85話
◇ポーンc3。ここまでまだ五分。だが着実に、一歩ずつ終局に近づいている音がする。シシーはイスに寄りかかる。
「なぜそいつは逃げなかった? お前みたいな子供からなら、走ったり暴れれば逃げられるだろう」
おそらくだが、この少年は自分よりもふたつは下だ。そして、女性と見紛うほど華奢な体躯。大の大人であれば、振り解くこともできるはずだ。
その問いに対し、少年は頬杖をついて答えた。
「本当に? できる?」
「なに?」
得体の知れない少年の問いかけに、異変を感じたシシーは自身の右手を見る。震え。そして身体の異常を悟る。どこか息苦しさを感じ、眩暈がしてくる。
(体が……若干痺れている……? 呼吸も……脈拍もか……)
「月が綺麗だね」
イスから立ち上がった少年は、窓から差し込む月明かりに導かれるように、近づく。窓枠に寄りかかり、悶えるシシーに一枚の紙を見せる。曇っていた空は晴れわたっている。先ほどまでの曇り空が嘘のようだ。
「気づいた? カロライナジャスミン。いい香りなんだけど、花の蜜にはアルカロイド系のゲルセミンという神経毒があってね。その濃度を濃くして、部屋中に散布すればこの通り。サンキライやハクヘンズを調合した解毒薬がないと、ヤバいかもね」
紙のお香。火をつけると、二分ほどで燃焼し終え、部屋中に香りが漂う。少年が持つものは、販売されていない、販売できない代物。カロライナジャスミンのペーパーインセンス。少しずつ体を蝕み、やがて動けなくする。先んじて解毒薬を取り入れている少年には効かずに、シシーだけを犯す。
「気づかなかったでしょ? ほんの少しずつ、ほんの少しずつだからね。毒蜂が毒にやられるとは滑稽だ」
クスっと少年は笑いを堪える。
「……目的はなんだ?」
イスに座りうずくまるシシーが、解答を求める。命を奪うにしては面倒すぎる。金なら今すぐ奪えばいい。なぜこんな手を使うのか。
笑みを消し、窓の、その先を見つめるように、少年は語りだす。
「……大会、棄権してほしいんだよね。まさか本番前に会えるとは思ってなかったからさ、先に使うことになるとは思わなかったんだけど。本当なら、本番で使う予定だったんだ。ごめんね」
振り返り、先ほどよりも深刻に震えるシシーを見つめた。




