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2.浸食する日常、戸惑う隣人 ~キッチンからは危険な香り~

桜井紬という名の歩く効果音発生装置、あるいは天然系最終兵器が隣に越してきてから、一週間が経過した。

俺の平穏だった(と本人は思っている)日常は、その存在によって確実に、そして静かに崩壊しつつあった。いや、むしろ騒がしいな。訂正しよう。騒々しく崩壊しつつあった。


まず、朝だ。

俺は基本的に夜型人間なので、朝日が昇る時間帯はまだ夢の中、というのが常だった。しかし、最近はどうだ。壁の向こうから聞こえてくる、小鳥のさえずりもかくやという(ただし音程は壊滅的な)鼻歌と、ドタバタという効果音、そして「わー! 今日もいいお天気ー! お洗濯日和ー!」という、天気予報士もびっくりのハイテンションな声で強制的に叩き起こされる。目覚まし時計など、もはや不要だ。桜井紬そのものが、俺にとっての人間目覚ましと化している。迷惑極まりない。


そして、アパート住人の宿命とも言うべきイベントが、週に数回、俺と彼女の間に強制的に発生する。

そう、ゴミ出しだ。


その朝も、俺はできるだけ気配を消し、忍者もかくやという隠密行動でゴミ袋を片手に自室のドアを開けた。月曜日は燃えるゴミの日。俺の生活の縮図とも言える、コンビニ弁当の容器やらカップ麺の残骸やらが詰まったそれを、誰にも見られることなく集積所に投棄する。それが俺のミッションだ。


「あ、田中さーん! おはようございまーす!」


……ミッション失敗。

背後から聞こえてきたのは、ここ数日ですっかり聞き慣れてしまった、鈴を転がすような(ただし、時々割れたような音も混じる)声。振り返るまでもない。桜井紬だ。


「……どうも」


俺はできるだけ素っ気なく、しかし社会人としての最低限の礼儀は保ちつつ(と自分では思っている)会釈する。ゴミ袋を持つ手が、妙に汗ばむ。


「わあ、田中さんもゴミ出しですか? 奇遇ですね! 私もなんです!」


いや、奇遇でもなんでもねえよ。アパートの住人が同じ曜日にゴミ出すの、当たり前だろ。こいつの頭の中は、お花畑か何かでできているのだろうか。


紬は、両手に可愛らしいピンク色のゴミ袋を二つも抱えている。中身はパンパンだ。一体何をそんなに溜め込んでいるんだ。


「田中さんのゴミ袋、なんだかスリムですね! 私のなんて、ほら、こんなにパンパンで……ちょっと恥ずかしいです、えへへ」


そう言って、彼女は自分のゴミ袋を俺の目の前に突き出す。やめろ。他人のゴミ袋をジロジロ見る趣味はねえし、お前のゴミ袋の中身なんぞ、金輪際知りたくもない。


「……別に。中身の問題だろ」


俺はそう言って、さっさとゴミ集積所に向かおうとする。だがしかし。


「あっ、待ってください、田中さん! あのですね、私、昨日、すごい発見をしたんです!」

「はあ」

「お豆腐って、冷凍するとお肉みたいになるらしいんですよー! ヘルシーで美味しそうじゃないですか? だから、今度、田中さんにもお豆腐ハンバーグ作ってあげますね!」


……はあ? 冷凍豆腐ハンバーグ? なんだそのパワーワードは。しかも、それをゴミ出しのタイミングで宣言してくる意味が分からん。こいつの料理スキルは未知数だが、なんとなく地雷臭がプンプンする。


「……そうか。楽しみにしてる(棒読み)」


俺は適当に相槌を打ち、今度こそその場を離れようとした。だが、紬は「それでですね!」とさらに食い下がってくる。もうやめてくれ。俺のライフはもうゼロよ。


「そのハンバーグ、隠し味にイチゴジャムとか入れたら、もっと美味しくなると思いませんか!? 甘じょっぱくて、新しい扉が開けるかも!」

「…………」


俺は無言でゴミ袋を集積所に叩き込み、足早にその場を去った。背後から「あれー? 田中さーん? イチゴジャム、ダメでしたかー?」という間の抜けた声が聞こえてきたが、もちろん無視だ。豆腐ハンバーグにイチゴジャムとか、新しい扉どころか、異次元の扉が開きそうだ。絶対に食わん。


ゴミ出しだけではない。アパートの狭い廊下で、あるいは階段の踊り場で、俺は高確率で桜井紬とエンカウントする。その度に彼女は「あ、田中さーん!」と子犬のように駆け寄り(そして大抵何かにつまずきそうになり)、俺の理解の範疇を軽く超える話題を一方的に提供してくるのだ。


「田中さーん、こんにちは! 今日の田中さんのお洋服、なんだかシブくて素敵ですね! そのヨレっとした感じが、こなれ感があって、通好みって感じがします!」


……これ、三日連続で着てる寝間着なんだが。こなれ感とか通好みとか、そういう高尚なものじゃ断じてない。ただのズボラだ。こいつのポジティブ変換能力は、ある意味尊敬に値するかもしれん。


「田中さーん! 大変ですー! さっき、アパートの前にすっごく可愛い猫ちゃんがいたんです! 写真撮ろうとしたら逃げられちゃいましたけど……田中さんも猫、お好きですか?」


……別に好きでも嫌いでもないが、お前が興奮して話す内容の半分は猫か食べ物のことだな、と最近気づき始めた。


そんな日々が続き、俺の精神は徐々に、しかし確実に摩耗していった。

だが、人間とは不思議なもので、これほどまでに理解不能な隣人の存在にも、少しずつ慣れてしまうものらしい。いや、慣れというか、諦めに近いのかもしれないが。


ある日の午後、俺は珍しく自室の窓を開け、淀んだ空気を入れ替えていた。翻訳作業に行き詰まり、気分転換のつもりだった。壁の向こうからは、相変わらず紬の楽しげな鼻歌が聞こえてくる。「今日はクッキー焼くぞー♪ サクサク美味しいクッキー♪」……どうやら、また何か創作活動に励んでいるらしい。頼むから、焦がして火災報知器を鳴らすのだけは勘弁してくれよ、と心の中で祈る。


その祈りが通じなかったのか、数分後。

どこからともなく、甘ったるい匂いと共に、何かが焦げるような、非常に香ばしい――いや、はっきり言って危険な匂いが漂ってきた。


(……ん? なんだこの匂い。まさか……)


嫌な予感が的中し、壁の向こうから「きゃー! あわわわ! け、煙がー!」という、紬の悲鳴に近い声が聞こえてきた。

おいおいおい、マジかよ。本当にやらかしやがったのか、あいつ。


俺は慌てて自室のドアを開け、隣の部屋へと駆け寄る。ドアノブに手をかけると、熱くはない。煙は出ているが、まだ火の手が上がっているわけではなさそうだ。


「桜井さん! 大丈夫か!?」


ドアを叩きながら叫ぶと、中から「た、田中さーん! ど、どうしましょうー! クッキーが、クッキーが炭になっちゃいましたー!」という、半泣きの声が返ってきた。


(……クッキーが炭に、ね。まあ、予想通りと言えば予想通りだが)


俺はため息をつき、ドアノブを回す。幸い、鍵はかかっていなかった。


ドアを開けると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。

部屋中に立ち込める白い煙。鼻をつく甘ったるい匂いと、焦げ臭い匂いのデンジャラスなハーモニー。そして、キッチンのオーブンの前で、エプロン姿のまま煙に巻かれ、目を白黒させている桜井紬。その手には、見るも無残な黒い物体――かつてクッキーだったもの――が乗った天板が握られていた。


「……とりあえず、窓開けろ! 換気だ!」


俺は叫びながら部屋に飛び込み、手近な窓を片っ端から開け放つ。紬も慌てて別の窓を開けようとするが、なぜか固くて開かないらしい。


「だ、ダメですー! この窓、私の力じゃ開きませーん!」

「貸せ!」


俺は紬を押し退け、固い窓枠に力を込める。ギギギ、という嫌な音を立てて、ようやく窓が開いた。新鮮な空気が流れ込み、少しだけ煙が薄くなる。


「……で、何をやらかしたんだ、あんたは」


煙が少し収まったところで、俺は改めて紬に尋ねる。彼女は、顔中ススだらけで、エプロンにも黒いシミが点々とついている。まるで戦場帰りの兵士のようだ。いや、自爆テロか。


「そ、それが……クッキーを焼いてたんですけど、レシピに『オーブンで15分』って書いてあったのに、私、うっかりタイマーを51分に設定しちゃったみたいで……気づいたら、こんなことに……うぅ」


そう言って、彼女は再び炭化したクッキー(?)の残骸を俺に見せる。

……51分? 15分と51分をどうやったら間違えるんだ。もはや天然とかドジとかいうレベルを超越している。ある意味、才能だ。


「……火災報知器、鳴らなくてよかったな」

「は、はい……本当に……。煙がすごくて、もうダメかと思いました……」


紬は心底ホッとしたように胸をなでおろす。その拍子に、頭にうっすらと積もっていた小麦粉(なぜ?)がパラパラと舞い落ちた。


「とりあえず、その炭は捨てろ。あと、部屋の換気はしばらく続けろよ。匂いが取れるまで大変だぞ、これ」

「は、はい! ありがとうございます、田中さん! また助けられちゃいました……! 田中さんがいなかったら、私、今頃アパートを丸焦げにしてたかもしれません……!」


そう言って、紬は深々と頭を下げる。その勢いで、また小麦粉が舞う。もうやめてくれ。俺の気管支が持たない。


「……別に。隣人が火事を起こしたら、俺も迷惑するだけだ」


ぶっきらぼうにそう言うと、俺は自分の部屋に戻ろうとした。これ以上、このデンジャラスキッチンに関わっていると、何が起こるか分かったものじゃない。


「あのっ! 田中さん!」


しかし、そんな俺の背中に、紬の明るい声が追い討ちをかける。


「お詫びと言ってはなんですけど、今度こそ、絶対に美味しいお菓子作りますから! リベンジさせてください! 次は……そうだ! シフォンケーキなんてどうでしょう! ふわっふわの、天使の羽みたいなやつ!」


……だから、そういうのはいいんだって。

しかも、クッキーを炭にする女が、高難易度のシフォンケーキに挑戦するとか、無謀以外の何物でもない。次こそ、アパートがリアルに丸焦げになるぞ。


「……気持ちだけ受け取っとく。それより、あんたはもう二度とオーブンに近づくな。それが人類の平和のためだ」


俺はそう言い残し、今度こそ自分の部屋へと退散した。

ドアを閉めた後も、壁の向こうからは「えー、そんなー! 私だってやればできる子なんですー!」という、全く説得力のない声が聞こえてきた。


(……やれやれ。本当に、飽きない女だな)


俺は苦笑いしながら、換気のために開けていた自室の窓を閉めた。

部屋にはまだ、甘ったるい焦げ臭い匂いが微かに残っている。それは、桜井紬という名の、予測不可能な隣人が俺の日常にもたらした、新たな「香り」だった。



そんなある日の夕暮れ時。

俺は珍しく、近所のスーパーへと買い出しに出かけていた。冷蔵庫の中身が、いよいよ本格的に「無」へと近づきつつあったからだ。


スーパーからの帰り道、俺は桜井紬がバイトしているという「カフェ・ド・ポルカ」の前を通りかかった。別に、彼女の様子を窺うつもりなど毛頭なかった。ただ、偶然、本当に偶然、その店の前が帰り道だっただけだ。断じて、やましい気持ちなどない。


ガラス張りの店内を何気なく一瞥した俺は、思わず足を止めた。

カウンターの中で、いつものふわふわとした雰囲気とは少し違う、キリッとした表情でコーヒーを淹れている紬の姿があったからだ。


彼女は、白いブラウスに黒いエプロンという、シンプルなカフェ店員の制服を身にまとっている。髪は後ろで一つにまとめられ、普段よりも少しだけ大人びて見える。その真剣な眼差しは、俺が普段目にしている「天然ふわふわ女子」のそれとは、まるで別人のようだ。


(……へえ。あいつ、あんな顔もするんだな)


意外だった。いつもヘラヘラしている(失礼)か、ドジを踏んでアタフタしているかのどちらかだと思っていたが、仕事中はちゃんと「プロ」の顔をしているらしい。


その時、店内にいた初老の女性客が、紬に何か話しかけた。紬は、にこやかな笑顔で応対し、時折楽しそうに相槌を打っている。その表情は、心からの優しさに満ち溢れているように見えた。


(……まあ、愛想だけはいいからな、あいつは)


俺は少しだけ意地悪くそう思いながらも、なぜかその光景から目が離せないでいた。

紬の、あの屈託のない笑顔。あれは、計算されたものではなく、本当に心からのものなのだろう。だからこそ、あの初老の女性も、あんなに穏やかな表情で彼女と話をしているのだ。


不意に、紬と目が合ったような気がして、俺は慌ててその場を立ち去った。

別に、見られて困るようなことは何もないはずなのに、なぜか心臓が妙にドキドキしていた。


(……なんだ今の。ただの隣人のバイト姿を見ただけだろ)


俺は自分にそう言い聞かせながら、早足でアパートへの道を急ぐ。

だが、脳裏には、先ほどの紬の真剣な横顔と、優しい笑顔が交互に浮かんでは消えるのだった。


その夜。

いつものように翻訳作業に没頭していると、壁の向こうから、微かなかすり泣くような声が聞こえてきた。


(……ん? なんだ?)


最初は気のせいかと思った。だが、耳を澄ますと、やはりそれは紬の声のようだ。いつものハイテンションな独り言や、調子っぱずれな鼻歌とは明らかに違う、押し殺したような嗚咽。


(……おいおい、どうしたんだよ)


まさか、何か事件にでも巻き込まれたのか? それとも、体調でも悪いのか?

様々な憶測が頭の中を駆け巡る。気にはなるが、かといって、いきなり隣の部屋に踏み込んで「どうした?」と尋ねる勇気も、権利も俺にはない。


俺はしばらくの間、ペンを置いたまま、壁の向こうの気配に全神経を集中させた。

すすり泣く声は、途切れ途切れに続き、やがてそれはしゃくりあげるような音に変わっていった。


(……まずいな。これは、相当参ってるぞ)


どうするべきか。大家さんに連絡するか? いや、それも大袈裟すぎるか。

俺が逡巡していると、不意に、壁の向こうの嗚咽がピタリと止んだ。

そして、代わりに聞こえてきたのは――。


「……うぅ……ヒック……なんて、なんて悲しいお話なの……! 主人公が、可哀想すぎる……! ティッシュ、ティッシュどこー!?」


……え?

俺は思わず椅子からずり落ちそうになった。

なんだ、映画かドラマでも見て泣いてただけかよ! 人を心配させやがって!


安堵と同時に、猛烈な脱力感が俺を襲う。

まったく、この桜井紬という女は、どこまで人を振り回せば気が済むんだ。


翌朝、ゴミ出しの際に顔を合わせた紬は、少しだけ目を赤く腫らしていたが、いつもと変わらぬハイテンションで俺に挨拶してきた。


「田中さーん! おはようございます! 昨日、すっごく感動的な映画を観ちゃって、もう涙が止まらなくて! ティッシュ一箱、全部使っちゃいましたよー! えへへ!」


そう言ってケロリと笑う彼女に、俺はもはやツッコミを入れる気力も湧かなかった。

ただ、一つだけ分かったことがある。

この隣人の感情の起伏は、ジェットコースター並みに激しいということだ。そして、俺は否応なく、そのジェットコースターに巻き込まれつつあるらしい。


そんなある日、俺は近所の古本屋で、偶然にも紬と鉢合わせした。

彼女は、絵本コーナーで熱心に何かを探しているようだった。その真剣な横顔は、先日カフェで見たものと少しだけ重なる。


「あ、田中さん! こんにちは! 奇遇ですね!」


俺に気づいた紬は、パッと顔を輝かせた。


「……どうも」

「田中さんも本をお探しですか? 私、今、甥っ子にプレゼントする絵本を探してるんです。でも、たくさんありすぎて迷っちゃって……」


そう言って困ったように眉を下げる紬。

俺は普段、絵本など見向きもしないが、なぜかその時、ふと彼女が手に取っていた絵本に目が留まった。それは、俺が子供の頃に好きだった、少しマイナーな海外の絵本だった。


「……それ、懐かしいな」


思わず、そんな言葉が口をついて出ていた。


「え? 田中さん、この絵本ご存知なんですか!?」


紬は驚いたように目を丸くする。


「……ああ。子供の頃、好きでよく読んでた」

「わー! そうなんですね! 私もこの作家さんの絵、すごく温かくて大好きなんです! まさか田中さんもお好きだったなんて……なんだか、すっごく嬉しいです!」


そう言って、彼女は心の底から嬉しそうに笑った。その笑顔は、いつもの「天然ふわふわ」なものではなく、どこか純粋で、まっすぐなもののように感じられた。


(……まあ、たまたまだろ。偶然、好みが一致しただけだ)


俺は心の中でそう呟きながらも、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。

桜井紬という名の、理解不能な隣人。

彼女の存在は、相変わらず俺の日常を掻き乱し続けているが、その「騒音」は、いつの間にか、ほんの少しだけ、心地よい「BGM」に変わりつつあるのかもしれない。


……いや、気のせいだな。絶対に気のせいだ。

俺はそう自分に強く言い聞かせ、足早に古本屋を後にした。

だが、その日一日、俺の頭の中では、あのマイナーな絵本の主人公と、そして、嬉しそうに笑う紬の顔が、なぜか交互にリフレインしていたのだった。

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