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4.これは恋という名の……厄介事? ~事件と葛藤とすれ違い~

梅雨寒の日が続いたかと思えば、いきなり真夏のような日差しが照りつけたりと、どうにも落ち着かない天候が続いていた。俺の心も、そんな空模様に呼応するかのように、晴れたり曇ったり、時には土砂降りになったりと、忙しないことこの上ない。


原因は、言うまでもなく隣の部屋の住人、桜井紬だ。

彼女が風邪をひいて寝込んだあの日以来、俺の中で何かが確実に変わり始めていた。いや、変わったというよりは、今まで見て見ぬふりをしていた感情が、抑えきれなくなりつつある、と言った方が正確か。


壁の向こうから聞こえてくる、相変わらずの調子っぱずれな鼻歌。アパートの廊下で鉢合わせした時の、太陽みたいな笑顔。そして、時折俺の部屋のドアをノックしては、「田中さーん、これ、おすそ分けですー!」と、得体の知れない(しかし、なぜか憎めない)手料理を差し出してくる、あの屈託のなさ。


それら全てが、以前はただの「騒音」であり「迷惑」でしかなかったはずなのに、今の俺にとっては、どこか心地よく、そして……胸を締め付けるような、甘酸っぱい(四十路の男が使うにはあまりにも気色悪い表現だが)何かへと変わりつつあった。


(……まずいな。これは、本気でまずい)


翻訳作業の合間、俺は何度となく頭を抱えた。

認めたくはないが、認めざるを得ない。俺は、桜井紬のことが、どうしようもなく……好き、なのだ。


馬鹿げている。相手は十七も年下の、うら若き乙女だ。かたや俺は、しがない中年翻訳家。部屋はゴミ屋敷寸前、社会的地位もなければ経済力もない。あるのは、積み重なった古本と、日に日に増えていく白髪くらいなものだ。こんな男が、あんな太陽みたいに明るくて、純粋で、キラキラした女の子に恋をするなど、おこがましいにも程がある。


だが、理屈ではそう分かっていても、心は正直だ。

彼女の笑顔を見るたびに、胸が高鳴る。彼女の声を聞くたびに、心が和む。そして、彼女が他の男(例えば、バイト先のカフェの若い客とか)と親しげに話しているのを見かけると、腹の底から形容しがたい黒い感情が湧き上がってくるのだ。……ああ、これが嫉妬というやつか。我ながら、みっともないにも程がある。


そんな自己嫌悪と、日に日に募る想いとの間で板挟みになりながら、俺は表面上はこれまで通りの「ぶっきらぼうな隣人」を演じ続けていた。だが、心の奥底では、いつ爆発するとも知れない時限爆弾を抱えているような、そんな不安定な日々を送っていた。


そんなある日の夜だった。

その日は朝から雨が降り続き、夕方からはさらに雨脚が強まっていた。俺はいつものように翻訳作業に没頭していたが、窓を叩きつける激しい雨音のせいで、どうにも集中できない。


(……ひどい雨だな。こんな夜に出歩く奴もいないだろうが)


ふと、壁の向こうの気配が気になった。桜井紬は、確か今日はカフェのバイトが遅番だと言っていたはずだ。こんな土砂降りの中、ちゃんと帰ってこられるのだろうか。あいつのことだ、どうせ傘も持たずに飛び出して、ずぶ濡れになって帰ってくるに違いない。そして、また風邪をひいて俺に迷惑をかけるのだ。……いや、迷惑だなんて思っちゃいないが。


そんなことを考えていると、不意に、胸騒ぎのようなものを覚えた。

なんだろう、この嫌な予感は。


俺は翻訳作業の手を止め、窓の外に目をやる。街灯の光が雨に乱反射し、視界は悪い。だが、アパートの前の通りを、傘も差さずに駆け足で通り過ぎる人影がいくつか見える。


(……まさかとは思うが)


いてもたってもいられなくなり、俺は部屋の窓を開け、アパートの前の通りを見下ろした。

その時だった。


「きゃあっ!」


女性の短い悲鳴と、それに続く男たちの下品な笑い声が、激しい雨音に混じって俺の耳に届いた。

心臓が、ドクンと大きく跳ねる。


まさか――!


俺は部屋を飛び出し、雨の中に駆け出していた。傘を差す余裕などなかった。

アパートの角を曲がった薄暗い路地。そこに、俺の嫌な予感は、最悪の形で現実のものとなっていた。


数人の男たちが、桜井紬を取り囲んでいた。男たちは明らかに酔っており、呂律の回らない声で、卑猥な言葉を彼女に投げかけている。紬は、恐怖で顔を引きつらせ、小さな体を震わせながら後ずさっている。その手には、バイト先で使っているのだろう、可愛らしいクマの絵柄のトートバッグが握りしめられている。


「おい、何してる!」


俺は、自分でも驚くほど低い、ドスの利いた声で叫んでいた。

男たちが、一斉にこちらを振り返る。その目は濁り、アルコールの匂いが雨に混じって鼻をつく。


「あ? なんだテメェ。関係ねえだろ、引っ込んでろや」


男の一人が、唾を吐き捨てるように言った。

その瞬間、俺の中で何かがブチリと切れた。


「関係なくはないな。……彼女は、俺の隣人だ」


俺はゆっくりと男たちに近づきながら、冷静に、しかし有無を言わせぬ強い口調で告げる。雨水が顔を伝い、視界を遮るが、そんなことはどうでもよかった。


「隣人だぁ? ケッ、それがどうしたってんだよ。この女が可愛いから、ちょっと遊んでやろうとしてるだけだろうが」

「そうそう、邪魔すんなら、お前から先に遊んでやろうか? ああん?」


男たちは下卑た笑みを浮かべ、ジリジリと俺との距離を詰めてくる。

数では不利だ。しかも、相手は酔っ払い。何をしてくるか分からない。だが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、腹の底から、冷たい怒りのようなものが湧き上がってくるのを感じていた。


(……昔取った杵柄、ってやつか。まさか、こんなところで役に立つとはな)


出版社時代、取材で何度か修羅場を潜り抜けた経験が、こんなところで活きるとは皮肉なものだ。あの頃に比べれば、酔っ払いの数人など、どうということはない。


俺は、紬の前に立ちはだかるようにして、男たちと対峙する。


「……忠告しておくが、今のうちに消えた方が身のためだぞ。俺は、あまり気が長くないんでね」

「なんだと、コラ!」


逆上した男の一人が、殴りかかってきた。

俺はそれを冷静にかわし、男の腕を掴んで捻り上げる。関節技なんて、何年ぶりに使っただろうか。


「ぐあっ!」


男が苦痛の声を上げる。他の男たちは、一瞬怯んだように動きを止めた。


「……次はない。さっさと失せろ。警察を呼ぶぞ」


俺が低い声でそう告げると、男たちは顔を見合わせ、やがて悪態をつきながらも、そそくさとその場から逃げ去っていった。まるで、潮が引くように。


後に残されたのは、激しい雨音と、そして、恐怖でその場にへたり込んでいる桜井紬の姿だけだった。


「……大丈夫か、桜井さん」


俺は、荒くなった息を整えながら、彼女に声をかける。

紬は、ゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。その瞳には、恐怖と、安堵と、そして……何か別の、今まで見たことのない感情が浮かんでいるように見えた。


「た、田中さん……! あ、ありがとうございました……! こ、怖かったです……!」


彼女は震える声でそう言うと、わっと泣き出し、俺の胸に顔をうずめてきた。

突然のことに、俺は体が硬直する。温かくて、柔らかい感触。そして、雨と、彼女のシャンプーの匂いが混じり合った、甘い香り。


(……おいおい、これは、まずいだろ)


俺の心臓が、警鐘を乱れ打つ。

だが、彼女の震える体を支えながら、俺はなぜか、その温もりを拒絶することができなかった。


「……もう大丈夫だ。俺がいる」


気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。

柄にもないセリフだ。だが、それは紛れもなく、俺の本心だった。



紬を部屋まで送り届け、ずぶ濡れになった服を着替えて自室に戻った俺は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。

先ほどの出来事が、まるでスローモーションのように頭の中で繰り返される。

男たちの下卑た笑い声。紬の恐怖に歪んだ顔。そして、俺の胸で泣きじゃくった彼女の温もりと、甘い香り。


(……俺は、あいつのことが……本気で、好きなんだ)


もはや、否定しようのない事実だった。

あの瞬間、彼女を守りたいと、心の底から思った。そのためなら、自分がどうなっても構わないとさえ思った。これが恋でなくて、何だと言うのだろう。


だが、その自覚と同時に、猛烈な自己嫌悪と絶望感が俺を襲う。


(……だから、ダメなんだ。俺なんかじゃ、ダメなんだ)


年齢差。経済力。将来性。性格。

どれを取っても、俺は桜井紬という存在には釣り合わない。彼女は、太陽のように明るく、誰からも愛されるべき存在だ。そんな彼女の隣に、俺のような日陰者の、冴えない中年男がいていいはずがない。


彼女の若さ。彼女の未来。それを、俺が奪う権利などない。

俺が彼女に与えられるものなど、何もない。むしろ、不幸にするだけだ。


(……そうだ。これは、ただの隣人としての責任感だ。あんな状況を見過ごせなかっただけだ。それ以上でも、以下でもない。……そうに決まってる)


俺は必死に自分に言い聞かせる。だが、一度自覚してしまったこの想いは、そう簡単には消えてくれそうになかった。胸の奥で、熱い何かが燻り続けている。


その夜、俺は一睡もできなかった。

雨はいつの間にか止んでいたが、俺の心の中は、依然として土砂降りのままだった。



あの一件以来、俺は意識的に桜井紬を避けるようになった。

アパートの廊下で顔を合わせても、ぶっきらぼうな挨拶だけですませ、彼女が何か話しかけようとしても、「悪い、急いでるんで」と足早にその場を立ち去る。ゴミ出しの時間も、わざと彼女とずらすようにした。


壁の向こうから聞こえてくる彼女の鼻歌も、以前のように素直に聞くことができなくなっていた。むしろ、その明るい歌声が、俺の胸を締め付ける。


そんな俺の態度の変化に、紬が気づかないはずはなかった。

最初は、「田中さん、最近なんだかお忙しそうですね?」と、いつもの調子で話しかけてきた彼女も、俺のそっけない態度が続くうちに、次第に口数が減っていった。


ある朝、ゴミ出しの際に鉢合わせした時だった。

彼女は、少しおどおどした様子で俺に近づいてくると、小さな声で尋ねてきた。


「……あの、田中さん。私、何か……田中さんを怒らせるようなこと、しちゃいましたか……?」


その潤んだ瞳は、不安と悲しみに揺れていた。

俺は、胸が張り裂けそうになるのを必死に堪え、努めて冷静な声で答える。


「……別に。何も。ただ、俺は今、仕事が立て込んでて忙しいだけだ。だから、あんまり構わないでくれ」


嘘だった。仕事が忙しいのは事実だが、それが理由ではない。

だが、本当のことなど、言えるはずもなかった。


「……そう、ですか。ごめんなさい、お邪魔しました……」


紬は、力なくそう言うと、俯いたまま自分の部屋へと戻っていった。その小さな背中が、やけに寂しげに見えた。

壁の向こうから聞こえてくる鼻歌は、その日を境に、パタリと聞こえなくなった。


俺は、自室の窓から見える灰色の空を見上げながら、奥歯をギリリと噛みしめる。


(……これでいいんだ。これが、あいつのためなんだ)


自分にそう言い聞かせても、心の痛みは少しも和らがない。

むしろ、罪悪感という名の重石が、さらに俺の心を深く沈めていくようだった。


桜井紬という太陽が、俺のすぐ隣から、静かにその光を失おうとしていた。

そして、俺は、ただそれを見ていることしかできないのだった。

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