43話
今までずっと、自分のことを下に見てきた男が、対等な位置で身構えてくれている。あぁ、こんな強いやつにも認められている、そしてまた、対局できる。シシーは笑いが込み上げてくる。
「嬉しいね。あぁ、ヤバい。ゾクゾクするだろ?」
体の熱が上昇する。時計のチクタクという音がより鋭敏に聞こえる。誰かが吸っているタバコの匂い。煙の粒子。空気の味。流れる汗。そのどれもが、初めて経験するような、不思議な感覚。しかし、
「しない。言っただろ、俺にとってはただの金稼ぎだ。楽に勝てればそれに越したことはない」
ここまできても、相手の男は興奮しないようだ。オレのせいか? でもいい、オレひとり満足できれば。先に宣言しておこう。
「こっから先はオレとチェスの境界が曖昧になる。チェスで負ける、は全身に大激痛だ。あぁ、それは避けなきゃなぁ……!」
最初から、少し危ないやつだと思っていたが、想像以上に危険なやつだ、とデトレフスは認識した。こいつは野放しにしておくのは、俺の仕事に差し支えるかもしれない。またどこかで対局することになったら、次はヤバいかもな。なら、出る杭は打つ。
「……お前、充分すぎるほどにリスクを背負っているな。訂正しよう。ここからは本気だ。そんでもってルール追加だ。『負けたらほうは賭けチェスから足を洗え』」
低くドスの効いた声で、デトレフスは提案する。こいつは今日ここで終わらせる。
紅潮しつつも呆けた顔で、シシーは確認を取る。
「追加? 今更?」
「両者の合意があればいいんだろ。お前は危険すぎる。再度俺の前に現れても面倒だ。仕事の邪魔。負けたら金輪際、こういうことはやめて遊びでチェスはやれ」
口約束になってしまうかもしれないが、デトレフスには確信があった。こいつはおそらく、ちゃんと約束は守るやつだ、と。ここで負けたら、俺の前に現れることはないだろう。こいつの高いプライドが、無視することを許さないはずだ。最悪、俺の前に現れなければいい。それだけなら、守るはずだ。
内容を噛み砕いて理解しつつも、シシーは数秒フリーズする。そしてソファーに座りながら俯く。たっぷりと二〇秒ほど沈黙した後、驚いたような表情の顔上げた。
「……それはオレへの褒美で言ってるのか?」
その発言を理解するのに、デトレフスは五秒要した。なにを言っているんだコイツは。聞き間違えか?
「なにが褒美だ。お前から楽しみを奪うと言っているんだ、どちらかといえば罰だ。お前も追加したんだから、許されるべきだろ」
道理は通っている。二面指しという追加ルールを許した。自分は一個、相手は二個。そのままでもよかったのだが、せっかく残った弾丸だ。使わせてもらおうとデトレフスは考えた。『負けた方が』というのであれば平等なはず。勝てばいいだけなのだから。
ここにきて、シシーは飲み物を注文する。そういえば、最初に注文したきり、なにも頼んでいない。飲みかけのファスブラウゼは、氷が完全に溶けて薄まっている。ラズベリーのビオツィッシュを注文し、そのまま無言で待つ。
なにも喋らないシシーだが、新たにデトレフスが声をかけることはない。ルールは決定事項だ。余計なことは喋る必要はない。どうせ会うのは今日で最後だ。飲み物くらいは待ってやる。対局が始まったら、それでこいつの真剣師としての人生は終わりだ。
続きが気になった方は、もしよければ、ブックマークとコメントをしていただけると、作者は喜んで小躍りします(しない時もあります)。




