76話
ガラにもなく、少し緊張しているのだろうか。初めての大会。それも仕方がないことかもしれない。桁の違う金が動くから? マスターから持たされた、裏の賭け金一〇万ユーロ。自分の金じゃない。負けても、自分には関係ない。ただひとり、老人が公園で生活するようになるだけ。
「……」
少し肌寒くなってきた。さっさと帰ろうか。いや、もう少し、空を見上げていよう。もしかしたら、ほんの少しだけでも、星が見えるかもしれない。そしたら帰ろう。限界は一〇分。スタート。
「強いチェスプレーヤー探してるのってお姉さん?」
スタートしたところでふと、声をかけられ、シシーは左に首を傾けた。なんだ? と、鋭い目つきで声もなく返事する。すると、微かなコーヒーの香り。
あぁ、とその声の主は謝罪する。
「ごめんなさい。邪魔をするつもりじゃなかったんだけど。気づいてくれそうになかったから」
深くフードを被り、声とおおよその体型、ロングスカートから少女と判断できる。若い。自分よりも。自身も同じものを飲んでいるようだ。両手にカップを持っていて、右手のフタ付きのカップを差し出している。シシーに「どうぞ」と。
「どうも、と言いたいけど、誰?」
一応、カップは受け取るが、警戒をしつつシシーは素性を問う。チェスについて知っているということは、誰か強い人を知っている? 内心、怪しむのと同時に喜びを感じ取る。
「強いチェスプレーヤーを知っているだけ。誰でもいいでしょ? あ、なんか入ってると思った? このコーヒー。どっちでもいいよ、こっちにする?」
と、少女は自らが口をつけたコーヒーも差し出す。初対面のはずだが、そういうことは気にしないらしい。「どうしたの?」と、カップを揺らす。すぐ後ろの通りには、カフェがある。ロゴから見ても、その店のようだ。
まだ首だけを向けたまま、シシーが問いかける。
「俺が貰わなかったらどうなるんだ?」
「どうにもならないよ。私がカフェインの取り過ぎで今夜、眠れなくなるだけ」
と、至極真っ当な返しをして、少女は笑う。
つられてシシーも笑う。完全に毒気を抜かれた。
「ありがとう。で、強いヤツ。いるのか?」
「ていうか、砂糖とかいる? ミルクも。一応もらってきたけど」
「いや、いい。このままで」
少女の提供を断ると、まだほんの少しの疑いを持ちつつシシーはひと口。熱く、苦い液体が喉元を過ぎる。毒が入っていたなら、別にそれでかまわない。そういう人生だった、と諦めよう。しかし、普通に美味しい。繊細さとフルーティさ。おそらく、ブルボンポワントゥ。一度飲んだことがある。




