声が出た。



「……ねえ、ティリア」


「ん?」


「こっちに来て、最初の頃──しんどくなかった?」



ティリアは、少しだけ目を見開いたあと、表情を和らげた。



「うん。めちゃくちゃしんどかったよ」



さらりと答えるその声に、力んだところはなかった。



「だって、言葉も通じないし、お金もないし、身分もないし。

スーパーに並ぶ食材ひとつとっても、最初は名前も使い方も分かんない。

あの時は、もう一回滅んだ気分だった」


「……それ、笑える話じゃないだろ」


「うん。笑えないけど……でも、今はちょっとだけ笑ってもいいかなって思ってる」



ティリアは、肩をすくめた。



「なんで?」


「ひとりで涙が出るほど怖かったのに、どうにか今ここに立ってるから」



その言葉に、悠真はふと息を呑んだ。

ティリアは続けた。



「私はさ、ずっと“強くなきゃいけない”と思ってた。

向こうの世界では、周りがそれを求めてきたから。

でも、こっちに来て、誰にも“勇者でいろ”なんて言われなくなって……何者でもない自分が、残った」



彼女の声は淡々としていたけれど、今までで一番、体温がこもっていた。



「だけどね、“何者でもない自分”にも、できることってあった。

言葉を覚えるとか、住む場所を探すとか、バイトを続けるとか──本当に小さなことだけど、

それでも積み上げてたら、ちゃんと世界に馴染んでた」


「……努力したんだな」


「うん。でも、勇者のときみたいに血を吐くような努力じゃない。

ただ、目の前のことを投げ出さずに、やってきただけ」



悠真は、何かを言おうとして、言葉に詰まった。


その沈黙を、ティリアがふわっと埋める。



「だからね、悠真。転生なんかしなくても、“変わる”って、できるよ」


「……でも、怖いんだよ。

頑張っても、また誰にも見てもらえないかもしれないし、結局、報われないかもしれない」



その声は、小さく震えていた。

ティリアは数秒だけ黙って、ぽつりと言った。



「うん。それでも、頑張ってみよう」


「……」


「私は、頑張れって言われるの、ずっと嫌いだった。

でもね、本当に絶望の中にいるときって、たぶん──誰かにそう言ってほしかったのかもしれない」



彼女の笑顔は、どこか懐かしさのにじむ、弱さを含んだものだった。



「だから、今は言える。頑張って、って」



悠真はうつむいたまま、肩で笑った。



「……勇者って、やっぱズルいな。

その一言に、ちゃんと説得力ある」



ティリアもくすっと笑う。



「そっか。なら、もうちょっと勇者でいようかな」



夜の静寂が、二人を優しく包んでいた。

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