280話
ただただ、話す内容なんてなんでもよかった。
「シーウェンは将来の夢とかってあるの?」
なぜかあれ以来、暇な時間を持て余したヴァージニーは、時折寮に現れるようになった。なんだか逃げ場所みたいで。居心地が良くて。仲の良すぎる友達とかだと、色々と心配され過ぎてしまうだろうから。適度な距離感を保ってくれる人が欲しい時もある。
その適度な距離を保ってくれる人ことシーウェン。壁を背にベッドの上に座って読書。
「施設の役に立つようなこと、だな。漠然としている。なにか起業するとか、料理人とか。料理も好きだしな。大きなことを成し遂げることはできないかもしれないが」
なぜこのような体勢か、というと、全くお呼びでない人物であるヴァージニーが、部屋の主を差し置いて寝そべっているから。最近よく見る天井。模様もそろそろ覚えてきたかも。
「なら料理の店を起業すれば? 一気に夢が二つ叶うよ。それしかない」
なんて無責任なことを言ってみる。そうなるまで早くて十年くらい? 私はその時なにをしているだろう。無職だったらその店で皿洗いとかホールとか。やるのも楽しいかもしれない。
また適当なことを。ため息まじりに本を閉じるシーウェン。
「極端だな。安徽・浙江・福建・湖南・江蘇・広東・山東・四川。中国料理といってもポピュラーなものだけでもこれだけあるし、他にもまだまだたくさんある。ちょっと料理が得意、程度では無理だ。本気で目指すなら覚悟がいる」
夢と聞かれて口にしたものの、自分にはその覚悟はまだない。なれたらいいな、とは考えつつも、まだ何もかもが漠然としている。他人に語れるようなものはなにもなかったことに今気づく。というか、咄嗟に出ただけ。本当になりたいわけでもない。
あまり料理をしないヴァージニー。料理の話を聞いてたらお腹が空いてきた。
「えー、でもいいな。賄いとかあるんでしょ。中華料理? エビチリとか?」
「あれはほとんど日本の料理だ。豆板醤に慣れていない日本人向けに作られたもの。観光客の多い大都市なんかではメニューにあったりもするが、中国人はあまり食べない」
事実、シーウェンも食べたことはない。四川の料理である『カンシャオシャーレン』という料理を甘くした料理だということは知っている。他の中国人に聞いても同じような答えが返ってくるだろう。
なんだか意外な一面を見た気がする。そうなるとヴァージニーのやることはひとつ。
「シーウェンの料理、食べてみたいね。寮の共同キッチン、使っていいんでしょ?」
この部屋は三階。各階に料理ができる大きな共用のキッチンがあるため、するならそこで。もちろん他に料理をする人がいれば、譲り合って作ることになる。
どんどんと人の庭に踏み込んでくる行為をシーウェンは見過ごせない。基本は自炊しているが、もちろんそれは自分のぶんのみ。
「断る。誰かに食べさせるような腕前でもない。施設で少し作っていた程度だから」
「でもそれでもいいから。今夜どう? 買い物行く?」
近くのスーパー。もちろん代金は半分出す。これでもヴァージニーは控えめに言っているほう。
当然シーウェンの答えは。
「いやだ」
そしてそれに対するヴァージニーの返答も。
「私もいやだ。食べるって決まったから胃が中国の形になってる。あ、なんか肉肉しいのは無しで。今日さぁ、ちょっと胸焼けしてて」
だいたいのリクエストをしつつ、起き上がると服をめくってお腹を見せ、人差し指でなぞる。なんか鳥みたいな形だったような。なんの鳥だろう。鶏かな。トサカで最後は締めくくる。
鼻が触れるくらいのお互いの顔の距離。目を逸らしたほうが負け。吐息もかかる。
が、先に表情を崩したのはシーウェン。もうわかっている。自分はこういった勝負には勝てないと。
「……不味くても文句言うなよ。フランス人の口にわざわざ合わせる、とかしないからな」
「勝った。じゃ、行こっか」
なんだか、久しぶりに心の底から感情が湧き上がったような。そんなささやかな幸せを。ヴァージニーはこの時感じた。




