第1話
朝の満員電車は、今日も静かだった。
誰もが自分のスマートフォンに視線を落とし、会話らしい会話は一切ない。
吊り広告には、こうあった。
「異世界転生病、若年層で再拡大。20代の自殺率、過去最多に」
〜“死にたい”の代わりに、“転生したい”が合言葉〜
佐伯悠真は、それを見ながら思う。
──またか。
広告の下には、「もしあなたや周囲に転生願望が見られたら、専門機関に相談を」と、小さな文字が並んでいる。
だが、そんな注意書きに耳を貸すような人間は、きっと最初から転生病にはならない。
「異世界に行きたい」
「現実をリセットしたい」
そんな言葉が、もはや冗談ではなく、本気で交わされる時代になっていた。
SNSのトレンドにも「#異世界転生したい」が定期的に浮上し、まとめサイトには“成功者の報告”と称した作り話が溢れている。
「俺も転生したら、うまくやれるのかな」
悠真は自分でも驚くほど自然に、そんなことを考えていた。
無意識に、自分の人生が“失敗”だったと認めているのだ。
高校までの自分は、もう少しマシだった気がする。
大学は滑り止め。就職も失敗。いまは週5の派遣バイト。
客に頭を下げ、上司の顔色をうかがい、最低限の生活費を稼ぐ日々。
一度だけ相談した親には、「現実を見ろ」と電話口で突き放された。
それからは連絡すらしていない。
駅に到着しても、誰ひとり目を合わせようとしない。
この街全体が、誰かの視線を避けながら生きているようだ。
改札を抜け、バイト先までの道を歩く途中、ふと路上で配られている冊子が目に入る。
『異世界転生病と向き合うために』
発行:厚生省メンタル支援課
小さなパンフレットに、「あなたはひとりじゃない」と書かれている。
だが、悠真はそれを受け取らなかった。
──ひとりじゃない、なんて言葉で救われるなら、とっくに救われてる。
ビルの影が歩道を覆い、風が冷たく通り抜ける。
その中で、彼はひとつだけ確信していた。
この世界で生きている実感が、どんどん希薄になっていく──。
***
バイト先のコンビニに着いても、心はどこか遠いままだった。
「おはようございます」
そう口にしても、返事はない。店長はスマホを見たまま、指だけでタイムカードの端末を指した。
いつものことだ。
ここでは、誰かの“代わり”になれる程度の存在であれば、それで十分だった。
エプロンをつけ、裏から売り場に出る。
冷たい蛍光灯の下で、黙々と棚を整理する。新商品のお菓子。即席ラーメン。
どれも、誰かの日常にとっては価値があるのだろう。
でも、自分にはどうだ? ここで働く意味は? 生きる意味は?
──何か一つでも、自分にしかできないことがあったら。
そう思うたび、頭の中には“異世界”の光景が浮かんだ。
剣と魔法。特別な才能。宿命。スキル。
努力しなくても誰かに期待されて、仲間がいて、目的があって。
そんな世界があれば、きっと自分は……
「佐伯くん、手止まってるよ」
「……すみません」
上司の注意に反射的に頭を下げる。怒りも悔しさも、湧いてこない。
ただ、空っぽのまま、動作を再開する。
それでも、手が動きながら、頭の中では“転生”のことばかり考えていた。
夜中、よく見ている匿名掲示板では、こんな投稿を読んだことがある。
《転生した瞬間、自分の手に光るスキルの刻印が浮かんだ。それが【戦略王】だった。》
《前世の記憶を持ってたおかげで、こっちの世界の科学理論を応用できて最強になれた》
《こっちでは生きてるだけで役立たずだったけど、あっちでは重宝された。まじで世界が違うと居場所も変わる》
本気で信じているわけじゃない。
でも、何百、何千と並ぶそうした書き込みに目を通しているうちに、思ってしまうのだ。
──選ばれなかったのは、今の世界だっただけじゃないのか?
こっちの世界では、たまたま“外れ”だっただけ。
“当たり”の世界にさえ行ければ、何か変わるのかもしれない。
いや、変わってほしい。
この人生のまま終わるなんて、ただの罰ゲームじゃないか。
気づけば、スマホのメモ帳には「死に方のリスト」が書かれていた。
睡眠薬。冷凍庫。高所。鉄道。
どれがいちばん“異世界っぽい”のか、真剣に考えた日もある。
レジに客が来た音で、我に返る。
「温めますか?」
何も考えずに問うと、目の前の青年は無言でうなずいた。
レンジに弁当を入れ、スタートボタンを押す。
時間が動く音だけが店内に響いた。
悠真はふと思う。
──もし、目の前のこのレンジが、異世界への転送装置だったら。
そう考えた時、自分がどれだけ現実から離れ始めているかを、ほんの少しだけ自覚した。
***
翌日、悠真はバイトの休憩中にスマホを見ていて、思わず手を止めた。
《“元勇者”ティリア・リューシャ=リアンナ、現世で格闘技大会に出場!?》
というニュースが、まとめサイトのトップに出ていた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
記事によれば、“異世界から転移してきた”と自称する少女が、民間の総合格闘技イベントで無名ながら優勝したらしい。
それも、素手で。武器も魔法もなし。
記者のインタビューでは、「敵の体勢を崩して、呼吸の隙を突くだけ」と笑って答えていた。
動画も貼られていた。
そこに映っていたのは、どこにでもいそうな、背の高くはない細身の少女だった。
髪は無造作に後ろで結ばれ、服装も質素だ。
だが、その動きには不自然なほど無駄がなかった。
相手の攻撃を紙一重でかわし、関節の可動域を的確に読み、指一本で体勢を崩す。
技術の粋とも言えるその所作に、コメント欄には「柔道の達人?」「古武術?」「いや、CGじゃないのか?」と憶測が飛び交っていた。
悠真は、目を離せなかった。
彼女の動きには、なにか──説明のつかない「積み重ね」があった。
作られたキャラクターではなく、磨き上げた“現実”がにじみ出ている。
記事の最後に、ティリアがインタビューでこう語ったとあった。
「異世界では、強いから認められるわけじゃなかった。
誰かを守ったり、助けたり、何かを選び抜いた結果として、強くなっただけ。
こっちの世界でもそれは同じだって、今はわかる」
──異世界で、彼女は“強くなる理由”を持っていたのか。
悠真は初めて、“転生”を信じてみてもいいかもしれない、と思った。
もしも彼女が本当に異世界から来たのなら──。
そして、今も変わらず、自分の足で立っているのなら。
自分も、まだ何かができるのかもしれない。
いや、できないとしても、“できるようになろうとする人”にはなれるかもしれない。
制服の胸ポケットにスマホをしまいながら、悠真は深く息を吐いた。
現実は変わらない。
でも、自分の「見ているもの」は、少しだけ変わった気がした。
***
その夜、いつものように帰宅し、薄暗い部屋のベッドに横たわりながら、悠真はスマホの画面をじっと見つめていた。
検索履歴には「ティリア 勇者」「異世界からの転生」「元勇者 現在地」といった文字が並んでいる。
これまで何度となく、「異世界に行きたい」と思ってきた。
だけど、「誰かに会いたい」と感じたのは、いつぶりだろう。
部屋には生活の匂いがほとんどなかった。
外食のゴミもなければ、人を招いた形跡もない。
ただ、薄い布団と、傷のついたノートパソコンと、読みかけの小説と、うるさくない時計の音。
そんな静かな場所で、ティリアの言葉が何度も頭の中に響いていた。
「こっちの世界でも、それは同じだって、今はわかる」
“こっちの世界”でも。
それは、努力しても報われないと信じていたこの現実を、彼女が真正面から肯定しているということだった。
信じたくない。
でも、信じてみたい。
その狭間で、悠真はスマホに手を伸ばす。
Twitter──いや、Xと呼ばれて久しいSNSアプリを開くと、トレンドに「#ティリア」「#元勇者のリアル」が並んでいた。
その中に、本人と思しきアカウントがあった。
@Tiria_Lianna
プロフィールには《世界を一度クリアしました。次のステージで迷い中》とだけ書かれていた。
投稿はあまり多くない。
格闘大会の様子をアップしていたのも、ティリア本人だった。
その最後のポストには、こうあった。
《異世界で得たもののほとんどは、この世界の技術や訓練で代用できるって分かった。
結局のところ、“積み重ねること”をやめなければ、どこだって生きていける。
……たぶんね》
“たぶん”という言葉に、悠真は少しだけ安堵した。
完璧な人間じゃない。間違えたり迷ったりしながら、強くなった人。
彼女も、自分とそう変わらない“人間”だったのかもしれない。
そう思えたとき、ようやく胸の奥が少しだけ動いた。
「……会ってみたい」
それは、心の中の小さな声だった。
でも、その声は、今まで自分が発したどんな言葉よりも、ずっと“生きている”感じがした。
悠真は初めて、DMの画面を開く。
メッセージを書く手が震える。
『はじめまして。記事を見て、あなたに興味を持ちました。
本当に異世界にいたのなら、少しだけ話を聞かせてくれませんか?』
送信ボタンを押す指が、ほんの一瞬だけ、ためらう。
でも、押した。
“誰かに話を聞きたい”というのは、
“まだ自分は知りたいことがある”という証で、
つまり、まだ、自分は生きることをやめていないのだ。
そのことに、気づいていた。
***
翌朝、悠真はスマホの通知音で目を覚ました。
寝ぼけ眼で画面を開き、指が止まる。
XのDM──送信者は、ティリア・リューシャ=リアンナ。
目が覚めた。いや、頭を殴られたような感覚だった。
『こんにちは。返信ありがとう。
来るなら、今週の土曜、13時。上野の国際子ども図書館のカフェで。
おしゃべりくらいなら、付き合えるよ。』
たったそれだけ。
それだけなのに、胸の奥で何かがじんと熱を帯びていく。
「……会えるのか、ほんとに」
上野。
日暮里から電車で15分もかからない。
普段は遊びにも行かない場所だけど、遠すぎるというほどではない。
むしろ、行こうと思えばすぐに行けてしまう距離に、
“異世界から来た元勇者”がいるかもしれない──。
そう思うと、現実感があるのかないのか、わからなくなってきた。
スマホをベッドの上に放り出し、悠真は天井を見上げる。
“異世界転生したい”と願いながら、
“誰にも会いたくない”と思っていた自分が、
“会って話がしたい”と、こんなふうに誰かに連絡を取ったこと自体が、何年ぶりだろうか。
勇気を出したというよりも、
心の底に眠っていた“人間らしい何か”が、無理やり引きずり出されたような感覚だった。
「上野、行けるな……」
スマホで地図を確認する。
図書館の2階にカフェが併設されているらしい。人通りは多いが、会話にはちょうどよさそうな場所だ。
彼女は逃げ道を用意していた。
繁華街でもなければ、密室でもない。
人目のある、でも干渉されすぎない場所。
本気で誰かを騙したい人間が選ぶ場所じゃない。
それに、DMの文章には妙な誠実さがあった。
“興味があるなら話してもいい”──ただそれだけの姿勢。
こっちが勝手に知りたがっているだけ、という前提で、
向こうは押し付けも煽りもせず、ただ静かに応じてくれていた。
ベッドから起き上がり、部屋のカーテンを開けた。
光が差し込んできた。
この世界は、あいかわらずどこまでも現実で、
空も、道路も、すべて変わらず灰色だ。
けれど、今週の土曜──その一点だけが、ほんの少しだけ“色”を持って見えた。
***
土曜日、昼の上野は、観光客と買い物客でざわついていた。
けれど、不忍池を横目に歩き、国際子ども図書館の石造りの建物に入ると、空気が一変した。
空調の効いた静けさ。靴音がやけに響くフロア。
悠真は2階のカフェスペースの前で足を止め、スマホの時刻を確認する。
12時57分。
まだ来ていないのか──そう思った瞬間、
店内の奥、窓際の席にひとりの少女の姿があった。
ポニーテールのように髪を後ろで束ね、Tシャツにジーンズという目立たない服装。
だが、その佇まいは妙に目を引いた。背筋はまっすぐ、指先の動きにさえ淀みがない。
そして彼女の前には──カフェオレと、厚いノート。
間違いない。あれが、ティリアだ。
悠真は、息をひとつ吐いて、静かに近づいた。
「……あの」
顔を上げたティリアは、すぐに微笑んだ。
人当たりのいい営業スマイルでもなく、突き放すようなよそよそしさもない。
まるで旧友に声をかけられたような、あたたかくも自然な笑顔だった。
「来てくれてありがとう。悠真さん、で合ってる?」
「……うん、あ、はい。佐伯悠真です」
「じゃあ、座って。カフェオレでいい? あらかじめ頼んでおいたから」
ティリアの声は落ち着いていた。
年齢は自分とそう変わらないか、もしかしたら少し年下にも見える。
でも、その眼差しには、場数を踏んだ人間特有の“重み”があった。
「……すごいよな、あの動画。格闘技のやつ」
「見た? ちょっと、やりすぎたかもって思ってた」
「でもね、こっちの世界の“実技”って、数値じゃ伝わりにくいから。結果で見せるのが、手っ取り早いのよ」
さらりと、まるで当たり前のことのように語るティリア。
異世界から来た“元勇者”──。そう名乗っているわりには、話しぶりは淡々としていて、芝居じみたところは一切ない。
悠真は、ふと口をついて出た言葉を止められなかった。
「……本当に、異世界から来たの?」
ティリアは一瞬だけ考える素振りを見せ、それから小さく首をかしげた。
「そう言うと、嘘っぽく聞こえるでしょ。でもね──私はもう“異世界”って言い方が、あんまり好きじゃないの」
「どういう意味?」
「どの世界にいたって、人がやることって、結局似てるのよ。魔法を覚えるにも、剣を振るうにも、地道に覚えて、失敗して、積み重ねて。
……そういうのが、ぜんぶ“こっち”の世界にもあるでしょ?」
ティリアは自分の胸を、軽く指で叩いた。
「私は“異世界から来た人”じゃなくて、“別の場所でたくさん努力した人”で、たまたま今ここにいる──そう言ったほうが、しっくりくるかな」
その言葉は、悠真の胸に静かに降りてきた。
努力、積み重ね──。
それはこれまで何度も、悠真を突き刺してきた言葉だった。
報われなかった時間。空回りした自分。
何も変わらなかった現実。
それを、無力だった証拠のように突きつけられてきた。
でも今、ティリアはその“努力”を、
誰かを責めるためではなく、自分を語るために使っていた。
「……なんで、そんなふうに、自然に話せるの?」
「うーん……たぶんね、こっちの世界は“戦わなくても生きていける”から。少しだけ、気を緩めても平気なのよ」
「それに──こういう出会いも、私にとっては“こっちの世界で積む経験”のひとつ。そう思ってるから」
ティリアの声は、まるで読後の静けさのように、耳に残った。
窓の外では、風に木々が揺れていた。
現実に似合わないほど、穏やかな時間だった。
──この人は、本当に“この世界”の人間なんだろうか?
けれど、そんな問いはどうでもよかった。
この日、この瞬間から、何かが変わってしまう気がしていた。
変わってほしいと、初めて思ってしまっていた。
***
「……こっちの世界の生活って、どう? つらくない?」
カフェオレの残りをゆっくり口に運びながら、悠真は訊いた。
答えに困っているわけじゃなかった。ただ、彼女の中にある“現実”を、もう少しだけ知りたくなっていた。
ティリアはカップの縁に指をかけ、ふっと息をついた。
「うん、まぁ……つらい時もあるよ。こっちはこっちで、思った以上に手ごわい」
「そうなんだ……意外」
「意外?」
「だって、君──ティリアさんは、“異世界で勇者だった”って言ってるくらいだし。もっと全部、スムーズにこなしてそうな感じする」
「勇者だったからこそ、苦労への耐性は高いけど、苦労がなくなるわけじゃないよ」
ティリアはそう言ってから、少しだけ笑った。
「向こうで培った技術の多くは、こっちの訓練でも手に入る。
たとえば剣技も、こっちの武術や身体操作の理論で再現できる部分が多い。
でもね──“心の立て直し方”だけは、どこの世界でも難しいのよ」
「心の、立て直し方……?」
「うん。どこにいたって、自分の価値を疑い始めると、何をしても空回りする。
“認められたい”とか“役に立ちたい”とか、そういう気持ちは行き先を間違えると、どんどん自分を削る方向に進んじゃう」
悠真はその言葉に、胸を突かれたような気がした。
「それ、俺、たぶん……ずっとやってたかも」
「そっか。わたしも、そうだったよ」
その言い方があまりに自然で、悠真は返す言葉を失った。
この人は、慰めようとしているわけじゃない。
励まそうとしているわけでもない。
ただ、自分の傷跡を見せてくれているだけだった。
そして、それがいちばん優しかった。
「……ほんとはさ。俺、ずっと“転生したかった”んだ。今の人生をやり直したくて」
言葉が、ふっとこぼれた。
ティリアは少しも驚かなかった。ただ、頷いた。
「うん。そう思って当然の状況もあるよ。
だけど……“別の世界に行けばうまくいく”って思うのは、たいてい幻想。
環境が変わるだけで花開く人は、変わる前から地中でちゃんと根を張ってる」
「……じゃあ、俺は?」
悠真の声は、どこかで答えを求めるように、脆かった。
ティリアは、視線を合わせたまま、まっすぐに答えた。
「あなたがどうかは、あなたが決めること。
でも──こうして誰かに会いに来たっていう一歩は、ちゃんと根になってると思う」
言葉に詰まった悠真の代わりに、図書館の大きな時計が、午後1時半を告げた。
「……そろそろ行くね。また、話したくなったら連絡して」
「うん……ありがとう」
ティリアは立ち上がり、会釈をして、何も名残惜しそうな素振りを見せずに歩き出した。
その背中は軽やかで、けれど芯の通った、まさに“歩いてきた人”の背中だった。
悠真は、座ったまま、窓の外に視線を投げた。
光に揺れる緑と、行き交う人々の影。
その中に、ほんのわずかだけ、自分も“含まれている”ような気がした。
今すぐ何かが変わるわけじゃない。
だけど、今日みたいな日を“残しておきたい”と思える自分が、まだここにいる。
そのことが、今は少しだけ嬉しかった。