3.心の距離と予期せぬドキドキ ~風邪と掃除と一つ屋根の下~
桜井紬という名の歩く災害警報、あるいは予測不可能な天然現象が隣に住み着いてから、季節は梅雨へと移り変わっていた。
ジメジメとした湿気が部屋の空気を重くし、俺の気分もそれに比例して低空飛行を続ける。翻訳の仕事は相変わらず締め切りに追われ、俺の部屋の「混沌の中の秩序」は、さらにその混沌の度合いを深めていた。
そんなある日の夜だった。
俺がいつものようにカフェインと安眠妨害ドリンクを友として翻訳作業に没頭していると、不意に部屋の電気がプツリと消えた。
「……は?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。窓の外は、雨雲のせいで月明かりもなく、完全な闇。パソコンのディスプレイだけが、ぼんやりと俺の顔を照らしている。
(……停電か? このタイミングで?)
最悪だ。作業中のデータはこまめに保存する癖をつけているから問題ないが、この暗闇では仕事にならない。しかも、この湿度の高い夜にエアコンなしとか、拷問以外の何物でもない。
俺はため息をつき、手探りで机の上に置いてあったはずのスマホを探す。あった。ライト機能をオンにし、部屋の中を照らす。うん、改めて見てもひどい部屋だ。我ながら感心する。
とりあえず、ブレーカーを確認しに行くか。アパート全体の停電なのか、それとも俺の部屋だけなのか。
スマホのライトを頼りに玄関へ向かい、ドアを開けると、そこには同じようにスマホのライトを手に、困惑した表情でキョロキョロしている桜井紬の姿があった。どうやら、アパート全体が停電らしい。
「あ、田中さーん! やっぱり停電ですよね!? どうしましょう、真っ暗ですー!」
俺の姿を認めた紬は、不安そうな声を上げる。その手には、なぜかアロマキャンドルが握られている。おい、それ、火事の元だぞ。絶対に点けるなよ。
「……みたいだな。とりあえず、ブレーカー見てくる。あんたは部屋で大人しくしてろ。そのキャンドルは使うなよ」
「は、はいっ! でも、田中さん、お一人で大丈夫ですか? 暗くて危ないですよ?」
「平気だ。これでも夜型人間なんでね。暗闇には慣れてる」
そう言って、俺はアパートの共有廊下にある配電盤へと向かう。紬も心配そうに後をついてくる。やめろ、足手まといにしかならん。
配電盤の蓋を開け、ブレーカーを確認するが、特に落ちている様子はない。となると、これは地域一帯の停電か、あるいはアパートの主電源に何か問題が起きたか。どちらにしろ、俺たち住人にできることはなさそうだ。
「……ダメだな。ブレーカーは落ちてない。電力会社に連絡するか、大家さんに連絡するか……」
「ええーっ、じゃあ、しばらくこのままなんですか? 私、ちょうどお気に入りのドラマが始まる時間だったのにー! 録画もできないし、ショックですー!」
……知るか。そんなことまで俺に報告するな。
というか、ドラマが見られないくらいで済むなら、まだマシな方だろう。俺なんて、仕事が中断してるんだぞ。
「とりあえず、電力会社のホームページでも見てみるか。情報が出てるかもしれん」
俺がスマホで検索しようとすると、紬が「あっ!」と声を上げた。
「私、懐中電灯持ってます! えっと、確か……あ、ありました! じゃーん!」
そう言って彼女が意気揚々と取り出したのは、クマの形をした可愛らしい懐中電灯。だが、スイッチを入れても、頼りない光がチカチカと点滅するだけだった。
「……あれ? 電池切れてるみたいです……えへへ」
だろうな。そんな気はしてたよ。こいつの持ち物で、いざという時に役に立った試しがない。
結局、俺のスマホのライトを頼りに、二人でアパートの階段の踊り場に腰を下ろすことになった。電力会社のホームページには「現在、一部地域で停電が発生しております。復旧作業に努めておりますので、今しばらくお待ちください」という、お決まりの文句が掲載されているだけだった。
「はぁ……いつになったら復旧するんでしょうねぇ」
紬は不安そうに呟きながら、膝を抱える。暗闇の中で、彼女のシルエットだけがぼんやりと浮かび上がっている。いつも騒がしい彼女がこうして静かにしていると、なんだか調子が狂う。
「……さあな。こればっかりは待つしかないだろ」
「ですよねぇ……。でも、なんだか、こうしていると秘密基地みたいで、ちょっとだけワクワクしませんか?」
……しません。俺は一刻も早く、このジメジメとした暗闇から解放されたい。エアコンの効いた部屋で、キンキンに冷えたビールが飲みたい。
だが、そんな俺のささやかな願いとは裏腹に、紬は妙に楽しそうだ。
「私、子供の頃、よく押し入れの中に隠れて、懐中電灯でお絵かきとかしてたんです。あの狭くて暗い感じが、なんだか落ち着くんですよねぇ」
「……そうか」
「田中さんは、子供の頃、どんな遊びが好きだったんですか?」
唐突な質問に、俺は少しだけ言葉に詰まる。子供の頃の記憶なんて、もう随分と奥底にしまい込んでいたからだ。
「……別に、普通の子供だったよ。外で走り回ったり、ゲームしたり……」
「へえー! 田中さんもゲームとかするんですね! なんだか意外です!」
何が意外なんだ。俺だって人間だぞ。ゲームくらいする。まあ、最近はもっぱら海外のインディーズゲームばかりだが。
「……今度、もしよかったら、私と一緒に対戦ゲームしませんか? 私、格闘ゲームとか得意なんですよ! 見た目によらず、結構強いんですから!」
……絶対にしねえ。こいつと格闘ゲームとか、想像しただけで疲れる。どうせ、ボタン連打で奇跡的な勝利を収めたりするんだろう。そして、その度に「わーい! 勝っちゃいましたー! 田中さん、弱すぎですー!」とか言って煽ってくるに違いない。
そんなことを考えていると、不意に、紬が「あっ」と小さな声を上げた。
「田中さん、見てください! 雨、止んだみたいです! 雲の隙間から、お月様が見えますよ!」
促されて窓の外を見ると、確かにいつの間にか雨は止み、分厚い雲の切れ間から、ぼんやりとした月が顔を覗かせていた。その淡い光が、階段の踊り場をうっすらと照らし出す。
「わあ……綺麗ですねぇ……」
紬はうっとりとした表情で月を見上げている。その横顔は、いつもよりも少しだけ大人びて見えた。暗闇と月明かりのせいだろうか。それとも、俺の気のせいか。
しばらくの間、二人で黙って月を眺めていた。
いつもは騒がしい紬の生活音も、今は聞こえない。聞こえるのは、時折遠くで鳴る車の音と、そして、お互いの微かな寝息だけ。いや、寝息じゃねえ、呼吸音だ。訂正する。
不意に、紬が俺の方を向いて、ニコリと微笑んだ。
「なんだか、不思議な夜ですね。停電も、たまにはいいものかもしれません」
……よくねえよ。早く電気復旧しろ。
俺は心の中でそう毒づきながらも、なぜか彼女のその言葉を否定する気にはなれなかった。
*
停電騒ぎから数日後。
梅雨の中休みなのか、その日は朝から気持ちの良い晴天が広がっていた。壁の向こうからは、相変わらず桜井紬の「今日はカーテンお洗濯するぞー♪ ふわふわ良い匂い~♪」という、絶好調な鼻歌が聞こえてくる。
俺は、溜まりに溜まった翻訳の仕事を片付けるべく、朝からパソコンに向かっていた。だが、どうにも集中できない。原因は分かっている。この部屋の惨状だ。
床には本の雪崩。机の上には書類の山。そして、部屋の隅には脱ぎっぱなしの服が小さな丘を形成している。もはや「混沌の中の秩序」などという言い訳も通用しないレベルだ。これはただのゴミ屋敷寸前だ。
(……さすがに、少しは片付けるか)
重い腰を上げ、とりあえず床に散らばった本を拾い集め始めた、その時だった。
ピンポーン。
またか。
ドアスコープを覗くと、案の定、そこには満面の笑みを浮かべた桜井紬が立っていた。その手には、なぜかゴム手袋とマスク、そしてホウキとチリトリが握られている。……なんだそのフル装備は。
「田中さーん! こんにちはー! 今日は絶好のお掃除日和ですね!」
ドアを開けるなり、彼女はそう言って元気よく挨拶してきた。
「……はあ。で、何の用だ? 俺は今、取り込み中なんだが」
「えへへ、実はですね、田中さんのお部屋、そろそろ大掃除した方がいいんじゃないかなーって思いまして! 私、お手伝いしますよ! お掃除、得意なんです! 名付けて、『田中さんのお部屋ぴかぴか大作戦』です!」
……だから、そういうのはいいんだって。
しかも、人の部屋を勝手に「大作戦」の対象にするな。プライバシーの侵害だぞ。
「いや、間に合ってる。自分でやるから」
「えー、そんなこと言わずに! 一人でやるより、二人でやった方が絶対楽しいですし、早く終わりますよ! ね? ね?」
そう言って、彼女はキラキラとした瞳で俺を見上げてくる。その瞳には、「手伝わせてくれなきゃ、ここに座り込んじゃいますよ?」という無言の圧力が込められているような気がする。……気のせいであってほしい。
結局、俺は彼女のその勢いに押し切られる形で、自室への侵入を許可してしまった。これが間違いの始まりだった。
「わあー! 田中さんのお部屋、やっぱり秘密基地みたいでワクワクしますねー! まるで宝の山です!」
部屋に入るなり、紬は目を輝かせながらそんなことを言う。
いや、宝の山じゃなくて、ただのゴミの山だ。現実を見ろ。
「とりあえず、どこから手をつけましょうか? やっぱり、あの本の雪崩からですかね? それとも、あの魅惑的な衣類の丘陵地帯から攻略しますか?」
……いちいちネーミングがうざい。
しかも、勝手に俺の服を「魅惑的」とか言うな。ただの洗濯物の山だ。
「……まずは、床に散らってる本を片付ける。それから、ゴミを分別して……」
「はーい! 了解しました、隊長! 桜井紬、田中隊長の指揮のもと、お部屋ぴかぴか大作戦、開始しまーす!」
そう言って、彼女はゴム手袋をパンパンと鳴らし、勇ましくホウキを構えた。
……もう、好きにしてくれ。俺は疲れたよ。
それから数時間、俺の部屋は桜井紬という名の小型ハリケーンによって蹂躙され続けた。
彼女は、見た目に似合わず意外とパワフルで、テキパキと(そして時々、盛大に何かを倒したり落としたりしながら)部屋を片付けていく。
「田中さーん! この漫画雑誌、もう読まないんですかー? ちょっと中身見てもいいですかー?」
「……好きにしろ。どうせ大したもんじゃない」
「わー! この漫画、私も好きなんですー! 特にこの主人公のライバルキャラがカッコよくて……きゃー! 田中さんもこのキャラ好きなんですか!? 気が合いますねー!」
……いや、別に好きじゃない。というか、その漫画、俺が中学生の頃に読んでたやつだぞ。なんでまだこんなところにあるんだ。
「田中さーん! この引き出しの奥から、なんだか古めかしいカセットテープが出てきましたよー! これ、なんですかー?」
「……それは俺の黒歴史だ。見なかったことにして、そっと元に戻しておいてくれ」
「えー、気になるー! ちょっとだけ聞いてもいいですかー?」
「ダメだ、絶対にダメだ!」
そんなやり取りを繰り返しながらも、部屋は少しずつ、本当に少しずつだが、人間が住めるレベルに近づいていった。
ホコリまみれになりながらも、紬は終始楽しそうだ。時折、俺の私物を発見しては「これは何ですかー?」と無邪気に質問してくる。その度に俺は「それは仕事の資料だ」「それは昔の趣味の名残だ」「それは見なかったことにしろ」と、ぶっきらぼうに答えるしかなかった。
掃除の途中、彼女は本棚の奥から、一冊の古いアルバムを見つけ出した。
「わあ、田中さん、これ、もしかして……?」
俺が止める間もなく、紬はアルバムのページをめくり始める。そこには、まだ幼い頃の、丸々と太った俺の写真が何枚も貼られていた。
「か、可愛いー! 田中さんの子供の頃の写真ですかー? ほっぺがぷにぷにで、マシュマロみたいですー!」
紬は腹を抱えて笑い転げている。やめろ、笑うな。それは俺にとって封印されし過去なんだ。
「なっ……! 返せ! それは見るなと言っただろ!」
俺は顔を真っ赤にしながら、彼女の手からアルバムを奪い取ろうとする。だが、紬はひらりとかわし、さらにページをめくっていく。
「あはは! この写真の田中さん、泥んこまみれで泣いてますよー! 何があったんですかー?」
「……うるさい! もういいから、さっさと掃除に戻れ!」
結局、俺の黒歴史の一部は、桜井紬という名の詮索好きによって白日の下に晒されてしまった。だが、不思議と、それほど嫌な気はしなかった。むしろ、彼女の屈託のない笑顔を見ていると、なんだかこっちまで釣られて笑ってしまいそうになる。……いや、笑わんぞ、絶対に。
数時間に及ぶ「お部屋ぴかぴか大作戦」は、夕暮れ時になってようやく終わりを告げた。
床は見え、机の上も少しはスッキリし、衣類の丘陵地帯は無事に更地となった。俺の部屋が、これほどまでに広かったとは。正直、感動すら覚えるレベルだ。
「ふぅー! やりましたね、田中さん! これで田中さんも、快適な翻訳ライフが送れますよ!」
汗だくになりながらも、紬は満足そうな笑顔を浮かべていた。その顔には、ホコリとススが混じったような、芸術的な汚れが付着している。
「……ああ。まあ、助かったよ。礼を言う」
俺は素直に頭を下げた。こいつのお節介がなければ、俺の部屋は永遠に魔窟のままだっただろう。
「えへへ、どういたしまして! お礼なんていいですよー。でも、もしよかったら……今度、私のおすすめのカフェ、一緒に行きませんか? すっごく美味しいケーキがあるんです!」
……やっぱり、何か見返りを求めてきやがった。
だが、今日ばかりは、その誘いを無下に断る気にはなれなかった。
「……まあ、気が向いたらな」
俺がそう言うと、紬は「やったー!」と子供のようにはしゃいだ。
その笑顔は、西日のオレンジ色の光を浴びて、いつもよりも少しだけ、輝いて見えた。
*
季節は本格的な梅雨に入り、連日ジメジメとした雨が降り続いていた。
そんなある日のことだ。壁の向こうから聞こえてくる桜井紬の鼻歌が、いつもよりも明らかに元気がないことに気づいた。時折、ゴホゴホと咳き込むような音も混じっている。
(……おいおい、まさか風邪でもひいたのか、あいつ)
普段、あれだけ元気に騒ぎ立てている女が静かだと、逆に心配になるから不思議だ。
俺は翻訳作業の手を止め、壁の向こうの気配に耳を澄ませる。やはり、咳の音が断続的に聞こえてくる。しかも、なんだか苦しそうだ。
(……ったく、しょうがねえな)
俺はため息をつき、重い腰を上げた。
とりあえず、様子だけでも見ておくか。万が一、部屋の中でぶっ倒れてたりしたら、寝覚めが悪い。
紬の部屋のドアをノックすると、しばらくして、弱々しい声で「……はーい」という返事があった。
ドアがゆっくりと開くと、そこには顔を真っ赤にし、額に冷却シートを貼り付け、毛布にくるまった桜井紬が立っていた。その目は潤み、呼吸も少し荒い。どう見ても、本格的に風邪をひいている。
「た、たなかさ……ごほっごほっ……な、何か御用ですか……?」
咳き込みながら、彼女はか細い声で尋ねてきた。
「……いや、別に。ただ、あんたの声が聞こえないから、どうしたのかと思ってな」
「ご、ごめんなさい……ちょっと、風邪をひいちゃったみたいで……うつしちゃうと悪いので、今日は……ごほっ」
そう言って、彼女は申し訳なさそうに俯く。その姿は、普段の元気いっぱいな彼女とはまるで別人のようだ。
「……とりあえず、何か食ったのか。薬は?」
「食欲なくて……ゼリーくらいしか……お薬も、お昼に飲んだんですけど、あんまり効いてないみたいで……ふわぁ……頭がガンガンします……寒いです……」
そう言って、彼女はブルブルと体を震わせる。
これは、相当こじらせてるな。放っておくわけにもいかないだろう。
「……ったく。とりあえず、中に入れ。何か温かいものでも作るから」
俺は半ば強引に彼女を部屋の中に押し戻し、キッチンへと向かう。紬の部屋は、彼女の性格を反映してか、可愛らしい小物やぬいぐるみで溢れているが、今はそれらもどこか元気がないように見える。
冷蔵庫を開けると、案の定、ろくな食材が入っていない。ゼリー、ヨーグルト、あとは謎のハーブティーのパックくらいだ。こんな食生活じゃ、風邪も治るもんも治らん。
「……お粥くらいなら作れるが、食えるか?」
「……はい。田中さんが作ってくれるなら……なんでも美味しいです……ごほっ」
弱々しいながらも、彼女はそう言って小さく微笑んだ。
俺は自分の部屋に戻り、米と、確か買い置きしてあったはずの梅干し、それと、なぜか母親がたまに送ってくる高級な海苔(俺は普段食わない)を持ってくる。ついでに、自分の部屋にあった未使用の毛布と、昔ながらの湯たんぽ(なぜこんなものが俺の部屋にあるのかは永遠の謎だ)も持参した。
慣れない手つきで米を研ぎ、土鍋(これもなぜか紬の部屋にあった)で粥を炊き始める。その間、紬は布団の中で、俺の背中をぼんやりと見つめているようだった。
しばらくして、コトコトと優しい音を立てて粥が炊き上がる。梅干しを叩いて添え、海苔を揉んで散らす。我ながら、病人食にしては上出来だ。
「……ほら、できたぞ。熱いから気をつけろよ」
お盆に乗せて粥を運ぶと、紬はゆっくりと体を起こした。その額には、びっしょりと汗が滲んでいる。
「わあ……美味しそうです……いい匂い……」
彼女は、ふーふーと息を吹きかけながら、おそるおそる粥を口に運ぶ。
「……おいしい……すっごく、優しい味がします……田中さん、お料理もできるんですね……なんだか、意外です……」
「……別に。これくらい、誰でも作れるだろ」
そう言いながらも、彼女が美味しそうに粥を食べる姿を見ていると、なんだか胸の奥が温かくなるのを感じる。
「田中さん……ありがとうございます……ごほっ……いつも、迷惑ばっかりかけてるのに……こんな時まで、優しくしてくれて……なんだか、夢みたいです……」
そう言って、彼女の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなく、どこか安堵と感謝が入り混じったような、温かい涙のように見えた。
「……別に。隣人がぶっ倒れてたら、後味が悪いだけだ。早く治せ」
俺は照れ隠しにそう言って、そっぽを向く。
だが、彼女の潤んだ瞳と、ほんのりと赤らんだ頬が、なぜか妙に……。
(……いや、何を考えてるんだ、俺は)
慌てて邪念を振り払う。こいつはただの隣人で、しかも病人だぞ。変な気を起こすな。
紬は、ゆっくりとしたペースで粥を完食すると、「ごちそうさまでした」と小さな声で呟き、そのままコテンと眠ってしまった。その寝顔は、普段の騒がしさとは裏腹に、とても穏やかで、どこか幼く見える。
俺は、彼女が蹴飛ばした毛布をそっとかけ直し、額の冷却シートを新しいものに貼り替える。その時、不意に彼女の小さな手が、俺の手に触れた。驚くほど熱い。
(……相当、熱が高いな)
俺は、彼女の手をそっと握り返していた。
なぜそんなことをしたのか、自分でもよく分からない。ただ、この小さな手を、この温もりを、もう少しだけ感じていたいと思ったのだ。
眠っている紬の、穏やかな寝息だけが部屋に響く。
俺はしばらくの間、ただ黙って、彼女の手を握りしめていた。
壁の向こうの騒がしい隣人が、こんなにもか弱く、そして……愛おしく思える日が来るなんて。
(……いや、だから、何を考えてるんだ、俺は!)
俺は再び自分に活を入れ、そっと彼女の手を離す。
だが、胸の奥で鳴り始めた、この予期せぬドキドキとした鼓動は、なかなか収まってくれそうになかった。