51話
「捨てるなんて……できないよねー? ねぇ?」
奇妙な笑みを浮かべた私は、エコカイロに描かれたシロクマに問いかけた。今日は一日中、頬が緩んでいる。手で頬を持ち上げても、抵抗して緩む。今は喉になにも引っかかっていない。いくらでも喋れる。
「ねー、リリー。んー」
シロクマにはリリーと名付けた。オスかメスかはわからない。軽くキス。いや、きっとメスのシロクマと断定。そしてポケットにしまい、スタッフルームから売り場に出た。
学校も終わり、一六時からフリードリヒスハイン=クロイツベルグ区の書店でのバイトの時間が始まる。いつもは店のエプロンを着用しても気は乗らない。だが、今日は全身が軽い。スポーツの授業でも軒並み好成績が出た。
チーク材を使ったオスモカラーの床を踏み締める足が、どんどん前に出る。暖色の電球に照らされて、気持ちまで温かくなる。壁一面、本棚の本。ジャンル分けされたコーナー。全てが新鮮に見える。
「元気ですね。まぁ、いいことだと思いますけど」
毎週、サッカーの雑誌を買っていってくれるお客さんが、いつもより笑顔に花が咲いている自覚のある、私に声をかける。自分で言うのもなんだが、いつもは物静かな、少し淡白気味に会計をする女性店員。だが今日は背筋が伸び、口角が上がっている。
「そう、ですか? そんなことないと思いますけど……」
ね、リリー? 声には出さず、ポケットのシロクマに問いかける。困惑気味に否定はしているが、秘めたはずの笑顔が隠せていない。あ、いつもより値段高めの化粧水買っちゃおうかな、と頬だけでなく、財布の紐まで緩んでいる。気分て怖い。
「そっちの方がいいと思います。余計なお世話ですけどね」
そう伝え、そのお客さんは帰っていった。爽やかに去っていく紳士。
「可愛いね、ウルスラさん。とても魅力的だ」
脳内では全て、シシー様が伝えてくれる。若干の脚色が入っているが、誤差の範囲内。だってカイロをくれたのだから、愛だって語ってくれるはず。そうだ、給料日も近いし、化粧品以外にもお金をかけてみよう。髪も少し切ってみようか。色も入れてみよう。服も、イヤリングも。このために働いているのだから。
シシー様が私と話しているところを誰かが見た時、見劣りしていたら申し訳ない。手の届かない位置にいるのだとしても、上を見ることをやめてはダメだ。そのためにはもっと働かないと。稼がないと。
「いや、でもミニジョブは月に五二〇ユーロ程度にしとかないと。税金でガッツリ持ってかれちゃうよ」
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