36話
まぁ、万が一にもないが、と男は語尾に付け足して、一応要求を聞いておく。なんでもいい。子供だし、金か、それとも誰か有名な俳優に会いたいとかそんなのだろう。俺の知ったことではない。依頼主にその力があるかも知らん。
目を閉じ、天井を向きながら難しい顔をシシーは作る。あの後、報酬を色々と考えたが、特にこれというものが浮かんでこなかった。
「それなんだけど、オレに一任されててね。別に欲しいものもないんだけど、しいて言うなら……」
視線を合わせて、男を上向きの手のひらの人差し指で指す。
「明日のさ、朝食買い忘れちゃったんだよね」
「?」
男は何の話か、と不機嫌になる。朝食? そんなことを話している余裕はあるのか。
気にせずシシーは続ける。
「だからさ、行ってきてよ。ほら、ミッテ区にあるっていうさ、二四時間営業のカフェ。で、朝食になりそうなもの適当に」
お隣ミッテ区にある、旅行者も多く終日賑わう二四時間営業のカフェ。そこは古き良きアパートの一、二階をカフェにした有名どころ。ベルリンに住んでいる者なら大半は知っている店だ。そこに朝食を買いに行けと。
予想していたものより遥かに頭の悪い回答に、男は顔を顰めた。
「バカかお前。なんで俺が請け負わなきゃいけないんだよ」
テーブルの酒を飲み、薄気味悪い笑みを浮かべるシシーに対して睨みつける。
シシーは腕を組み、「何か問題でも?」と、余裕の態度を崩さない。
「別に、報酬は雇い主から、って言われてないんでね。あんたでもいいんじゃないの?」
「ふざけた奴だ」
と、男は前屈みにソファーに座り直した。
「いいぜ、ショーケースに残ってるスイーツからなにから全部買ってきてやるよ」
スイッチが入った。真剣師として、賭けるものができ、迎撃の姿勢を取る。もう後戻りはできないし、させない。勝って気持ちよく全部掻っ攫う。金も、この封筒も。ついでにこの女から余裕も。
明らかに空気が変わったのはシシーもわかったが、全く意に介さず態度はそのまま。
「よかったよ。朝食の約束したんだけど、買いに行ってくれるなら助かった」
安堵のため息をつき、さらに深くソファーに体を預けた。
それをよしとせずに、怒気のこもった声で男は咎める。
「もう勝った気でいるのか。追加ルールだ。『ラピッド二〇分』でいいな」
真剣師の場合、ルールはその場で決める。大会には追加していいことになっているらしいが、こういった野良試合でもあるらしい。今まではなかったが、シシーにとっては初めての経験だ。なにが出てくるかはその時までわからない。対策なんて立てようがない。基本はブリッツの短期決戦であるが、ラピッドならそうもいかない。ミスは格段に減る。
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