86話
「……なるほど。目的は金か?」
「その通り。だからいつもはお金を持っていそうなヤツを、適当なとこに呼び寄せてね。まさか今日は一回戦の相手に当たるとは思わなかったよ。あぁ、安心して。拷問は犯罪者だけ。棄権してくれたら、それだけでいい。勝ち上がって、そのお金が欲しいだけだから」
裏の賭け金一〇万ユーロ。少年には大金だ。だが、それほどの額が必要ということ。
なにか抱えているものがある。シシーは薄れていく意識の中、そんなことを考えている。ただ、言葉にはしない。
「……」
少年は少しずつ事切れていくシシーを見下ろした。今、この女の生殺与奪は自分が握っている。さて、どうするか。殺したくはない美しさだ。できれば携帯を取り出して、事務局に棄権を申し出てほしい。
最後の抵抗で、チェス盤をシシーは払いのける。が、それでダメージがあるわけがない。
それに喜び、少年はテーブルに二種類のカプセルを転がす。
「苦しい? 大丈夫、これを飲めば落ち着くよ。棄権してくれたことを確認したら渡す。命に別状はない。犯罪者とは違うからね」
「……」
目線を上げずに、シシーは少年の話に耳を傾ける。これがあれば、心臓を締め付けるような痛みも、手の痺れも、胃を焼くような吐き気も。全て解決する。
決断をしないシシーに、少年は少しムカムカしてくる。このままじゃ死んじゃうよ? でももし死んでしまったら、どうやって保存しよう? そんな興味も出てくる。なにか美しく保存できる道具は。エンバーミング。これならしばらくはいける。
「早くしないと、指が動かなくなるよ。そうなると棄権もできない。死ぬだけだ。さぁ、早く」
あと一分、気を保っていられるか。もし固辞するようなら、もうそれはしょうがない。彼女が自分の意思で死んだということ。残念だけど、明日の仕合は僕の不戦勝で——
「……そろそろか」
口元に笑みを浮かべながら、シシーが力無く呟く。そろそろ。そろそろだ。
「なに?」
なにかを待っていた? 彼女はなにを、なにかを隠している? いや、強がりだ。最後まで彼女は彼女らしく意志を貫いただけで——
少年の膝がガクっと崩れ落ちる。瞳孔も定まらない。呼吸も、脈拍も異常な数値だ。ひと目で危険な状態だとわかる。
「う、うぐっ……おぇぇぇ……」
その場に吐き戻してしまう。床は吐瀉物で汚れ、その横に仰向けで倒れ込む。
その姿を、うずくまりながらシシーは眺める。
なぜ少年がこうなったのか。答えはひとつ。
「……まいったね、同じこと考えてたのか。キミの場合は……」
キョウチクトウ。白やピンクなど、色鮮やかに咲く夏の花。樹木全体に危険な毒性があり、素手で粘膜に触れただけで炎症を起こす。オレアンドリン・ストロファンチンといった毒があり、場合によっては心停止するほど。




