表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

護るべきもの~正義と偽善~

別に、好きとか嫌いとか、そういった感情は一つとしてなかった・・・って思ってる。ただそれでも、私とあなたは同じ存在なんだって、思ってた。・・・そう、ただ、それだけだわ。

私はいつ生まれたかは分からない、体を持ち得ない一つの人格として、気がついたらそこにいたの。私は生まれた時から、一人の少女と一緒だった。自分の生い立ち、環境に悩み、嘆き、苦しみ・・・そんな環境を壊してしまいたい、そんな環境に自分と優しい母を追い込んだ者たちを壊してしまいたい、それを願っていた少女は、それでも結局自ら行動はしなかった。誰かに迷惑をかけるのが嫌、誰かを殺すのが嫌・・・それは人間じゃない少女の、何よりも人間らしい考えだった。私はそんな健気な少女が、嫌いだった。だってそうでしょう?自分を犠牲にしてまで、誰かを思いやる必要なんて、ないんだもの。だから、私は彼女に囁いた、囁き続けた。この監獄を抜け出して、幸せになりましょう。その過程で、結果で、誰かが犠牲になっても、今まであなたが犠牲になった分を考えれば、大したことじゃないわ、って。最初は嫌がって、頑なに首を縦に振らなかった少女も、いつしか私の囁きに耐えられなくなり、首を縦に振った。

それから先の行動は早かった。彼女は何一つしなくても、今まで通りただ監獄の中にいて健気な少女のフリをしていれば、誰にも疑われることはなかった。私は体を持たない人格、一つの精神体として、様々な人間の夢や深層意識に潜り込み、手下にしていった。心の底から不満を抱いていない人間はうまく洗脳出来なかったけど、ほとんどの人間はうまくやれた。

そして、最後に、私は見つけた。誰よりもこの世界に不満を抱き、誰よりも力がないことを嘆き、そして誰よりも頼りになりそうな、彼を。私は、彼に惹かれていたんだと思う。力があるのに、環境と感情に縛られ何も出来ない彼女、私は彼女と同じだから、強い意志を持っているのに、力がなくて環境と感情に縛られ、それでも何かをしようと足掻き、結局何も出来ていない、なんとなくだけど、私に似ている彼に惹かれたんだと思うの。

私は彼を仲間にしたかった、手下ではなく、同じ仲間として。そして、確かに彼は私の元に来てくれた。でもそれは・・・私が望んでいたものではなく、ただの手下として。それでも一緒にいてくれれば、それだけで良かったのに・・・彼は、私を裏切った。・・・哀しいと思ったことなんて一度もなかったのに、すごく哀しかった。涙なんて一度も流したことなかったのに、涙が溢れてしまった。いつの間にか私が最初に望んでいたものは、違うものにすり替わり、そして私が最初に望んでいたものは、彼女の望みになっていた。

彼女は私が作った手下を使い、監獄から逃げ、そして理不尽な理由でそこに自らを閉じ込めた人間たちに、復讐しようとした。結局それは失敗に終わってしまったけど、私には全てがどうでも良くなっていた。

時が過ぎ、私はただ黙って彼女の中にいた。そして、ある日気がついた。彼女が、強くなろうとしていることに・・・。

彼女が強くなれば、彼女の弱い部分から生まれた私はどうなってしまうのか、それがすごく怖かった。・・・でも、それと同時に、私は分かった。彼女と私は、同じだから、分かってしまった。自分が、彼女の幸せを、願っていたことに。それは、自分が自分の幸せを望むという、当たり前の形。

・・・だから、私は消えることを選んだ。一つの体に人格は二つもいらないし、何より、私がいたら邪魔になってしまうからだ。もう、私の望みは叶わないから、せめて・・・彼女が幸せになってくれれば、きっと、私も笑うことが出来るから・・・。

誰かを犠牲にして、救われようと思っていた私が、結局誰かのために犠牲になるなんて、笑い話だ。でも、それでも・・・最後の最後に思う。私は本当は、彼女が好きだったんだと、そう思う。最後にあなたと話せて良かった、だから私は・・・後悔なんて、してない。




月夜たちがランスの別荘に来てから二日目、日が薄っすらと顔を出し始めた早朝に、月夜はベッドの上で苦悩の表情を浮かべていた。

「ね、ねむれねぇ・・・」

そう呟きながら、上半身を起こして両目を指でこする。目元には、しっかりとクマが出来ていた。

昨日、ランスが目を覚ました後、当初の予定通りパーティが行われた。ランス以外の四人は、ランスの体を心配して延期にしようと言っていたが、ランス本人は、大丈夫だから、と一言でそれを切り捨てた。茜とリミーナが張り切って用意したパーティは、月夜と楓の予想を裏切り、力が入っていて結構おおがかりだったものの、飲み会になるようなことはなかった。だから、月夜が眠れないのは二日酔いなどではなく、もっと単純なものだった。

月夜は頭をふらふらとさせながら、誰かに言い訳をするように独りごちる。

「・・・あれだ、きっと時差ボケだな・・・うん」

とは言うものの、月夜は自分が寝れない本当の原因を自覚している。月夜は、ちら、と軽く横目で少し離れた隣のベッドで寝ている人物に、目を移した。

「くーくー・・・」

眠れない月夜と違って、のんきで可愛げのある寝息をたてているのは、言うまでもなく楓だった。

「はぁ・・・」

のんきに寝ていられる楓を羨ましく思いながら、月夜はため息を吐いた。恋愛ごとには疎い月夜とはいえ、なんだかんだで思春期の男の子であり、初心な少年だった。自宅では一緒に寝たり、部屋が違っても一つ屋根の下、という状況にあったりするが、それは男と女、と意識させられるものではなく、どちらかといえば姉弟、といった感じだった。それはお互い無意識下のことなので、仕方ないのかもしれない。

「・・・うーん・・・」

眠気はあっても、寝付けない月夜は小さく唸った。どうしよう?と思いながらも、起きる気になれず、もう一度布団の中に潜り込んだ。どうにかして寝ようと色々考えた月夜だったが、逆にそれが裏目に出て、結局リミーナが起こしに来るまで眠れない月夜だった。



「おはようございまーす」

「・・・はよー」

テーブルの上に食事が用意された広いリビングに、月夜と楓は入って来た。元気な楓とは対照に、眠れなかった月夜は今にも倒れそうな程元気がなかった。

「二人ともおっはよー」

既に椅子に座って、全員が揃うのを待ってた茜は元気挨拶を返した。

「おはよう、二人とも・・・って、どうしたんだ月夜?やたら元気がないように見えるけど」

茜と同様に、椅子に座って待っていたランスは、月夜の様子に気づいてそう聞いた。

「・・・単なる時差ボケだよ」

弱弱しく返事をする月夜に、ランスは、んー?といった表情を浮かべたが、隣にいる茜に何かを囁かれ、その表情がやや毒のあるにこやかなものになった。

「そうか、そういうことか」

勝手に勘違いして満足気に頷いているランスのテーブルを挟んだ対面側の椅子に座り、月夜は明らか機嫌が悪そうに言う。

「言いたいことは分かった・・・でも、それ以上喋ったらぶっ殺すぞ」

そんな月夜の後頭部を、月夜の隣に座った楓がペチンとはたく。

「朝からそんなこと言ってちゃだめでしょー」

月夜が寝れなかった理由が自分にあることを全く知らない楓は、少しだけ口をとがらせて言った。お前のせいだ、と月夜は言うわけにもいかず、かといってこれ以上ランスと茜に文句を言ったら、楓から更なる攻撃が飛んでくると思った月夜は、

「・・・悪い」

と一言だけ言った。その間ずっと、笑いを噛み殺してるランスと茜を見ながら、元気になったら覚えてろよ、と月夜は嘆息した。四人が不毛な争いを続けている間、月夜と楓を起こした後、茜の隣の席でテーブルに並べられた料理を見ていたリミーナは、

「ご飯まだー?」

と一人呟いていた。



なんとも言えない雰囲気の中、朝食を食べ終えた五人は軽い食休みをしながら雑談をした。離れていた時間も結構あったため、近況報告が多めだった。そして雑談を終えた後は、ランスの提案により今日はハワイの街中を観光する、ということになり、各々が朝食の後片付けやら出かける支度などをして、外へ出て行った。



街中を歩く五人は、一人を除いて意気揚々と話したり、あちらこちらに珍しそうな物があると、近寄って眺めていたりした。

「あづーい・・・」

昼前にも関わらず、相変わらずハワイの太陽は元気だった。じりじりと刺すような日差しは、睡眠不足の月夜から容赦なく体力を奪っていく。

「ったく、大丈夫か?ちゃんと睡眠はとらないとだめだぞ」

一見心配してるように見えるランスだが、やはりその口元は少しにやついている。しかし今の月夜には、手も口もだす余裕はなかった。

「月夜は貧弱だからねー」

「お兄ちゃん情けないよ」

茜とリミーナから更なる追撃を受けたが、それでも月夜は何も言えなかった。元気になったら覚えてろよ、と心の中で復唱するが、この暑さにやられて月夜自身が忘れてしまいそうだった。

「大丈夫月夜?調子悪いなら、残って休んでれば良かったのに」

一人だけ純粋な心配をしてくれる楓に、月夜は少しだけ目をうるうるとさせた。

「・・・だい、っじょうぶ」

せめて楓にだけは心配をかけさせないように、月夜は力強く言った。実際、本人がそう思ってるだけでそれは弱弱しかったのだが。

「涼しいところで少し休むか?」

ランスの提案に、月夜は首を振る。自分の都合でみんなに迷惑をかけたくはなかったからだ。

「少し休めば、多分平気・・・」

ふらふらとしながら答える月夜に、ランスは肩を貸した。

「あんま無理するなよ?とりあえず、」

ランスは辺りをきょろきょろと見回し、休めそうな日陰のあるベンチを近くに見つけて月夜をそこに引っ張る。

「ここで少し休憩だな」

「じゃあ、うちは飲み物買って来るね」

気を利かせた茜が、そう言いながらみんなから離れる。

「あ、私もついてくよー」

「私もー」

楓とリミーナも、茜の後を小走りで追いかけていった。月夜はそれを見送った後、日陰のベンチで横になりながら、申し訳無さそうに呟く。

「なんだかんだで、みんな優しいんだよなぁ・・・」

「当たり前だろ?僕らは、兄弟みたいなものなんだから」

謙遜することもなく、ランスは月夜に笑いかける。そんなランスの反応に、月夜も軽く笑った。その後、少しの間沈黙が流れた。月夜は体力的に喋る余裕がなかったし、ランスはそんな月夜に気を使っていたからだ。そんなゆったりとした雰囲気を、いきなり殺伐とした喧騒が打ち破った。

「なんだ・・・?」

ランスが視線を動かした方へ、月夜も横になったまま視線を向ける。そこには、二十代中頃に見える女性が、広い通りを走っていた。金色の髪をたなびかせ、何かから逃げるように全力で走っている女性は、幾度となく通行人にぶつかりそうになり、その度に何か文句を言われている。

「あいつは、まさか・・・」

ランスが呟くのとほぼ同時に、月夜は何か気持ち悪い物が体にまとわりつくのを感じた。嫌な予感がした時に出る月夜のそれは、ほぼ的中する。ねっとりとした嫌な感覚に、月夜はとっさに上半身を起こした。そして、即座に立ち上がり駆け出そうとする月夜の体をランスが手で制した。

「待て!お前には関係ない!」

月夜の行動を先読みしたランスはすぐにそう叫んでいた。それは、ゆったりとしたいつものランスの口調ではなく、軍人としての厳しさのあるランスの口調だった。

「関係ない?そんなわけあるか!」

月夜はとっさに叫び返していた。月夜が先ほどのように嫌な物を感じた時は、大抵が月夜と同じ、人外の生物を前にした時だけだからだ。

「わざわざお前が首を突っ込む必要はない・・・あれは、僕らの仕事だ」

ランスの目が、鋭くなる。しかし、二人が言い争いをしている間に、女性は通りを曲がって建物と建物の間の狭い路地に姿を消していた。それを追うように、女性が走ってきた方角から見るからに怪しい数人のいかつい男たちが走ってきた。男たちは各々が、

「どこへ行った?」

「あっちだ!あそこの路地だ!」

「くそ!追え!」

と何やら不穏な言葉を叫んでいる。そしてすぐに、女性が入っていった路地へと消えていった。今にも動き出しそうな月夜をけん制しながら、ランスはそれをずっと、苦虫を噛み潰したような目で見ていた。

「さてどうする・・・?一人じゃさすがに・・・応援を呼んで間に合うか・・・?」

ぶつぶつと呟くランスのわき腹に、月夜は軽く手刀を入れた。ゴスッ、と鈍い音が響き、ランスはとっさに九の字に体を折り曲げた。

「一人で悩んでるじゃねーよ、ったく・・・」

苛立ちの隠せない声で言いながら、月夜はランスに続けて言う。

「とりあえず、事情を聞こうか。それからでも遅くない」

自分なら間に合う、と暗に言っている月夜に、ランスは困惑の表情を浮かべた。

「でも・・・」

「でももくそもあるか、あの追いかけられてた女、俺と似たようなもんだろ?なら、俺にも関係がある」

月夜の言葉に、ランスはしばし逡巡した後、意を決して説明のために口を開こうとした瞬間、

「あれ?月夜、立ってても大丈夫なの?」

飲み物を買いに行っていた三人が戻ってきた。楓にそう聞かれ、月夜は困ったように目を泳がせる。

「ああ、うん。大丈夫、かな」

普段の月夜は貧弱だが、何かあった時の月夜は頑丈なんて言うレベルではない。暑さや睡眠不足でばててたはずの体は、既に全快していた。月夜にとって問題なのはそこではなく、楓の前で危ないことに首を突っ込むことが問題だった。

「元気になったなら良かった・・・はい、これ」

中にジュースが入った冷たい瓶を受け取りながらも、月夜の表情は晴れない。

「ありがとう」

そう言ったものの、困った表情をしたまま、月夜はランスに視線を動かす。ランスも同様に、困った表情をしたまま、

「はい、ランスの分」

と言われ、茜に冷たい瓶を渡され受け取っていた。

「どうしたの二人とも、暑さに頭やられた?」

一足早くジュースを飲みながら、ベンチに腰掛けるリミーナに挙動不審な二人はそう聞かれた。

「いや、なんでもないよ。少し休んだら、観光に戻ろうか」

「ああ、そうだな。折角の休みだし、みんなで一緒にいれる時間だしな」

困った表情をしつつも、ランスと月夜の二人は心中ばれないように明るい声を出した。ランスも月夜も、他の三人に心配をかけるのが嫌だからだ。月夜はこの前の保の一件で懲りているし、ランスはランスで、普段仕事が多く茜との時間をあまり共有していない。そんな二人だからこそ、危険性のある事件に、みんなの目の前で首を突っ込むわけにはいかなかった。

「兄貴、後で詳しく」

「仕方ない、分かったよ」

二人はお互いに聞こえるように囁き合い、そしてベンチに座り渡されたジュースを飲む。二人にとって、今すぐはどうにも出来ない、という嫌な空気の中でも、冷えたジュースはおいしかった。



その後、五人はランスを案内役に様々な場所を回った。有名どころだけではなく、時には土産屋を見てみたり、ランスが行ったことない場所に行ってみたりと、各々かなり楽しんだ。最初はいまいち楽しめなかったランスと月夜の二人も、今はいいか、と途中で気持ちを入れ替え、その時を全力で楽しんだ。そして、日が大分傾き始めた頃、夕飯を外で済ませ、五人は別荘に帰ってきた。



「いやー・・・疲れた、もうこのまま寝てもいいぐらいだな」

部屋に戻ってきた月夜は、自分のベッドに飛び込んだ。

「もう、汗かいてるんだから、布団が汚れちゃうでしょー」

同じく部屋に戻ってきた楓は、部屋に置いてあるやや豪華な造りの木で出来た椅子に座っている。

「んなこといってもなぁ・・・」

疲れや眠気を一度は吹っ飛ばしたものの、やっぱり普段の月夜は体力がないため、ぶり返してきた眠気に襲われていた。今なら楓が同じ部屋でも寝れそうだ、と疲れの残る頭で考える。

「むー・・・どうしてそんなに眠いの?」

楓の素朴な疑問に、月夜は答えられなかった。というか、答えられるはずもなかった。

「だからほら、時差ボケだって。後、俺繊細だから環境が変わると寝れなくなるんだよ」

誤魔化すように言う月夜を、楓は疑いの眼差しで見る。

「私だって時差ボケしててもおかしくないはずだし、大体から月夜はどこでも寝れちゃうでしょ」

図星をさされ、月夜は冷や汗を流した。

「いやいや、確かにどこでも寝れるけど睡眠の深さっていうか要するに・・・」

「また、危ないことしてないよね?」

支離滅裂になりながらも誤魔化そうとする月夜の言葉を遮って、楓は心配そうな声をあげた。その言葉に、月夜は口を閉じる。

「月夜は・・・お人よしだから、すぐ自分から危ないことに首突っ込んじゃうだから・・・私、心配だよ」

楓の表情は、不安と切なさを混ぜ合わせながらも、真剣だった。

「別に・・・危ないことしてるわけじゃないよ。まぁある意味俺としては危ない状況なんだけど・・・」

不安がっている楓を安心させるように、月夜は言った。月夜の意味不明な説明にキョトンとしてる楓を真っ直ぐ見ながら、月夜は続ける。

「とにかく、楓が思ってるようなことはないからさ」

大丈夫、と微笑みながら言う月夜は、心の中で、ごめん、と謝罪の言葉を呟いていたが、楓がそれを知るはずもない。

「うん・・・」

まだ不安は残っているものの、多少安心したように楓は微笑み返す。本当に心の底から、自分のことを心配してくれる楓が、月夜にとって何より愛しかった。しかし、愛しくて護りたいからこそ、嘘をついてでも危害を加えられる可能性があるものを早めに消してしまいたかった。昨夜寝れなかったことは全く関係ないが、今夜月夜が寝不足になる理由には、大いに関係があった。

(とはいえ、みんなが寝付くまでどうするか・・・このままじゃ、俺が寝ちまいそうだし)

少し熱すぎる布団とはいえ、眠い時にはその柔らかさは最強の兵器とも言える。すぐにでも離れなければやばそうだが、月夜は心地良さから抜け出すことが出来なくなっていた。と、その時、コンコン、とドアがノックされた。

「はい?」

月夜よりもドアに近い位置にいる楓が、返事をすると、

「見せたい物があるから、お風呂の準備をしてそれ持って廊下に出てくれ」

ドアの向こうから返って来たのはランスの声だった。その言葉に月夜と楓は不思議そうに一度だけ目を合わせて、

「分かりましたー」

と楓が答えた。

「うん、じゃあまた後で」

ランスはそう言い残し、少し離れた隣の部屋へと戻って行った。向こうのドアがバタン、と閉まる音を聞いてから、楓は再び月夜に不思議そうな顔を向けた。

「お風呂って各部屋にあるよね?私も昨日この部屋の使ったはずだし・・・」

楓の言葉で、月夜は昨日の夜寝れなくなった原因の一つを恥ずかしそうに思い出しながら、それを悟られないように答えた。

「だよなぁ。風呂の準備してどこか行くっていうと・・・まさか、銭湯とかじゃあるまいし」

うーん、と二人は悩んだが、答えが出なかったため、すぐに諦めていそいそとお風呂の準備を始めた。替えの下着などをごそごそと取り出している楓を極力見ないようにし、月夜は出来るだけ急いで準備を済ませ、

「先廊下行ってるから!」

とすごい速度で部屋から逃げていった。部屋に残された楓が、むー、と少しだけ不満そうに唸っているのを、月夜は知る由もなかった。


月夜が廊下に出てから少しすると、ランス・リミーナ・楓・茜の順に部屋から出てきた。一番最初に出てきたランスは、月夜程部屋から逃げるような感じではなかったが、やっぱり焦っているような感じではあった。二人とも、恋愛ごとに関しては似たり寄ったりだった。


廊下で合流した五人は、ランスを先頭に歩き出す。階段を降り、一階に着いてから入り口の反対側に歩き出す。ランスと茜を除いた各々は、不思議そうな顔をしている。

「それで、こんな物持ってどこに行く気なんだ?」

広いリビングを通り抜け、また廊下が続くのか!とツッコミをしたくなるような広めの廊下を歩きながら、この場の半分以上が疑問に思っていることを月夜はランスに聞いた。

「ん?どこって、お風呂の準備をしてどこに行くつもりなんだお前は?」

ランスにきっぱりとそう返され、月夜は少しだけ唖然とした。いやだからどこに風呂が・・・、と再度聞き直そうとした時、別荘の裏口のドアをランスが勢いよく開けた。開いたドアの先には、広い庭のような空間が広がっていた。とはいっても、草は生えておらず地面はきれいに整備されている。そして、庭の真ん中辺りには、高さ七メートル弱、直径四十メートル程のドーム状の建物が立っていた。日が大分沈み、薄暗闇の中、ドーンという擬音が似合いそうで静かに重々しく建っているそれは、見る者に恐れの感情を与えた。

「・・・なんだこりゃ?」

見上げながら口に出された月夜の素朴な疑問に、ランスが答える。

「これはね・・・入ってみれば分かるよ」

人をからかうような笑みを浮かべ、ランスは建物に向かって歩き出す。茜以外は不審に思いながらも、ランスの後に続く。

「さて、それじゃ、女性たちはそっち、僕らはこっち」

建物に近づいてから、ランスは最初に右側を指差し、その後に左側を指差した。意味が分からない、と言った表情を浮かべる楓とリミーナを、引っ張り、茜は、

「じゃーねー」

と言いながらドーム状の建物に沿って右側へと歩いていく。

「それじゃ、僕たちも行こうか」

同じくドーム状の左側に沿って歩き出すランスの後ろに、月夜はいまだハテナマークを出しながらついていく。すると、歩いてすぐの場所に、建物の外壁を切り取ったように長方形の穴がぽっかりとあいていて、そこから光が外に漏れていた。大人が二、三人は通れそうな穴に、ランスは入っていく、月夜も同様に、そこに入った。そしてすぐに、この建物がなんなのかを理解した。

「あー・・・」

外から見た通り、中は上にも横にも結構広く、昔の学校にありそうな木製の下駄箱みたいなものが間隔を空けて二つほど置いてある。端のほうには洗面台が二つあり、鏡とその前には髪を乾かすためのドライヤーがついている。そして一番奥には、ガラスの引き戸があり、中からは薄っすらと湯気が漏れていた。そこは、脱衣所だった。

「どうだ?一見日本の銭湯に見えないか?」

「確かに・・・ん?一見、ってことは、違うのか?」

「いや、銭湯なんだけどね」

何やらテンションが高くなっているランスは、笑いながらそう言った。そして矢継ぎ早に、服を脱いで下駄箱、実際は服をしまうロッカーに入れていく。

「つうか、わざわざ作ったのかこんなもん・・・」

どんな反応を返せばいいのか分からず、月夜もランス同様に服を脱いでいく。そして、ロッカーにしまった。二人は一分と経たずに裸になり、しっかりと下半身にはタオルを巻きつける。

「趣があって良いだろ?中は、もっとすごいんだけどね」

「まだあんのかよ・・・」

呆れ口調の月夜だが、広い風呂に入れるならいいか、と適当に自分を納得させ、ランスに続いて中に入った。

「・・・確かに、こりゃすごい」

中に入った月夜は、そう口に出していた。その反応を待っていた、とでもいわんばかりにランスはニヤニヤと笑っている。シャワーや鏡、洗い場で設置されてるものやその広さ、いくつか用途別に分かれている浴槽、そして何よりもすごいのは、空が見えるということだった。

「露天風呂ってあるだろ?それを参考にしてみたんだけど」

確かに、お風呂に入りながら星や空が見れるのは趣があっていい、しかし、月夜は一つ重要なことをランスに聞いた。

「これ、外から見えるんじゃないか?」

中から外が見えるということは、外からも中が見えるということになる。しかし、ランスは不適な笑みを浮かべて言う。

「それは大丈夫、ここのガラスはマジックミラーになってるから、外から見ると鏡にしか見えないよ」

ほー、と言いながら、月夜は感心したように頷く。それと同時に、どこまで凝ってるんだ?という疑問と、どんだけ金使ってんだよ、という呆れる感情が浮かんだ。

「さ、早く体洗い流してお風呂の中でゆっくりしようじゃないか・・・話さなきゃいけないことも、あるしな」

後半の部分だけ、とぼけた感じをなくしてランスは言った。そうだな、と月夜は頷き、二人は手近なシャワーとシャンプーやボディソープなどを使って、体を洗っていった。そしてふと、月夜は頭を流しながらもう一つ気になったことをランスに聞いた。

「なあ、あの竹で作られてる衝立はなんだ?」

月夜の視線の先には、何かを遮る壁のように、衝立があった。他の壁は石材やプラスチックなどで作られているが、なぜかそこだけは竹だった。高さは五メートル程で、天井まで若干届いていない。

「ああ、あれは男湯と女湯を分ける衝立さ。あっち側には、今三人がいるはずだけど?」

「な・・・」

月夜は軽く絶句した。銭湯や露天風呂といった経験がない月夜には、それに対する常識がほとんどない。テレビもあまり見ない月夜としては、驚きだった。

「色々調べて作ったからな」

グッ、となぜか親指を立てて体を流しているランスは、満足気な顔をしていた。

「っつうことは、声が届くのか?だったら、今日の話とかまずいんじゃ・・・」

自然と声を小さくして言う月夜に、ランスは、大丈夫、と笑った。

「そこまで響くわけでもないしね」

そう言いながら、お湯がたまった洗面器を持ち上げて頭から流し、プラスチックで岩を模したものが周りを囲っているお風呂に身を沈めた。大丈夫なのか?と思いながらも、ランスを真似てお湯のたまった洗面器で頭から流し、ランスの隣に座った。シャワーの音がなくなると、衝立の向こう側からははしゃいでる三人の声が聞こえてくる。

「・・・聞こえるじゃん」

「・・・大丈夫、小声ならきっと大丈夫」

広い湯船の中で、隣に座り合いヒソヒソと小声で話すその様子は、限りなく怪しかった。そして、少しの間二人は黙り、女性三人のはしゃぐ声を聞いてから、月夜はぽつりと口を開く。

「悪くないな、こういうのも」

「悪くないだろ?こういうのも・・・」

二人とも、別に何かを意図して言ったわけではなかったが、この状況では誰がどう聞いてもさっきとは違った意味で怪しかった。

「茜ー、そっちはどうだー!?」

いきなり衝立の方に叫び出したランスを、月夜はやや驚いた目で見る。

「やっぱり使ってみると違うねー!」

すぐに、衝立の向こうにいる茜からそう返事が来た。ランスと茜は、ここに何回か入ったことはあるが、実際に今みたいにお風呂として使ったことはなかったのだ。

「それは良かったー!・・・ふう、中々楽しいね」

叫び終えたランスは、満足気に笑った。ふむ、とそれを見ていた月夜は、自分も叫んでみることにした。

「楓ー!」

「何ー!?」

返事はすぐに来た、しかし、月夜はその後何を言うか決めていなかった。微妙な沈黙が流れる。

「月夜、呼んだー!?」

沈黙を破るように、楓からまた返事が来た。困ったように月夜は視線をさまよわせ、そして叫び返した。

「ごめん!なんでもなーい!」

ぶっ、とランスが吹き出した。衝立の向こうからも、笑いが起きる。

「あっはっは・・・月夜、笑わせてくれるね」

ひとしきり笑った後、ランスはそう言いながら月夜の肩を叩いた。別に笑いを狙っていたわけじゃない月夜は、少し恥ずかしそうに顔を赤くする。

「いいだろ?別に用事もなかったんだし・・・」

月夜がそう答えた後、すぐに、

「こらー!私には何もないのー!?」

と、リミーナの叫び声が聞こえた。月夜とランスは顔を見合わせ、どうする?といった表情をした。

「リミーナ!」

とりあえず、月夜はそう叫んだ。

「何ー!?」

返事はすぐに来た。しかし、相変わらず月夜は何も考えていない。

「呼んだだけー!」

そう答えた瞬間、向こう側から衝立を超えてプラスチックの洗面器が飛んできた。カコーン、という良い音がして、月夜の頭に命中する。狙ってやったのなら、まずありえない命中率だった。

「っ・・・いてーじゃねーかこのやろう!」

頭に走る痛みに軽くを身をよじらせた後、月夜はそう叫びながら洗面器を投げ返した。衝立の向こうから、カコーン、という良い音が響く。その数秒後、

「月夜ー!痛いでしょー!!」

と、楓の怒鳴り声が返って来た。今にも衝立をぶち壊して、月夜に詰め寄りそうな迫力のある楓の言葉に、

「ごめん!本気でごめん!!」

と月夜は叫び返した。どうやら、リミーナではなく楓に当たったらしい。

「・・・はぁ、散々だな」

後が怖い、と呟きながら、疲れたように小声で言う月夜に、ランスは笑いを押し殺しながら、

「いや、笑わせてもらったよ・・・ありがとう」

と言った。月夜は一度だけ深いため息を吐き・・・そして、気持ちを入れ替えた。

「それじゃ、そろそろ本題に入ろうか」

真剣な顔で、尚且つ衝立の向こうに声が届かないように細心の注意を払いながら、月夜は小声で言った。

「・・・その前に一つ、聞かせてくれないか?」

ランスもやや真剣な面持ちで、しかし、呆れているような声で聞いた。

「なんだよ?」

怪訝な顔でそれを問い返す月夜に、ランスは一呼吸置いてから、月夜の目を真っ直ぐ見据えて口を開いた。

「お前は、何になる気なんだ?」

は?と、月夜は疑問の声をあげた。その質問の意味が全く分かっていない月夜に、ランスはゆっくりと続ける。

「さっきも言ったように、あれは僕ら、軍人の問題事であって、お前には直接関係ない。例え、その問題に生物兵器が関わっていたとしても、だ」

「関係ないわけ・・・」

「関係ないんだ」

月夜の言葉を遮り、ランスはきっぱりと言った。唖然とした表情をしている月夜を見て、ランスは続きを言うかどうか少し迷った後、月夜から視線を逸らし、辛そうに言った。

「お前は知らないだろうけど・・・お前の劣化生物兵器なんて、今はこの世に何百何千っているんだよ」

「・・・なん、だって!?」

驚いて、とっさに大声を出してしまった月夜は、すぐに我に返り、そして男湯と女湯を隔てる衝立を焦ったように見る。向こう側からは、何の変化も見られない。聞こえてなければいいけど、と月夜は不安に思いながらも、声を押し殺してランスに問い詰める。

「どういうことだよ?」

「本当は、お前にはこんなこと教えたくなかったんだけど・・・」

ランスは、それを言えば月夜がすぐにでも各地に飛んでいってしまうと思っていたため、言いたくなかったのだ。自分の感情に真っ直ぐな月夜をランスは嫌いじゃないし、むしろ好きだからこそ、余計なことで煩わせたくなかった。

「いいか?今は大分技術も進んでる。それなりの施設と金があれば、何かしらの能力を付与された人間を作りあげることなんて、造作もないんだ」

それでも、ランスは続ける。隠していることが辛いからではなく、ただ一つの答えを月夜に求めるために。月夜は、やり切れない怒りを感じながらも、黙ってランスの説明に耳を傾けている。

「主にそれらを作り上げているのは、今は国じゃなくて、マフィアと呼ばれる裏の組織だよ。理由は各々の組織で色々あるみたいだけど、主な理由として挙げられているのは、他の組織に負けない戦力増加、かな。場所によっては、国へのクーデターを目論んでるところもある」

「なんだ、そりゃ・・・ふざけてるにも程がある」

湧き上がる強い怒りを抑えながら、月夜は呟いた。道具として、兵器として、国に使われてきた月夜は、その話が許せなかった。月夜と同じような生物兵器は、月夜の今の日常を壊す可能性がある危険な存在ではあるが、月夜だって元々は普通の人々の生活を脅かす兵器だったのだ。だからこそ分かる、普通の人々が被害者であると同時に、兵器として生み出された生物もまた、被害者であることを。

「これはもう、それぞれの国の問題だよ。お前が・・・普通の人間のお前が、首を突っ込んじゃいけない問題なんだ」

ランスの言葉に、月夜は言葉を失った。月夜が並みの人間と比べれば桁外れなことを知っていても、ランスは、月夜が普通の人間だと言ってくれた。月夜はそれが、何よりも嬉しく・・・同時に、複雑だった。既に他人の血で汚れている自分が、今も苦しんでいる人間と兵器を差し置いて、幸せなのが、複雑だった。

「でも俺は・・・誰かが傷つくのを、誰かを傷つけて苦しんでる俺と同じようなやつらを、目の前で黙って見てることなんて出来ない」

良くも悪くも、月夜はそれを知ってしまった。良くも悪くも、月夜にはそれをなんとか出来る力がある。だからこそ月夜は、複雑な気持ちでもそう強く言った。

「お前は、何になる気なんだ?」

ランスは再度、そう聞いた。さっきはいまいち分からなかったその言葉の意味が、月夜にはなんとなく分かった。それでも、月夜は考えるように押し黙って答えを返さない。

「苦しむ人を、悲しんでいる人を、辛がってる人を・・・その全てを、お前は救う気なのか?そんなのは馬鹿げてる。もし世界を創造した神がいたとしても、そんなのは神にだって不可能だ」

夢を見ている子どもに対し、現実を突きつけるように、ランスは言った。この世界で、全ての人間が幸せになれることなんてまずありえない。それは平均を保てないシーソーのようなもので、誰かが幸せになれば、その陰で誰かが泣くことになる。例え全ての人間を例外なく殺せる月夜の力があっても、全ての人間を例外なく救うことは絶対に不可能だった。

「そんなもん、分かってるよ・・・」

月夜もそれは分かっている。諦めているような声で、月夜は言う。ランスはそれを、子どもから夢を奪ってしまった大人のように、切ない目で見ていた。

「俺は神にはなれない。俺の手は小さすぎて、全ての人間を救うことなんて、出来ないって分かってる」

でも、と月夜は拳を握り締めて続ける。

「分かっているからこそ、目の前の人間ぐらいは救いたいんだ。過去の断罪とか、そういうのじゃない。一人でも救える力が、俺にはあるから、そして俺は、救いたいと願っているんだから」

それは、何があっても揺るがない強い意志だった。月夜を見ていたランスの顔は、一瞬驚いたものに変わり、そしてすぐに安心したようなものに変わった。

「お前は、馬鹿だな・・・でも、分かっているならいいんだ」

そして、少しだけ悔しそうに、残念そうに続ける。

「もしお前が全ての人を救いたいから、とか世迷い言を言ってたら、僕は今回の件は何が何でも止めたよ。でも、そんな風に言われたら、僕はお前を止められなくなるじゃないか」

ランス一人にはやれないことを、月夜は一人でやれる。そして月夜がやると決めたそれは、決して状況に流されたものではなく、月夜自身の強い意志で決められたものだった。月夜を巻き込みたくないランスとしては不本意だったが、ランスが月夜に求めていた答えを出されてしまったのでは、仕方がなかった。

「俺だってそこまで自惚れてないさ。救いたい、って気持ちはないわけじゃないけどさ」

苦笑しながら言う月夜に、ランスも苦笑した。そして、すぐに真剣な表情になり、口を開く。

「それじゃ、一応今回の件について説明しておこうか。お前には必要無さそうだけど、戦う理由は多い方がいいだろ?」

月夜は頷いて、これから行われるランスの説明に耳を傾ける。ランスは教師のような口調で、教科書を読み上げるように言う。

「まず、今回の件に深く関わっているのは、ステイグマっていうマフィアの組織だね。ディア=アースっていう首領率いるそこそこ小さめの組織さ。やっていることも大掛かりなものじゃなかったし、僕らも最近までは目をつけてなかったんだけど・・・」

一度そこで区切り、ランスは息を整えてから続きを口にする。長く風呂に浸かっているため、やや呼吸が乱れている。

「さっきも言ったように、こいつらは生物兵器を保持してる。推測されている数は五人いかないぐらいだけど、結構厄介かもしれないな。で、さっき逃げてたっぽい女性も、生物兵器の一人だよ。名前はリファ=ウェスト、逃げてた理由は分からないけど、おそらく何か大失敗したか脱走したかってところかな」

ふむふむ、と月夜は頷く。

「元々は小さい組織だったんだけど、最近は国に対するクーデターを企んでるらしい。だから、今は危険視されてるんだ・・・ちなみに、ステイグマっていうのは、ギリシャ語で、犯罪者や奴隷の体に刻まれた徴のことでね、それを冠してるつもりなのか、あいつらは体の一部に組織のマークを刻んでるのさ」

「で、俺がやるべきことは?」

説明が一区切りついたと思った月夜は、ランスにそう聞いた。

「やりたいようにやればいいんじゃないか?お前が今日見た女性を助けたいならそれでいいし、ステイグマを壊滅させてくれるならこっちとしては助かるところだけど」

ランスは事も無げにそう言った。もし月夜が前者と後者を選ぶなら、どちらを選ぶかなんてことはランスには既に分かっていたからだ。

「随分投げやりに言うじゃねーか・・・一つ、いいか?」

これだけは確認しておく、とでも言うように、月夜は真剣な口調で聞いた。

「なんだ?」

「もしさっきの女性を保護して、お前らに引き渡したとしたら、彼女はどうなる?」

ステイグマを壊滅させずに女性を保護した場合、安全面を考えるなら、国に引き渡すのが一番だと月夜は考えていたが、もしそれが彼女にとって新しい地獄となるのなら、それは許せない、と月夜は心配していた。月夜の意図が分かったランスは、安心させるように言う。

「悪いようにはしないよ、普通の人とは違うからって、僕らは差別したりもしない。昔と比べると、大分変わったからね・・・この国だって、今は優秀な人材は喉から手が出るほど欲しがってるから、何かされるどころか、仕事を手伝って欲しいぐらいさ」

おそらく、ランスが言うほどすぐには簡単な状況にはならない。拷問や尋問、下手したら研究のために解剖されてしまうおそれもある。それでも、月夜はランスを信用した。

「分かった。先のことは、兄貴に任せるよ。ただもし、なんかあったら・・・」

脅すような口調で、月夜は続ける。

「この国がなくなると思えよ?」

それは単なる脅しであり、本当に月夜がそんなことするはずもなかったが、本当にそれが出来る月夜が言うと空恐ろしいものがあった。

「大丈夫、僕を信用しろ」

月夜の脅しに臆することなく、ランスは笑った。それが冗談だと分かっているランスだからこそ、笑っていられた。

「信頼はしてるけど、兄貴はいまいち信用薄いよな」

皮肉気に言う月夜だが、その表情は微笑んでいる。それは本当に信頼してるからこその言葉だった。

「言うな言うな・・・今夜からもう、動くのか?」

弟を心配するような目で、ランスは真っ直ぐ月夜を見据える。

「当たり前、早く終わらせたいってのもあるし・・・」

言いよどむ月夜に、ランスは不思議そうな顔をする。

「楓にばれないうちに終わらせないと、さすがに、まずいからさ」

それは絶対に許せない、とでも言うように、月夜は俯きながら言った。

「そうか・・・頑張れよ、怪我するぐらいならすぐに諦めて帰って来い」

ランスは、それが絶対にないことを分かっていても、そう言った。

「分かってる、早々怪我ばっかしてられっかよ」

月夜は、自分自身微塵も思っていないことを分かっていても、そう言った。その後、二人は少しの間黙った。体も頭も熱で火照るのを感じながら、衝立の向こうから聞こえる三人の声を心地よく思いながら・・・月夜とランスは、同時に立ち上がった。



部屋に戻ってきた月夜は、だるそうにベッドの上にうつぶせで倒れている。そして少し離れたもう一つのベッドの上では、楓が同じようにうつぶせで倒れていた。どちらも、顔が赤く上気している。

「長く浸かりすぎた・・・心地よさはあるのに、暑すぎる・・・」

「私も・・・暑いし月夜にやられた頭は痛いし・・・うー」

うつぶせのまま、首だけを動かして月夜を責めるような目で見る楓に、月夜も首だけを動かして目を合わせ謝った。

「ごめん・・・手元が狂った」

「痛かったんだよー、血が出たらどうするのー」

ぷー、と頬を膨らませて怒る楓は、怖いというよりも可愛かった。

「ほんと、ごめん・・・」

素直な気持ちで謝る月夜に、楓は無言で手招きをする。その瞳が微かに濁っていることなど、月夜は気づかない。

「ん?」

よっこらせ、とジジくさい言葉を呟きながら、月夜は身を起こして楓に近づく。そして、近づいた瞬間仰向けに転がった楓に、月夜は腕をつかまれて楓のベッドの上に倒れた。

「おわ!」

「月夜のばーかばーかー」

そう言いながら、楓は倒れた月夜の体に両腕を回して抱き付く。

「待て待て待て、な、なんだ、急にどうした?」

倒れた体勢のまま、突然のことに混乱する月夜の肩に顔をうずめるようにし、楓は強く月夜を抱き締める。お互い風呂上りで、その体は熱くなっている。

「月夜の体あったかーい・・・」

甘えるような声を出し、楓は月夜の肩に頬擦りする。月夜はじたばたともがくが、肩にかかる熱い吐息や、胸の少し下辺りに押し付けられている柔らかい物に動揺し、力が入らない。どうすればいいか分からない月夜は、不意に肩から顔を離して自分を見つめる楓と目が合った。そこには、熱っぽい物が宿り、とろんとしている。

「月夜、どこもいっちゃだめだよー?」

寂しそうに甘えた声を出す楓に、月夜は内心ドキリとした。楓が寝てから、こっそりと動き出そうとしていた月夜は、それを見破られてたのか、と内心焦りまくる。どうやって楓がそれを知ったのか、そんな単純なことさえ、考えられなくなっていた。

「えーっと、えとえと・・・」

混乱の極みに達してる月夜は、困惑しながら呟く。

「月夜はー、私の心配なんて関係なしにー、すぐどっか行っちゃうんだからー・・・私泣いちゃう」

うぇーん、と泣き出した楓を見て、月夜は混乱しながらも、なんか今の楓おかしくないか?と頭の冷静な部分を働かせて考えた。そして、答えはすぐに出た。

「・・・お前、酔ってるだろ?」

先ほどから楓が喋る度に、酒の匂いが混じっていることに、ようやく月夜は気がついた。

「よってらいもーん!」

泣き顔から一転し、怒ったように楓は反論する。それでも、目はとろんとしたままだ。

「姉さんのせいか・・・ったく、ろくなことしないな」

おそらくお風呂で飲んでたんだろう、と月夜は推測してため息を吐く。

「よってらいったら、よってらいの!」

ばかばかー、と言いながら、楓は涙を拭くように月夜の肩に顔をこすりつける。

「・・・はぁ」

月夜は、子どもの頃から茜という酔っ払いを知っている。茜は、酔うと抱きついたり脱ぎ始めたりなど、見てて恥ずかしくなるような行動が多かった。楓もそんな類かぁ、と月夜は嘆息した。そこに普段の本音はないんだと、月夜は思った。しかし、月夜は知らない。茜のように、お酒を飲んでテンションを上げ、本音を隠そうとする人間もいれば、今の楓のように、お酒を飲んで酔ってるからこそ、本音が露になる人間がいるということを。

「お前なぁ・・・未成年がほいほい飲んでるじゃねーよ」

楓の後頭部をペチ、と叩いて、月夜は説教するように言った。

「のんでらいもーーん!」

酒が回り、力が入らなくなってきたのか、月夜を抱き締めている楓の腕が徐々に緩くなっていく。

「ったく、早く寝ろよ」

今までの楓の行動が、酔っているものから来ていると思ってる月夜は、大分冷静になっていた。同時に、少しだけ哀しかったりもする。

「やー!」

幼い子どものように否定する楓を、月夜は抱き上げ、布団の中に戻してやろうとする。危うく、重い、と言いそうになったのは秘密だ。

「ほら、布団の中戻って」

「やーだーやーだー!」

じたばたと暴れる楓に困り果てながらどうにか、ベッドの端辺りから、落ちないように中心部辺りまで楓を移動させ、仰向けにさせた。そして楓の下に潰れている掛け布団を引っ張り出して、上にかけてやる。そうすると、楓は落ち着いたようにピタリと動きを止めた。その瞳は、月夜を見つめ続けている。

「少し落ち着いて・・・寝ろ、な?」

安心させるような声で、月夜は楓に言った。

「・・・キスして」

突然の楓の言葉に、月夜は、は?と声を漏らした。

「キスしてくれなきゃ寝ないー」

月夜はその言葉に顔を赤くしたが、楓に早く寝てもらわないと困る月夜は、仕方なしに頷いた。どうせ、酔っ払いが言うことだしなぁ、と心の中で嘆息する。

「はやくー」

「はいはい・・・」

仰向けで横になっている楓の顔に、月夜は顔を近づける。酔っ払いの世迷い言、と思っていても、やっぱり月夜は緊張した。二人の唇が触れ合う。柔らかく、そして熱い感触に頭が火照るのを感じながら、月夜は短すぎず、かといって長すぎず、数秒の時間を経て唇を離した。

「これで、ちゃんと寝る?」

「・・・うんっ」

酔いと風呂上り以外の理由で、楓は顔を赤くしている。月夜もまた、風呂上り以外の理由で顔が赤かった。

「月夜も、ちゃんと寝るんだよー・・・?」

徐々に小さくなっていく楓の言葉に、月夜は頷いた。

「分かってるよ、俺だって疲れてるんだから」

「うんー・・・」

楓はそう言いながら、安心したように目を閉じた。そしてすぐに、くーくーと寝息を立て始める。

「さて・・・と」

それを見届けた月夜は、部屋の電気を消し、物音を立てないようにドアを開けた。部屋を出て行く前に、最後に一度だけ振り返る。

(ばれてたわけじゃないみたいだけど・・・急がないと、まずい、かな・・・ごめんな、楓)

心の中で謝った後、月夜は廊下に出てドアを閉め・・・そして、音を立てないように注意しながら、走って階段を下りて行った。


夜はまだまだ、長い。

特になし。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ