301話
この対局は普通ではない、というのはその場にいる全員、そして電波の先にいる者達も承知の上。まず、公式な対局ではないので、開催するための手続きなりなんなりがいらない。いわば公園での友人同士でのサッカー、と同じ部類に入る。
そして法に『触れる』どころか、ゴリゴリとヤスリで削るほどに悪いことをしているわけだが、それも全員承知。承知で賭けているし、指す側も指している。もしも警察にバレるようなことがあれば当然捕まるだろう。それでも。金やスリルを求める少人数の狂った人間の。成れの果て。
ルールは一〇分切れ負けのラピッド。時間追加は無し。互いに膠着状態が五〇手続いたら引き分け再試合。その際はまたランダムで手番は逆になる。ラピッドだが棋譜もない。残さない。
まずは初手◇f4。もはや意味はないが、この一手でオープニングが判明する。『バードオープニング』。非常に攻撃的。f2にあったポーンを動かしてしまうと斜めからキングを守る駒が無くなるため、ハイリスクな戦法。ここまでずっと欲望を溜め込んでいたシシーが凶暴なまでに噛みつきにいく。
「せっかく世界ランカー様相手なんだ。色々と試させてもらう。燃えるね、このためにパリに来たようなものなんだから」
学業も人間関係も卒業後の人生も。もはや今はなんでもいい。この瞬間。このやり取りだけは時が止まる。
「好きにしろ」
後手であるドゥ・ファンは◆d5。バードオープニングに対して最も一般的と言われる指し方。『ダッチバリエーション』。ハイリスクハイリターンを求める相手とは違い、堅実でローリスクに立ち回る、と伝えている。
せっかくのフィッシャーランダム。どうせならお互いに普通なら指さないような手で全て突き抜けたかったシシー。落胆の色が見える。
「つれないね。ガチガチに殴りあいたいものだ」
それなら、ギリギリのところまで引き上げるのみ。
◇g3。ポーンをひとつ前へ。本来、ダッチバリエーションとなるのであれば、ここは◇g3ではなく◇ナイトf3が定跡となる。というのも、先手はセンターの支配力が弱いため、相手が◆ナイトf6からの◆d5という風に制圧してくる可能性が高い。いわゆる『ラスカーバージョン』。
だが、今回のルール。フィッシャーランダムにより、配置が変わっているため、それはもうすでに破綻している。となると今回の駒からして、即座にビショップが切り込んでくる可能性が高い。そこを牽制するために◇g3となった。




