69話
「誰なのかは知らないね。強いのか弱いのか。男なのか女なのか。本名なのか偽名なのか」
「偽名だろ。どう考えても。『丸罰ゲーム』なんて名前あるか普通」
リヒテンベルク区にあるカフェにて、シシー・リーフェンシュタールとそのチェスの師、マスターがコーヒーをすする。店内はひと言でいうと、『シンプル』な作りだ。オフホワイトの壁に、色素の薄い木材を使用したラウンドテーブルやイス。大きな鉢植えに観葉植物が数点。一面のよく磨かれたガラス窓からは日光が差し込み、通りを歩く人々と目線が合う。
チェスという世界的なボードゲームのプレー人口は、五億人を超える。国によっては授業で習うほど、世間に浸透しているが、特にヨーロッパでは、街中で普通に昼間から低額の賭け事をしている。
「まぁ、出場するくらいだから弱くないと思うけど。この大会の主催者は、チェスの強さだけで選んでるわけじゃない、かもしれないからね」
歯切れの悪い言い方で、マスターは会話を繋ぐ。
「どういうことだ? 弱かったら盛り上がらないだろ。非公式とはいえ、ネットで観戦できるんだ。スポンサーもついている。強者同士の勝負だから金が動くんだろ」
シシーも詳しい話を聞いてから知ったのだが、どうも公式ではないというだけで、かなり大きい大会であることは間違いないらしい。スポンサー曰く、視聴者から集まったお金は寄付にまわす、とのこと。寄付はする、会社は名前が売れる。いいことづくめだ。表向きは健全なチェスの大会。
しかし、まず出場者はお互いに様々なものを賭けていい。むしろ、そういう賭博がしたい人物を主催者は選んでいる。賭けは自己責任。国も禁止していない。ギリギリの勝負が見たい。そこはスポンサーも見て見ぬふり。預かり知らぬところ。
もちろん、そんなことは主催者は大っぴらには言っていない。楽しい遊戯をお送りするだけ。勝手に賭けてくれ、の精神。一応、規模が規模なので、スポンサーとは別に、国や州が優勝者は誰かを決める賭博を開催している。
「ちなみにビーネちゃんの優勝オッズは……五八四倍。まぁ、知られてないし」
専用のサイトでは、誰が優勝するかの予想が行われている。携帯端末の画面を見ながら、マスターが顔を綻ばす。
「こんなものまであるのか。別に俺だけじゃないだろ、こんな高いの。初めて出るヤツなんてこんなもんだ」
全く優勝候補には見られていないが、それも当然。シシーは静かにコーヒーに口をつけ、すする。いちいちこんなの気にしていられない。
画面をスクロールしながら、目についたものをマスターが羅列する。自分は出ていないが、こういうお祭り騒ぎはわりと好き。見ているだけでも楽しくなってくる。
「それでも、有名どころは軒並みいい数字だ。さすが五億人もプレーヤーがいれば、アマチュアでも名前が知られているのはいるね」
チェスでオンライン配信や講座をする人物や、過去に勝負した者もちらほら。引退していたと思われる者も。出ておけばよかったかな、と少し残念がる。
自身の携帯端末でも確認していたシシーが、気になるものを見つけ、目を止める。
「……極端にオッズが低いヤツが何人かいるな。なんだコイツら」
自身が六〇〇倍近いのに対し、数名、四倍から一〇倍程度の者がいる。ここまで極端になるものか? 有名なのか? と訝しむ。
あぁそれは、とマスターが事情を解説する。
「プロもいるからね。グランドマスターとか。名前は変えてるけど、知ってる人は知ってるから」
「……非公式なんだよな?」
内容を理解するのに、シシーは二秒ほど要した。そしてまとめる。勝ち上がっても国際チェス連盟のレートが上がるわけでも、世界一の称号を貰えるわけでもない。にも関わらず、世界トッププレーヤーであるグランドマスター達が参加している。当然のように。それもそれなりの数。




