293話
しかしそうではなく、シシーとしてはこの女性そのものに興味があっただけ。だからあの場にいた。
「少しあなたと話してみたかった。仲良くしたいし。確認したいこともあったし。期待外れだったかもしれないがね」
人それぞれ、どんな想いでこの名前を受け継いでいるのかは知らないが。せめて同じ方向を向いていてほしかった。それができる人物だと信じたかったのに。
「……着くぞ」
重く、冷たいドゥ・ファンの口調がエレベーター内に響く。そしてドアが開いた。
到着したのはホテルのラウンジバー。この時間はすでに営業も終了しており、客はいない。上層階は客室となっているが、もし飲みたくなったらこの下の階にもカウンターバーがあるため、そちらに向かってもらう。
黒御影石を使用した、統一感のある床と柱、光沢ある天井。広く、落ち着きのあるシックな佇まい。明かりは控えめで、より静謐さが強調され、傍のピアノ『ベーゼンドルファー』のインペリアルが鈍く輝く。展望台ほどではないが、それでもガラス窓からはパリの街並みを充分に楽しめる高さ。
アンティーク調のソファーとテーブルがいくつも置かれ、営業時間中は様々な商談などにも使われる。その窓際のひとつ、そこにはチェスボードと駒。そしてそれをカメラや雲台、スライドアームなどで上から撮影する。
待ちくたびれた、とばかりにそこに立っていたひとりの少女が声をかけてくる。
「どうもどうも。じゃ、チャチャっとやっちゃいましょう。撮影始めまーす」
グウェンドリン・グラシエット。モンフェルナ学園の学生。なぜかバーコートを着ており、まるでそこで働いているかのよう。学生の労働基準の法や定義など、今この場では何の役にも立たない。
今回、全てのセッティングは彼女に一任されている。そのため、シシーにカードや時間や場所の情報を提供したのも。ドゥ・ファンに伝えたのも。彼女から数時間前、唐突に。だが、この勝負はそういうもの。
本来、友人と寮のシアタールームで夜通し映画を観る予定だったグウェンドリン。若干の機嫌の悪さはある。だが、こちらはなによりも優先されるため、泣く泣くこっちを担当することになった。
また配信されるのか、と少しシシーは訝しむが、このカメラの先にいる人物が全てを牛耳っているのであろう。大体は理解できた。
「なんだか簡素なものだね。ドイツの大会のほうが色々と豪華だ」
あちらは非公式とはいえ、世界に配信されたり、ホームページまである。なんだか豪華なホテルとのギャップがあり、可愛らしくて可笑しい。




