第2話
月曜の朝。
いつもと変わらないはずの電車に揺られながら、悠真は車窓の外をぼんやりと眺めていた。
吊り広告には、また「異世界転生病」の特集が載っていた。
先週と同じような言葉──「若年層の自殺率増加」「社会的孤立」「実態の見えない願望」。
なのに、それを目にする自分の心の内は、少しだけ、前と違っていた。
「転生すれば、全部やり直せる──そう思ってたな、俺も」
でも今は、違った。
週末に会った“元勇者”ティリアの言葉が、頭から離れない。
彼女は、特別な力で成功を掴んだわけじゃなかった。
むしろ、自分と同じように迷い、失敗しながら、地道に積み上げてきた。
異世界なんて、本当にあるのかはわからない。
でも、“努力しなきゃいけない世界”がそこにあるという話は、不思議とリアルだった。
「努力してもダメだった俺は、どうすればいいんだよ」
電車が駅に滑り込む音にかき消されるように、その言葉が唇からこぼれた。
バイト先のコンビニでは、やはりいつものように扱われた。
無表情な店長。小言の多い先輩。面倒な客。
でも、ふとした瞬間──誰かの視線が、自分の手元を見ていることに気づく。
「……ありがとう、袋いりません」
中年の女性客が、そう言って軽く頭を下げた。
それだけのことだった。でも、不思議と胸に残った。
──誰かに“ちゃんと対応した”って感じ、久しぶりだな。
これまでの悠真なら、流していた。
けれど今日は、その一瞬の接点を意識してしまった自分がいた。
そして、もうひとつ──
昼休み、何の気なしにXを開いたとき、ティリアの新しい投稿が目に入った。
《どこにいたって、やることは変わらない。
でも“見る角度”を変えるだけで、同じ毎日がまるで違う訓練になる。
それに気づけたら、世界の難易度って、ちょっとだけ下がるよね。》
まるで、今の自分を見透かされたような言葉だった。
画面を見つめながら、悠真は小さく息を吐く。
“訓練”──
バイトを、訓練と思ってやってみたら、なにかが変わるのか?
そう自分に問いかけていること自体が、
どこか、昨日までの自分とは違うように思えた。
たった一度の出会いが、日常の意味をほんの少しだけずらしてくる。
それは、劇的な転機ではない。
でも、確実に“何か”が始まっている感覚だった。
***
仕事終わりの帰り道、悠真は日暮里駅のホームで、いつものようにスマホを開いた。
通知が1件。差出人は──ティリア。
『時間があるなら、今週末また会わない?
話したいことがあって。
今回は、わたしの方からのお願い。』
「……お願い?」
ぽつりと声に出た。
ティリアの方から“何かを頼む”というのが、あまりに意外だった。
あの落ち着き払った少女が、何かに頼る姿が想像できなかった。
『土曜の午後、また上野の図書館のカフェで。
無理なら断って。気にしないで。』
その言い方も、ティリアらしかった。
押しつけがましさがなく、こちらの選択を丁寧に許してくれているような文面。
──きっと俺は行くんだろうな。
まだ予定も入れていないくせに、自然とそう思う自分がいた。
そして同時に、前回は聞けなかったことが頭に浮かぶ。
あの人は、「異世界で生まれた」と言っていた。
転生者じゃない。生まれ育った世界が、ただ“そうだった”だけ。
なのに、今はこの東京でカフェに座って、カフェオレを飲んでいる。
──なぜ、わざわざこんな世界に?
魔法も剣も存在しない、ただ灰色の現実が広がるこの場所に。
希望を抱いて来たのか、それとも、何かを失ってここを選んだのか。
「……それ、聞いていいのかな」
でも、聞きたい気持ちは本物だった。
“異世界に行きたい”と願っていた自分が、
“異世界から来た”という彼女の理由に、どうしても触れてみたくなった。
改札を抜け、コンビニ前を通り過ぎると、雨がぱらついていた。
小さなビニール傘を片手に、悠真は歩き出す。
駅から家までの道は、相変わらず何の変哲もない街並み。
けれど、その道を歩く自分の思考だけが、少しだけ先へと進んでいる気がした。
ふとスマホを手に取り、短く返信を打つ。
『空いてます。また、行きます。』
送信を押したあと、駅のホームで読んだティリアの言葉が脳裏に反響する。
“話したいことがある”
彼女の口から語られる“この世界に来た理由”──
それが、悠真にとってどんな意味を持つのかは、まだわからない。
けれど今だけは、その話をちゃんと聞いてみたいと思えた。
***
土曜、午後。
上野の国際子ども図書館。
前と同じ窓際の席に、悠真はほんの数分早く着いた。
やがて現れたティリアは、前回と変わらない服装で現れた。
地味なグレーのジャケットとデニム。
けれど、彼女の姿にはどこか、都市の雑踏には似つかわしくない“背景の違い”があった。
「来てくれてありがとう」
「……こっちこそ、誘ってくれて」
会話は自然に始まった。
軽くコーヒーを注文し、互いにひと口ずつ飲んだところで、ティリアがまっすぐに言った。
「今日、ちょっと変な話をするかもしれないけど、真面目に聞いてくれる?」
「もちろん」
悠真は背筋を伸ばした。
ティリアは、窓の外に一瞬だけ視線を投げてから、ゆっくり口を開いた。
「私がいた世界は……たぶん、あっちでは“正史”と呼ばれてる世界。
魔物がいて、魔法があって、人間と精霊と、神様の名残があった。
その世界には、“物語”ってやつがあったのよ」
「物語?」
「うん。つまり、“目的”があったの。勇者は魔王を倒すとか、王国を救うとか。
みんな、生まれた時点である程度“役割”を与えられてる世界だった」
ティリアは少しだけ自嘲気味に笑った。
「私は、“選ばれた”側の人間だった。けどね、物語って、倒して、勝って、平和になって……それで終わるのよ。
あの世界には“その先”がなかった」
「その先……」
「うん。誰も教えてくれなかった。“魔王を倒したあとにどう生きればいいか”なんて。
だから私は、すごく不安になったの。あの世界で“終わった人間”として、何もない日常をこれから過ごすって、想像できなかった」
悠真は、その言葉に息を飲んだ。
「じゃあ、こっちの世界に来たのは……」
「うん。たぶん、私は“次”が欲しかったんだと思う。
何も決まってなくて、誰も私に役割を与えない、そんな世界が。
こっちに来た理由は……単純に言えば、“続きを生きたかった”ってこと」
それは、悠真にとってまるで反転して見える動機だった。
自分は、“今の人生を終わらせたい”から異世界に行きたいと願っていた。
でも、彼女は、“物語の終わった世界”から、“続きを生きるため”に、こちらに来た。
「……すごい、な」
悠真はつぶやいた。
「え?」
「だって、俺とは真逆だよ。俺は今がイヤで、そっちに行きたくてしょうがなかったのに。
君は、そっちが終わって、こっちに来た」
ティリアは頷いた。
「現実って、物語がない分だけ、自由でもある。
“自分で意味をつけていかないといけない”っていう意味で、あっちよりずっと難しいけど、
私はそれを試してみたかった。……それだけ」
沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は、気まずさではなく、互いの呼吸を合わせる時間のようだった。
「俺、たぶん……」
悠真が言いかけて、言葉を切った。
「……まだ“終わらせたい”って気持ちが完全に消えたわけじゃない。
でも、君みたいに、終わったあとに続きを求めて来た人がいるなら、
俺も“終わらせずに続ける”って方法、あるのかなって……ちょっとだけ思った」
ティリアは、ふっと息をこぼした。
そして、ゆっくり頷いた。
「うん。あるよ。絶対に、ある」
その声は静かで、けれど確かだった。
外の空は、午後の光で淡くにじんでいた。
物語が“終わった”場所からやってきた少女と、
物語を“始める”ことに躊躇していた青年が、同じテーブルに座っている。
それだけで、世界がほんの少しだけ、広がっている気がした。
***
翌朝、目覚ましが鳴るよりも少し早く目を覚ました。
休日の朝。
ベッドの上でしばらくぼんやり天井を見つめたあと、悠真はふと、昨日のことを思い出した。
“私は、続きを生きたかったんだと思う”
その言葉が、まだ耳の奥で響いていた。
異世界で生まれ、物語を生き、その終わりを経験した人間が、
何の役割もないこの世界に“来たい”と思ったという事実。
──逆だと思ってた。
“こっち”の世界が終わってて、“あっち”の世界が始まりなんだと、ずっと思ってた。
けれど今は、少し違う気がする。
どの世界が「先」だったかなんて、たいした問題じゃない。
何を“始めるか”を決めるのは、世界じゃなくて、自分自身なのかもしれない。
朝の空気が妙に静かで、時間がゆっくり流れているように思えた。
悠真はリビングの隅に放ったままだったノートPCを開き、
ずっと前に登録だけして放置していた「市民活動センター」のページを開いた。
「……イベントスタッフ募集、講座ボランティア……こんなの、前は絶対見向きもしなかったな」
きっかけは些細だった。
以前ティリアが言っていた、
“この世界でも、自分の積み重ねはちゃんと意味になる”
という言葉を思い出したからだった。
「……たとえば、試しに何かやってみるくらいなら、いいかもな」
自分の価値が、現実の中に“あるかもしれない”と思えるようになった今、
少なくとも、手を伸ばすくらいの勇気は持てるような気がした。
参加登録のフォームを開き、
必要事項を埋めていく指先に、かすかな緊張が混じる。
職業欄には「フリーター」と書いた。
今まではそれを書くのが恥ずかしかったのに、今日はそれほど気にならなかった。
──今の自分を正直に書いて、
それでも誰かに会いに行くことは、悪いことじゃない。
送信ボタンを押したあと、妙にあっさりとした画面遷移が、拍子抜けするほどだった。
けれどその軽さが、逆に“やってしまった”実感を後から押し寄せさせる。
「……応募、しちゃったな」
つぶやきながら、スマホを取り出してティリアのアカウントを開く。
彼女の最新の投稿が表示された。
《何をやっても無意味に思える日もある。
でも、“やった”という記録があとで助けになる日もある。
自分の中に、ひとつだけ証拠を残しておくといいよ。》
思わず、投稿に“いいね”をつけていた。
自分がそういうことをする人間だっただろうかと一瞬戸惑いながらも、
でもそれが、自然な反応だった。
まだ不安はある。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
けれど、自分の中に“試してみよう”という気持ちが生まれたことだけは、たしかだった。
今日という日を、“自分が少し変わり始めた日”として、覚えておこう。
そう思えたことが、何よりの収穫だった。
***
日曜日の昼過ぎ、悠真は日暮里駅から二駅隣の公共施設にいた。
申し込んでおいた市民講座のボランティア説明会。
内容は、“地域の子どもたちに本を読む”という、ほんの短いアクティビティのサポート。
集まったのは十数名ほど。
学生っぽい若者もいれば、主婦層、定年後らしき年配の男性まで、年齢層はばらばらだった。
その中で、悠真はずっと“何者でもない自分”の存在を強く意識していた。
「では、はじめにお名前と、簡単な自己紹介をお願いします」
司会の女性の声に、順番が回ってくるまでの間、心臓が少しずつ速くなる。
──フリーターって言ったら、やっぱり浮くかな。
──でも嘘ついても仕方ないし……。
「佐伯悠真です。……普段は、近くのコンビニで働いてます。
ちょっとしたきっかけで、人と関わる機会を増やしてみたいなと思って、来ました」
たったそれだけ。
でも、自分の中では精一杯だった。
数人先で紹介を終えた女性が、ふと微笑んでくれたのが見えた。
その表情に救われた気がして、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。
説明会の内容は淡々と進んだ。
注意事項、今後の活動スケジュール、参加の心構え。
簡単な模擬読み聞かせの見学などもあり、悠真はそのすべてを静かに見つめていた。
“特別なことをしているわけじゃない”──それが逆に心地よかった。
誰かの役に立っているわけでもない。
褒められることも、評価されることもない。
けれど、「いてもいい」と思える空気が、この場所にはあった。
帰り道、資料の入った封筒をバッグに入れながら、悠真はゆっくりと歩いた。
空は雲が多く、陽は出ていない。
けれど、心の中は不思議と晴れていた。
ティリアが言っていた。
“この世界で、私は自分の役割を誰かに決められるんじゃなく、自分で探すって決めたの”
今の自分は、まだ何者にもなれていない。
けれど、“何者かになろうとしている最中”であることだけは、少しだけ誇れた。
スマホを取り出し、ティリアのアカウントを開く。
新しい投稿があった。
《世界に必要とされていない、と思う日があるなら、
“自分が世界に触れてみる”って発想に切り替えてみるといい。
誰かに許可される前に、自分から触れにいけるのが、こっちの世界の特権だから。》
その投稿に、ためらわず“いいね”を押す。
そして、そのままDMの入力欄を開いた。
『さっき、読み聞かせのボランティア説明会に行ってきました。
まだ何もできてないけど……ちょっとだけ、行ってよかったです』
文面を見直して、送信ボタンを押す。
返事が来るかはわからない。
でも、それでいい。
ただ、今この瞬間、“誰かと繋がっていたい”と思えたことが大事だった。
誰かに必要とされる前に、自分が自分を少しだけ肯定した。
それが、最初の一歩だった。
***
ティリアからの返信は、思っていたよりずっと早く届いた。
『行ったんだ。えらい。
“行ってみる”って、いちばん最初でいちばん難しいから。
行けた時点で、もう半分以上やったようなもんだよ』
短いけれど、柔らかく、少し照れ隠しのような文面。
悠真はスマホを見つめながら、ほんの少しだけ笑った。
『あの……こんど時間あったら、また話せるかな。
前に言ってた、“こっちでのこと”……もうちょっと聞いてみたい。』
しばらくしてから、また返信があった。
『いいよ。
じゃあ来週の木曜、夜。
代々木公園の中にある、小さいカフェ。
雰囲気静かだから、たぶん話しやすい。』
当日、悠真は少しだけ早めに店に着いた。
ティリアは先に来ていて、カウンターの奥の席で本を読んでいた。
異世界の勇者だったとは思えないほど、その姿はあまりにも“この世界に馴染んで”見えた。
「こんばんは」
「来てくれてありがとう」
いつものように落ち着いた声。
オレンジ色のランプに照らされたその表情は、少し柔らかく見えた。
温かい紅茶を受け取り、ふたりは向かい合って座る。
数分、何気ない話を交わしたあと、悠真は、意を決して訊いた。
「……こっちに来てから、寂しくなったこと、ある?」
ティリアは少し目を見開いて、それからゆっくりと紅茶に視線を落とした。
「うん。たくさんあるよ」
その答えは、驚くほどあっさりしていた。
「物語が終わって、“誰かに必要とされる日々”がなくなって。
そういう時間に慣れてしまってたから、急に誰の声もかからない世界に来たとき……思った。
あ、これ、ほんとに私、ひとりなんだなって」
「誰にも期待されないって、怖いよな」
「うん。逆に、“期待されないこと”がこんなに重いなんて、向こうでは想像もしなかった」
ティリアはそう言ってから、静かに続けた。
「でもね、それでも、私はこっちの世界に来てよかったと思ってる」
「なんで?」
「向こうでは、私が何をするか、ほとんど最初から決められてた。
“この力があるなら、君はこう生きるべきだ”って。
でも、こっちでは誰も何も言わない。誰にも決めてもらえない。
……だから、自分で決めなきゃいけない。
“私はここにいていい”って。
それが、苦しいけど自由だなって思うの」
悠真は、その言葉を胸の奥で何度も反芻した。
ここにいていい。
この世界に、自分の意思で居場所をつくる。
それは、誰かが認めてくれるのを待つことじゃない。
「ここにいていい」と、まず自分が言ってやること。
「……俺も、そう思えたらいいな」
ぽつりと、思わずこぼれたその言葉に、ティリアはゆっくり頷いた。
「思えるようになるよ。ゆっくりでいい。
この世界は、ちゃんと時間をくれるから」
静かな音楽が流れるカフェの中で、ふたりは黙って紅茶を飲んだ。
言葉がなくても、何かが共有されている気がした。
紅茶を口に含みながら、悠真はふと思った。
あの“異世界”が、いまは少しだけ羨ましくなくなっていることに。
「ねえ、悠真」
紅茶を飲み終えた頃、ティリアがふと声を落とした。
それまでの穏やかな会話とは少し違う、どこか、核心に触れようとする声。
「うん?」
「この世界に来る前、わたし──ほんとは、何もかも信じられなくなってたんだ」
その言葉は、静かな夜の空気をわずかに揺らした。
「信じられない、って……?」
「人でも、正義でも、自分の力でもない。
一番近くにいた仲間たちのことさえ、信じられなくなってた。
みんな“正しいことのために戦ってる”って言ってたけど、
どこかで“本当にこれが正しいのか?”って誰も口にしなかった」
ティリアの指先が、カップの縁をなぞる。
その動きは、何かを確認するように、ゆっくりとしていた。
「勇者って、誰かに信じてもらう立場でしょ?
でも、本当に必要だったのは──わたし自身が、誰かを信じることだったんだよね。
それを途中で、手放してしまった」
「……そのせいで?」
悠真は、声を絞るように訊いた。
ティリアは、視線をテーブルの一点に落としたまま、小さく頷いた。
「うん。終わらせたのは、わたしだった。
魔王を倒したあとも、何も信じられないまま、戦いの“続き”が来るのが怖かった。
……だから、自分から、物語を降りたの」
その告白には、後悔や悲しみよりも、“整理された事実”のような静けさがあった。
悠真は思う。
異世界で英雄として称えられた人間が、「物語を終わらせた」と語るこの穏やかさに、
彼女がどれだけの葛藤と空白を抱えてこの世界にやってきたのかが、にじみ出ていた。
「でもね」
ティリアが言葉を継いだ。
「こっちに来て、わたしは少しだけ、“信じ直す”ってことができるかもしれないって思えたの。
誰かの言葉とか、表情とか、小さな行動が、
“信じてもいいかも”って思える瞬間を、ちょっとずつ増やしてくれる」
「……信じ直す、か」
「うん。信じるって、昔は一回きりの覚悟だと思ってた。
でも本当は、一度裏切られたり、失敗したあとに、もう一度だけ手を伸ばすことなんじゃないかって思ってる」
その言葉を聞いて、悠真の中で、胸の奥にしまっていたいくつかの記憶がぼんやりと立ち上がった。
親に期待されなかったこと。
学校で名前のない透明な存在だったこと。
誰にも届かなかった努力。
“信じてはいけない”と、いつの間にか決めつけていた日々。
でも今、こうして誰かと話している。
たったひとりの人間に「会って、話を聞いてみたい」と思ったその選択が、
いつの間にか、“誰かを信じ直す”最初の一歩になっていたのかもしれない。
「俺も……ちょっとだけ、信じてみようかなって思ってる」
「それ、すごくいいことだよ」
ティリアはそう言って、目を細めた。
それは、勝利の笑みではなかった。
ひとりの旅人が、長い長い迷路の先で誰かと道が交わったことを、
静かに喜んでいるような、そんな笑顔だった。
***
日曜の午後。
講座ボランティアの初回サポート活動の日、悠真は集合時間より少し早く会場に着いた。
市民センターの小さな一室には、絵本の展示やマットが敷かれ、やわらかい音楽が流れていた。
スタッフやボランティアたちは各々準備を進めていて、悠真もその中に混ざって静かに動いていた。
誰かに話しかけられるでもなく、自分からも特に話さない。
けれど、「今日もよろしく」と声をかけられたとき、自然に「はい」と答えられた。
そのことが、なぜか少しうれしかった。
「佐伯さん、このマット、もう一枚出してもらっていいですか?」
係の女性が声をかけてきたときも、悠真は自然に動けた。
ぎこちない笑顔を返しながら指を動かし、指示された位置に敷く。
──ほんの少しずつ、ここに“存在できている”気がする。
準備が終わり、子どもたちが親に連れられて集まってくる。
部屋の隅に、一人でぽつんと立っている男の子がいた。
膝を抱えて、床のタイルばかりを見つめている。
気づけば、悠真は彼を見ていた。
自分にとって、見慣れた姿だった。
かつての自分も、集団の中であんなふうに空気の一部になっていた。
──声、かけてみようか。
足が止まる。
迷いが生まれる。
──でも、何を言えば? どうすれば?
そうして何歩か近づこうとしたそのとき、ティリアの言葉がふっと頭に蘇った。
“誰かに必要とされる前に、自分から触れにいけるのが、この世界の特権”
それは、強くなくていい。完璧でなくてもいい。
ただ、向かうだけでいい。
「……こんにちは。えっと……本、読むの、好き?」
少年は顔を上げたが、すぐには何も言わなかった。
それでも、完全に無視するのでも、逃げるのでもなかった。
悠真は、ポケットからメモを取り出して見せる。
「今日読む予定の本、いくつかあるんだけど……これとか、俺は好きだったよ。
中にね、“耳が聞こえないフクロウ”が出てくるんだけど、ちゃんと誰かと友達になるんだ。……よかったら」
メモに書かれたタイトルと、背表紙のコピー。
少年はそれを受け取り、静かにうなずいた。
それだけだった。けれど十分だった。
本番が始まったとき、少年は椅子に座っていた。
絵本を抱え、まだ誰とも話してはいなかったが、目線はちゃんと読み手を向いていた。
それを横目に見ながら、悠真は思った。
信じることは、一方通行でも始められる。
返ってこないかもしれない。でも、それでも“差し出すこと”はできる。
誰かに話しかけること。
手を差し出すこと。
期待せず、見返りを求めず、それでも向き合おうとすること。
それを、自分ができたという事実が、
今日という一日を、“ただの時間”じゃないものに変えてくれていた。
読み聞かせが終わり、解散の空気が漂う中、少年が小さく、頭を下げた。
ほんのわずかだったが、悠真にはそれが、精一杯の「ありがとう」に思えた。
──名前も、声も聞かなかった。
でも、今日の彼を、確かに見ていた。
そして、自分自身も、確かに“いた”と感じていた。