315話
後手の一七手目。◆ルークc3。どちらが有利なのか非常に分かりづらい戦況。どちらも微有利とも、微不利とも取れる。そしてAIを使用して検討しても、おそらくはソフトによって意見がわかれるほどに。それほど繊細な揺れ動き方をしている。
「お互いに剣を喉元に当ててダンスを踊る。どちらかがミスをすればグサッといって終わりだろうね。これだ、これが俺はやりたかったんだ」
これがたとえ最善手ではないものであっても。大会でなくても。棋譜が残らなくても。いや、残らないからこそ、この刹那的な美しさに溢れた、まるで花火のような。
「……言いたいことはわかる。お前が、お前だから」
ケティの。ララの。彼女達に危険が及ぼうとも。今、シュ・シーウェンが本当の意味でドゥ・ファンになる。世界大会でもどこでも、誰かのために、頭の隅でチラつく誰かのために捧げたチェス。それも悪くなかったが、こうして自分の欲望のために指すチェスもまた。悪くない。
全て思い描いた通り、いや、それ以上のシチュエーションにシシーは歓喜する。
「世界で一番罪の深い対局かもしれないが、世界で一番美しい対局だ。それは俺が保証する」
「その保証は安そうだ。お前は嘘をつくからな」
全くもって信用ならないため、ドゥ・ファンの心は揺るがない。勝つために最善を尽くす。それだけ。
心外だね、と心通わせたと思っていたしシシーはわざとらしく傷つく。
「嘘ではない。ただ俺の演技が上手かっただけだ。いや、上手い演技は嘘になるということか。勉強になったよ」
いつか役に立つこともあるだろう。持っておいて損はない技能。
「ふっ」
こいつの強さの源流がドゥ・ファンには少しわかった気がする。ただただ自分が面白いと思うことをやっている。それだけ。どこかでかかってしまうブレーキが壊れている。いっそ清々しい。
それを離れたカウンターから見守るグウェンドリンだが、呆れたようにあさっての方向に視線が移る。
(あーあ、イっちゃってるよ二人とも。ただ駒を動かすだけのゲームなのに。子供みたいに。でもボビー・フィッシャーも負けて精神崩壊とかしてたし、のめり込みすぎるとこういう人達は幸せなんだろうな)
だからボソッと、
「羨ましい」
という感想が無意識に漏れてしまった。声になってから自分の意思に仰天するほど。
スポーツでもなんでも。本気で、それこそ自分の賭けるべき全てを賭けて、大人になっても夢中でいれる人は、羨ましい。どこかで「あぁ、あいつみたいなのが上に行くんだろうな」とか、そんな冷めた心になってしまう瞬間を忘れて、全力で打ち込めるのって中々できないから。




