282話
もし女性大会に出ていたら、すでに世界チャンピオンになっているであろう実力。FIDEのレートもスタンダード・ラピッド・ブリッツ全てで二六〇〇を超えている。
「そんなお世辞などいい。なにが目的だ?」
多少の苛立ちをドゥ・ファンは覚える。一向に仮面を剥ごうとしないその立ち振る舞い。上から見下ろされているようで不快。
そろそろか。そんな言葉まで聞こえてきそうなほどに、シシーは本性を表す。
「まさか世界ランカーまで真剣師とは。やはりいい。最高だ。強いんだろうな、勝ち目なんてあるのか? 負けたらどうなる? そんな相手とやれるんだ。昂るだろ?」
表の勝つための美しいチェスと。裏の勝つためならなんでもするチェス。それが高水準でまとまっている。隙などないのだろう。そんな女性がいるなんて。
両者をチラチラと確認しながらマスターはカクテルの準備に入る。奢ってやれと言われたし。ところで。
「……ファン、この子は知っているのか?」
話の感じから十中八九そうなのだろうが。一応確認しておく。なんだかまずいことになっているかもしれない。
言葉少なくドゥ・ファンは認める。
「あぁ。ギフトビーネ。ドイツの『毒蜂』だ」
「どうも。素敵な店ですね」
簡素な挨拶。ピカピカに磨かれた酒のボトル。眩いほどでベルリンにもこんなスピークイージーは欲しい。そうしたらシシーは行きつけにするだろう。
言葉に迷うドゥ・ファン。なんてことはない、ただの子供。それなのに。
「ひとつ、いいことを教えてやる。お前にとっては絶望かもしれないがな」
そしてそのまま語を続ける。
「お前の相手は私だ。追って連絡が来る。断るべきだな。まだお前はこちら側に入ってきてはいない。その名前を捨てて気楽にチェスは楽しめ」
裏の世界、そのさらに奥にあるチェスの深淵。知らないほうがいいし、知ったら戻れない。だから祈る。やめておけ、と。
本音を言うと怖い。だがそれと比例するように楽しさが増していくシシーにとって、わかりましたと了承する心意気などありえない。
「素敵な愛の告白ありがとう。今やるかい? いいよ、色々とね。溜まっているんだ。あなたなら受け止めてくれそうだ」
今のところ、せっかくパリに来たのに不完全燃焼。完全に燃やしてくれる相手。ここにいる。なら、答えなど。決まっている。
「……」
狂っているな。それがドゥ・ファンにとって最初に交わした会話の感想。毒蜂同士の勝負。知らないから言えるのか? いや、こいつは知っていても、知っていたらより、のめり込むタイプのヤツ。




