89話
玄関ドアの前で立ち止まり、シシーが振り返った。
「なんだ? 土産ならいらんぞ」
「帰る前に名前、教えてよ」
少年の要求にシシーは数秒止まり、呆れた顔で諭した。何を言っているんだこいつは。
「ギフトビーネだ。知っているだろう」
無駄な時間だった、とドアに手をかける。来た時も鍵は掛かっていなかったが、そもそも鍵がこのドアにはない。盗まれるようなものもないか、と開いた。
「そっちじゃない、本名。教えてよ」
自分勝手だが、気になるものは気になる。少年は欲望に忠実だ。ギフトビーネという名前だけでは我慢ができない。その人を形作る名前、深く知りたい相手。それがこの女性だ。
またもシシーはため息をつく。自分のやりたいように生きる。少し羨ましくも感じる。
「……先にそちらから名乗れと言ったろ。まぁいい、シシー・リーフェンシュタール。お前は?」
「サーシャ・リュディガー。それとこっちはリディア」
と、自身の胸元を抑えて返し、サーシャが顔を上げた時には、もうシシーはいなかった。本当にいたのか? と一瞬考えるほどになにもない。呆気に取られつつ、今日の感想が漏れる。
「……とんでもない人だね。本当に毒、効いてた?」
全てが演技だった。そう言われても、驚きはしない。それほどまでに得体が知れない人物だった。怖い、というよりもなにも読めない、わからない。ただ、テーブルの上の紙幣だけが、彼女のいた痕跡を残している。
<カッコいい人。戦いたくないね>
内側から聞こえる。戦いたくない、そうかも知れない。もし勝負がついたら、もう彼女との関係がそこで終わってしまう。永遠に自分のことを考えていてほしい。チェスのオープニングを、ディフェンスを、ルーク、ナイト、クイーン。
「たしかに。会えてよかった」
<でも>
内側のリディアが逆接を唱える。俯瞰の視点で見ていた彼女は、サーシャが気づかなかったことにも気づけた。感覚でしかないが、シシーの指し方に疑問が浮かび、それこそが——
「ん?」
<穴は見つけた>




