289話
そして今。足早なシーウェンの靴音。妙なことになった。寮までの帰り道、ずっとそのことばかり考えていた。吐くため息も白く昇る。
「なんでこんなことに……」
冷静になってみて、今からでも変更できないかと考えを巡らせる。いや待てよ、変更もなにも行かなければいい。これで終わり。最初から、一度だけと決めていた。気持ちもスッキリしたし、これからは学業に邁進するだけ。
「……」
どうせ、あの家族とは繋がりなどない。どうなろうと知ったことではないし、そこまでやる義理は? それに母親の本心も。本当は疎ましく思っていたのではないか? 今頃後悔しているのではないか? など考え出したらキリがない。関わらない。それが自分にとっては一番いい。
「……」
友達を作りに留学しているわけではない。せっかく許可が下りてここまで来たのだ。学ぶために。だから、そういったぬるい関係など。最初から……要らない。
「いらっしゃい。今日は遅かったね」
出迎える母親と、促されてリビングに通されるシーウェン。鍵も手渡され、いつでも来ていいと言われているが、さすがにそこまではできない。アパートまで来ても、誰もいないのであれば帰る。そこまで自由勝手に振る舞えない。あいつのように。
来る度に、イスに座ってシーウェンは天井を見上げる。一体なにをやっているんだろう。ライトが眩しい。なぜこの光に自分は当たっている? なんだか耳鳴りもしてきた。
その後、週に二、三回程度は向かうようになっていた。理由はわからない。毎日行きたいという気持ちは正直ない。ただ、時々「行かなきゃ」という気持ちが湧いてくるのは事実。そういう時だけ、向かうようにしている。
母親の本心とか。そういうものを考えることはやめた。一生の付き合いになるわけではない。留学が終わればそれこそ、本当に会うことはないのだから。わざわざ中国から会いに? それはない。ないよな? 自分に問う。
背後の観葉植物の横にはルービックキューブ。もう随分とやっていないのだろうか、触れた指に薄く埃が付着した。この様子だと、チェスもきっとやっていないのだろう。ずっとその話題は避けてきたから、そろそろ聞いてみてもいいのかもしれない。
幸せ、ってなんだろう。自分であいつに偉そうに、人の言葉を借りてまで伝えたのに。よくわからなくなってきた。目指すものではないのであれば、今の私はどうすれば副産物として幸せを得ることができる?
毎日家族で挨拶ができれば幸せ、というものもあるだろう。娘が世界的に有名な何かになることが幸せに感じる親もいるだろう。私は。私は——
「……」
そんな時、母親が夕食について提案してくる。
「今日は軽めでいい? なんだか胸焼けがしちゃって。もう年かしらね」
なんて、わざとおちゃらけて胸元を押さえながら苦しい表情。脂っこいものを消化するのに胃酸が出過ぎている模様。
胸焼け。そういえばあいつも同じように勝手に料理を決めていたな、とシーウェンはなんだか楽しくなってきた。やはりそういうところは親子なのか。私の親も。こうやって他人の家で自分の幸せを考える、なんてことをしているのかもしれない。
あいつにとって幸せって結局何だったんだろう。心配しなくても、私のことを踏み台にして幸せを掴み取りそうなヤツだった。まさにフランス人らしい死生観『それも人生』というやつか。心配? 私はなにを言っている。
「はい、お願いします。手伝います」
料理は好きだ。鍋を振るうことはこのところないけど、ただ座って待つより、体を動かしたい。お客様ではない。ただ、自分のためだけに来たのだから。




