我ら、異界からの資源をもって戦わん!
以前書いていた連載作品の「彩光の艦隊」に若干被せた設定による、架空戦記創作大会2023秋参加作品、お題➀となります。
1941年日本時間12月8日未明、アメリカ合衆国領ハワイ近海に接近する一群の艦隊の姿があった。
重厚なシルエットの戦艦が4隻に、平らな甲板を持ち飛行機を並べた航空母艦が8隻、そして軽快なスタイルを有する巡洋艦や、小粒ながら敵艦を一撃で葬る魚雷発射管が目立つ駆逐艦など護衛艦が18隻(さらに離脱した給油艦6隻とその護衛艦6隻がいた)
いずれの艦も翻す軍艦旗は16条の光線が眩しい旭日旗・・・大日本帝国海軍の艦艇である。
帝国海軍第三艦隊が、この艦隊の正式な名である。主力砲戦艦隊の第一艦隊、決戦時の夜戦での主軸となる第二艦隊に続くナンバーを科された、多数の空母ならびに高速艦艇からなる高速機動部隊である。
その旗艦である航空母艦「大鶴」の艦橋では、司令長官の小沢治三郎中将が、今まさに発艦準備を進める航空隊の様子を見守っていた。
「第一波だけで航空機の総数240機。さらに第二波210機。総計450機による空襲。歴史上初めての壮挙だな」
彼の指揮下に置かれた8隻の空母の艦載機の総計は、約500機。その中から艦隊防空と索敵に投入する最低限の機数を残した全力を投じての攻撃。
目標はアメリカ太平洋艦隊の拠点であり、米国の太平洋戦略の中心地たるハワイ・オアフ島だ。
既に宣戦布告は、なされている。ここまで秘密裏に忍び寄ったとはいえ、ここから先は実質的な強襲となる。
「我が国が米国と真っ向勝負するか・・・これも黎明島様々だな」
本来資源の大してない、貧乏国日本が大国米国と真っ向勝負する。
しかし、それも今は昔。大日本帝国は、かつてなら暴挙と言われるであろう大冒険を冒すだけの力を、次元の彼方の異世界から得ていた。
時を遡ること36年前の6月、日本海海戦で大日本帝国連合艦隊が歴史的大勝利を収めて間もない頃のことである、小笠原の西南200海里に突如としてそれは出現した。巨大な光の柱である。
当初「露西亜の新兵器か!?」「何かの天変地異か!?」と騒がれたが、大日本帝国は海上に出現したそれに対して、海軍艦艇を中心とした調査艦隊を派遣した。
そして、光の柱に突入した艦隊は約1週間音信不通となった後、無事に帰還した。だが、彼らがもたらした情報は、露西亜との講和交渉の推移などとは比べ物にならない衝撃を日本にもたらした。
と言うのも、光の柱の向こう側はこちらと同じ海上で、そのまま北に50海里ほど進んだところに巨大な島が存在していた。調査部隊は島に上陸して、簡単な調査を行ったが、島には島民の存在は確認できなかった。
この報に、大日本帝国は専門家を含めた第二次調査団を派遣した。この第二次調査団は、約1カ月間の長期調査を行った。
調査団が言っている間に、光柱が消失するのではという危惧もあったっが、幸いなことに光柱が消える気配はなく、第二次調査団も無事に帰って来た。そして彼らが持ち帰った情報は、帝国政府を狂喜乱舞させるものであった。
と言うのも、発見された島の大きさは四国と九州を合わせた程の大きさで、島民はなし。その代わり、石油、石炭、鉄、ボーキサイトなどの天然資源が豊富な可能性が高いというものであった。
すなわち、所有者なしの資源豊富な島を発見したということである。これは日本が領有を宣言すれば、凄まじい量の資源を日本が得ることに他ならない。
もちろん、光の柱と言う超常現象がいつまで続くかはわからない。しかし、光の柱は出現から3カ月が過ぎても消滅する気配がなかった。
ここに至り、帝国政府は大博打に打って出た。露西亜との講和を、当初よりも緩い条件で行い、さらには鹵獲艦艇の一部を対価により返却し、それをもって発見した新島の開発を行うこととしたのである。
発見からちょうど1年後、黎明島と名付けられた新島から、初めての石炭積み出しが行われた。
この黎明島発見は、単に日本に資源をもたらしたに留まらなかった。
まず戦後訪れるであろう、不景気の傷を浅くするのに役立った。これはポーツマスにおける講和条約において、日本が当初想定していた関東州の租借権の放棄と、鹵獲艦艇の一部返還に伴い発生した返還手数料(賠償金とは言わなかった)による現金収入が発生したことに加えて、相当数の労働者を黎明島に送り込むことになったからであった。
もちろん、莫大な戦費の償還であるのだから、これだけで相殺とはいかなかったが、それでも返済を大きく進める原動力となったことは否めない。
加えて黎明島の開発とバーターする形で、大陸への進出を放棄したことも大きかった。大陸への進出は確かに資源の確保や、対露防衛に資することは間違いないが、一方でその前進拠点である韓国の併合や、安定的な収入を得るまでに発生する様々な開発や治安維持に掛かる経費はバカにならない。
対して黎明島は、もちろん資源掘削の初期費用が掛かるのではあるが、それ以外の開発や特に軍隊を投じるような治安案件がない。むしろ、資源発掘に加えて周辺海域での漁業開発が可能となった点も見過ごせない。
こうして開発開始10年後には、黎明島と日本国内で採掘される資源で、国内の需要を賄えるまでに進展した。
もちろん、この黎明島からもたらされる資源によって、日本国内は様々な分野が活況となった。とりわけ、工業分野では資源価格が低廉となり、その分の費用が新たな設備投資や雇用を生む。
しかも、そうしたサイクルが確立された頃に、日本にとっては正に絶好のタイミングで第一次大戦が勃発。日本は日英同盟に従い出兵を行うとともに、戦場となったヨーロッパ各地の代わりの工場地帯として、米国と共に大いに国内産業を潤すこととなった。
第一次大戦後は、ドイツからの現金賠償は放棄する代わりに、同国の進んだ冶金技術や航空機、潜水艦に関する技術を取り込み、日本の技術力は大きく進展した。
1923年に発生した関東大震災では、関東を中心に痛手を被ったものの、この結果として企業本社や工業地帯を日本全国に分散させる国策が行われ、より多くの資本投下が全国的になされた。
こうしては北は千島・樺太から南は台湾に至るまで、日本の国土各地で大規模な開発や投資が行われ、国内の生産力や所得は飛躍的な増加を見ていた。
さらに第一次大戦が終結すると、パラオやミクロネシア、マリアナ諸島などの南洋の島々が日本の委任統治下に入り、そうした新たに得た領土の開発も並行して進む。
こうして国力が富んでこれば、比例として軍事力も大いに整備される。第一次大戦後に計画されながらも軍縮条約で流れた八八艦隊は、多少背伸び感はあったものの、その建造も維持も可能なレベルに達していた。
なお、陸軍は大陸進出の国策が半ば放棄され、さらに守備する範囲が海洋の島嶼となったため、島嶼守備に特化する方向へと進化していく。具体的には、近衛などの一部を除き、師団ではなく身軽な旅団単位とし、さらに海軍や民間徴庸船との連携による、島嶼機動と敵前上陸能力を高めるための揚陸母船や揚陸艇、水陸両用戦車の開発と言った具合である。
もちろん、こうした軍民双方の著しい発展は、日本の地位を総体的に高め、東アジアからさらには太平洋方面へと影響力を高める結果となる。一方で、それは同じく太平洋方面へと勢力圏を広げるアメリカ合衆国との摩擦と軋轢を生むことともなる。
軍縮条約によって、日米英は主力艦の保有比率を5:5:3、5とし、さらに日本が委任統治領とした南洋諸島群の要塞化も阻止された。
とは言え、この時点では日本側も米国に配慮し、強硬な姿勢をとらなかったし、国内世論も黎明島からはじまる好景気に沸いており、不満は聞かれなかった。
しかし、日米間の摩擦はニューヨークで勃発した株式の暴落に始まる世界恐慌、そして満州を巡る問題で高まっていく。
日本は自国内の市場開発を進めたおかげで、米国ほどの打撃は被らなかったものの、それでも世界恐慌の影響を無傷で済ませることはできなかった。米国の凶荒が日本に悪影響を与えたことで、日本国内の対米感情が悪化し始める。
逆に不景気に喘ぐ米国内部では、日本が異世界から得た金脈で発展をし続けていることへの、やっかみにも似た感情が蔓延し始める。
一方日本が進出を取りやめた満州では、その後列強各国が進出を図ったが、最終的に勝利したのはアメリカ合衆国で、関東州の租借権を含むロシアの利権の多くを、日露戦争後に同国から購入した。
日露戦争の打撃と、国内事情の悪化から、ロシアはアラスカに続いて自国の財産をアメリカ合衆国に売り払う羽目に陥った。
こうして満州に進出したアメリカ合衆国は、満州鉄道の経営をはじめとした事業を展開したが、それらの運営は当初は順調な出だしを見たが、1920年代に入ると次第に雲行きが怪しくなる。
それはロシア革命による白系ロシア人を含む所謂白軍派難民の大量流入に、太平洋の向こう側の世界恐慌の余波が満州にまで波及したこと、そして何より中国大陸の政治状況が複雑怪奇な状況に陥ったからだ。
それまで満州を牛耳っていた張作霖が、蒋介石の北伐によって追い込まれていくと、アメリカ合衆国は早期に満州において手を組む相手を、蒋介石に鞍替えした。
その直後満州に帰還した張作霖が不審死し、さらにはアメリカが権益を持つ満州鉄道線の線路付近で破壊工作が行われるという事件が発生した。
こうして後に満州事変と呼ばれる軍事衝突が発生した。租借地である関東州に駐屯する米陸軍部隊と関東軍が、直ちに満州鉄道沿線の主要都市に展開するとともに、蒋介石率いる国民党軍が万里の長城を越えて満州に雪崩れ込んだ。
だれもが、満州を米中連合軍が早期に掌握すると思った。
しかし、張作霖の跡を継いだ張学良は、満州各地の馬賊とともに、米中連合軍に対して頑強に抵抗した。
この時、張学良軍(満州軍)は、張作霖時代の米国人顧問が総引揚し、さらに武器供給も止まっていた。その代わりの穴を埋める形で雇われたのが、日本陸軍出身の顧問であり、急遽購入されたのが日本製の小火器であった。
縮小気味であった日本陸軍や、陸戦兵器メーカーにとって、こうした大陸における軍事顧問や、兵器の売り先としての存在は、決して小さなものではなかった。
だが、この事実は米中両国を激怒、というより自分たちの不名誉を取り繕うのに良いものと見なされた。
米中両国は、満州における自らの苦戦の一因を、日本人軍事顧問や日本製兵器に求めたのである。
無論日本政府は、これに対して反論した。軍事顧問は軍を除隊した形で赴いているし、兵器の売却はビジネスでしかない。そもそも、米中両国が満州での軍衝突を拡大させたのが悪いのではないかと。
結局満州での軍衝突は、双方が衝突前の線にまで下がり、国境の制定などは再度今後の交渉で決めることを申し合わせて終息し、これに伴い米中の対日批判も下火となった。しかし、これが日米間でのしこりとなったのは間違いない。
さらに両国関係を悪化させたのが、ロンドンにおける新たな軍縮条約の交渉であった。この席で米国は日本に対して、補助艦艇の保有比率を日米4対5にする代わりに、異世界とのゲートの全面開放と共同管理を提案したのである。
これは異世界側と繋がっていることで、ゲートから近い米領グアムが安全保障上脅威にさらされる可能性があるためと説明されたが、日本実質的に独占している利益を掠め取るのが狙いなのは明らかであった。
もちろん、日本側は断固これを拒否して、補助艦艇の保有比率を日米3対5まで妥協して良いとしたが、今度は米側が断固拒否した。
このため新たな軍縮条約は流れてしまい、ワシントン海軍軍縮条約の失効をもって、世界は無条約時代に突入することが確定した。
米国は無条約時代突入を待っていたかのように、戦艦10隻に航空母艦3隻を整備する新建造計画に着手した。
当然日本もこれに対抗する形で、戦艦6隻と航空母艦4隻を整備する建造計画を制定した。
日本側が航空母艦を多めに建造するのは、黎明島周辺での運用から、索敵や先制攻撃での航空機の有用性を気づいていたが故であった。
1940年に東京でオリンピックが開催されたものの、この大会に米国や米国の影響が深い中南米諸国の一部がボイコットし、日米間の摩擦は抜き差しならないものであると、内外に印象付けることとなった。
そして1941年6月、日米が実質的に国境を接するバシー海峡で発生した飛行艇同士の銃撃事件を契機に、米国は在米日本資産の凍結と、その解除の条件として改めて時空ゲートの開放を要求してきた。
大日本帝国政府は、もはや米国との関係修復は不可能と判断し、これを完全拒否した。
そして1941年12月1日、アメリカ合衆国は大日本帝国に対して宣戦を布告。フィリピン方面からの台湾攻撃ならびに、太平洋艦隊主力によるマリアナ方面への攻撃を開始した。
これに対して日本側は台湾では陸海軍の基地航空隊による防空戦と、爆撃による反撃を実施。マリアナ方面では連合艦隊主力と、基地航空隊の連携による迎撃を開始した。特に連合艦隊主力には半年前に竣工した最新の戦艦「大和」を含んでいた。
その一方で小沢提督指揮の機動部隊は、密かに北太平洋からハワイ近海へと接近していた。米国が太平洋方面に進出するのに欠かせない拠点である、ハワイ真珠湾軍港ならびにハワイ在地空軍力を撃滅し、その策源地としての能力を覆滅する狙いであった。
その中心となるのは、昭和11年に制定された米海軍増強に対抗する艦艇整備計画のマル3計画で建造された6隻の「翔鶴」型航空母艦とワシントン軍縮条約で空母に改造された「赤城」「加賀」である。
いずれも70機以上の航空機の搭載が可能となっている。また護衛の戦艦4隻も、主砲スケールこそ40cmにダウンしたが、その代わりに最高速力30ノットとして空母機動部隊に随伴可能な「穂高」型戦艦となっている。
「赤城」「加賀」を除けば、この5年間あまりで整備されたパリパリの新鋭艦だ。その「赤城」と「加賀」でさえ、対空火器を最新のものに換装し、電探搭載の改装工事を受けている。
黎明島からもたらされた資源と、それによる経済成長は北海道から台湾までの工業開発を加速させ、短期間でこれだけの艦艇整備を可能とするところまで押し上げていた。
もちろん、艦艇だけではない。搭載する航空機はいずれも最新鋭機で、1500馬力級発動機搭載の零式艦上戦闘機、零式艦上爆撃機、一式艦上攻撃機となっている。
「長官、連合艦隊司令部よりマリアナ沖での戦闘の結果が打電されております」
攻撃隊発進直前、マリアナ沖で米太平洋艦隊主力を迎え撃った連合艦隊主力からの戦闘報告がもたらされた。
「連合艦隊主力は、基地航空隊と協同で米艦隊を迎撃し、これの撃退に成功したとのことです。戦果ならびに被害の詳報は不明です」
「わかった。となれば、我々の責任は重大だ」
これから小沢艦隊が行う真珠湾攻撃は、米太平洋艦隊の根拠地を撃滅する作戦だ。
マリアナ沖での戦果の詳細は不明であるが、撃退に成功した以上米太平洋艦隊に大打撃を与えたことは疑いない。となれば、相当数の損傷艦も発生した筈だ。
この真珠湾攻撃の目的は、単なる一基地を攻撃するに留まらない。
米太平洋艦隊が打撃を負ったとなれば、その損傷艦は整った修理施設のあるハワイを目指す筈だ。つまり、裏を返せばハワイの基地機能を奪えば、米太平洋艦隊はその損傷艦を修理させるために、さらにアメリカ西海岸まで艦を下げる必要がある。損傷の度合によっては、自沈処分を強いることもできる。
仮に米太平洋艦隊が連合艦隊主力を撃破したとしても、むしろその場合は敵の補給と修理の要であるハワイの撃破は、その野望を挫く一打となる。
どちらにしろ、このハワイ強襲が成功すれば、合衆国海軍はしばらくの間身動きできなくなる。そうなれば、日本はフィリピンを占領し、英国などに講和の斡旋をしてもらうだけの時間を稼ぎ出せる。
そうでなくとも、軍事的・外交的な選択肢を増やすための時間を大いに作り出せるはずだ。
「長官、攻撃隊発進準備完了です!」
航空参謀が、その時が来たことを告げる。
「よし、攻撃隊発進はじめ!」
「は!・・・発進!」
発艦を指揮する士官が笛を慣らし、旗を振る。それを合図に、先頭の零式艦上戦闘機が発進する。
1500馬力の発動機を搭載し、20mmと13mm機銃を2挺ずつ搭載し、なおかつ防弾装備を充実させた最新鋭機だ。その実力は既にフィリピン上空で多くの米軍機を撃破したことで、折り紙付きだ。
第一次大戦後、金に物を言わせてドイツから買いあさった技術や雇った技術者たち、さらにその後も多額の投資が航空産業や、航空技術者を養成する大学や専門学校に流れたことが、これだけの新鋭機を産み出す原動力となっていた。
零戦に続く零式艦上爆撃機や、1式艦上攻撃機も、当然ながらその恩恵に預かった高性能機となっている。
「いよいよだな」
小沢は1機、また1機と発艦していく機体を帽振れで見送る。
異世界へのゲートと、そこで発見された新天地。その結果産み出された帝国の牙が、今まさに本領を発揮せんとしていた。
結果だけ言えば、ハワイ空襲は大成功のうちに終わった。オアフ島に三波にわたって襲来した延べ650機の艦載機は、その軍事基地を徹底的に破壊した。特に太平洋艦隊の拠点であったパール・ハーバー軍港は在泊艦艇やドックなどの修繕施設、そして燃料タンクや弾薬庫など、艦艇の運用を支えるインフラの一切合切が徹底的に破壊された。
この結果、マリアナ沖で損傷した艦艇の多くが米本土までの後退を強いられ、中にはそこまで持たずに処分や自沈に追い込まれた艦艇も発生した。
もちろん、米国はハワイの施設復旧を急いだが、飛行場を含めて徹底的に破壊されたために、必要となる予算、資材、人員、時間は莫大なものとなり、大規模な攻勢をしばし止めねばならなかった。
とは言え、米国が元々持つポテンシャルもまた強大なものである。真珠湾の復旧は1年あれば可能であり、太平洋艦隊も同様であった。
日本はその貴重な1年の間に、自国の持てる力を総動員し、米国の再度の攻勢を挫かねばならない。
こうした状況に、日本国内のとある新聞はこう唱えた。
「我らには黎明島がある!神が与えた異界の恵がある!しかし、それをもってしても米国は強大であり、侮ることのできない敵である!だからこそ、我らは一致して戦わねばならない!」
よくある戦時プロパガンダであるが、当時の日本の空気を端的に示したものとも言えた。
そう、日本国民の誰もが大国アメリカに勝てないにしても、負ける気もしていなかった。
自分たちには神より授かった、異世界への道とその先にある黎明島、そしてそこから産出される豊富な資源がある。
だから、絶対に負けることはない。
その願望が現実のものとなるのか、それは誰にもわからなかった。
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