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1.邂逅は突然に、あるいは必然に ~隣の部屋から騒音来たる~

全5話、完結まで毎日投稿予約済みです。

「……ったく、この比喩表現、どう訳しゃ原文の皮肉が伝わるんだ。まあ、どうせクライアントはそこまで見ちゃいねえか」


俺、田中浩一、四十二歳、独身。しがない在宅翻訳家だ。

キーボードを叩く指を止め、凝り固まった首をゴキリと鳴らす。時刻は午前二時半。世間様がとっくに夢の中であろう時間帯に、俺はカフェインと安物の栄養ドリンクで無理やり覚醒させた脳みそをフル回転させていた。


目の前のディスプレイには、小難しい専門用語と、やたらと持って回った言い回しが並ぶ海外の医学論文。正直、こんなもん誰が読むんだと思わなくもないが、これも生活のためだ。文句を言っても一円にもならん。


ふう、と息を吐き、飲み干したエナジードリンクの空き缶を、足元に積み重なった“それら”の山にそっと追加する。我ながら見事な造形美だ。コンビニ弁当の容器、カップ麺の残骸、読み終えた(というより積ん読状態の)専門書、そして無数の空き缶。これらは全て、俺の城――もとい、六畳一間の木造アパートの自室を構成する重要な要素なのだ。「混沌の中の秩序」とでも言っておこうか。誰にも理解されんだろうが。


以前は都内の小さな出版社で編集者をしていた。それなりにやり甲斐はあったが、人間関係の軋轢と、サービス残業という名の無償労働の嵐に心身ともに擦り減り、気づけば三十代後半でドロップアウト。以来、この「魔窟」で細々と翻訳の仕事をして糊口をしのいでいる。社会との接点は、たまにメールで送られてくる仕事の依頼と、週に二度のコンビニへの買い出しくらいなものだ。


BGMは、くぐもった音質の古いジャズ。それと、もう一つ。

ここ数日、俺の日常に新たなノイズ――いや、生活音と言うべきか――が加わった。壁の薄い安アパートの宿命だが、以前の隣人は年配の物静かな男性だったので、ほとんど気にならなかった。しかし、数日前にその隣人が引っ越していき、そして昨日あたりから、壁の向こう側が妙に騒がしい。


(……ん? また何かやってるな)


耳を澄ますと、ゴトゴト、ガタガタ、何かを組み立てているような音。そして、時折聞こえてくる、調子っぱずれだが妙に楽しげな鼻歌。どうやら新しい住人が入ったらしい。頼むから、深夜に大音量で音楽を聴いたり、友人を大勢招き入れたりするようなパリピではないことを祈る。俺の貴重な睡眠時間と集中力を削がれるのは勘弁願いたい。


そんなことを考えながら再び翻訳作業に戻ろうとした、その時だった。


コンコン、コンコン。


どこか間の抜けたリズムで、俺の部屋のドアがノックされた。

時刻は、昼下がり。週末の土曜日だ。こんな時間に俺を訪ねてくる人間など、いるはずがない。セールスか、あるいは何かの勧誘か。どちらにしろ、居留守一択だ。俺は息を潜め、キーボードを打つ音も立てずに、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。


「ごめんくださーい! お隣に引っ越してきた者でーす!」


……いや、声でけぇよ。しかも、明らかに独り言じゃない。ドアの向こうの気配は、一向に立ち去る様子がない。それどころか。


「あのー、もしかして、留守ですかー? でも、なんか生活音聞こえますよー?」


聞こえてるなら察しろよ! 空気読め、空気! 俺は心の中で絶叫する。だが、そんな俺の心の叫びなど、壁の向こうの人物には届くはずもない。


ドタン! バタン! ガシャーン!


「あわわっ! す、すみませーん! ちょっと荷物が……!」


……おいおいおい。ドアの前で一体何をやらかしてるんだ。このままだと、俺の部屋のドアが破壊されかねない勢いだ。あるいは、共用廊下で大惨事を引き起こしている可能性もある。ご近所トラブルは避けたい。特に、俺のような日陰者は。


「はぁ……」


観念して、重い腰を上げる。どうせろくなことにはならないだろうが、無視して後々もっと面倒なことになるよりはマシだろう。ギシギシと軋む床を踏みしめ、玄関へと向かう。ドアスコープを覗く気力すら湧かない。どうせ、ろくでもない奴に決まっている。


ガチャリ、と鍵を開け、ドアを少しだけ開ける。


「……何か?」


できるだけ不機嫌を隠さずに、低い声で応対する。これで大抵のセールスは退散するはずだ。


しかし、ドアの向こうに立っていたのは、俺の予想を遥かに超えた存在だった。


「わぁ! こんにちは!」


開いたドアの隙間から、太陽みたいな笑顔が飛び込んできた。

年の頃は、二十代半ばだろうか。小柄で、ふわふわとしたパステルカラーのワンピースに、手編みっぽいカーディガンを羽織っている。肩にかかる髪は、少し明るい茶色で、ゆるくパーマがかかっている。その手には、抱えきれないほどの荷物。段ボール箱、紙袋、そしてなぜか、小さなクマのぬいぐるみと、緑色の何かが植わった植木鉢まで混ざっている。額にはうっすらと汗が浮かび、少しだけ息が上がっているようだ。


「今日からお隣に越してきました、桜井紬と申します! えっと、これ、ご挨拶の品なんですけど……あわわっ!」


満面の笑みで自己紹介をしたかと思うと、次の瞬間、彼女はバランスを崩した。両手の荷物がグラリと傾ぎ、その中から小さな箱と、例の植木鉢が落下しそうになる。


「危なっ!」


俺は反射的に手を伸ばしていた。かろうじて、緑色の何か――よく見ると小さなサボテンだった――が植わった鉢を空中でキャッチする。我ながら、四十路を超えてもまだ動体視力は衰えていないらしい。


「(……って、なんで俺がこんなことを)」


内心で毒づきながらも、キャッチしたサボテンの鉢をまじまじと見つめる。チクチクとしたトゲが、俺のささくれ立った心を表しているかのようだ。


「わー! ありがとうございます! 田中さん、反射神経すごいですね! スーパーヒーローみたいです!」


パアッと効果音がつきそうなほど顔を輝かせ、彼女――桜井紬と名乗ったか――は俺を褒め称えた。いや、田中って名乗った覚えはないんだが。表札でも見たのか? それにしても、スーパーヒーローって……。


「えへへ、どうぞ、これ、よかったら……つまらないものですが、昨日焼いたマドレーヌです! ちょっと形がいびつなんですけど、味は保証します!」


そう言って彼女が差し出してきたのは、可愛らしいラッピングが施された小さな箱。だが、その箱の隙間からチラリと見えた中身は、一部が明らかに焦げ茶色に変色していた。


(……うわ、手作りかよ。しかも焦げてる。一番面倒なパターンだ、これ)


俺は心の中で盛大にため息をつく。こういう善意の押し売りが、一番タチが悪い。断れば角が立つし、受け取れば後々何かと面倒なことになる。


「……どうも。田中です。わざわざ結構です」


できるだけ感情を込めずに、しかし相手に不快感を与えないギリギリのラインで断りの言葉を口にする。サボテンの鉢は、そっと彼女の足元に置いた。


「えー、そんなこと言わずに! 一生懸命作ったんですから! ね? ね?」


しかし、この桜井紬という女、どうやら俺の処世術が通用する相手ではないらしい。キラキラとした大きな瞳で(しかも若干潤んでいるように見えるのは気のせいか?)俺を見上げ、グイグイとマドレーヌの箱を押し付けてくる。その距離感の近さに、俺は思わず一歩後ずさる。


(……なんだこの女。頭のネジ、何本か飛んでるだろ、絶対)


俺の心のシャッターがガラガラと音を立てて閉まっていくのが分かる。関わってはいけない。本能がそう警告している。


「わあ、田中さんのお部屋、なんだか素敵な本の香りがしますね! 私も本、大好きなんです! 今度おすすめ教えてください!」


俺が後ずさったことで、ドアの隙間が少しだけ広がった。そこから垣間見える俺の「魔窟」――もとい、クリエイティブな空間――を目にした彼女は、何をどう解釈したのか、目を輝かせてそんなことを言い放った。


(……いやいやいや、待て待て待て。俺の部屋がなんだって? 素敵な本の香り? どの口がそんなファンタジーを抜かすんだ。カビとホコリと、あとは俺の加齢臭くらいしかしないはずだが)


「……専門書ばかりなので、面白くないと思いますよ。では、これで」


ピシャリとドアを閉めたい衝動を必死に抑え、俺は最後通告のつもりでそう告げる。これ以上関わると、俺の貴重な週末が台無しになる。


「あっ、待ってください!」


しかし、そんな俺の決意を打ち砕くかのように、彼女はドアの隙間にスッと細い腕を差し込んできた。おいおい、危ないだろ。


「私、あっちの角の『カフェ・ド・ポルカ』でバイトしてるんです! 自家製プリンが絶品なんですよ! 今度ぜひ食べに来てくださいね! 田中さんには特別に、生クリーム増量しちゃいます!」


マシンガンのようにそう言い切ると、彼女はニパッと効果音がつきそうな笑顔を俺に向けた。


(……絶対行かねえ。プリンも生クリームもここ数年食ってねえし、そもそもカフェなんて洒落た場所、俺の辞書には載ってねえ)


「……機会があれば」


そう答えるのが精一杯だった。これ以上関わると、本当に何をされるか分からない。俺は半ば強引にドアを閉め、ガチャリと鍵をかける。ふう、と大きく息を吐き出す。まるで嵐が過ぎ去った後のようだ。


ドアの向こうからは、まだ何かゴソゴソと音がしていたが、やがてそれも遠ざかっていった。


(……とんでもないのが引っ越してきたな)


俺は頭を抱えながら、自室の惨状へと戻る。焦げたマドレーヌの甘ったるい匂いが、なぜか鼻の奥に残っているような気がした。



その夜から、俺の日常は静かに、しかし確実に侵食され始めた。

壁の向こうの桜井紬という女の生活音は、俺の予想を遥かに超えていた。


まず、鼻歌。これが四六時中聞こえてくる。しかも、微妙に音程が外れている上に、選曲が謎だ。最新のJ-POPかと思えば、次の瞬間には昭和のアイドルソングになり、時には童謡まで飛び出す始末。おかげで、俺の頭の中は常に彼女の鼻歌で汚染されている。


次に、独り言。これがまたデカい。

「あーん、また卵割るの失敗しちゃったー! 黄身がぐちゃぐちゃー!」

「わー! この俳優さん、すっごくカッコいいー! 結婚してくださーい!」(おそらくテレビドラマか何かを見ているのだろう)

「えーっと、今日のゴミ出しは……燃えるゴミ、っと。あ、牛乳パックはリサイクルだから別ね! よーし、完璧!」


……完璧じゃねえよ。お前の生活、ダダ漏れだよ。プライバシーって言葉知ってるか?


そして極めつけは、深夜の通販番組へのツッコミだ。

「うわー! このフライパン、本当に焦げ付かないのかなー? でも、お高いんでしょう?」

「ええっ!? 今ならもう一本ついてくるの!? しかも送料無料!? ……買っちゃおうかなぁ」


買うんかい! しかも、その一部始終を壁の向こうで聞かされている俺の身にもなれ!


俺はヘッドフォンを装着し、大音量でジャズを流して対抗しようと試みた。だが、なぜか彼女の立てる音――特にあの調子っぱずれな鼻歌――は、いかなる物理的障壁をも貫通してくるような気がするのだ。まるで、俺の鼓膜に直接インストールされているかのように。


(……もしかして、俺、呪われてるのか? あの焦げたマドレーヌに、何か変なものでも入ってたんじゃ……)


そんな非科学的なことまで考えてしまうほど、俺の日常は桜井紬という名の「騒音」によって、静かに、しかし確実に掻き乱され始めていた。

これが、これから始まる長い長い(そして、とてつもなく面倒くさい)隣人関係の、ほんの序章に過ぎないことを、この時の俺はまだ知る由もなかったのである。

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