バカップル~恋は網膜出血~
照りつける日差しが大分強くなり、気温も上がり暑さを感じさせる七月。部活動説明会から既に二ヶ月が経っていた。科学部は廃部になってしまったが、それまでの過程で得た色々な想いや友達は、今も尚残り続けている。二ヶ月の間は本当に平穏で、中間テストや期末テストなどの学生として大変な日常もあったりしたが、大した異常もなく、月夜たちは無事夏休み手前を迎えていた。
「暑い暑いあつーい・・・」
月夜は教室にある自分の机でうなだれながら、窓の外で照り付けている太陽を睨んだ。窓際の席は、夏以外の季節はポカポカと暖かく、寝るには適しているが、夏場は直射日光を受けるため、教室の中では一番暑い場所になっている。寒いのは平気な月夜だが、暑いのはいまいち苦手だった。
「あんまり暑い暑い言わないでよ・・・こっちも暑くなるじゃない」
月夜の隣の席で同じようにうなだれて文句を垂れているのは、お馴染みの楓だった。いつでも元気そうなイメージのある楓だが、夏場は月夜同様に、うなだれてることが多い。特に今年の夏は近年の温暖化により温度が高く、月夜たちが住んでいる町は毎日の最高気温が三十度を超えるのは当たり前で、ひどい時などは四十度近くまで行く時があった。
「担任のやつ何やってんだよ・・・さっさと来いよ」
暑さのせいで、いつもより若干口が悪くなってる月夜は悪態をついた。今日は夏休み一日前、一学期最後の日であり、終業式とちょっとしたホームルームで学校が終わる。地獄のように暑い体育館での終業式は既に終わり、後は帰りのホームルームを終えるだけで家に帰れる。月夜の家は今時珍しくクーラーなど一台もついていないが、それでも炎天下の窓際よりはずっと涼しい環境なのだ。だからこそ、月夜はさっさと終わらせて帰りたかった。
「そうだねー・・・それにしても、ほんと暑いね」
パタパタと、下敷きを使って袖口や襟元から服の内側に風を送る楓。月夜が太陽とにらめっこをしているのは、そんな楓をなるべく見ないようにするためだった。初心な月夜は、そんなありきたりな光景すら気恥ずかしくて見ることが出来なかったからだ。特に、その相手が好きな人なら尚更だった。
(くそ、早く来いよ・・・)
祈るような気持ちで、月夜は悪態をつきながら外を見続けた。その祈りが届いたおかげなのかは分からないが、それから数秒もあけずに担任が教室に入ってきた。細身ながらもガッチリとした体格の男性担任は、小脇にこのクラスの生徒全員分の通知表を抱えている。
「おー、待たせたなお前ら。お待ちかねの通知表の時間だぞ」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、担任は持っていた通知表を教卓に置くと、一度だけぐるりと教室中を見渡した。成績が悪いことを自覚している数人の生徒は、その視線から逃げるように視線を泳がせている。そんな中、月夜は相変わらず太陽とにらめっこしていた。
「最近たるんでるんじゃないのか?担任として言うのもなんだが、お前らもう少し勉強したらどうだ」
怒るわけでもなく、呆れた声で担任は言う。そして、名前の順に一人ずつ呼んでいく。成績にさほど興味がない月夜は、悲鳴や喜びの声をあげている生徒に目もくれなかった。
全員分の通知表が配り終わり、担任が夏休みに注意することや軽い雑談をした後、解散となった。
「あー、ようやく終わったか・・・短時間じゃ寝れないし、暇だったなぁ」
お気楽な声をあげる月夜を、楓はジトーとした目で睨んだ。
「そんなこと言ってるの月夜だけだよ。みんな通知表見てへこんだりしてるのに・・・」
そう言っている楓も、成績があまり良くなかったのか多少へこんでいるように見える。
「俺は気にしないもん。テストや通知表での数字で、その人間の人となりが分かるもんでもないし、将来が決まるもんでもないからな」
月夜が言うことはもっともだが、テストも通知表も全ての数字がダントツに高い月夜が言うと、それは皮肉にしか聞こえなかった。
「確かにそうだけど・・・月夜が言うとちょっとむかつく」
それなりとはいえ勉強をしている楓は、全く勉強をしない月夜に一度も勝てないのがいつも納得出来なかった。それを知っている月夜は、たしなめるような、羨ましがるような口調で言う。
「いいじゃん。最初からなんでも出来る人間と、努力して出来るようになる人間・・・俺は後者の方が良いと思うよ。確かに嫌味に聞こえるかもしれないけど、俺の場合生まれ自体に問題があるから、出来ても自分自身の力だって思えないんだよね」
普通の人間と比べると、月夜はあまりにも各方向に特化されている。勉強や運動はもちろん、技術的なことでさえ少し基礎をやっただけで応用が出来る。一を聞いただけで、十を理解し実践出来る天才的な能力があった。しかし、そんな月夜にも苦手なことはたくさんある。人間関係や恋愛ごと、精神的にもまだ幼い部分が多く、自分の感情で動くことが多い。美点があり欠点がある、長所があり短所がある。それは、月夜をより人間らしく見せた。
「そんなことより、やっと夏休みなんだぜ?もう少し元気に行こうよ」
月夜は薄い鞄を持って立ち上がり、教室の一番後ろ窓際寄りの席に歩き出す。月夜の視線の先には、通知表を見せ合っている二人の男女がいた。
「うー・・・待ってよ」
楓も通知表を鞄にしまい、すぐに月夜の後ろに続いた。
「よー、調子はどうだった?」
声をかけられた男女、利樹と紫は月夜の方を見ると、まぁまぁ、といった感じの表情をした。
「俺はいつも通りだぜ。相変わらず現国は苦手だな、それ以外は上々」
「私も化学と体育以外はいいわ、少しは欠点も補っていかないと・・・」
二人はそう答えた後、お前は?といった表情をする。
「俺もいつも通り。変わり映えしないから、使いまわされてるんじゃないかと思うぐらいだよ」
月夜が言ういつも通りとは、五段階評価で体育を除いた全ての評価が四だった。テストの点は良いものの、授業中寝てばかりの月夜は、普通の科目で最高評価をもらったことがなかった。唯一、寝ることが出来ない体育は五だったが。
「楓は?」
月夜の後ろからぴょっこりと顔を出している楓に、紫が尋ねた。
「私はちょっと下がっちゃったかな、二年生になったら少し難しくなったし」
そんなことを言っている楓だったが、実際はクラスで中の上、といったところだった。しかし、今この場にいる他の三人が高すぎるため、楓は控えめな態度だった。
「基礎を理解していて、予習復習をしっかりやれば、ある程度は大丈夫よ」
紫の助言めいたものに、楓はうんうんと頷く。
「ま、どっかの誰かさんみたいにやらないでも出来る、っていうのもあるけどな」
利樹の皮肉めいたものに、月夜はうんうんと頷きかけて、すぐにそれが自分のことだと気づき、月夜は利樹の頭をペチンと叩いた。
「俺だって勉強してるっつうの!」
「ほう・・・お前がいつ勉強してるんだ?」
利樹にそう言われ、実際家でも勉強なんかほとんどしたことがない月夜は答えに詰まった。そして・・・
「えーと・・・夢の中?」
そう言った瞬間、月夜はその場にいた他の三人に小突き回された。利樹や楓はともかく、紫が月夜に攻撃をするのは珍しかったが、さすがに今回はツッコムのを我慢出来なかったようだ。
「痛い痛い・・・!」
下手をすれば集団リンチにしか見えない光景の中、
「あ、あの・・・」
声をかける機会を窺っていた保が、おずおずと四人に声をかけた。三人の手がピタリと止まり、全員の視線が保に集中する。
「みなさんはどうでした?」
視線が集中したことにより、恥ずかしげに俯きながら問いかける保に、各々が答えた。
「私はちょっとだめだったかな」
「俺は上々」
「私も悪くはないわ」
「俺は・・・」
「「「お前・月夜・月夜君は言わなくていい!!」」」
言いかけた瞬間、再度月夜は三人に小突き回された。あー、と悲鳴を漏らしながらぼこられる月夜は、もはやいじめられっ子にしか見えなかった。
「僕は理数系は高かったです。文系はちょっとだめでしたが・・・」
保は月夜を気にかける表情を浮かべたが、三人の気迫が少し怖かったので口出しはしなかった。
「この四人だったら苦手な部分も補えそうだし、次のテストはみんなで勉強しましょうか?」
月夜を除いた四人で、勉強をしよう。という紫の提案に、月夜を除いた他の三人は頷いた。頷きながらも、保を除いた三人はいまだに月夜を小突いている。
「いい加減にしろやおまえらー!!」
そこでついにぶち切れた月夜が、叫びながら両腕を少し振り回して暴れた後、主に利樹を・・・正確には利樹だけを、殴り始める。怒っていても、そう簡単に女性に手を上げられない月夜だった。
「月夜落ち着いてー!」
「月夜君ストップ!ストップ!」
「あわわわ・・・」
今まで全員にやられた分を利樹だけに返すように利樹を殴る月夜を周りは止めようとするが、月夜は止まらない。
「うっせうっせー!」
「ギャー!」
各々の叫び、主に利樹の悲鳴が学校中に響く中、クラスに残っていた他の生徒たちは、とばっちりを受けないように見て見ぬふりをしていた。
「ったく・・・洒落にならないっつうの」
学校から駅までの道のりを歩きながら、利樹はそうぼやいた。
「お前が悪いんだろうが、楓や紫ちゃんはともかく、お前のが一番痛かったんだぞ」
その隣を歩く月夜もまた、やや不機嫌そうな声でぼやいた。歩いている二人の姿は痛々しく、利樹は左頬が腫れている。一方の月夜は目に見える部分はそれ程でもないが、小突かれてる最中に机などにぶつけた服の下側に、いくつかの痣があった。
「ま、紫や楓ちゃんに手を上げなかったのはさすが月夜、といったところだけどな」
腫れあがった左頬をさすりながら言う利樹に、月夜はため息を吐いた。そしてなぜかチラチラと、後ろを気にするように視線を動かす。
「まさか殴るわけにもいかないだろ、軽く叩いたりぐらいはするけどさ」
「そりゃ、な・・・男って、立場弱いよな」
「そうだな・・・」
全ての男がそういうわけでもないが、女性の尻にしかれやすそうな二人は情けない表情で、そして情けない声で嘆いた。
「で、俺に付き合ってもらいたい用事っていうのはなんなんだ?わざわざこのクソ暑い中付き合わせといて、大した用事じゃなかったらキレるぞ俺は」
気持ちを入れ替えるように、月夜は話題を変えた。学校が終わり次第家に帰るはずだったはずの月夜が、家とは方向が違う駅への道を歩いているのは、利樹に、ちょっと付き合ってくれ、と頼まれたからだ。
「お前は今時のキレやすい若者か?・・・まぁ、大した用事でもないんだけど・・・いや、俺には十分大した用事なんだが」
いまいち要領の得ない言い方をする利樹に、月夜は頭をひねらせた。
「何か悩み事か?お前らしくもない。大体から俺に相談したって、大抵のことは無駄に終わるぞ」
「あー・・・」
少し悩んだ後、利樹は少しだけ気恥ずかしそうに答えた。
「女の子へのプレゼントって、何がいいのかな?と聞こうと思ったんだけど・・・」
はぁ?と一瞬しかめっ面をした月夜だったが、すぐにその顔にニヤニヤとした笑みが浮かぶ。
「そういうことか、そういうことですか利樹クン。それなら力になるぜ」
そんな月夜から視線をずらしながら、利樹は気恥ずかしそうに言う。
「別に、紫にあげるわけじゃないんだからな!ただ、参考程度に聞こうと思って・・・」
「紫ちゃんに、なんて一言も言ってないんだけどな」
意地が悪い笑みを浮かべながら言う月夜に、グッ、と利樹は声を詰まらせる。それは完全に利樹の自滅だった。
「だけどさぁ、相談する相手が間違ってないか?お前知り合い多いんだし、そいつらに聞いた方がいいんじゃないか?」
自分が恋愛ごとや女心に疎いことを自覚している月夜は、疑問の声をあげた。
「お前さ、去年の楓ちゃんの誕生日に、ペンダントだっけか?をプレゼントしただろ」
「ああ、そういやそんなこともあったな」
「俺や紫の前でそれを話してた楓ちゃんのすごく嬉しそうな顔が印象強かったからな、だからお前に聞こうと思ったんだよ」
なるほどねぇ、と月夜は漏らす。実際のところ、その時の月夜にはランスという協力者がいたのだが、利樹はそんなことを知っているはずもない。
「そういうことなら、自信はないけど手伝ってやるとするか」
本当に自信が無さそうに呟く月夜に、利樹は、頼んだ、と軽く頭を下げた。
(それはともかく・・・あいつら、何やってるんだろうなぁ)
頭を下げている利樹を尻目に、月夜は再度後ろをチラチラと見ながらそんなことを思った。
月夜と利樹の後ろ、数十メートル程度の間隔を保ちながら、二人を監視するように見ている女子が二人いた。その二人は、月夜がたまに後ろを振り返るたびに、焦ったように電柱の陰や路上駐車されている車の陰に身を潜め、前を歩く二人を尾行していた。そんな怪しい挙動をしている二人組みは、学校を出てすぐに月夜ら二人と別れたはずの紫と楓だった。
「きゃっ・・・危ない危ない」
後ろを振り返った月夜の視線から逃れるように、紫は楓を引っ張って路上駐車している車の陰に潜んだ。言うまでもなく、月夜にはばればれなのだが。
「さすが月夜君ね・・・不思議な力を持ってるだけあるわ」
緊張した様子で、冷や汗をかきながら紫はそう呟く。
「それは関係ないと思うけど・・・」
困ったような表情をしながら言う楓に、
「でも、利樹は気づいてないわよ?」
少しだけ得意気な顔になって、紫は前方にいる利樹を指差す。二人は知る由もないが、今の利樹は周りに注意を配れる程の余裕はなかった。
「確かに・・・それはともかく、どうしてわざわざ二人を尾行するようなまねしてるの?」
学校からここまで、理由を聞く暇もなく連れてこられた楓としては、それだけは聞いておきたかった。車の陰から出て、前の二人に多少気を払いながら哀しそうな顔で紫は言う。
「最近利樹・・・何か、おかしいのよね」
「おかしい?至って普通だったと思うけど・・・」
「みんなでいる時は、ね。・・・最近、二人でいる時よそよそしかったり、女の子って何もらったら嬉しいんだろうな?とか聞いてきたり・・・なんか、怪しいのよね」
うーん、と楓は唸る。正直、利樹が浮気をするようには見えなかった。言動に軽いものが多く、結構軟派に見える利樹だが、その実中身は月夜とそんなに大差がないほど純な少年だ。恋愛ごとには疎い楓だが、利樹がどれだけ紫を好きなのかはよく分かっていた。
「勘違い、とかじゃなくて?」
悩みながら言う楓に、紫は不安そうな顔で言う。
「それならいいんだけどね・・・でもやっぱり、確かめてみないと落ち着かなくて・・・」
本人に直接聞けばいいのに、と思った楓だったが、それを口にはしなかった。もし自分が同じ立場だったら、きっと紫と同じように、不安で聞くことなんて出来ないからだ。例え、相手を信じていたとしても。
「そだね、不安なままなのも嫌だし・・・そういうことなら、力になるよ」
「ありがとう、楓。じゃあ、見つからないように行きましょう」
美しい友情と青春、二つが混ざった良い話に見えなくもないが、コソコソと尾行していく二人の姿からはそれは遠く離れているように見え、少しだけ滑稽だった。
駅前のデパートの中、三階に設けられた雑貨屋で、月夜と利樹の二人は色々な物を見て回っていた。
「お、これいいかもな」
月夜が手に取った商品を、利樹は横から覗く。そこには、「肩こり腰痛に効く楽々ローラー」、と書かれた小さな札がついている、掃除用の小さいローラーに見える物だった。
「・・・で、こんなものどうする気なんだ?まさか紫にこれを送れと?」
明らか嫌そうな顔で言う利樹に、月夜は首を横に振る。
「んや、家事ばっかりで楓も肩とか腰とか大変なんじゃないかなぁ、と思ってだな」
「分からないでもないけど、そんなもんあげたらぶっ飛ばされるんじゃないか?」
「そうかなぁ・・・」
渋々とそれを元の位置に戻す月夜。年頃の女子にあげる物としては、間違いなく遠くかけ離れているということに月夜は気づいていなかった。
「つーか、少しは真面目に考えてくれよ」
先ほどから月夜はこんな調子で、色々な物を手にとっては利樹に拒否されていた。不安だ・・・、と利樹はぼやき始める。
「一応真面目に考えてるんだけど・・・大体から、紫ちゃんの好みを知らない俺がそう簡単に良い物見つけられるわけないだろ?」
正論を言う月夜に気圧されながらも、利樹は苦い顔で言う。
「確かにそうなんだけど・・・だからつってお前はプレゼントとはかけ離れすぎだ、肩こり腰痛に効く物なんかもらってどこの高校生が喜ぶんだよ!」
「いると思うけど?まぁ、少数派なのは間違いなさそうだけど」
「俺はそういうことを言ってるんじゃねーーーー!もっと一般的な物が良いつってんだ!」
人任せな割には注文の多い利樹に、月夜は悩みながら言う。
「一般的な物・・・ねぇ・・・アクセサリーとか小物、服辺りが妥当だな」
「分かってんじゃねーか・・・そういうので、なんかないか?」
んー、と月夜は声をもらす。
「確かにそういうのが一般的かもしれないけど、どんな物でも相手を想う気持ちが大切なんじゃないか?肩こりとか腰痛がひどい人は、服とかよりもさっきのやつの方が欲しいかもしれないだろ?」
月夜の二度目の正論に、利樹は、ぐっ、と言葉を詰まらせた。
「高い物が良いわけでもないし、一般的な物以外が悪いわけでもない。大体から、どんな物だとしても、お前からもらったら紫ちゃんは嬉しがると思うけどねぇ」
確かに月夜が言っていることは間違いではないが、世の中には、貰うなら高価な物、という女性もいる。若い二人には、まだまだその考えが薄かった。
「・・・そうだな、少し、考え過ぎだったのかもしれないな」
多少肩の力が抜けた利樹は、ため息を吐きながらそう言った。
「ま、女の子の考えはどうだか分からないけどねぇ。無難に行くなら、カップとか日常でよく使いそうな小物。少しチャレンジしたいなら、アクセサリー辺りが良いかもな」
「なんでアクセサリー類だとちょっとチャレンジなんだ?」
利樹の素朴な疑問に、月夜は軽く脅すように言う。
「学校で着けられるものなら尚更だな。例えばデートとかの時に相手がそれを着けてくれてなかったら、少しへこまないか?」
その場面を想像して、利樹はへこんだ。
「確かに・・・そうだよな」
手軽に身に着けられるものだからこそ、プレゼントした側としてはそれをいつでも、という程ではないが、ある程度身に着けていてくれないと、へこむものがある。それは単なるわがままかもしれないが、やっぱり切ないものは切なかった。
「うちの学校は多少のアクセサリーは大丈夫だからな。俺はいつでも着けてるし、楓も着けてくれてるから、なんか嬉しいんだよな」
首から提げて服の下につけてるため、周りから見たらあまり見えないペンダントを、月夜は軽く握り締めた。
「ノロケはいいんだよノロケは・・・でも、そういうの羨ましいな。自滅覚悟で、俺もアクセサリー送ってみるか」
「んじゃ、場所変えるか。金あるなら、一階にある宝石屋でもいいけど?」
月夜の言葉に、利樹は困ったように頭をかいた。
「そんなにあるわけじゃないんだ、高価な物はちと無理だな」
「それなら四階のアクセサリーショップかね、安すぎず高すぎず、良い物があると思うぞ」
なぜかデパート内部に詳しい月夜は、そう言った後移動し始める。利樹も頷きながら、その後に続いた。
その二人を少し離れた棚の陰から見ていたのは、言うまでもなく紫と楓の二人だ。紫は周りから見ても怪しいほど月夜たちを凝視し、楓は逆に怪しまれないように、売っている物などいじりながら、たまに月夜たちに視線を巡らしていた。
「何か話してるけど・・・ここからじゃ聞こえないわね」
人々の喧騒に加え、ばれないように距離をとっているせいで、月夜たちの会話の内容は紫には聞こえない。精々見えたのは、月夜が変なローラーみたいな物をいじってた姿ぐらいだった。忌々しそうに呟く紫の横で、楓は、
「うーん、たまにはお菓子でも作ろうかなぁ」
と言いながら、「手軽にクッキー作り」、という札がついている箱を持っていた。もちろん、中にはクッキーの材料が入っている。
「って楓・・・何してるの?」
月夜たちから視線を移した紫は、呆れ顔で楓を見る。
「クッキーでも作ろうかなぁ、って。月夜は結構甘い物好きだからねー」
のほほんとした声で言う楓に、紫はため息を吐きながら言う。
「そういうことじゃなくてね・・・あ、移動し始めたわ。行きましょう、楓」
「え?え?ちょっと待って、これ買おうと思うんだけど・・・って腕を引っ張らないでー!」
いきなり腕を引っ張られた楓は、どうにか持っていた箱だけは置けたものの、ずるずると紫に引っ張られて行った。
四階のアクセサリーショップに着いた月夜と利樹は、手始めにぐるりと中を回った。夏休み前の夕頃のそこは、カップルや女性同士が多く、二人は居心地の悪さを感じながらも、値段や物の良さを見ながら動いていく。
「ペアリングとかもありだよな、学校で着けてたら間違いなく他のやつらに何か言われそうだけど・・・」
「うーむ・・・俺は別にいいんだけど、紫がどう思うかだよなぁ」
二人がそんなことを言い合いながら悩んでいると、一連の行動を見ていたアクセサリーショップの店員が二人に声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
二十代中盤程に見えるその女性は、一言で言うのならとてもきれいな女性だった。
「あ、えーっとですね・・・」
女性に聞かれ、利樹は言葉に詰まった。別にその女性がきれいだったからというわけではなく、ただ単に、自分が悩んでることが気恥ずかしくて相手に聞けないだけだった。月夜も同様に、言っていいのかどうか迷い、押し黙る。
「あ、もしかして彼女さんにプレゼントですか?」
そんな二人の内心を読み取ったのか、店員は朗らかな笑みを浮かべてそう言った。
「は、はい、そうなんです・・・高校生の女の子なんですけど、どういうのが喜ばれますかね?」
気恥ずかしそうに答える利樹に、店員は営業スマイルと、自分にもこういう時代があったなぁ、という懐かしさを織り交ぜた笑顔を作りながら言う。
「そうですねぇ・・・その子の好みにも寄りますけど、高校生ぐらいの子ならピアスとかいいと思いますよ」
「ピアスですか・・・耳あけてないんですよね」
困ったように言う利樹に、店員は笑顔のまま続ける。
「真面目な子なんですね。じゃあ、イヤリングはどうですか?髪が長い子でしたら、可愛い髪留めとかもありますけど。サイズが分かるのでしたら、思い切って指輪っていうのもいいと思いますよ」
「あ、えーっと・・・」
色々な物をすすめられて、利樹は戸惑いながら月夜に視線を送る。俺に聞くな、という視線を月夜は送り返すが、利樹の情けない顔を見て月夜はため息を吐いた。
「髪が長い子なんで髪留め見せてもらえますか?多分指輪はサイズが分からないと思うんで」
月夜の横槍に不満な顔一つせず店員は、
「分かりました、ではこちらにどうぞー」
と営業スマイルで言いながら歩き出した。月夜たちはその後ろに続いていく。
「ったく、しっかりしろよ。人との会話はお前の得意分野だろうが」
隣を歩く利樹に月夜は小声で言うが、店員との距離がさほどないためもしかしたら聞こえているかもしれない。
「すまん・・・」
素直に謝る利樹に、月夜は再度ため息を吐いた。二人のことを多少知っている人物なら、この光景を見たらおそらく、何かの間違い、だと思うだろう。月夜は比較的内向的な性格で、人付き合いはあまりうまくない。利樹は反面、外向的な性格で、人付き合いが得意な方だ。二人のその違いは、内面だけではなく雰囲気や外見を見ただけでも多少なりとも分かる。しかし、二人の根本的な性格は決定的にその性格とは食い違っていた。一言で言うのなら、月夜は冷静、利樹は真面目なのだ。人付き合いが苦手でも、月夜は大抵当たり障りなくこなせるし、人付き合いが得意でも、利樹は真面目故に考えてしまったり焦ったりすると言動が乱れることが多い。それは単に人生経験の差であって、別段利樹が悪いわけではない。同年代にしては、月夜はただ特殊すぎるだけ、にしかすぎないのだ。
相変わらず、紫は物陰に隠れて月夜と利樹の二人を監視していた。
「あ、なんかきれいな女性と話してる・・・利樹の慌てよう、なんか怪しいわね・・・」
ぶつぶつと独り言(本人は楓に言っているつもり)を言いながら、顔色を怒りで赤くしたり、不安で青くしたりしている紫。その少し後ろでは、緊張も不安も何一つない楓が、欠伸を噛み殺しながら暇そうに棚に並んでいるイヤリングをいじっていた。
「ねえ楓、どう思う?」
いきなり矛先を向けられた楓は、それに気づかず気に入ったイヤリングを耳につけて、小さな鏡を覗き込んでいる。
「もう、楓ってば!」
「え?何か言った?」
少し大きめの声で言われ、ようやく鏡から紫に視線を移した楓は、のほほんとした顔をしている。楓の両耳の耳たぶには磁石でくっつけるタイプのイヤリングが着いていて、数センチ程伸びた鎖の先には小さなクジラを模したプラスチックが付いていた。子どもっぽい楓にはそれがやけに似合い、可愛らしく見える。そんな楓を見て、紫は多少恨めしげに言う。
「手伝ってくれるんじゃなかったの?」
「ごめんごめん」
本来の目的を忘れていた楓は、申し訳なさそうにイヤリングを外し、置いてあった場所に戻した。とはいえ、月夜たちがしたいことに薄々と気づいている楓としては、今の状況はあまりよろしくなかった。紫に本当のことを言ってしまえば利樹の努力は無駄になるし、かといって何もしないでこのまま監視を続ければ、利樹を疑う紫の疑惑が強まる恐れがある。
(うう・・・板挟み状態は辛いよぉ・・・どうすれば良いの月夜ーー!)
自分のそんなの状況など全く知らない月夜に助けを求める楓だが、そんな楓の内心を知る由もない紫は、
「あ、動き出したわ」
と言いながら、楓の腕をつかんで歩き出した。
それから約二十分後、楓の気分的にやたら長く感じられた月夜たちの監視劇も終わりに近づいたその時、ついに事件が起きた。買い物を終えた月夜と利樹がデパートから出るのを相変わらず物陰から見ている紫と楓。そろそろ終わりかな?と安堵した楓は、その安心と、今まで寒いほど冷房が効いたデパートの中にずっといたため、急に尿意を催してしまった。
「ちょ、ちょっとトイレ行って来るね・・・」
月夜と利樹がデパートから出たのを確認した楓は、そう紫に言い残し小走りでデパート出入り口手前にあるトイレに駆け込もうとした。しかしその時、なぜかデパートから出て行ったはずの二人が中に戻ってきたのだ。
「あれ?楓ちゃん、こんなところで何やってんの?」
まずい、と思った時には既に手遅れで、見つかってしまった楓はどうにか動揺を悟られないように、純粋な疑問を浮かべている利樹と、気まずそうに沈黙を保っている月夜に説明した。
「紫とちょっと買い物を、ね。二人はどうしてこんなところにいるの?」
ずっと後をつけてたことを悟られないようにうまく説明出来た楓だが、それはすぐに、楓の後ろからゆらりと幽霊のように現れた紫の一言で台無しになった。
「誰のために、それ、買ったの?」
怒っているようにも悲しんでいるようにも聞こえる紫の声に、利樹は一瞬戸惑ったが、すぐに、怒りを押し殺して聞き返す。
「なんで、お前が知ってるんだよ・・・?もしかして、ずっとつけてたのかよ?」
「ええ、そうよ・・・」
紫も負けじと、怒りと悲しみを押し殺しながら肯定した。正に一触即発の状況、お互い押し殺しているはずの怒りは、内側に収まりきらず周囲の空気をピリピリとさせている。楓は、どうしよう、と両者の顔を交互に見遣り、さりとて口出しをすることが出来ず困惑しながら黙っている。周囲にいるなんの関係もない人々は、微かにピリピリとした空気を感じ取り、四人を避けるように歩いている。そんな中、一人だけ何も考えてないようにぼーっとしてる人物がいた。それは言うまでもなく、月夜だった。月夜は、今にも口げんか、ひどければ手が出そうな状況の中、ぼーっと利樹と紫の二人を眺めている。そんな月夜を見た楓は、月夜に今の状況を打開するための良い案があると思い、こそこそと足音を立てるのすら恐れるように近づいた。
「月夜、どうにか出来ないの?」
月夜の隣に来た楓は、小声でそう聞いた。
「んー?別に?ま、なるようにしかならないだろ」
しかし、月夜の言葉は楓の期待を裏切るようなものだった。それはまるで他人事のようで、自分には関係がない、と言わんばかりの言葉だった。
「そんな・・・」
「いいから、黙って見てれば分かるよ」
文句を言おうとする楓を、月夜は遮ってそう答えた。他人事のように言う月夜だが、その内心はそれ程薄情ではない。ひどい結果にならないことを分かっているからこそ、月夜は落ち着いていられるのだった。
「何だよ、そんなに俺って信用ないのか?陰からこそこそとよぉ!」
月夜と楓が見守る中、利樹のその声で、ついに火蓋が切って落とされた。両者の距離は数メートル程度、大声を出す必要もない距離だが、利樹は感情のままに声を張り上げた。その声で、周囲の人々の視線が集まるが、今の利樹にはそれを気にするほどの余裕はない。デパートの警備員や店員が来たら厄介ではあるが、なるべく早めに終わらせておきたい、と思う月夜は、それらが来た時の対応を考えていた。
「信用ですって・・・?あるわけないでしょ!?あっちにふらふらこっちにふらふら、それだって、誰にあげる気なのよ!」
一見軟派に見える利樹だが、その実、中身は一筋な性格だ。それを紫が知らないはずもないが、今は感情が高ぶっているため、ついついそんなことを口にしてしまう。
「誰だっていいだろうが!なんで一から十までお前に説明しなきゃなんねーんだよ!!」
徐々に白熱していく二人。お互いの言葉で本当は傷ついているが、それを怒りで覆い隠している。なんだなんだ?と野次馬が好きそうな会話の内容に引かれ、集まってきそうになる人々に月夜は背筋が凍るような視線と殺気を送りつけた。それを感じ取った人々は、すごすごと退いていく。
「わた・・・私だってね、そんなの説明して欲しくないわよ!知りたくないわよ!」
でも、と紫は続ける。
「好きなんだから、しょうがないじゃない!気になるんだもの!」
それはただ怒りに任せて出た言葉ではなく、紫の本当の気持ちが、切ない、寂しい、不安・・・そういった類のものが、ありありと感じ取れる言葉だった。怒っていたはずの紫の顔は、今にも泣きそうなものに変わっている。
「だからって・・・!くそっ、少しは信用しやがれ!」
紫の気持ちを感じ取った利樹もまた、毛色の違った怒りからその言葉を口にした。好きならどうして信じてくれないんだ、という、傷ついた利樹の本当の気持ちが感じ取れた。
「だって・・・だって・・・!最近妙によそよそしかったし、他に好きな子でも出来たのかな・・・って」
後半の言葉には、もう怒りは一つとして含まれていなかった。不安という名の暗闇に塗りつぶされ、ただ、弱弱しく響くだけの小さな声だった。目には薄っすらと、涙が溜まっている。
「それは・・・・・・・・・」
数分にも数時間にも感じる、長い長い沈黙の後、意を決したように利樹は歩き出し、紫のすぐ手前で止まった。
「ごめんな、俺が悪かったよ・・・気づかない内に、不安にさせてたんだな・・・本当に、ごめん」
紫は普段から、多少嫉妬深いところがある。しかし、後をつけたりなど、プライバシー侵害に至るようなことは今まで一度としてやらなかった。自分の態度や言葉が、紫を不安にさせた結果が今回の事件の原因となったことを理解した利樹は、素直に謝った。自分を信用してくれなかった紫より、彼女を不安にさせてしまった自分自身を、利樹は誰よりも責めた。
「でも聞いてくれ、俺は別に他に好きな子が出来たわけでもないし、お前が嫌いになったわけでもないんだ」
「ほんと・・・?」
目をぱちくりとさせながら、紫は聞いた。瞳に溜まっていた涙が頬を伝って流れ落ちるが、それを気にも留めない。
「ああ・・・ほんとだよ。これ・・・」
利樹は手に提げていた袋を紫に差し出す。それは先ほどアクセサリーショップで買った物だった。
「私に・・・?私のため・・・だったの?」
紫の問いに、利樹は恥ずかしそうに顔を赤らめて頷く。紫の表情は、悲しそうな顔から徐々に嬉しそうなものへと変わる。いまだ頬を伝う涙は、悲しみの涙から喜びの涙に変わったように見えた。
「ごめ・・・ごめん・・・利樹・・・ぐすっ」
差し出された袋を受け取りながら、紫は途切れ途切れの声で謝る。嗚咽を漏らしながら謝る紫を、利樹は抱き締めた。
「謝る必要なんてない、俺の方こそ・・・ごめんな」
月夜が野次馬を制しているとはいえ、そこはデパートであり、人の多い夕方という時間だ。そんな中、二人は周りのことなど見えていないように、抱き締めあっている。お互い根が生真面目なだけに、熱くなるとすぐ周りのことが見えなくなる二人だが、月夜と楓はそんな二人をほのぼのとした顔で見ていた。
「な?なるようになっただろ」
満足気に頷く月夜は、隣にいる楓にそう語りかけた。最初は、ハラハラドキドキ、といった感じで見ていた楓も、今では温かい笑みを浮かべながら、頷いた。
「そうだよね・・・お互いが、心の底から好き合ってるんだもんね」
と、羨ましそうに言った瞬間、どっ、と肩の力が抜けた楓は疲れたように言う。
「結局私が悩んでたのはなんだったんだろう・・・はぁ・・・ちょっとトイレ行って来るね」
そう言い残し、月夜に背を向ける楓に月夜は、
「おー、行って来い」
と気のない返事をした。それからすぐに、
「さて、と」
と呟きながら、いまだ抱き締めあっている二人に近づく。
「おい、いつまでやってんだ。仲が良いのは別に構わないけど、場所変えてやれ」
正直これ以上目立つのはごめんだ、とでも言うように、月夜はやや呆れた声でそう言った。
「うお!?・・・いたのか、月夜」
そんなとぼけたことを言いながら、とっさに紫から手を離した利樹に、月夜は容赦なく、利樹の頭にハイキックを入れた。バキィッ、といういい音が響く。保直伝の、キレた時のハイキック、だった。
「さすがにその言い方はないと思うぞ・・・ついつい足が出ちまうだろ?」
冷静に聞こえる言い方の割には、利樹のあまりの言葉に、相当頭に来ている月夜だった。とはいえ、月夜はそんなまねは利樹以外にはまずやらない。気が置けない友人だからこそ、月夜もそこまでするのだった。
「いってーな!さすがにこれはやりすぎだろ!?」
月夜のけりで軽く吹っ飛んだ利樹は、けられた箇所をさすりながら倒れたままの格好で月夜を見上げて文句を言った。そんな二人を、紫は青い顔で見守っている。そこには男同士の何かがあり、女性である紫は口が出せない雰囲気になっていた。
「大丈夫だ、急所は外してるから」
急所を外しても頭にけりをすれば、普通は意識を失ったり怪我をしたりそうなものだが、月夜の元々の貧弱な肉体に加え、人体の知識がそれなりにある月夜は平然とそう答えた。利樹はしばし呆然とした後、
「外してりゃいいってもんじゃねーだろうがぁ!」
と叫び、立ち上がって月夜に殴りかかろうとした。紫や利樹だけに限らず、意外とこういう時は月夜も周囲の目を気にしない人間だった。
「結末は分かっていたとしてもさぁ・・・相談された身としては、色々悩むだろうが、主に楓が!」
友人のことよりも、楓のことを優先的に考えている月夜は、悩みの原因となった利樹にただ怒りをぶつけたかっただけなのだ(さっきの利樹の言葉も原因になっていた)。殴りかかってくる利樹を、月夜が迎えうとうとした瞬間・・・月夜の後頭部に慣れた痛みが走り、ペチン!といういい音が響いた。その光景と音に、利樹も紫も、そして月夜さえも、呆気にとられた。
「何やってるの二人とも!やっと一段落ついたと思ったのに・・・思ったのにぃ・・・っ」
その言葉と共に、月夜の後頭部からは立て続けにペチンペチンと音が響く。わなわなと体を震わせながら月夜の後ろに立っているのは、言うまでもなく楓だった。
「あー・・・えーっと・・・じゃあ、帰ろうか」
はたかれている後頭部の痛みを我慢しながら、月夜は焦ったように声を絞り出す。ちなみに、月夜は後ろを振り向かなかった。なぜなら、怖かったから。
「そ・・・そうだな、うん」
「そ、そうね、帰りましょう」
こくこくと頷きながら、利樹と紫もそれに賛同した。賛同せざるを得なかった、なぜなら怖かったから。それでも怒りの収まっていない楓は、無言で月夜の後頭部をペシペシとはたいている。月夜は冷や汗を流しながら、利樹に目配せで合図した。とりあえず先に行け、と。利樹は素早く頷き、死ぬなよ、月夜・・・と、思いながら、焦らず、かといってゆっくり過ぎずに、紫の手を引いてデパートを出て行った。
(さてどうするか・・・)
残された月夜は、後頭部をはたかれながら真剣に考えた。それは周りから見たら、笑える光景にしか見えないのだが、楓の雰囲気が尋常じゃないため、笑いは起きなかった。
(・・・逃げるか)
そう決断した月夜の行動は、早かった。後ろを向いたら楓の手が額に、運が悪ければ目に被害を与えることに身震いした月夜は、そのまま前に駆け出した。
「悪い!外で利樹たちと待っててくれ!」
後ろを振り向かずに、そう叫んで月夜は一目散に走り去って行った。月夜がいなくなってからも、数秒の間手を動かしていた楓だったが、
「・・・あれ?私、何してたんだろう?」
と言いながら、不自然に何もない空間を動かしていた手を止めた。本気で怒った楓は、知らず知らずの内に体が動いていることがある。それは彼女の魂に宿る力のせいなのか、それとも感情で勝手に体が動いているだけなのか・・・それは誰にも分からないが、無自覚ほど怖いものはない、それだけは確かだった。
夜が来るのが遅い夏ではあったが、既に日は大分沈み、辺りを徐々に暗くしている。とはいえ、それでもいまだ温度は高い。
「悪い、待たせたな」
そんな中、待っている三人の元に、月夜は数分とかからず戻ってきた。ぜぇぜぇと肩を上下させる月夜に、三人は異口同音に、
「「「遅い」」」
と言った。待っている三人の間に、先ほどのような緊張した雰囲気は一つとしてなかった。楓が出てきた時、最初は緊張した利樹と紫だったが、いつもの楓に戻っていることに気づき、すぐにいつもと同じ、友達同士として会話しながら、月夜を待っていたのだ。
「いや、ほんと悪い・・・」
月夜もまた、いつもの月夜に戻っていた。先ほどのことがなかったことのように、まるで待ち合わせ時刻に遅刻したかのように、月夜は普段通り、謝った。
「ったく・・・ん?お前、何持ってんだ?」
月夜が手首にぶら提げている袋に目を留めた利樹は、怪訝そうな顔でそう聞いた。月夜が提げている袋は、利樹が買い物をしたアクセサリーショップの袋と同じ物だった。
「ああ、これ買うために戻ったんだよ・・・ほら、楓」
息が大分整った月夜はそう言いながら、楓にその袋を差し出した。暗くて三人にはよく見えなかったが、月夜の顔は走って来た以外のことで、赤くなっていた。
「私に?わぁ・・・なんだろ」
嬉しそうに袋を開けようとした楓を、月夜が言葉で制した。
「ここじゃなんだし、みんなで夕飯でも食べに行かないか?」
月夜の提案に、三人は頷いた。
「あ、ちょっと家に電話するから待っててね」
紫が携帯電話で、夕飯は食べてから帰る、と家に連絡をいれ終わるのを待ってから、四人は手近なファミレスに移動した。
ファミレス内は夏休み前、そして夕飯時ということもあり、かなりの人がいたが、四人は無事入り口付近の窓側のテーブル席をとることが出来た。月夜と利樹、楓と紫の二組に分かれてテーブルを挟んで座った四人は、まず料理の注文、そして夏休みの宿題や夏休みの予定など、他愛のない話をしながら料理を待っていた。
「ねえ月夜、これ、開けてもいいかな?」
そんな中、ずっと待ちわびていたように、楓は月夜に聞いた。紫も同様に、
「私も、いいかな?」
と利樹に聞いた。
「んー・・・まぁ、いいかな」
「そうだな、開けてみてくれよ」
二人は恥ずかしさを隠しながら、そう答えた。その内心は、喜んでくれるかな?という不安と、喜んでくれたらいいな、という期待が混じっている。楓はともかく、紫は利樹が買う物を見ていたわけだが、今はそんなことを気にしてはいけない雰囲気だった。
「わぁ・・・バレッタ、かな?」
楓より一足早く、袋の中に入っていたリボンで可愛くラッピングされた小さな箱を開けて、紫は嬉しそうに顔を綻ばせた。中に入っていたのは、横長で薄紫を基調とし、そこに黒いマウス柄があしらわれている比較的シンプルなバレッタだった。それはやや子どもっぽく見えるが、実は可愛い物が好きな紫にはすごく好みのものだった。
「何にしようか迷ったんだけどさ・・・」
苦笑いをしながら、多少自信なさそうに後頭部をかく利樹の前で、紫は今自分がつけている髪を留める黒いゴムを外し、それの代わりにバレッタで髪を留めた。髪型はほとんど変わらないが、髪の色に溶け込んで見えづらくなっていたゴムよりもはるかに印象が変わり、明るく、そして可愛らしく見えた。
「・・・似合う?」
ちょっぴり頬を赤くしながら聞いてきた紫に、利樹は素直に答えた。
「ああ、すごく似合う・・・可愛いぞ」
後半の部分は照れていたため、かなり小さい声で言った利樹だったが、しっかりと聞こえていた紫は満面の笑顔で言う。
「ありがとう利樹・・・すごく、嬉しい」
お互い照れながらも、お互いから視線を外さずに見詰め合っている二人の横で、紫のプレゼント同様に可愛くリボンでラッピングされた小さな箱を開けた楓は、中を見て驚いていた。
「・・・・・・」
「えーと・・・気に入らなかったか?」
楓の驚きと、数秒の沈黙を勘違いした月夜は、少しだけ悲しそうに聞いた。
「ぜ、全然そんなことないよ!ただちょっと・・・驚いただけで」
それは絶対にない、というように、楓は首をぶんぶんと横に振る。月夜は楓の否定の言葉と態度に、安堵の息を漏らすが、すぐに怪訝な顔をした。
「じゃあ、どうしたんだ?虫でもくっついてたのか?」
「違う違う、そうじゃなくて・・・えへへ」
再度否定の言葉を出した後、楓はすごく嬉しそうにはにかんだ。月夜は楓の言動に疑問を浮かべていたが、すごく喜んでくれてるみたいだし、まぁ、いいかな、と自分を納得させた。
楓が驚いたのも、月夜がそれを分からないのは無理もない。月夜が楓にあげた箱の中には、楓が先ほどアクセサリーショップで試しにつけていた、あのイヤリングだったのだから。楓の一連の行動を知らない月夜がそれをあげる・・・それは奇跡に等しい偶然であり、そしてお互いを知り、つながっている二人にとっては必然の奇跡なのかもしれない。
月夜と楓、利樹と紫、冷房が効いているはずの店内にも関わらず、その四人の周りには熱い空気が流れている。その空気に気づいた店員が、料理を持ったまま、近寄ってもいいのかしら?と遠めに見ながら困っていたのを、四人は知る由もなかった。
日常生活でも異常な状況でも、常にドタバタと何かしら事件がありながら、月夜たちの夏休みがスタートした。
よそでやれ、と自分で書いててツッコミたかったです。
主人公とヒロインの影に隠れがちなお二人を前に出したらこんな感じになりました。