303話
チェスに先手後手以外の運が絡む。あらゆるオープニングを記した、約七五〇ページの書物『モダンチェスオープニングズ』。これを暗記することによる創造性の欠如。それを憂いた、かの天才チェスプレーヤー、ボビー・フィッシャーによって構築された、記憶からの脱却。
チェスにおけるセンスの追求、二〇世紀の終わり頃からこのルールの大会も開催するように。二一世紀になってからはドイツのフランクフルト近郊で開かれる競技会、チェス・クラシック・マインツにてプロアマ混合のトーナメントも。
◇ナイトf3。縦横に戦車のように駆け巡るルークを、シシーはキングのまわりにそのまま置いておくことで、最低限の守りを固めつつ、隙があれば一気に懐に攻め込む。ルークでのチェックメイト率というものは非常に高い。どこからでも睨みを利かせている。
「ララに言いたいことでもあったのかい? 最後の言葉を伝えておくよ、俺が勝ったあとに」
相手が彼女のことを気にしているのはわかっている。心の隙を生む可能性がある。使えるものは使う。それが要因で勝てたら。今日も果てるまで抱こう。そう決めた。
◆ビショップf5。心を揺らさず。ただドゥ・ファンは勝ちへの道筋を追う。
「『最後の言葉なんてものは、生きているうちに言いたいことを言わなかった愚か者の言葉』。私には必要ない」
少なくとも。自分は自分に嘘がないように生きてきた。迷ったこともあったが、その時その時に最良だと思えるものを選び、心に従った。だからいつ、どこでどのような形で終わったとしても。悔いはない。
ははっ、と声を出して喜ぶシシー。なんだか駒の配置だけではなく、自分自身も鏡に写っているようで。キャスリング。◇キングはg1へ。一局につき一度のみ行える大移動。隅に向かうことでよりキングは強固な守りを得る。
「マルクスの言葉か。哲学も好きなんだね。俺達、違う場所で会えていれば友達になれたかもしれない」
「普通に出会って友達になれるとは思わないがな。こういう関係だから話している。それだけだ」
チェスがなければ出会ってもいない。フランスにたまたま留学していなければ、あの時あいつが自分の部屋に来なければ、あいつの家に行かなければ。様々な偶然が奇跡のように重なって、今この場所にいる。それはドゥ・ファンもわかっている。◆クイーンc3。
まだお互いに五手ずつ指したのみ。序盤も序盤。だがその熱量と熱気は充分。そこに割り込むのはグウェンドリン。
「お二人とも、なにか飲みます? 色々準備してあるんですけど」
仕事は九割が準備。ゆえにひと通りのカクテルは作れるようになっておいた。味はまぁ、置いておいて。やるだけはやってみるけど。




