281話
「迷惑をかけたみたいですみませんね。それに奢ってもらう形になったみたいで。お支払いします」
敵意などなくその少女、シシー・リーフェンシュタールは微笑んだ。遊び相手を見つけた、目の奥に黒い光が宿る。
さて、この状況。どうしたものか。ドゥ・ファンとしても困惑はする。が、今は『その時』ではない。
「いい。大した額じゃない。さっさと連れて帰れ」
ドアの方向を顎で示す。手伝うとかはしない。そこまでやってやることもない。一杯奢るぶんのお金を渡していたが、どうもそんな気分にはなれない。
しかしシシーはそれを無視して左端に座る。
「まぁ、そう言わずに。お会いできたので少し、ね」
その隣をトントン、と優しく示す。他意はない。ただただ酒を楽しむ。その相手になってほしいだけ。
「……」
怪訝そうな顔つき。タバコも吸いたい。ララも強引だったが、こいつもかとドゥ・ファンは無言で諦めて席につく。が、隣ではなく真ん中。ひとつ空ける。
それに戸惑うのはマスター。なんだか話が読めないし見えない。
「ファン、閉店だと言ったろう。なぜお前まで座る」
この少女のぶんだけのつもりだったのに。どう動けばいいのか。ただならぬ関係を悟った。
呼ばれた名前に反応したのはシシー。この人は自分と同じ立場の人間。そこに『ファン』。繋がるものがある。
「なるほど。中国の『毒蜂』ということですか。ドゥ・ファン、でいいのかな。ここでお会いできるとは思ってもいませんでした。ぜひ握手を」
恭しく右手を差し出された右手。すぐには握り返さず、手と顔を観察するドゥ・ファン。
「私を知っているのか」
私。つまりドゥ・ファンではない私。奥にいる私。その正体。
中々握り返してくれないのでシシーは手を引っ込める。残念。だが、満足はしている。
「えぇ。あまり興味なかったので今まで調べてこなかったのですが、パリに来るまでの車内が暇で。光栄です、シュ・シーウェンさん。まさかチェスの現世界ランキング九位の方とお会いできるとは」
パリに来るまでの列車内。特に興味を惹かれるものがなかったので、なんとなく検索してみた。現時点での女性ランキング。そこで見つけた人物。その人物が目の前に。
ランキングやグランドマスターというものは、男女で実は分かれている。とはいえ、かのマクシミリアンがそうであったように、実力があれば女性でもちゃんと共通のものに組み込まれる。
そしてそのランキング。ドゥ・ファンの場合は男性も含めた数字。今までに女性の大会に出たことすらない。男女平等という理念のもと、分け隔てなく審査されるべきだと考えた。




