忍び寄る影?~心頭滅却しても暑いもんは暑い~
月夜と楓がランスの別荘に来てから既に三日が経ち、四日目が始まった。リファやキールを含んだ五人のことや、楓との問題も片付け終えた月夜は、一息つく間もなく、次の問題ごとにぶち当たっていた。
「・・・ああ、もう!何書けばいいんだよちくしょう!」
朝食とその後の軽い雑談を終え、部屋に戻って来た月夜は、机の上に置いてある真っ白な原稿用紙と睨み合い、結局何も思い浮かばず叫んでいた。
「また悩んでるの?・・・深く考えない方が良いって言ったのに・・・」
はぁ、とため息混じりに呟く声は、暗に、うるさい、と言っているように聞こえた。月夜は声の主、ベッドの上で仰向けになりながらランスから借りた小説を読んでいる楓に目を向ける。
「早く終わらせないとなんか落ち着かないんだよ」
そうぼやいた後、再び真っ白な原稿用紙に目を向ける、が、相変わらずシャーペンを握っている右手は動かない。将来の夢をある程度緻密に書かなければいけない、という宿題が終わってないのを気にしているのか、月夜はランスの別荘に遊びに来たにもかかわらず、提出しなければいけない原稿用紙とシャーペンをしっかりと荷物の中に潜ませていた。そんな風に変な真面目な月夜に対して、楓は呆れたような目を向ける。
「後三週間以上、いや、一ヶ月近くもあるんだよ?そんなに焦ることないと思うんだけどなぁ・・・」
それより、と楓はやや不機嫌そうに言葉を続ける。
「悩むのはいいんだけど、それは月夜の勝手だからね。でも、少し静かにして欲しいかな、集中出来ないし」
そう言い放ってから時間を空ける間もなく、楓は手元の小説に視線を落とした。その姿からは、続きが気になって早く読みたい、という雰囲気がひしひしと伝わってくる。
「んー・・・」
楓に言われた通りに、月夜は静かに悩んだ。何かあった時は率先して楓の前に立つ月夜だが、普段の月夜は楓に頭が上がらなかった。単に、素直なだけ、というのもあるが。しかし、小さく呻きながら黙考するのも、数分と持たず、月夜は八つ当たり気味に叫びたい衝動に駆られた、あの担任ふざけんな、と。一度そんな風に考えてしまうと、八つ当たり気味な思考は止まらず、尚更、原稿用紙は白いままとなる。
(全くさぁ、大体から、なんだよあの担任、お前はもう少し将来のことを考えろ、真面目になれ!じゃねーっつうの、お前にとやかく言われる筋合いはないっつうの。学校も学校で、こんな宿題出すんじゃねーよ)
教師や学校が生徒の将来を思いやるのは至って普通のことだったが、それを分かっていても文句の一つや二つを言いたくなる。そんな風に、尚も月夜が心の中で愚痴を言っていると・・・。
「月夜」
不意に、楓の静かな声が月夜の思考を遮った。静かなはずのその声には、何か空恐ろしいものが含まれていて、月夜は嫌な恐怖を感じながらも、楓に顔を向けた。
「なんでしょうか?」
何ともいえない恐怖から、敬語で、かつ低姿勢で聞いた月夜に、楓は静かに、あくまでも静かに告げた。
「悩むんなら、静かにね?多分気づいてないんだろうけど、声に出てたよ、全部」
「はい、ごめんなさいでした・・・」
今の楓ならば、言葉だけで人間の息の根を止められるかもしれない。そんな恐怖を感じた月夜は、とにかく低姿勢で謝った。自分が思っていたことが口に出ていたのもびっくりだったが、楓の気迫、むしろ殺気の方に心底びっくりした月夜だった。
「一段落ついたら、私も手伝ってあげるから、ね?何も手伝えないと思うけど」
謙虚な物言いに聞こえなくもないが、実際その裏には、だから今は静かにしろ、と言っているのを悟って、月夜は、はい、と答えてうなだれた。そして再び、口を閉ざしたまま原稿用紙に顔を戻すが、このままじゃ埒があかない、と思った月夜は、部屋を出ることにした。元より、参考程度でもランスに話を聞くつもりだったし、少なくとも今は部屋にいるよりはまし、と月夜は思い切り、音を立てないように原稿用紙と元より握っていたシャーペンを持ち、音もなく部屋から立ち去って行った。
階段から左側に四番目にある月夜と楓の部屋より一つ奥にある五番目の部屋、ランスと茜とリミーナの三人が寝泊りしているその部屋に、月夜は来ていた。部屋の中には今、ランスと茜とリミーナと月夜の四人がいるが、狭苦しいという感じはなく、むしろ四人いても尚、やや広いぐらいに感じる部屋だ。
「ふーん、そんな宿題があるのか・・・それで、僕に話を聞きに来た、というわけか」
月夜の説明(楓に追い出されるように出てきたことは言ってない)を聞いたランスは、自分のベッドに腰掛けながら、そう言って頷いた。
「将来の夢とかそういった類のものは、年長者に聞いた方が参考になるだろ?」
ランスと近すぎず遠すぎずの位置の椅子に座り、説明を終えた月夜はそう補足した。
「僕はまだ夢追ってる最中だし・・・参考になるようなこと言えないと思うんだけどなぁ」
そう言いながらランスは、やや間隔をあけた隣のベッドに腰掛けている茜に目を向けた。少なくともここにいる中で一番年上なのは茜であり、そんな茜であるのならば、何か言える話があるのでは、とランスは期待したからだ。しかし、茜が口を開くよりも先に、茜の隣に座っていたリミーナが、納得いかない、というような顔で口を開いていた。
「ちょっと!さっきから年長者とか、ランスの視線とか、どうして私の意見を誰も求めようとしないのよ!?」
「いや・・・だってなぁ・・・」
半ば呆れながら、月夜は呟いた。少なくとも、自分よりいくつも年下の少女に将来の夢やら何やらを学ぶ気は正直起きなかったし、ついでに、参考になりそうな話を聞けるとも思っていなかった。
「ちょっと!何よその目はーー!」
月夜の冷めた目を見て、全く期待されていないことを理解したリミーナは、怒って地団駄を踏んだ。そんなリミーナを横にいる茜が、よしよし、と頭を撫でで落ち着かせた後、月夜に顔を向けて口を開いた。
「確かに、そういうのは年長者の話の方が参考になるかもしれないけど、幼い子の意見だって馬鹿には出来ないわよ?」
幼いって言うなー!と叫んでるリミーナを滑らかスルーしながら、茜は続ける。
「それに、うちだってそういうのに関しては何も言えないかなー・・・うちの夢はもう、叶ってるようなもんだしねー」
不意に、茜はランスを一瞥する。茜の夢というのはなんなのか明確には分からない月夜だったが、なんとなく、それで理解した。
「はぁ・・・それじゃ、八方塞がり、ってやつかな・・・ああ、そうだ。参考とまでは行かないにせよ、二人が前に、どんな夢を持ってたのか、どうしてそんな風に思ったのか、教えてくれないか?」
だから私を無視するなー!と叫んでるリミーナを華麗にスルーし、ランスと茜は考え込む。
「僕はまぁ・・・平和な世界にしたいと思ってるかな、現在進行形でね。俗な言い方かもしれないけど、偉くなれば、世界的に影響力も持てるし」
先に口を開いたのはランスだった。そして、理由は・・・と付け足す。
「子どもの頃から戦争とか、そこまでいかないにせよ殺人事件とか暴力事件とか、結構見てきたからね。平和な世界にしたいと、思ってるよ」
難しいけどね、と苦笑いしながら言ったランスだったが、その瞳の奥には、絶対に成し遂げたい、という強い思いが見え隠れしていた。
「ふーん・・・風呂場で俺に説教たれた割には、自分も人のこと言えないんじゃない?」
全ての人を救う・・・それをランスが世迷い言だと言っていたのを月夜はしっかりと覚えていて、ここぞとばかりにつっこんだ。しかしその言葉には、嫌味や皮肉というよりも、茶化すような響きがあった。
「別に、全ての人間を救いたいわけでもないからいいんだよ。こんなこと言うのもなんだけど、死んだ方が良い人間だっているんだから、な」
影のある不適な笑みを浮かべながら言ったランスを、ああそうですか、と月夜は軽く流した。その考えに共感は出来なかったが、さりとて否定も出来ず、ただ流すことしか出来なかった。
「えーと、それで姉さんの方は?」
「ん?うちはねー」
急に矛先を向けられた茜だったが、ランスが話している間に言うことがまとまったのか、別段焦った様子もなく口を開く。
「何をしたい、っていうのがあるわけじゃないよ。ただ・・・幸せになりたい、ずっとそう思ってたねー」
陽気な声で言った茜は、自身の辛い過去を少しも表に出さなかった。それは今、幸せだからなのか、それとも本当に気にしていないのか、それはどっちともとれない。
「うちも色々あったからねー・・・でも今は幸せだから、うちの夢はもう叶ってるよ」
そう言って微笑む茜は、本当に幸せそうな顔をしている。月夜はそんな茜を見て、ランスのおかげかな、と思いながら微笑んだ。
「そか、それは良かった」
茜の過去を詳しく知らない月夜だったが、茜には幸せになってもらいたかった。無理して笑っている姿や、悩みがなさそうに気丈に振舞っていた茜を何度も見ているのは、すごく心が痛んだからだ。少なくとも今の茜は、無理して笑っている風には見えない、月夜はそれを見て取って、安心し、嬉しい気持ちになった。
「といっても、ランスが相手じゃ心配だけどなー。俺と同じで女心にゃ疎いからさー」
笑いながら言った月夜は、本心では全く心配などしていなかった。ランスのことを信頼しているからだ。
「悪かったね、僕だってそれなりに考えてるつもりなんだよ、これでも」
「「どこが?」」
月夜だけならまだしも、茜にまでそう言われて、ランスはばつが悪そうに目を泳がした。そんなランスを見て、二人は、ぷっ、と吹き出した。からかっているのは間違いない。
「・・・茜までそんなに笑わなくてもいいだろ」
ふてくされたようにそっぽを向くランスは、いつもの大人びた雰囲気はなく、年上にいいようにからかわれている子どものようだった。
「あははー、ちょっとしたお茶目だよランス。いじけないいじけない」
気を緩めたら再度吹き出してしまいそうなのを堪えて、茜はなだめるように言った。なんだかんだでお似合いの二人なんだよなぁ、と月夜はそんな二人を温かな眼差しで見ている。しかし、すぐにその顔は困ったものに変わった。
「そういや結局、なんの参考にもならなかったな・・・」
「参考はひとまず置いといて、実際お兄ちゃんは何をしたいの?」
ため息混じりの呟きは、ランスと茜には聞こえなかったようだが、今まですねて黙っていたリミーナには聞こえたらしい。月夜からは一番遠い位置のリミーナだが、生物兵器は身体能力に加え、五感も鋭いのだ。聞こえていても不思議ではない。リミーナのその言葉で、三人の視線が集中するのを感じながら、月夜は悩んだ。俺は、何をしたいんだろう?
「夢とか将来とか、就職とか進学とか・・・そう難しく考えるから分からなくなるんだよ?お兄ちゃんは今、何をしたいと思ってるの?」
自分よりいくつも年下の少女に諭されるように言われたが、月夜はそれを気にしなかった。代わりに、頭の中では様々な単語が浮かんでいる。今したいこと、楓を護る、留年しないで進級、学校行事頑張る、困っている人を助けたい、戦争をなくしたい・・・大小様々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えた。混乱しそうになりながらも、月夜はどうにか考えをまとめていこうとする。今、したいこと・・・それは?
「戦争をなくしたい・・・いや、誰か困ってる人を、助けたい、かな」
まとめても、結局そんな曖昧な答えしか月夜は出せなかった。しかし、それで十分、というようにリミーナは頷いた。
「なら、お医者さんとか、悩み相談専門の人とか、色々あるでしょ。お兄ちゃんはやれば出来るんだから、何にでもなれるだろうし」
「医者かぁ・・・」
医者という単語を聞いて、この前、五月頃に入院した病院の医者を思い出した。蛇みたいな顔をした医者、確か名前は田宮だっただろうか?ふざけすぎるきらいがある医者だったが、中々どうして、真っ直ぐで筋のある医者だったことを、月夜は忘れていない。
「医者もいいかもな」
「それそれ、そんな感じでいいんだよ」
月夜の呟きに、リミーナは笑いながら続ける。
「何になりたい、じゃなくて、何をやりたい、からその職を選ぶのが普通でしょ?お兄ちゃんは難しく考えすぎなんだよ」
なるほど、と月夜は感心した。確かにリミーナが言っていることはもっともだった。現に、月夜がどれだけ考えても一歩先すら見えない闇が、こんな短時間で徐々に切り開かれていったのだから。
「リミーナにしてはまともな意見だったな」
かといって、素直にお礼を言うのも癪だったため、月夜は、にしては、の部分を強めに言った。
「ちょっと!そんな言い方はないでしょー!!」
「教師、っていう選択肢はどうかな?」
顔を赤くして怒っているリミーナをよそに、今まで黙って話を聞いていたランスが口を挟んだ。
「教師?」
教師が人を救えるのか?という疑問の眼差しを、月夜はランスに向ける。
「ああ、教師だ。国の未来を担うのは子どもたちなんだからさ。戦争の悲惨さとか、争うことの虚しさとか、教えられる立場になれば戦争の抑止効果にはなるんじゃないか?微々たる物かもしれないけどね」
「なるほど、そういう考えもある、ってことか」
ランスが言うとおり、確かにそれは微々たる物にしか過ぎないだろう。それでも、国の未来を担うのは子ども、というのは間違ってはいない。
「うちは警察とかいいと思うけどー」
リミーナの発言で勢いが乗ったのか、次々とみんな口を開き始めた。
「警察かー・・・それもありっぽいな」
茜はうんうんと頷きながら、やや目を輝かせて言う。
「敵のアジトに侵入して爆破したり、隠された爆弾を探してフルマラソンとか、かっこいいんじゃないー?」
「どこの映画の世界ですか姉さーーん!」
今までの雰囲気をぶち壊すような天然発言に、月夜はとっさにつっこんでいた。茜の発言につっこんだのは月夜だけだったが、ランスとリミーナの笑いを押し殺そうとして失敗している苦笑気味の顔を見れば、二人もつっこみたがってるのは間違いなかった。
「えー?でも人のため世のためには違いないでしょ?」
間違ってはいない、確かに間違ってはいなかったが・・・何かがおかしいような気がして、月夜はため息をついた。
「精々、パトロールしたり悪いことした奴を捕まえたり・・・それぐらいだと思うよ。日本は平和な方だしね」
「じゃあ、銀行に立てこもってる強盗と銃撃戦したり、麻薬組織に潜入してばれて、逃亡戦やったりとかしないの?」
この人は警察をなんだと思ってるんだろうか・・・と月夜は嘆息した。本気とも冗談ともとれる態度のため、さすがに笑い飛ばすのは悪い気すら起きてしまう。
「稀にあるかもしれないけどね」
差し当たりのない返事をして会話を終わらせようとした月夜だったが、次の茜の言葉には吹き出さざるを得なかった。
「じゃあ、そんな事件に立ち会ったら呼んでね!」
こみ上げていたものが我慢出来ずに、ぶっ、と三人は吹き出した。月夜はまだ控えめに笑っているが、ランスとリミーナはベッドの上で笑い転げている。笑いの中に、キャッ、という声が混じっていたのは、リミーナがベッドから転げ落ちたからだろうが、それでもまだ笑いは収まっていない。
「姉さん、冗談、だよね?」
いまだこみ上げる笑いを抑えながら、月夜は茜に聞いた。
「もちろんだよ。さすがにうちだってそんなに馬鹿じゃないよー?」
ペロッ、と舌を出しながら子どものように笑うその姿に月夜は、この人にはかなわねーなぁ、と苦笑いを浮かべた。
隣の部屋から聞こえる笑い声に少しだけ顔をしかめながら、楓は相変わらず本に集中していた。隣の部屋との壁は厚く、早々音が漏れることはない。どれだけ大声で爆笑してるのか、それだけでも十分分かることだった。
「楽しそうだなぁ・・・」
そうぼやきながらも、目は本から離せなかった。続きが気になって仕方がない上に、日本に帰ったら読めないかもしれない、という気持ちがあり、なるべく早めに読み終えたい楓だった。
「むー・・・こんな展開になるんだー・・・」
そろそろクライマックスに差し掛かりそうな小説を見ながら、楓は一人、むー、とか、おー、とか唸っていた。
「ただいまー・・・ってうわ!?どうしたんだ楓」
中々参考になったなぁ、と思いながら、軽い雑談を終え昼中頃に帰ってきた月夜は、ベッドの上に座り、ボロボロと涙を流している楓を見て、とっさにそう叫んでいた。
「あ、月夜おかえりー」
ズズ、と鼻水をすすりながら、袖口で涙を拭いている楓は、泣いているにも関わらず平然とした調子でそう言った。
「どうかしたのか?どこか痛いとか?救急車呼んだ方がいいか?」
平然としてる楓とは逆に、やや取り乱した様子で月夜は早口にそう言いながら、楓に近づいた。
「あ、これは違うの。ちょっと・・・ね」
今にも救急車を呼びそうな勢いの月夜を、楓は慌てて手を振って止めた。
「違うって・・・?でも、じゃあなんで泣いてるんだ?」
心配そうな顔のまま月夜は楓の隣に座り、顔を覗きこんだ。
「んーとね、これこれ」
既に涙を拭き終えた楓は、まだ充血した目をしながらも、すぐ近くにあった本を手にとって月夜に見せた。
「ん?」
それは先ほどまで楓が読んでいた小説だった。小さめで厚さもない本は、持ち運びにも便利そうで手軽さを感じさせる。その本の表紙には、「青春桜花」、というタイトルと、桜の下に高校生ぐらいの少女が立っている絵が書かれていた。おうかの字が謳歌ではなく、桜花になっている意味は月夜にはよく分からなかったが、もしかしたら表紙の桜とかけられているのかもな、思った。
「それで、これがどうかしたのか?」
楓の言いたいことが分からず、月夜は困ったように聞いた。
「だから、この本読んで泣いちゃったの。最後がすごく良かったんだよー」
最後の部分がそんなに良かったのか、楓ははにかむような笑顔を見せて言葉を続ける。
「最初は暇つぶしにランスから借りただけだったんだけど・・・ついついはまっちゃった」
なるほど、と楓が泣いてる理由を理解した月夜だったが、本をあまり読まない月夜としては、そこまで物語に感情移入できるものかな?と疑問に思った。
「どんな内容なんだ?」
そう疑問に思ったからこそ、月夜はついそんなことを口にしたが、それが間違いだったことには気付けなかった。
「えーとね。ヒロインの桜花ちゃんの切ない恋愛の話でね。桜花ちゃんは幼馴染みで隣の家に住んでいる明君のことが好きで・・・」
「ふむふむ」
「それでねそれでね、でも明君には付き合ってる彼女がいて・・・」
「ふむふむ」
頷きながら聞いている月夜は、その時になって、地雷踏んだかも?と思ったが、今更、そこまで説明しなくてもいいよ、と言えずに、頷きながら楓の説明を聞いていた。
三十分後、楓の長い長い説明がようやく終わった。時には身振りや手振りを含めて説明した楓は、大分疲れているようだったが、熱が冷めてないのか、その目はどことなくキラキラと輝いている。対照的に、失敗したなぁ、と月夜は疲れ、ややげんなりとしている。
「だからつい涙が出ちゃったんだよね」
「そかそか・・・そりゃ良かった」
投げやり気味に言う月夜に気づいていないのか、楓は、ほう、と熱い吐息を漏らしている。
「人を好きになるって大事なことだよね、桜花ちゃんみたいな波乱万丈の熱い恋愛をしてみたいなー・・・」
月夜はそれを聞いて、んー、と悩んだ声を出しながら、ひとさし指で頬をぽりぽりと掻いた。
「俺が相手じゃ不満か?」
その問いに、楓はしばらく呆気にとられていたが、急に笑い出した。
「何言ってるのよ、もう・・・不満なわけないでしょ?ただ、良いなー、って思っただけだよ」
要は、熱い恋愛がしたい、ということだろうか?月夜はよく分からないままだったが、それでも、不満じゃない、という一言に安心した。
「あー・・・たくさん喋ったら、お腹空いた。そろそろご飯の時間かな?」
「そろそろじゃないかな、俺も大分腹減ったなー・・・」
時刻は昼一時を過ぎたぐらいだった。二人のお腹が減るのも無理はない。その後、軽い雑談をしていた二人をリミーナが昼食に呼びに来たのは約十分後のことだった。
「それで、今日はどうするんだ?」
昼食を食べ終えた月夜は、やや苦しげに、それでも満足した、といった感じに一息ついてから口を開いた。場所は相変わらずリビングで、みんなで集まってご飯を食べるのも雑談をするのも大抵そこだった。
「昨日はずっとここにいたし、今日はどこか出かけたいね」
疲れていた月夜に遠慮して、昨日今日とずっと本を読んでいた楓がそう言った。大人しそうな風貌に似合わず、楓はじっとしているよりも動いてる方が好きな活発少女なのだ。
「うちはどっちでもいいかなー」
「私もどっちでも良いよ。でも、ここは日差しが強いからちょっと辛いかな」
茜はのほほんと、リミーナは少し複雑そうに言った。
「何言ってんだお前は、少し日焼けした方がいいぐらいだろ。白すぎて病弱に見えんぞ」
女性の肌に対する概念なんて何一つ分かっていない月夜は、リミーナを見てため息混じりにそう呟いた。瞬時に、茜とリミーナと楓の鋭い視線が月夜を射抜く。
「女の子は日焼けとかに気を遣うんだから、そういうこと言っちゃだめよ」
「お兄ちゃんには分からないだろうけどね」
「月夜には分からないだろうけど、大変なんだよ?」
俺が悪いのかよ・・・。三人に責められるように言われ、月夜は困ったようにランスに視線を向けた。一人黙って何かを考えていたランスは、月夜の視線に気づかず、俯きながら小さく唸っている。
「わーかったよ。悪かったって。そんなに睨まなくてもいいだろ」
悪びれた様子もなく、月夜は諦めたようにそう言った。実際、日焼けに対して気になるのは皮膚癌ぐらいのもので、それ以外の、特に女性の悩みなどちっとも理解していない月夜だった。
「つーか白過ぎるのは本当だろ・・・珍しく人が心配してやってんのに・・・」
誰にも聞こえないように小声で呟いたが、耳聡く聞きつけたリミーナが、月夜を睨んでいた。虫ぐらいなら息の根を止めれそうな殺意の目に、月夜がたじたじしていると。
「よし、海に行こうか」
出し抜けにランスがそう言った。全員の、え?という視線を受けて、ランスは不思議そうな顔をした。
「ん?どうしたんだ、みんなして変な顔して。海行くのは嫌か?」
「嫌じゃないけど・・・」
ねえ?といった表情で楓は茜とリミーナの顔を見た。言葉通り、嫌ではないが、今まで日焼けするのが嫌、という話題だったため、一番日に焼けそうな海という突拍子もない提案に、三人は少しだけ困ったような表情をしていた。
「海ねぇ・・・別に俺は良いけど、どうしていきなり?」
困ったように顔を見合わせている三人をよそに、月夜は疑問を口にした。それに対し、ランスはやや申し訳なさそうな顔で言う。
「んー、特に理由はないんだけど・・・この前さ、僕が事故にあったせいで、ロクに遊べなかったんじゃないかと思って」
理由あるじゃん、と月夜は声にしそうになったが、今の申し訳なさそうな顔をしているランスにそんなつっこみを入れるのもどうかと思い、ふーん、と呟くだけにした。
「そういう理由なら、海でもいいかなー」
気乗りしないわけでもないが、実際海はねー・・・と思った茜だったが、申し訳なさそうな顔をしているランスを前に、その提案を無下に断れず、茜はそう言った。
「海かー・・・じゃあ、早く準備して行かないと、すぐに暗くなっちゃうね」
楓の言葉に、全員は頷いた。時刻は既に二時を回っていて、今から準備をして行ったら二時半近くになってしまう。夏ということもあって、日が沈むのはかなり遅いが、夜の海は危険なため、全員は急いで部屋に戻って行った。
昼を過ぎたにも関わらず、照りつける太陽はひどく暑く、灼熱という言葉が当てはまりそうな程肌がじりじりと暑かった。
「あぢー・・・」
荷物番をしている月夜は、パラソルを貫通して照りつける太陽をパラソル越しに忌々しげに見ながら、仰向けになってぐったりとしていた。少し離れた海の中では、月夜を除いた四人の楽しそうな声が聞こえてくる。
「・・・あーぢー」
この前遊んでなかったし兄貴も行って来いよ、とランスを送り出し、荷物番を請け負った月夜だったが、数分と経たずに自分の言動に後悔していた。元より暑いのが苦手な月夜は、日本の夏ですら耐えられないのだ。温度自体にそこまで差があるわけではないが、紫外線が強く、暑さを何倍にも感じさせるハワイの夏には、到底耐えられなかった。
「・・・これで俺がぶっ倒れでもしたら、この前の兄貴の二の舞だな」
ははは、と乾いた笑いを浮かべるが、目は全く笑っていない。寝てしまえば楽になりそうなものだが、それでは荷物番の意味がない上に、こんなところで寝たら干し魚になりそうな気がしたため、月夜は寝ることもせず、黙々と太陽を睨みつけていた。
(暑いなー・・・暑いー・・・)
そう考えながらも、月夜は干されている魚のように身動き一つしない。実際、動いていないとジリジリと肌を焼く感触が強く感じられたが、動いたら負けな気がする、ととんちんかんなことを思っている月夜は、じっと動かずに考え事をしていた。
(あ、そうか。暑いと思うから暑いんだ。なら寒いと思えばいいんじゃね?)
暑さで頭がやられ始めてきたのか、月夜はそんなことを考え始めた。寒い寒いー、と虚ろ気味にぼやき出す。そんな馬鹿なことを数秒やった後、突然月夜はキレた。
「って暑いに決まってんだろ!?」
仰向けのまま右腕を思いっきり砂浜の上に敷かれたシートの上に叩きつけると、不意に、きゃっ、という声が聞こえた。
「ん?」
その声に気づいた月夜は、太陽から視線を動かし、声のした方向に目を向けた。そこには、突然のことに驚いた顔をしている楓が立っていた。
「もう、びっくりさせないでよ!」
口を尖らせて怒ったように言う楓に対し、月夜は、
「ごめんごめん」
と相変わらず悪びれた様子もなく謝罪の言葉を口にした。全く、と呟きながら、隣に座りだした楓を月夜は不思議そうな目で見る。
「どうしたんだ?遊び疲れるにはまだ早いと思うんだけど・・・」
「別に疲れたわけじゃないよ。月夜が暑そうにしてたから、荷物番代わろうと思って」
太陽とにらめっこしていた月夜は気づかなかったが、楓は月夜のことをチラチラと見ていたのだ。
「それは助かるけど・・・いいのか?まだ十分ぐらいしか経ってないような気がするんだけど」
そう口にしながらも、俺は十分程度でばててるように見えたのか、と自分の情けなさに嘆息する。
「全然構わないよ?それに、この暑さで月夜が倒れでもしたら、この前のランスみたいになっちゃうしね」
冗談っぽく言われた言葉だったが、月夜は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。同じ事を考えていた挙句、俺はどこまで貧弱だと思われてるんだ、と少しだけ哀しさが募った。
「だから、遊んで来なよ。水が冷たいって程でもないけど、ここにいるより涼しいから」
楓の気遣いをありがたく感じながらも、月夜は上半身を起こしただけで立ち上がろうとはしなかった。
「まぁ確かに、涼しくなれそうだけど・・・なんか悪い気がするし、俺は良いや」
その言葉は、本音半分、嘘半分だった。悪いとは思っているが、実際のところ、最近楓と二人でいる機会が少なかったため、月夜はゆっくりと楓と話しがしたかったのだ。正確には、話しをしたいのではなく、一緒にいたい、というのが本当のところかもしれない。
「本当に良いの?でも・・・」
尚も食らいついて来ようとする楓に対し、月夜は顔の前で手を振り、それにはおよばない、と断った。
「良いって、代わりといっちゃなんだけど・・・少し、話しでもしないか?」
「いいけど・・・また何か起きたの・・・?」
楓の不安そうな言葉を、月夜は首を振って否定した。
「いや、そういう類の話じゃないんだ・・・ただ、なんつうのかな」
照れくさそうに楓から目を逸らし、月夜は両の手を合わせて指をいじる。
「最近さ、といっても、たかが二、三日のことなんだけど、楓とゆっくり話し出来る機会がなかったからさ」
二人きりで、という言葉はさすがに気恥ずかしい感じがして言わなかったが、照れくさそうな言葉は十分それを表していた。
「そっか・・・そういえば、そうだね」
言われてみれば、というような感じで楓は頷いた。その表情には、先ほどまでの不安そうなものはなくなっていた。
(さて・・・話すといっても、何を話そうか・・・?)
特に話せるような話題があるわけではない、しかし、話しをしようと、言ってしまったからには何かを言わなければいけない気がして、月夜は頭を悩ませた。その間楓は、月夜が口を開くのを待っているのか、それとも、自らが話題を考えているのかは分からないが、ただ黙って月夜の横顔を眺めていた。少し離れた位置で楽しそうに遊んでいる三人の姿を薄っすらと視界に入れながら、しばしの沈黙の後、月夜はようやく口を開いた。
「その水着さ、似合ってて、可愛いと思うよ」
それは考えた末に出た言葉ではなく、つい、ぽろっ、と零れ落ちたものだった。自分でも何を言ったのか数秒の間自覚出来ず、ようやく自分が言ったことを理解した瞬間、月夜の顔は赤くなった。
「え・・・?そ、そうかな?」
楓も同じだったらしく、まさか唐変木の月夜の口からそんな褒め言葉出るとは思っていなかったため、反応が遅れた。嬉しい、というよりは、戸惑いが先立ってしまったらしく、聞き返す声は若干震えている。
「ああ、うん・・・似合ってるよ」
照れくささを感じながらも、その言葉を撤回するわけにもいかず、月夜は再度口にした。実際、似合っていて可愛いと思っていたのは本当だったのだから、それを否定する理由など、月夜にはなかった。
「あ、ありがちょ!」
嬉しさと戸惑いが交錯しているのか、いまだ混乱気味の楓は思いっきり舌をかんだ。あうあうあー、と自分の失態を隠すように言う楓だが、内心は、ちょって何言ってるの私はー!と少しだけ哀しくなっていた。そんな楓に対し、月夜は思わず、ぷっ、と吹き出してしまった。
「わ、笑わないでよ!」
「いや、悪い悪い」
込み上げる笑みを噛み殺しながら、月夜は楓に目を向ける。楓が今着ている水着は、淡い青色をしたビキニだった。腰にパレオを巻いているものの、肌の露出の多さに、どうしても月夜は目のやり場に困ってしまう。見事にビキニを着こなしている茜と違い、やや子どもっぽさの残る楓ではあったが、着実に成長はしている。子どもの頃、一緒にお風呂すら入ってたこともある二人だが、今はお互いその面影もない。徐々に大人の魅力を身につけ始めている楓の姿に、目のやり場に困るものの、月夜は時の流れを実感し、同時に、何ともいえない感傷が胸を切なくさせた。
「えと・・・そんなにじっと見られると・・・恥ずかしいよ」
体を隠すように両腕を胸の前で交差し、赤くなって俯く楓の声を聞いて、月夜は我に返った。
「ご、ごめん!」
とっさに謝り、月夜は顔を背けるが、顔はゆでだこのように赤くなっている。ハワイの灼熱の太陽でさえ、二人の間にある温度には到底及ばないかもしれない。それほどまでに、二人の間には妙に熱いものが漂っていた。
「あ、えと・・・そういう意味で言ったんじゃなくて・・・見て欲しいって気持ちもあるし、でも恥ずかしいし、あ、あれ?私何言ってるんだろ?」
完全に混乱しながらあやふやな言葉を口にする楓に、月夜はただ顔を背けていることしか出来なかった。正直、目のやり場には困る、しかし、月夜も健全な男子であるわけで、好きな女の子の可愛い姿は見たい。かといって、逆に見て欲しい、と言われたら言われたで、恥ずかしさが先立って、まともに見ることが出来ない。結果、どうすることも出来ずに月夜は楓から目を背け続けた。楓も混乱から抜け切れていないため、何かを呟いているものの、それは言葉にはなっていなく、月夜には聞き取ることも出来なかった。徐々に楓の声は小さくなり、少しずつ寂しさのようなものが混じってくる。
(き、気まずい・・・)
ついに楓の口は閉じてしまい、嫌な沈黙が二人を包む。人も多く、賑やかなはずの周囲の音ですら、月夜の耳には届かない。あまりの気まずさから、何か言わないと・・・という気持ちだけがはやり、余計に月夜を急がせた。
「ふったりともー」
気まずい沈黙を破ったのは、突然頭上から降ってきた明るい声だった。二人は一瞬だけ、びくっ、と体を震わせてから声のした方を向く。
「何貝みたいに口を閉ざしてるのかなー?」
茶目っ気と僅かな天然っぽさを感じさせる茜が、二人を見下ろす形で立っていた。楓と違い、白のビキニを着こなしているその姿は、大人の色気を醸し出している割に、落ち着いている雰囲気を纏っている。刺激的であり、包容力を持っている、正しく大人の女性といった感じだった。
「ああ、姉さんか・・・」
びっくりしたなぁ、という気持ちと、助かった、という気持ちが混じった声で月夜は言ったが、茜はその言葉を勘違いしたのか、少し怒ったように言う。
「なーに?うちが来たら悪・・・あっ」
突然言葉を区切って、しまった、といった感じで苦笑いを浮かべた。茜の苦笑いの意図が分からない月夜と楓は、二人そろってハテナマークを頭上に浮かべる。
「お邪魔だったかしら?」
その言葉に、なっ・・・、と二人は絶句する。なくなったはずのさっきの恥ずかしさやら気まずさやらがぶり返って、月夜は茜と楓から顔を背け、楓は俯いたが、二人とも顔が赤いという点では一緒だった。そんな二人の態度を見て、尚更誤解を含めた茜は、
「じゃあうちは戻るね、ごゆっくりー」
と言いながら足早に去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待った!」
月夜は去っていこうとする茜の背に声をかけた。
「んー?うちのことは気にしないでもいいのよん?」
振り向いて言った茜の言葉は、からかうような言い方だったが、本当に気にしないでいい、と念を押すようなものだった。
「ちがっ・・・そうじゃねぇ!」
ついつい声を荒げて月夜は叫び、素早い動作で、こっちに来て、と手招きをする。
「もー、甲斐性なしの男は嫌われるよ」
仕方ないわねぇ、と小さく笑いながら、茜は二人の近くに戻った。
「それで、どうしたの?」
「いや別に・・・特に用があるわけでもないんだけど・・・」
でも・・・行かれると困るし・・・、とぼそぼそと月夜は呟いた。焦っている月夜は気づいていないが、赤くなって俯いている楓が、少しだけ寂しそうに、そして不満そうに頬を膨らませていた。それに気づいた茜は、どうしようかなぁ、と考える。見守ることを考えれば、二人を置いてそのままランスたちの所に戻ってもかまわないと思っている茜だが、二人はまだまだ未熟で見ているのも危なっかしい所があり、何より、ちょっと可哀想かな?と思った茜は、見守る、という選択肢ではなく、そこはかとなく手助けをする、という選択肢を選んだ。
「まぁいっかー・・・そう言えば楓、その水着可愛いね。月夜もそう思うでしょ?」
二人の前に座り、茜はそう軽く切り出してみた。月夜は口にしていなくてもそれを否定するはずがない、と分かっていたからだ。しかし、月夜の答えは、茜の予想を大きく上回っていた。
「う、うん、可愛いと思うよ。さっきも、それ言ったしさ」
あの唐変木の月夜が?と驚きつつも、茜はそれを顔には出さなかった。素で恥ずかしいことは言う月夜だが、意図的に言ったのであれば、それは賞賛に値するほどの成長ぶりだと茜は思った。実際のところ月夜は、つい口に出してしまっただけ、なのだが、茜はそれを知るはずもない。
「へぇー、月夜にも褒められたんだ。良かったね、楓」
「うん・・・」
えへへ、とはにかんだ笑いを浮かべる楓は、同姓の茜から見ても可愛かった。あれ?なら、どうしてさっきは気まずそうにしてたんだろ?と考えた茜は、すぐにその答えが頭に浮かんだ。
(それもそっかー・・・月夜がそんなこと言った後、普段通りに話しを続けられるわけないもんねー・・・)
まだまだ若いなー、と納得した茜は、強攻策に出てみることにした。すっ、と立ち上がり、月夜と楓の疑問の眼差しを浴びながら、ゆっくりとした動作で二人の後ろに回りこむ。そして・・・
「ていっ」
右腕で月夜、左腕で楓の首を挟み、二人の頭を胸元まで寄せる。
「おわぁっ」
「きゃぁっ」
突然の事態に、二人は驚きの声を上げるが、それを気にする素振りもなく、茜は二人の頭がくっつくまで寄せた。
「若いってのはいいね、いいことだよ。でも、そんなぎこちなさそうに話してるんじゃ、全然だめだめよ?」
月夜にその声は届いていなかった。楓の頭と自分の頭がくっついているのはさておき、頭の後ろに布越しに感じる温かくて柔らかい感触に、月夜は戸惑いながらジタバタと動いている。楓も月夜と同じで、慌てながらジタバタと動いていた。しかし、二人がどんなにもがいても、茜のガッチリと決まった腕からは逃げられなかった。楓はともかく、非力とはいえ仮にも男である月夜だが、ひどく狼狽してるため、茜の腕をはがそうとしている手には、ほとんど力が入っていなかった。
「もっとスキンシップを・・・むしろ、異性に対しての耐性って言うのかな?それをつけて、恥ずかしがらず照れず、自分の言いたいことを言えるようにならないとだめよー」
ジタバタと暴れている二人をものともせずに、茜は子どもを叱る母親のような口調で言う。
「分かったから、そんなもん分かってるから、離せー、離してくれー!」
「大きくて羨ましいなー、なんて言ってる場合じゃない!離してー!」
二人は必死に叫ぶが、茜はそれが聞こえていないかのようにそれに対して言葉を返さない。それどころか、二人を抱き締めている腕により一層力がこもる。
「お姉ちゃんは心配なのよー・・・ううん、うちだけじゃない。ランスも、リミーナちゃんも、今は亡きお義父さんも・・・じれったい二人を見てると、心配なのよ?」
そう言われて、月夜は冷水を浴びせられたかのように頭が急激に冷えていくの感じた。確かに自分は、恋愛ごと・・・それ以外の全てにおいても情けない、と思った。でも、と口から出るのはそれを否定する言葉。
「努力はしてるんだよ、これでもな。だから・・・心配なんか、しなくていい」
親の心配を一蹴する子どものような言葉だったが、その奥にあるのは、心配なんかさせない、させたくない、という強い想いだった。今は不器用でも、いつかは・・・、遠い未来でもあり、近い未来でもあるかもしれない将来のことを想像し、月夜は顔を仄かに赤くし、楓とは逆の方向に視線を向ける。楓と家庭を築き上げるというやや飛びぬけた思考を、月夜は悟られたくなかった。
「うちのね、個人的な感情・・・茜っていう個人の感情から言わせてもらえば、うちは二人のことはそこまで心配してないよ。不安定なところも多いけど、二人はちゃんとしっかりしてるからね」
でも、と茜は続ける。
「姉っていう立場からしたら、心配だよ。弟として、妹として・・・どんなに二人がしっかりしてても、心配に思うのに理由なんていらないでしょ?」
姉、というよりは、母親、といった感じの雰囲気を、茜は纏っている。家族として、本当に心配しているからこそ醸し出せる雰囲気だった。
「・・・そんな風に言われたら、心配しないでくれ、なんて言えなくなっちまうじゃん」
まいったなぁ、といった感じで月夜は言ったが、その言葉に不満の色は無い。母親がいない月夜にとってはむしろ、そんな押し付けがましささえ感じてしまいそうな家族の愛情が、純粋に嬉しかった。
「ずるいね、お姉ちゃんは・・・」
楓も月夜と同じ気持ちなのだろう。言葉とは裏腹に、その声にはどことなく嬉しさのようなものが混じっている。
「ふふ、うちはずるいよー?」
ペロッ、と舌を出しながら微笑む茜は、母性と愛情を多く孕んでいて、まるで女神のような慈愛に満ち溢れている。茜が女神なら、二人はさながら天使。三人の姿は、美術館に並んでいてもおかしくなさそうな程の、絵画の一場面に見えた。そして同時に、愛情のある家庭ならばどこでも見れてしまいそうな一般的な側面も、見て取れた。周囲の体感温度は高く、何もしないでも汗が噴き出てしまいそうな暑さを感じさせるが、そこだけはまるで切り取られた異世界のように、別種の温かさを放っていた。
「二人の子どもが見れるのはいつかなー」
しかし、茜のその言葉で、今まで漂っていた温かく神秘的な雰囲気は一瞬でぶち壊れた。
「なななななな、何を、ごほっげは」
「ちょ、ちょっと、お、お姉ちゃん!」
明らかな狼狽を見せる二人をからかうように、茜は小悪魔的な笑みを浮かべて続ける。
「一姫二太郎って言ってね、子どもの数はそれが一番いいらしいよー」
「そんなことは・・・そそそ、そんなことはどうでもいいんじゃー!」
水平線の向こうまで届きそうな月夜の雄たけびは、周囲の人間をびっくりさせたものの、哀しいかな、当の本人、茜には全くもって効いていない。
「数はともかく、男の子なんだから、ちゃんと考えてするのよ?」
何を!?と理解していても、叫びたい衝動に駆られた二人だが、口はぱくぱくと動くだけで、肝心の声は一つとして出て来ない。二人とも顔は真っ赤で、かなりの狼狽ぶりを露にしている。そんな二人を見て、まだまだお子様だなぁ、と茜は苦笑いをする。そして同時に、ランスももっとしっかりして欲しいなぁ、と思い、ため息を吐いた。狼狽している二人をいまだ押さえつけたまま、茜は、海の方でリミーナから水かけ攻撃をしこたまくらっているランスを見る。
(ま、今はいっかー。家族の延長上、ってことでね)
薄く笑いながら、茜は目の前にいる二人に視線を戻し、ぎゅーっと更に強く抱き締めた。その温もりを忘れないように、失くしてしまわないように・・・一番年上で、一番大人っぽい茜だが、本当は誰よりも傷つきやすく、そして誰よりも弱いのかもしれない。
こうして、何事もなく、平穏無事な一日が過ぎ去ろうとしていた・・・はず、だった。
「人が苦労しているっていうのに、のんびりバカンス、か・・・妬ましい限りだね」
遠すぎず近すぎずの位置の砂浜の上で、楽しげに騒いでいる三人を、正確には、女性に首を絡めとられている黒髪の少年を注意深く観察しながら、憎悪という言葉すら生ぬるい程殺気だった声で、葉月は呟いた。格好こそ周囲に訝しまれないようにトランクス型の水着ではあるものの、髪や肌が濡れていないことから、海で遊んでいるわけではないことがよく分かる。
「まぁ、精々今を楽しめばいいさ、そう・・・苦痛と絶望に苛まされ、死ぬその瞬間まで、ね」
くつくつと、地獄から響いているような小さな笑い声を上げながら、葉月は黒髪の少年を・・・月夜を、ただ観察し続けた。周囲の暑さなど感じさせないほど、葉月が放つ雰囲気は冷たく、視線の先で騒いでいる三人を取り巻く空気とは正反対の、絶対零度とも言えるほどの恐ろしいまでの冷たさが、そこにはあった。
憎悪と殺意がまたしても、一つの事件を引き起こす。その予兆に、月夜たちは誰一人気づくことがなかった。気づけるはずも、なかった。
夏休み編長いなぁ・・・